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2007/10/13

貝の道

琉球弧と九州のあいだで行われていた貝交易は、
「貝の道」と呼ばれてきたという。

『ヤコウガイの考古学』の整理を頼りに、
「貝の道」の変遷を辿ってみよう。

  1 弥生時代並行期
  本土地域で南海産大型貝類の利用がはじまる時期は、
  弥生時代前期後半にさかのぼる。
  稲作農耕を基盤とする農耕社会が全国に浸透しはじめていた時期、
  北九州地方を中心に南海産大型貝類を用いた貝製腕輪が
  突然に使用されはじめるのである。

農社会の成立と機をいつにして「貝の道」は始まる。

  そして弥生時代中期後半に国内でも銅器生産が開始されはじめ(中略)、
  弥生時代後期以降、北九州地方を中心とする貝製腕輪の使用は
  次第に衰退していくのである。

  材料となる月殻を供給した琉球弧側に目を転じてみよう。
  対外交流は、縄紋時代並行期まで緩やかに営まれていたが、
  弥生時代並行期からにわかに活発化しはじめた様子がうかがえる。

しかし、本土で銅器生産が開始されると、
貝製腕輪は次第に使用されなくなる。
銅製腕輪が使用されるためだが、しかし貝の魅力は衰えていない。
銅製腕輪は、貝製腕輪を模倣して作られていたのである。

また、

  奄美諸島・沖縄諸島の島嶼社会では、
  弥生文化はおそらく受容されていないと考えられる(攻略)。

  2 スセン當式土器段階(古墳時代並行期)
  幾内政権が誕生して、畿内地方から古墳文化が全国に波及していくなかで、
  一度は弥生時代に衰退した南海産大型貝類の貝製腕輪が
  ふたたび盛行しはじめて、新たなる展開を遂げていく。
  貝製腕輪は、古墳文化の波及に伴い、
  九州地方・瀬戸内地方・盤内地方・東海地方・中部地方・北陸地方等の
  列島各地で台頭していた首長たちに所有され、
  限られた社会階層だけに許された威信財としての性格が
  一層顕在化してくる。

一度は衰退した「貝の道」は、階層社会が成立するにつれ、
威信財として、再び活発になる。

  古墳時代における琉球弧の島嶼社会については、
  残念ながらほとんど不明に近い。
  ただし、当該段階の奄美諸島・沖縄諸島の遺跡からは、
  前段階のように九州地方の外来遣物があまり出土しなくなるので、
  貝殻供給システムには大きな変化が生じていると考えられる。

  3 兼久式土器段階(古墳時代終末~平安時代後期並行期)
  古墳時代の終末段階は、九州地方以外では貝製腕輪が
  ほとんど使用されなくなる。
  九州地方ではイモガイ製腕輪が盛行するが、
  北九州地方と南九州地方に偏向した集中分布が認められる。
  ゴホウラ製腕輪はほとんど消失して、
  オオツタノバ製腕輪が南九州地方でわずかに認められる。

貝製腕輪は、北九州に残るのみになり、他地域では流行らなくなる。

  またイモガイ螺頭部分の円盤を金属枠内にはめ込んだ馬具が、
  六世紀後半から北九州地方と関東地方を中心とする東日本で盛行する。
  当該段階におけるイモガイの盛行は七世紀前半までのことで、
  七世紀後半にはイモガイ製馬具もイモガイ製腕輪も終焉を迎えて、
  おおよそ消失してしまうのである。

  従前の研究成果では、いわゆる「貝の道」が機能していたのは
  当該段階までと理解されてきた。
  しかし、南海産大型貝類の遠隔地交易は新たなる展開を遂げていて、
  本土地域で月製腕輪の使用が終焉を迎えようとしていたころ、
  琉球弧からヤコウガイが運び出されはじめて、
  その後の島峡社会に大きな影響を与えるヤコウガイ交易が
  開始されていたのである。ただし、きわめて新しい研究成果であるため、
  本土地域側の様子がよく解らない。

「貝の道」は、7世紀で終焉したというのが従来の理解だったが、
実はそうではない。

ヤコウガイの交易が始まるのである。

  ヤコウガイ大量出土遺跡をはじめとする当該段階の
  奄美諸島の遺跡からは、多数の鉄器が出土していて、
  奄美諸島の島惧社会のなかにすでに鉄器が普及していた
  様子がうかがわれる。沖縄諸島には、こうした鉄器普及の様子は
  まだ認められない。ヤコウガイ交易を享えていた奄美諸島の島嶼社会は、
  鉄器保有の事実からも社会階層が発達していたと理解され、
  当時の列島を概観した際に、
  北海道地方における擦文時代と対比できる社会状況が準えられて
  いたのではないかと考えられる。
 
  すでに述べたように、奄美諸島ではふたたび
  弥生時代並行期の段階のように
  土師器をはじめとする外来遺物がしばしば出土するようになるので、
  琉球弧と本土地域の交流史は新たなる段階に
  突入している様子がうかがわれる。奄美諸島の在地土器は、
  台付蛮形土器からふたたび平底の整形土器(兼久式土器)に
  変化していて、沖縄諸島でもようやく深鉢形土器の
  平底化(アカジャンガー式土器)がはじまるようである。

  とくに奄美諸島の奄美大島や喜界島からは、
  土師甲須恵器が相当に高い頻度で出土するようになるので、
  文献史学側から指摘されているように、球弧の拠点地域として
  機能していた可能性が高い。ヤコウガイ交易の問題も含めて、
  やはり奄美諸島の実態が注意されるだろう。

奄美諸島が、ヤコウガイを軸にした「貝の道」の拠点になったと考えられる。

  4 類須恵器段階(平安時代後期~鎌倉時代並行期)
  奈良時代に開始された螺銅は、国内で独自に発達を遂げながら
  十二~十三世紀にもつとも盛行する。
  たとえば、十二世紀に成立した中尊寺金色堂(岩手県平泉町)は、
  確認できる螺鈿総数が二七〇八四個を数えるそうであるから、
  膨大なる数のヤコウガイ貝殻が東北地方まで運び込まれて、
  消費されていたことになる。

27084個、万単位である。膨大な量だ。

  もちろん当該段階におけるヤコウガイ貝殻の需要は、
  ほかにも存在したはずであるから、
  それだけのヤコウガイ貝殻を本土地域に恒常的に供給できる
  交易システムが必ず存在していたにちがいない。
  そうしたヤコウガイ交易と関係が考えられる動態として、
  まず十一世紀、奄美諸島の徳之島で突然開始された
  窯業生産が注目される。カムィヤキ古窯跡群と呼ばれる当該遺跡は、
  一〇基前後の窯で構成される支群が一二カ所も
  確認されている大規模遺跡である。

  カムィヤキ古窯跡群は、十一世紀から十四世紀まで稼動していたが、
  その生産品はトカラ諸島から先島諸島に主たる分布地域がかぎられるため、
  商品の大量生産という窯業生産の性格から、
  カムィヤキ古窯跡群における商品生産は琉球弧を対象としたものであると
  理解されている。カムィヤキ古窯跡群が出現するまで奄美諸島では
  土器(兼久式土器)が用いられていて、
  土器生産技術が内的に段階発展して窯業生産技術の
  発生にいたる様子は認められないので、
  外部世界から窯業生産の技術導入が行われたと見てまちがいない。

奄美大島と徳之島こそは、「貝の道」の拠点だったのではないか。

  そうしたカムィヤキ古窯跡群をめぐる技術系譜は、
  高麗の無釉陶器に求められると考えられていて、
  生産品の技術的共通要素から朝鮮半島南部の
  西海岸地域が関係地域として指摘されている。
  カムィヤキ古窯跡群が出現するまで、奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島に
  共通する考古資料は、わずかに開元通宝ぐらいしか認められない。
  カムィヤキ古窯跡群で大量生産された商品が
  島峡世界のすみずみまで流通して、
  いっしょに白磁・青磁・滑石製石鍋・鉄器等も運ばれて、
  はじめて奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島に
  共通した文化要素がもたらされるのである。

はじめてか、何回目か、琉球弧がモノとしての共通性を確認したのは、
奄美の生産物だったかもしれない。

  十五世紀初頭、沖縄本島に琉球王国が成立して、
  一〇〇〇年以上にわたり継続してきた琉球弧と本土地域における
  南海産大型貝類の遠隔地交易もひとまず終焉を迎えるが、
  ヤコウガイそのものは琉球王国で螺細等の原料として
  その後もますます需要が高まるのである。

「貝の道」は、千年にわたり続いてきた。
琉球弧の歴史を刻む意味ある歳月だ。

ぼくは、高梨さんの整理を読みながら、
柳田國男の「海上の道」が蘇ってくるようだった。

柳田の「海上の道」が真実だと言いたいのではない。
宝貝を求めて日本人は渡来したという壮大な仮説のうち、
「宝貝」を求めるという欲求にリアリティを感じることができなかったのだが、
それはありうることを知らされた。

「貝の道」は、琉球弧の、奄美の、存在の証かもしれない。



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コメント

コメントありがとうございます。
中国の食文化をよく知る人間にとって、ずっと不思議なことがあります。単純に長江(揚子江)より北が小麦文化、南が米文化であるにも拘わらず、米文化が朝鮮半島を通じて渡ってきたとまことしやかに日本では何故語られるのか。先日、旅行ライターに中国(南西部)・貴州に1週間取材に行ってもらいましたが「貴州には、苗族が有史以前に海を渡って日本へ行ったという伝説が残されている」とのこと。日本人が餃子(小麦文化)と炒飯(米文化)を同時に好んで食べるので(笑)真偽はよくわかりませんが、南のルートは濃厚であることは確かだと思います。お正月に餅米でおもちをつくるのも苗族。日本がかなりスクランブル民族であるのでなんとも言えず濃度でしかいえませんが…

投稿: Mr.Dalian | 2007/10/14 04:06

Mr.Dalianさん

コメントありがとうございます。

言われてみれば本当、そうですね。ハッとしました。
でも確かに、日本人とは濃度のことである、と言いたくなりますね。

投稿: 喜山 | 2007/10/14 08:51

眼前の隣島との交流は、むしろ日本復帰後の現代よりも盛んに行われていたのではないかと思います。
交通アクセスが、空港や港湾関係に固定されて、
かえって小回りがきかない硬直した交通体系になってしまいましたね。
隣島情報の連鎖こそが、琉球弧の情報網として活用されていたにちがいありません。
そのことも最近重要性を感じています。

投稿: NASHI | 2007/10/16 20:36

NASHIさん

そう思います。兄(ヤカ)、叔父(ウジャ)たちは、
心から親しみ深そうに沖縄や沖永良部を話します。
ヤンバルやイラブに込められた近隣感覚は、
想像以上で、ああ琉球弧のつながりだなぁと感じます。

投稿: 喜山 | 2007/10/16 21:32

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