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2007/10/12

「なにもないが、ある」-『めがね』を真っ芯で

  「なにもないが、ある。」

これは、映画『めがね』を真っ芯で捉えた言葉だと思う。

「なにもない」と「なにもないが、ある」とは随分、違う。

たとえば、この映画でも象徴的な意味を担う携帯もそうだ。

ぼくたちは地下鉄やなにかで携帯の圏外にいたり、
電池が切れていたりすると、携帯が通じない、と言う。
ふつう携帯が通じる世界にいると思っているから、
通じないのは、「ない」ということだ。

「ない」という時、ぼくたちは、
「ない」という不在感を「欠如」として感じている。
それは、出かけるときに携帯を忘れた時の、
あの、居心地の悪さというか不安を思い出してみればいい。

けれど、あらかじめ携帯の通じない世界だったらどうだろう。
そこにいればぼくたちは、携帯が通じないのは、
ただの「ない」ではなくなる。

携帯が通じ「ない」のは、一時的な、
そう、圏内に入ったり、充電池を確保したり、
自宅に戻って携帯を取りに行けば、
解消されるものではなく、
通じ「ない」のが日常になる。
通じ「ない」時間を生きることになる。

そこでは、携帯が通じ「ない」という世界が「ある」のだ。
ふつうに考えれば、それはただの不便だから、
「ない」が「ある」と言われても困るが、
ぼくたちは、心の隅で、携帯も通じない世界で、
何もかもから解放されてみたい、
という願望を秘めることもあるから、
それだけ、この「ない」が「ある」には価値を感じる。

だから、ここでは、携帯が通じ「ない」ということは、
欠如ではなく、過剰になるのだ。

 ○ ○ ○

ところで、あんとに庵さんは、
単に「ない、がある」と言っているのではなく、
「なにもないが、ある」と言うのだから、
「ない、がある」より、もっと深く呼吸をしている。

そして、吐き出す息でもって、
もう少し、問いを進めてくれている。

  島に住んでる島人がこの映画見たら
  なんていうだろうか?
  (映画『めがね』なにもないがある島の日常
  「あんとに庵◆備忘録」

ぼくも気になる。
想像すれば、「なにもないが、ある」という言い方は、
「なにもないが、ある」と言えるのは、
「ある」世界にいるからだ、とか、
本当は携帯も通じるように、
ここは、「なにもない」どころではなく、
そもそも「ある」のだ、とか、
いう声を呼んでも可笑しくないからだ。

まだぼくは、「島に住んでる島人」の
感想を聞く機会はないから、
ここから先は、シミュレーション的な話。


今回、祖父の洗骨をしに帰島したので、
パラジ(親戚)との再会も多かった。

なかに、ぼくより前の与論をぼくより長く住んで
いまは関東在住の兄(ヤカ)も『めがね』を観ていた。

ぼくの「よかったでしょう?」という問いかけに、
「ようわからんかった」。

でもって、兄(ヤカ)は、

「だって空港出たら、すぐ寺崎ってそれはねぇだろう」

と、江戸っ子ばりに言い切る。

いやこれは映画だから、と一瞬、半畳を入れたくなったが、
それだけ、映画の世界が現実の与論島と地続きだから
出てくる台詞だと受け止めることにした。

でも楽しかったのは、関東出身の姉さん(兄の奥さん)は、

「本当は、“たそがれる”ってすごくネガティブなことよね」

と話していたが、みんな出かける時には、

「じゃ、ちょっと“たそがれ”てくるから」とか、
「だって、ここは観光するとこなんかないんだよ」とか、

それが、小さなコミュニティの合言葉になっていた。
断っておくと、合言葉は、自嘲でも卑下でもなく、
楽しく語られた。

 ○ ○ ○

島は、「なにもない」と、
しこたま言われてきて、それを、
欠如として受け止めることに島人は慣れている。

でも、島出身の兄(ヤカ)や島つながりの姉さんが、
与論島と地続きに映画を観てしまうけれど、
それでも、「観光するとこなんか、ないんだよ」と、
合言葉のように言う、その言い方が、素敵で愉快だった。

「観光するとこなんか、ない」。
こういう時、それは欠如ではなく、
過剰として受け止められているのだ。

ぼくはそこに、近い将来の島人による映画感想を、
先取りして見ている気分だった。

島人は、「なにもない」を欠如として受け止めてきたが、
それが、「なにもないが、ある」という過剰へ
反転して受け止めるように、映画が後押ししてくれている。
そんな風にも感じられた。

もし、そうだとしたら、それが島人にとっての
最大の効用に思える。

 「あんた、タビンチュね」
 「はい、観光に来ました」
 「ヌッチュウ?観光?そんなとこ、どこにもないがねー」

島の人が、もしこう言ったら、とてもいい。
いまのところ架空の対話をぼくは思い浮かべるけれど、
こんな対話が島で飛び交ったら、
この島は大丈夫、と思うのだ。


もっとも、そんなこと考えなくても、

  でも島んちゅは素直だから
  「島をこんな風に撮ってくれて嬉しい」
  っていうと思うけど。

という、あんとに庵さんの弁に、
ぼくも、そうそう、と思うのだ。

 ○ ○ ○

それにしても、

  いや、ものの見方を変えるなら「過剰にある」
  ものが沢山あるんだけど・・自然とか、
  海とか海とか海とか植物とか植物とか
  キビとかキビとかキビとか山羊とか牛とか
  犬とか猫とかねずみとか蟲とか虫とかムシとか・・・・。

ここには、与論風景的リアリティがあって、
大笑いさせてもらった。

とおとぅがなし、である。


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コメント

最近、名瀬で東京時代と変わらない生活に退行している僕としては、身につまされる話です。

投稿: NASHI | 2007/10/12 21:22

言及いただいて恐縮です。

>「ようわからんかった」。

>「だって空港出たら、すぐ寺崎ってそれはねぇだろう」

爆!!!
なんかすごくいいです。

私も実は思いました。島を出発するたえこが乗った車の光景で・・・
「おいおい、そっちは空港と逆だろう」

「体操している浜は、ビレッジのペンションから遠いのに何故音楽が聞こえるんだ?!」

・・・・・・・・ある意味、無垢でいられない悲しさを味わったともいえるかもです。笑)

「なにもない」が「ある」場所は、実は沢山のものがあるんですよね。島にいるといつもそれを感じるので満ち足ります。都会にいるほうがなにかの欠如を常に感じます。

投稿: あんとに庵 | 2007/10/13 01:04

NASHIさん

島尾ミホを撮った『ドルチェ』のロシア人監督が、
奄美大島に来て、ここは都会だと感想を漏らしますね。
それを思い出しました。

でも、すぐ近くに森の時間が流れてるって、いいですよね。

投稿: 喜山 | 2007/10/13 09:51

あんとに庵さん

たしかに、都会は過剰の空虚という感じで、いつも飢餓感と隣り合わせな気がします。
『めがね』の役者さんが、与論島に行ったら、欲望がそぎ落とされたというの、分かりますね。

そうそう、たえこが空港へ向かうシーン、
たえこが、ぼくの家に向かってると思ってしまいました。(^^;)

投稿: 喜山 | 2007/10/13 10:09

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与論島を舞台にした映画「めがね」をみた。 よくもこれだけ、島の空気感を伝えられるものだと感心した。 与論島クオリアの喜山さんが「めがねウォッチ」というカテゴリでいろいろ書いているのをみていたけど、ほんと、与論の空気を吸いたい人にはおすすめです。 ... [続きを読む]

受信: 2007/10/24 23:46

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