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2007/10/10

『めがね』の居眠り

「眠ってしまった」という感想を見かけたり、
映画を改めて思い出したりすると、
つくづく、『めがね』は都心の逆写像だと思う。

ここでいう都心は、必ずしも都会の真ん中のことではない。
たとえば、いまや与論島だってインターネットは快適にできるし、
携帯電話も実はよく使っている。
そこにおいては、都心的なのだ。

先日、「時間の加速と重畳」と書いたけれど、
時間が速度を増し幾重にも重なる場のことを
都心的と仮に呼んでみる。

『めがね』は都心の逆写像だ。
都心にいると、時間は加速しかつ重畳される。
そこでぼくたちはあるところまでは
快適に感じながら、度を越すと、
神経が磨り減るような消耗感を覚える。

果ては、どんな過激な映像やニュースを見ても、
無感覚になってゆく。

これを事件の深刻さで解釈しないとしたら、
時間の流れに身体が過飽和になっているのだ。
もうこれ以上は、都心の時間の流れに身体を合わせることができない。
身体に時間が溢れ、過飽和になるのだ。

『めがね』は、都心がそうであればあるほど身体が要請する
その逆写像の映像だ。

ここでは時間は流れない。
時間を折り重ねる携帯電話も永久圏外だし観光地もない。
時間は希釈されて、まるで胎内の時間の流れのように、
身体に調和していく。

映画『めがね』を観るとはどういうことか。

 ○ ○ ○

濃度の異なる二つの溶液を半透膜で隔てると、
濃度の低い方から高い方へ液体が流れ込む。
ぼくたちはそれを浸透圧と呼んでいる。
『めがね』はその浸透圧を連想させる。

映画館では、『めがね』上映の間、
浸透圧が発生するかのようなのだ。
希釈された時間の映像を、
「24時間じゃ足りない」と、時に呟くほどに
過飽和になった身体が観る。
すると、希釈された時間がスクリーンを通じて、
過飽和になった身体に雪崩れ込む。

ぼくたちは、希釈されて希薄になった時間が
身体に殺到してくるのを感じるだろう。

そして、希釈された時間に身体を委ねる。
そのいちばん素直な反応は、睡眠だ。
都心とは、眠らない場所だから。

だから不思議なことに、「眠ってしまった」は、
この映画のネガティブな評価にならない。
それどころか、居眠りはきわめて『めがね』的身体反応だ。

 ○ ○ ○

過飽和の水溶液にゴミを入れると結晶が析出されるように、
ぼくたちは過飽和の時間の流れの最中から、
必死に何かを生み出そうとしているのかもしれない。

けれど同時に同じ身体も、
過飽和を解き、限りなく自然時間の流れに身を委ねたくなる。

その欲求に『めがね』は応えている。
その意味では、『めがね』は都心の落とし子なのだ。



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