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2007/10/05

兼久式土器出土層の下層

『ヤコウガイの考古学』では、
スセン當式土器と兼久式土器が重視されている。

スセン當式土器は、沖永良部のスセン當貝塚から出土し、
兼久式土器は、カネクという馴染み深い名であるように、
両者はともに奄美を出自に持つ土器だ。

二つの土器について高梨さんは書いている。

  1.スセン當式土器と兼久式土器の層位的重畳問係
  筆者によるスセン當式土器の検討では、用見崎遺跡・
  須野アヤマル第二貝塚・和野長浜金久遺跡・喜瀬サウチ遺跡・
  小湊フワガネク遺跡群(第六次調査)の五遺跡で
  兼久式土器出土層の下層からスセン當式土器に相当する
  土器群の出土を指摘した(高梨二〇〇五a)。

  筆者がスセン當式土器と指摘する土器群の評価は別としても、
  兼久式土器出土層の下層から弥生時代並行期の土器群とは
  相違する一群が出土している事実には注目しなければならない。
  当該事実は、兼久式土器の起源が弥生時代並行期の土器群に
  後続して理解できないことを示しているからである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

兼久式土器の下層から、弥生時代並行期とは異なる土器が
出土したということ
(高梨さんはそこに、スセン當式土器を位置づけるだのが)、
それが重要である。

なんとなれば、このことは兼久式土器の前段階に、
弥生時代並行期とは異なる土器が存在したことを意味しており、
それは、弥生時代並行期の踵を接するように、
兼久式土器が続いたわけではないことを示すからだ。

高梨さんはそう言っている。

ぼくたちは、それなら、なぜそのことの立論が重要なのか、
と問わなければならない。

  兼久式土器が用いられたと孝えられる七世紀~十一世紀の時期は、
  古代国家の地方統治政策が展開されていた時期に相当する。
  琉球弧は「南島」と称されて、武力行使による威圧的政策と
  賜物・賜姓による懐柔的政策が展開されていた。

  奄美大島は統治政策の拠点地域として機能していたと
  考えられていて(鈴木一九八七)、新たなる対外交流が
  急激に進行する社会動態のなかで兼久式土器は
  成立・展開したと理解できる。

  琉球弧における従前の考古学研究では、
  奄美諸島・沖縄諸島の島峡社会は十二世紀前後まで
  漁撈採集経済段階の停滞的社会が営まれてきたと理解されてきたが、
  古代国家の地方統治政策を背景とした対外交流が活発化することにより、
  小湊フワガネク遺跡群をはじめとして
  少なくとも奄美諸島の一部の地域では鉄器文化を受容して
  階層化社会が出現していたのではないかと考えられている
  (高梨二〇〇〇C二一〇〇一)。

  そうした理解論に立つならば、あらためて確認できた
  兼久式土器の年代理解から、兼久式土器を北海道地方の
  擦文土器に対比させて位置づけることも可能であると考えている。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

従来、琉球弧の奄美・沖縄の島峡社会は、
十二世紀前後まで漁撈採集経済段階にあったと理解されているが、
そうではなく、日本の古代国家の統治政策が琉球弧にも及び、
奄美諸島には漁撈採集経済段階以降の社会が
部分的には現出していたのではないか。

こうした仮説を支える考古学的資料として、
兼久式土器やスセン當式土器の存在は重要であり、
とりわけ兼久式土器が、弥生時代並行期の土器の直接の後継ではなく、
媒介を持つことも、その傍証として重要なのだ。

そう言っているようにみえる。
考古学的事実が、歴史を塗り替える、というより、
薄いもやのかかった状態で放置された場所に、
色を塗ろうとする力を感じる記述だ。


ぼくたちは、次にこの土器編年の成果を辿ることで、
奄美の独自性にもう少し接近できるかもしれない。



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コメント

スセン當式土器は、古墳時代の大隅諸島の土器群の影響を強く受けていると考えられます。
古墳時代の大隅諸島には、前方後円墳のような畿内型の墳丘を構築する祭祀+埋葬形態が遂に波及しませんでした。
南九州と種子島・屋久島(大隅諸島)は、至近の距離にありながら、大きな相違が形成されはじめた段階といえます。
これは、非常に重要な事実です。
そんな非古墳文化のスセン當式土器が、与論島の隣、沖永良部島で発見されているのです。
さらに沖縄本島には、スセン當式土器と相違する在地土器文化があります。
大隅諸島、奄美諸島、沖縄諸島の地域性が、土器からたしかに読み取れるのです。

投稿: NASHI | 2007/10/05 21:11

 クオリアさん

ガシュクトゥドゥ 兼母(金久?)がハニブと云われ
そのすぐそばに、兼子(ハニク)という小字があって

ガシュクトゥドゥ 与論から沖の波は(おきなは)へ
人々は渡来し、黒潮のなみにのって ヒムカ(日向)
の里に渡来し、ガシカラよ  ヤマトゥンチュヌ国を
チクタシガヨ

つぶらな瞳の つぶらは丸い 丸いはあたま つぶる
は「チブル」 チブルは ユンヌフトゥバで あたま
のことですから・・・

つまり ユンヌンチュは チブル ユタシャクトゥヨ
アッセ チュラピチュチチ(自画自賛のこと)
パンチカショウ(はずかしい)や!

 自尊心は人一倍なはずなのに よう云わんわ!
またまた、云うてしもうた イチャシュラガヤ


投稿: サッちゃん | 2007/10/05 23:38

NASHIさん

解説ありがとうございます。
七島灘を越えた共通性に関心が惹かれます。
屋久がヤクガイから来ているだろうという考察も、
感慨深いものがあります。

確かに古代の地域性が見て取れるのですね。

投稿: 喜山 | 2007/10/06 07:26

サッちゃんさん

ウルトラセブンだったでしょうか。
チブル星人を見たとき、なんで与論言葉を知っているんだろうか、
と、幼い頭は思いました。(^^;)

兼母と兼子は、母と子でつながっている。
いままで気づきませんでした。

与論にいると、南下することも北上することも
リアリティがありますよね。

サッちゃんさんの創世物語、発展させていただきたいなと思います。

投稿: 喜山 | 2007/10/06 07:30

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