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2007/10/09

10月9日に寄せて

40を越えたとき、真っ先に、

 やれやれ、ジョン・レノンより年上になっちまうんだな。

と、思った。

ジョン・レノンより年上になるとはどういうことか。
ぼくはまだうまく実感できない。
ジョン・レノンは40で亡くなったが、
彼の生は完結感を湛えていて、やり残しは無いと思えてくる。

こちらは40を過ぎてもそうはいかない。まるで。
不惑などまるで無縁の体たらくが切実だ。

いまや、ジョンの40での他界は、
超高齢化社会時代にあっては夭折ではないかと思える。
彼の生の完結感も、夭折者によく感じる完結感だろうか。

でもそのジョンが、死の間際に残した曲は、
“Life begins at 40” だった。
人生は40から、というのだ。

これならまだ実感として分かるところがある。
40才頃でリセットして、再び生き直すというような意味で。

 ♪ ♪ ♪

ところで、与論島は長寿の島だ。
ぼくの祖母も百五歳まで生きた。

でも彼女は、ぼくと同じ年に、
不惑なんてどこ吹く風とも思わなかったろうし、
こんなに未熟ではなかったはずだ。

文明は超高齢化社会をもたらし、
与論島の長寿社会に接近してゆく。
けれど、人の生き様ときたら、まるで違う。

こちらは成熟を禁じられているように、
延長される未熟さを生きているのに、
祖母の長寿は、自然の流れのなかで育てた成熟だった。

どこも、似ていない。

ぼくたちは駄目になっていく一方なのだろうか。
どこかで祖母に追いつけるものを持てるだろうか。
それとも、ここだけは祖母と同じだと言えるものがあるだろうか。

かろうじていえば、それは与論島への想い、なのかもしれない。

 ♪ ♪ ♪

生きていればジョンの67才の誕生日。
ジョン・レノンより年上であることに戸惑う時間を生きている。




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コメント

クオリアさん

 ジョン・レノンを語る音楽通なんだすね
ウレーヤ サンシヌウンチャー ピキナユンムイ
ユンヌウタンチャーヨ

 ユンヌンチュヤ イッコイインチャー シラヌ
ワンナガ シキポウヤ アラヌシガヨ

 「十九の春を探して」という本の嘘だけは
赦せません これは 断じてです

 知りもしないことを 知ったかぶりして・・・
そんな旅人にも 暖かいユンヌンチュは 嫌いです

 ほんとは 今はなくなった石炭で苦労して
お蔭様でのはずです

 馬鹿にされました
フナシバ フナシ ウセーラバ ウセーリ
ターヌ アブシマクラ

 踏むなら 踏め 押さえるなら 押さえろ
田の畦に 枕する

 ヤマトゥフトゥバデスよね
還暦を過ぎましたが、まだまだです

投稿: hirobou | 2007/10/10 02:26

ひろぼうさん  おはようございます。
フナシダー ぬ ターや あぶしまくら・・・。

 後味の悪さを感じるレポートでしたね。
赤崎の鍾乳洞でサンシン弾いてたころが懐かしい。
あの頃は  酒の神様に取り憑かれていました。
色々教えていただいたり、ご厄介になりました。

  今は少しまともになっています。
シゴーのあの丘に立ち、火葬場をながめながら、クオリアさんと  サッチャンのことはなしてました。
 ユンヌ言葉の理解者であり 解説者はだれだろうか・・?

  ガシガシの物語の続きを読みたいので よろしく。
 娘が近くに居る間に  お訪ねしたいと思います。

  この場を借りて  失礼します。

投稿: awamorikubo | 2007/10/10 04:46

クオリアさん

 このサイトに出会えて 心から感謝しています
トウトゥ ガナシ です

 ジョン・レノンは 進化し続けています
「木の葉みたいな わが与論 何の楽しみ
ないけれど すきな貴方がおればこそ
いやな与論も 好きとなる}

 「与論小唄」は与論の4曲目の「ラッパ節」
です
 いんくさ(小さいので居難さい)やあしが
ナビヌ スクナカニ グクヌタマル

 与論の{ラッパ節」は、ラッパ節にはあらず
進化し続けなければならないと思っています

 盛窪さん
私は 後味は悪いとは思ってはいません

 ものを云わずに 腹が膨れたくはありません
又お会いできる日を 楽しみにしています

see again

投稿: hirobou | 2007/10/10 23:13

盛窪さんとのお話を遮りたくなくて、遅れてしまいました。ごめんなさい。

ワヌは音痴も手伝って、三線ひけません。
もっぱら聞く一方です。
三線ひける人はうらやましいです。

あれをひきながら、意中の人の家に行って、
歌って遊んだ話を聞くと、うらやましいなと思います。

投稿: 喜山 | 2007/10/11 09:07

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