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2007/10/11

歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。

  第二に、ヤコウガイ交易をめぐる生態環境について、
  「高島・低島」という島峡分類に則しながら考えてみたい。
  遠隔地交易において、
  高島は島峡地域の拠点的機能を備えていることから、
  島峡社会の中心地として交流が展開していた場所であると
  理解されてくる。農耕が行われていない段階でも、
  高島の豊かな水文環境と深い山地は
  飲料水・木材・石材等と良港を提供してくれたのであり、
  海上交通の拠点となる重要条件が備えられていたのである。

  また高島に隣接している低島は、
  高島と経済的補完関係が形成されていたことにより、
  文化的共通性を生み出したと考えられる。
  琉球弧で認められる文化要素の多重的連続性には、
  そうした生態学的社会条件も深く関与していることが予測されるであろう。

  文献史料に見える多禰・夜久・奄美・度感・阿児奈波・球美・信覚等の
  島峡は、通説による比定を考えるかぎり、
  高島が主体を成している様子も指摘しておきたい。
  そして開元通宝の出土遺跡もほとんど高島で占められている。
  こうした一致は単なる偶然とは考えられず、
  琉球弧周辺海域の海上交通や遠隔地交易で高島が
  集中利用されていた拠点性を如実に物語るものであろう。

  古代並行期の奄美諸島が
  国家の境界地域に当たる事実を認識するならば、
  境界地域の高島である奄美大島と徳之島が中核地域として
  機能していた可能性が高いと考えられる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

ぼくは奄美大島と徳之島が担った歴史と培われた気質を思う。
と、同時に、そう同時に、与論島の宿命を思う。

与論島にとって、島津の琉球侵攻といい米軍の沖縄上陸といい、
歴史は洋上を通り過ぎる。
ぼくはそう考えて来たけれど、どうやらそれだけではない。
歴史は頭上も過ぎて行ったのだ。
高梨さんの言を借りれば、それは「低島」の宿命といっていいかもしれない。

断っておけば、ぼくはそれを安堵するのでも嘆くのでもない。
亜熱帯の自然だけでなく、
その位置と規模からときの政治勢力に見放されることで、
与論には「島人の原像」が息づいている。

そうも言えるはずである。
それをぼくは与論島の可能性と捉えるのだ。



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コメント

いやいや、喜山さん、
与論城(地元で何と呼称されている場所なのか解りませんが)は、南2島の重要な歴史の鍵を握りますよ。

城久遺跡群の発見で、高い島と低い島の問題も、そんな単純にはいかなくなりました。

与論島の与論城、沖永良部島の世の主城、
これらのグスクは、奄美諸島史の境界性を物語る重要な材料です。
いつか、勉強がそこまで辿り着けばいいのですが。

投稿: NASHI | 2007/10/12 21:20

NASHIさん

言われてみれば、喜界島は低島ですね。
巨大遺跡は、低島に高島の視野をもたらすための装置だったでしょうね。

研究の進展、楽しみです。

投稿: 喜山 | 2007/10/13 10:26

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