「なにもないが、ある」-『めがね』を真っ芯で
これは、映画『めがね』を真っ芯で捉えた言葉だと思う。
「なにもない」と「なにもないが、ある」とは随分、違う。
たとえば、この映画でも象徴的な意味を担う携帯もそうだ。
ぼくたちは地下鉄やなにかで携帯の圏外にいたり、
電池が切れていたりすると、携帯が通じない、と言う。
ふつう携帯が通じる世界にいると思っているから、
通じないのは、「ない」ということだ。
「ない」という時、ぼくたちは、
「ない」という不在感を「欠如」として感じている。
それは、出かけるときに携帯を忘れた時の、
あの、居心地の悪さというか不安を思い出してみればいい。
けれど、あらかじめ携帯の通じない世界だったらどうだろう。
そこにいればぼくたちは、携帯が通じないのは、
ただの「ない」ではなくなる。
携帯が通じ「ない」のは、一時的な、
そう、圏内に入ったり、充電池を確保したり、
自宅に戻って携帯を取りに行けば、
解消されるものではなく、
通じ「ない」のが日常になる。
通じ「ない」時間を生きることになる。
そこでは、携帯が通じ「ない」という世界が「ある」のだ。
ふつうに考えれば、それはただの不便だから、
「ない」が「ある」と言われても困るが、
ぼくたちは、心の隅で、携帯も通じない世界で、
何もかもから解放されてみたい、
という願望を秘めることもあるから、
それだけ、この「ない」が「ある」には価値を感じる。
だから、ここでは、携帯が通じ「ない」ということは、
欠如ではなく、過剰になるのだ。
○ ○ ○
ところで、あんとに庵さんは、
単に「ない、がある」と言っているのではなく、
「なにもないが、ある」と言うのだから、
「ない、がある」より、もっと深く呼吸をしている。
そして、吐き出す息でもって、
もう少し、問いを進めてくれている。
島に住んでる島人がこの映画見たら
なんていうだろうか?
(映画『めがね』なにもないがある島の日常
「あんとに庵◆備忘録」)
ぼくも気になる。
想像すれば、「なにもないが、ある」という言い方は、
「なにもないが、ある」と言えるのは、
「ある」世界にいるからだ、とか、
本当は携帯も通じるように、
ここは、「なにもない」どころではなく、
そもそも「ある」のだ、とか、
いう声を呼んでも可笑しくないからだ。
まだぼくは、「島に住んでる島人」の
感想を聞く機会はないから、
ここから先は、シミュレーション的な話。
今回、祖父の洗骨をしに帰島したので、
パラジ(親戚)との再会も多かった。
なかに、ぼくより前の与論をぼくより長く住んで
いまは関東在住の兄(ヤカ)も『めがね』を観ていた。
ぼくの「よかったでしょう?」という問いかけに、
「ようわからんかった」。
でもって、兄(ヤカ)は、
「だって空港出たら、すぐ寺崎ってそれはねぇだろう」
と、江戸っ子ばりに言い切る。
いやこれは映画だから、と一瞬、半畳を入れたくなったが、
それだけ、映画の世界が現実の与論島と地続きだから
出てくる台詞だと受け止めることにした。
でも楽しかったのは、関東出身の姉さん(兄の奥さん)は、
「本当は、“たそがれる”ってすごくネガティブなことよね」
と話していたが、みんな出かける時には、
「じゃ、ちょっと“たそがれ”てくるから」とか、
「だって、ここは観光するとこなんかないんだよ」とか、
それが、小さなコミュニティの合言葉になっていた。
断っておくと、合言葉は、自嘲でも卑下でもなく、
楽しく語られた。
○ ○ ○
島は、「なにもない」と、
しこたま言われてきて、それを、
欠如として受け止めることに島人は慣れている。
でも、島出身の兄(ヤカ)や島つながりの姉さんが、
与論島と地続きに映画を観てしまうけれど、
それでも、「観光するとこなんか、ないんだよ」と、
合言葉のように言う、その言い方が、素敵で愉快だった。
「観光するとこなんか、ない」。
こういう時、それは欠如ではなく、
過剰として受け止められているのだ。
ぼくはそこに、近い将来の島人による映画感想を、
先取りして見ている気分だった。
島人は、「なにもない」を欠如として受け止めてきたが、
それが、「なにもないが、ある」という過剰へ
反転して受け止めるように、映画が後押ししてくれている。
そんな風にも感じられた。
もし、そうだとしたら、それが島人にとっての
最大の効用に思える。
「あんた、タビンチュね」
「はい、観光に来ました」
「ヌッチュウ?観光?そんなとこ、どこにもないがねー」
島の人が、もしこう言ったら、とてもいい。
いまのところ架空の対話をぼくは思い浮かべるけれど、
こんな対話が島で飛び交ったら、
この島は大丈夫、と思うのだ。
もっとも、そんなこと考えなくても、
でも島んちゅは素直だから
「島をこんな風に撮ってくれて嬉しい」
っていうと思うけど。
という、あんとに庵さんの弁に、
ぼくも、そうそう、と思うのだ。
○ ○ ○
それにしても、
いや、ものの見方を変えるなら「過剰にある」
ものが沢山あるんだけど・・自然とか、
海とか海とか海とか植物とか植物とか
キビとかキビとかキビとか山羊とか牛とか
犬とか猫とかねずみとか蟲とか虫とかムシとか・・・・。
ここには、与論風景的リアリティがあって、
大笑いさせてもらった。
とおとぅがなし、である。
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コメント
最近、名瀬で東京時代と変わらない生活に退行している僕としては、身につまされる話です。
投稿: NASHI | 2007/10/12 21:22
言及いただいて恐縮です。
>「ようわからんかった」。
>「だって空港出たら、すぐ寺崎ってそれはねぇだろう」
爆!!!
なんかすごくいいです。
私も実は思いました。島を出発するたえこが乗った車の光景で・・・
「おいおい、そっちは空港と逆だろう」
「体操している浜は、ビレッジのペンションから遠いのに何故音楽が聞こえるんだ?!」
・・・・・・・・ある意味、無垢でいられない悲しさを味わったともいえるかもです。笑)
「なにもない」が「ある」場所は、実は沢山のものがあるんですよね。島にいるといつもそれを感じるので満ち足ります。都会にいるほうがなにかの欠如を常に感じます。
投稿: あんとに庵 | 2007/10/13 01:04
NASHIさん
島尾ミホを撮った『ドルチェ』のロシア人監督が、
奄美大島に来て、ここは都会だと感想を漏らしますね。
それを思い出しました。
でも、すぐ近くに森の時間が流れてるって、いいですよね。
投稿: 喜山 | 2007/10/13 09:51
あんとに庵さん
たしかに、都会は過剰の空虚という感じで、いつも飢餓感と隣り合わせな気がします。
『めがね』の役者さんが、与論島に行ったら、欲望がそぎ落とされたというの、分かりますね。
そうそう、たえこが空港へ向かうシーン、
たえこが、ぼくの家に向かってると思ってしまいました。(^^;)
投稿: 喜山 | 2007/10/13 10:09