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2007/10/02

境界領域の自任感覚

  ゴジラといえば、海外でも知られた怪獣映画であるが、
  映画製作のロケ地として奄美諸島がたびたび使われている。
  息子が三~四歳の頃、シリーズ作品をいっしょに見ていて
  そうした事実に偶然気づいたのであるが、
  映画のなかで奄美諸島の映像は南太平洋上の無人島、
  すなわち外国という設定で使われていた。

  映画を見た本土地域の大多数の子供たちは、
  おそらく奄美諸島の映像を映画製作側の思惑どおり、
  外国として受け止めているのだろう。

  奄美諸島の映像が、本土地域の子供たちに
  外国として錯覚されてしまうからくりを考えてみたい。
  映画で使われている奄美諸島の映像をあらためて
  確認してみるならば、リーフが発達している
  サンゴ礁の海とジャングルを思わせる亜熱帯特有の
  植物相の映像が効果的に利用されていることが解る。
  本土地域で見ることができないこうした景観的要素が、
  日本ではないという異域のイメージを見る側に惹起させているにちがいない。
  (『ヤコウガイの考古学』2005年、高梨修)

これを読んで、ぼくもおぼろげながらに、ゴジラの映画を思い出した。
そして、奄美諸島が外国として扱われているということに、
異和と同時に、どういえばいいか、納得のようなものを感じた気がする。

異和は、もちろん、実際に奄美諸島の隅に生まれ住んだ経験から、
映画に描かれるような南洋の無人島ではないと知っていることからやってくる。

けれど同時に、その異和は、反撥へとは向かわずに、
いや向かったかもしれないけれど、それよりはある納得を伴っていた。

それは「外国」ということに関わる。
ぼく自身が、本土に視点を移して奄美を外国とみなしたということではない。
ぼく自身もまた、本土を外国のように感じることがあったということだ。
ここにいう本土というのは、本土自体のことではない。
本土でしばし「日本とは、日本人とは」が語られるときの、
日本や日本人に対して、少し外国のように感じてきた。
それを日本、日本人というなら、ぼくはきっと外国人だ。
そんな風に感じてきた。

それは、たとえば富士山や京都や質実剛健といった
事象のことだったかもしれない。
繰り返せば、富士山や京都や質実剛健そのものに対してではなく、
そこに向けられる、「やっぱり日本(人)は」というみなしに対する感覚だ。

おかげで、ぼくは長いこと、
自分を日本人だと自任することなしに生きてきた気がする。

だから、奄美を外国とみなす、ちょうどその逆の視線で、
ぼくは、本土を外国とみなしていたのではないだろうか。
ぼくの納得はそこからやってくる。

ゴジラの映画が奄美を外国とみなすその距離感と、
ぼくが本土を外国とみなすその距離感が、
近似しているようで、そこに納得していたのだ。

高梨さんの『ヤコウガイの考古学』の冒頭からは、
自分の住所不定のような国家領域的な自任感覚を思い出した。
というか、こんな自任感覚が、ぼくの境界領域体験だったろう。



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コメント

 クオリアさん

 沖縄の県民11万人の思いは、ヌーゲーラヤ
連合軍が 沖縄や硫黄島を無視して 関東平野に
上陸していたら どういうことになっていたのでしょう

 たら、れば・・・昔話です
今、立ち上がるのは 沖縄県民よりも 日本国中の
人々ではないかと思います

 沖縄に 沖縄を返せ! でしょうが・・・
基地に依存し、基地に苦しむ沖縄の現状は
日本列島そのものの課題ではないかと思います

 悪人なをもて往生を・・・ まして善人をや
でしたっけ?

 ユンヌヤ イチャーナユンゲーラや?

投稿: サッちゃん | 2007/10/02 23:31

サッちゃんさん。

関東平野に上陸していても同じようなことが起きたでしょう。

政治的には、沖縄に沖縄を返し、
文化的には、沖縄に日本が復帰する。
日本の課題と思います。

4月13日に米軍が辺戸岬に到達したときのユンヌンチュの
気持ちを時々、想像してみます。
ユンヌンチュのよさを、そのまま未来へ持っていけたらと願ったりしています。


投稿: 喜山 | 2007/10/03 07:19

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