「てるしの」の島、註2
ここ最近たどってきた、ティダ(太陽)にまつわる話を辿ると、
伊平屋島の異称「てるしの」へ、
もうひとつ理解を加えることができるかもしれない。
容易には国語の先生の同意を得られぬ一説と思うが、
自分などは是をDR二つの子音の通融、
と言おうよりもむしろダ行がかつてはもっとラ行に近かった
時代の名残ではないかと思っている。
一つの類例は太陽をテダ、是は照るものというより他の解は有り得ない。
(柳田國男「稲の産屋」)
柳田の解釈に助けを借りれば、「てるしの」の「てる」は、
「太陽」に語源を持った「照る」である。
同じことを、村山七郎は比較言語から接近している。
言語学者の村山七郎は、ジャワ語 sila[光線]、
フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」
に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導いている。
この、*t'ilak(「光線」)は、ティラでありティダ(太陽)へと
つながっていく。
(「百分間の帰省-映画『めがね』メモ」)
「てるしの」の、「しの」についても、村山の考察を引いたことがある。
実はそのカタログ語 sinag あるいはインドネシアの sinar と
同源の言葉が『おもろそうし』に出てくる照ル・シナ(ノ・マミヤ)、
あるいは照ル・シノ「太陽、月」のシナ、シノであります。
沖縄の内裏言葉の辞典『混効験集』(一七一〇年)には
「てるかは 御日の事」「てるしの 右に同」とあって、
シノが太陽であることが明示されています。
(中略)そしてこのシナは沖縄語の記録に出ているだけでなく、
聖徳太子の歌(シナ照る片岡山・・・)にも出てくるのです。
しかし聖徳太子の歌のシナは「太陽」か「月」という意味が
不明になっていたのですが、
沖縄では一七一〇年に編纂された辞典においても
まだはっきりとその意味が残っていたのであります。
本土よりずっと長く沖縄では南方系の単語
-フィリピンの公用語であるカタログ語の sinag「光」、
インドネシア共和国の国語インドネシア語(=マライ語)
sinar「光」、ポリネシア諸語の ma|sina「月」と同源の
単語が残っていたのです。
『おもろそうし』のシナ、シノ、『混効験集』のシノ「太陽、月」
と同源の言葉は全太平洋からインド洋にかけて分布しています。
マダガスカル島にも沖縄のシナ、シノと同源のma|sina「神聖な」
という言葉があります。
(村山七郎『南島の古代文化』1973年)
「しの」も、語源のまま「太陽」の意味である。
すると、「てるしの」は、「太陽の太陽」の意味になる。
これは、「さねさし 相模」、「春日の 春日(はるひのかすが)」のように、
同じ地名を重ねる枕詞の原形と同じ型の言葉ではないだろうか。
ここまで来てやっとぼくは、
「てるしの」が太陽あるいは太陽神と地元で言われている
意味にたどり着くことができた。
追記
同じ筆法をもってすれば、「寺崎」は「照る崎」ということですね。
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コメント
クオリアさん
九州の山の中の盆地に 日田というところが
あります
「ひた」と云うと 土地の人は「ひだ」と云います
地下の珊瑚礁のアブの暗闇にいると 地上からの
明りの(アーガリ)の下が 救いです
日溜り、陽だまり、ヒダマリ・・・
もしかして、ユンヌのティダは、ひだまりでは?
ユンヌフトゥバの凄さに 圧倒されます
投稿: サッちゃん | 2007/10/01 22:28
サッちゃんさん。
ティダとひだまり。面白いです。
言葉が喚起するイメージが豊かなのは、
島の世界の奥行きが深いことの現れのように感じました。
投稿: 喜山 | 2007/10/02 13:35