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2007/10/31

与論砂浜三十景 10 タチビ

島の北端近くに位置する。
砂浜地名によれば、タチビと読める。

Tachibi_2


















珊瑚岩の門とでも言いたくなる狭い浜辺だ。
でも、狭いけれど、門のむこうには、沖永良部島が正面に見える。
沖永良部を臨むためにサイズを合わせたみたいだ。

兄弟島を眺めながらの一杯も美味しそう。
もしくは、浜から送る、浜で迎える祭儀がここにあってもおかしくない。

扉が開くと、沖永良部への入口だった。
そんな風にも見える。

この浜辺では、どんな語らいがあったのか、
なんだかきっと、親密だった気がしてくる。
愛すべき浜辺だ。


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海路でヴェネツィアへ

たとえば、ハワイやグアムの海を見ても、
与論の海のほうがきれいだと思って恋しくなり、
国内でも山に旅すれば、ここには海がないと思い、
海に旅すれば、与論の海と比べて、これは海ではないと思い、
ひたすら与論に行きたい想いを募らせてきました。

思えばそれは随分と狭っ苦しい感じ方です。
ゆうべはそのことにつくづく思い至りました。

世界は広く、一ヶ月以上をかけて、
シベリアを横断しヨーロッパの果てまで行くこともできるのに、
ぼくは、よろんよろんと、そこに行くことだけが目的で、
その他の場所を楽しめないできたのですから。

ただ、狭っ苦しい、そう思い至らされたのは、
悪い感じではありませんでした。
むしろすがすがしい気すらしたかもしれません。

いつも頭は与論航路のことばかりなのは、
ワンパターンもいいとこですが、
それがぼくの前に唯一開かれた
世界にいたる通路なのかもしれない。
それは思い込みに過ぎないにしても、
納得が訪れるまでは固執せざるをえないでしょう。

 ○ ○ ○

空港からヴェネツィアに行くのに陸路と海路、
両方の行き方があるそうです。

海路のほうは、夜、黒く重くねっとりとした
海に揺られながら港を目指します。
そして、物質化された闇のような波を分けてゆくと、
やがて前方に光が浮かび上がるように見えてくる。
それが港で、その港の立ち現れ方を見せるために
海路があるようなものなのだそうです。

だから海路を勧めるのだけれど、
面倒で、誰も選ばず、陸路でさっと行くのだそうです。

素敵な話でした。ぼくも、世界へ至るのに、
海路を通ってヴェネツィアへ向かうような行き方がいいと思いました。
ぼくの与論航路も、そのような世界への行き方であればいいな、と。

さて、こんな思いにたどり着けるのは、自分一人ではできず、
あんとに庵さんとの対話の導きがあればこそでした。

渋谷は、てやん亭
与論島から見れば、「世界の果て」の東京で、
不思議な奄美・沖縄の創作料理を楽しみながら、
「国境の南」のほうにある島話に花を咲かせたゆうべでした。

また、次回。それは、「世界の果て」の東京でか、
「世界の中心」の与論でかは分かりませんが、
また、心地いい島話ができればと思います。




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2007/10/30

与論砂浜三十景 9 ウァーチ

宇勝、ウァーチの浜辺だと思う。

宇勝(うかち)を、ウァーチと呼ぶのを知って
宇和寺と同じ地勢を指していることに思い当たった。

ぼくは以前、宇和寺をアイヌ語で解こうとして、
「岸の洞穴」としてみたけれど、
ウァーチを踏まえると、
いつぞやサッちゃんさんがコメントしてくれたように、
「上の地にある」寺と解するのが妥当であるのが分かる。

 ※「宇和寺は『岸の洞穴』!?」

赤佐から向かった宇和寺(ウヮーディラ)の入口は、
中央断層線が走り、坂を上がっていくように入っていく。
宇和寺は、第一の「上の土地」である。
そして、品覇から宇勝に入るところには、
東部断層線が走り、島はもう一段、高くなる。
それが宇勝(ウァーチ)、第二の「上の土地」だということになる。

と、ここまで書いて、赤佐と宇和寺は、
「赤」と「寺」が響きあっている、と、
外間守善的な符号があるのに気づいた。

それに促されて、宇和寺の地名の意味を進めると、
「上の地にある」寺は、上の地にある洞穴、
あるいは、上の地にある白、となって、
前者だとアイギアブを指すように思えるし、
後者だと、ウドゥヌスーなどの浜辺からつけているようにも思える。
どちらにしても、海から見てつけた地名である点は共通している。

ただ、「赤」と「白」の響き合いは、
この場合、言葉遊びにしか過ぎない気がするので、
偶然の符合だと思う。

(あるいは、サッちゃんさんが言うように、
「上の地の墓」だったかもしれない。
この場合、海路づたいの葬場だったことになるが、
そんな話が残っているのか、島の人に聞いてみたい)


Wati

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2007/10/29

与論砂浜三十景 8 イーウァーチ

品覇をさらに北に進むと、宇勝(ウカチ)に入る。

この浜は、イーウァーチだと思う。「西の宇勝」だ。
ふつうは、ここも「宇勝海岸」と呼ばれているのかもしれない。

宇勝は、ウカチと呼んでいるが、
もともとは、ウァーチと呼ばれている。

語尾が「チ」になる例をぼくはあまり知らないい。
おまけに意味も知らないのだが、
「ウァーチ」は「上の地」と単純に受け取っておこう。

シナパもそうだけれど、イーウァーチも、
海亀も産卵の浜だと聞いている。

ここは島内でもリーフまでの距離が短く、
外海との境をなす白波がそばに見える。

そしてここまでくると、洋上に七離れは見えない。
もう少し行けば、沖永良部島を臨めるだろう。


Iiwati1












Iiwati2_2

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2007/10/28

与論砂浜三十景 7 パマガマ

イチャヅキバマの隣の浜で出会った漁師のウジャは、
パマガマと教えてくれた。

フバマが「小さな浜」としたら、
パマガマは「浜ちゃん」と言いうようなもので、
さらに小ぶりな感じだが、その通り、
両側の珊瑚岩が接近した小さな小さな愛すべき浜辺だった。

ところが、盛窪さんからいただいた砂浜地名図には、
「ブ??ダ」という名が当てられているようにみえる。

本当は、パマガマじゃなく、固有名詞があるのかもしれない。
でも、ここは、実際に話してくれた漁師ウジャの言葉で紹介したい。

Pamagama



















この浜では漁師夫婦が魚(イュー)をさばいて(デューティ)いらした。
ぼくは、勝手に撮っては失礼と思い、
上の一枚では、老夫婦を避けて撮ったのだが、
「そこは暑いでしょう」と言われて、
二人の魚を見せてもらった。

「観光客ね?」のウバ(叔母さん)のひと言に始まり、
ゆんぬんちゅの自己紹介をすると、すぐに、
ぼくの両親や親戚をよく知っていると言われた。
島ではよくあることだけれど、遠いパラジ(親戚)に当たる方だった。

父の他界のことも知っていて、そのことを気遣ってくれ、
「何も遠慮することないから」と、
獲りたてのうち、いちばん大きな赤い魚をさばいて、
刺身用と煮込み用にしてくれた。

「腐らせたらいけないから、冷蔵庫に入れてから、遊びに歩きなさい」
と言われ、ぼくは素直に受け取った。

魚はいっぱいいるけどね、年をとると獲り逃がすことが多くて悔しいよ、
と、言葉少ないウジャも、そう話してくれた。

ぼくは与論らしい情(ナサキ)を受けて、胸がいっぱいになった。
ユンヌンチュの原像のような珠玉の姿を見るようだった。

その日、島の真ん中の高台から自転車で来ていたので、
一度、冷蔵庫に入れに戻るのは、あとの行程を思うと、
こりゃ大変だと思わないでもなかったが、
そんなことより、情(ナサキ)がありがたく、喜んで魚をいただいた。
こんな情(ナサキ)に何度も助けられてきたし、
それがいまも生き生きと息づいているのに心打たれた。

パマガマは、たった一度、訪れただけだが、
ぼくにとっては、忘れがたい砂浜になった。

お二人が幸多い日々であることを祈ります。


Ujauba

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2007/10/27

見守る、よりも、励まされる

高校の子の文化祭に「新世代の息吹き」を感じ、
のびのびした表現に感心させられらたけれど、
中学の子の音楽祭(合唱コンクール)も同じだった。

Concours_3











子どものいる一年生のクラスには、
変声期を終えていない男の子の声に頼りなさがよぎる瞬間があるものの、
コーラスをきれいに整えていて、合唱になっているのに感心した。

でも、二年生の最初のクラスで、
そんなことを吹き飛ばすくらいのレベル差を感じさせる力強い歌声。
のびのびして飛ぶような合唱だった。

この年齢の一年というのは、
はっきりした段落差をつけるほど、
明らかな違いののあるのを実感した。

ところがことはそれに終わらない。
三年になると、もっと違う繊細さとたくましさが加わった。
課題曲と自由曲の合間にも拍手が終わり、
しまいには、紹介だけで歌う前から拍手が起こる。
三年生の貫禄だった。

午後の軽音楽部、吹奏楽部も同じ、
なんてのびのびと、自由に表現しているのだろう。
三十年前の、教師生徒もろともしゃっちこばったなかでの
自分たちのつたない表現からは隔世の感があって、
こんな自由を知っている彼らの、これからの表現が楽しみになる。

自己紹介にしてもそうだ。
ぼくたちのころは、「一生懸命がんばります」というのが関の山だったが、
「コーラスの美しさを楽しんでください」
「努力の成果がどうなったか、お聞きください」などと、
しっかりプレゼンテーションになっているのだ。


子どもの催しのとき、毎回感じるのは、
父兄が同席するのは、子の成長を楽しみ見守るというよりは、
現状維持、ともすれば退行の日々になりがちななかで、
毎日の時間を成長に当てている子ども達から励ましをもらう、
そういう場に思えることだ。

今回も、それは同じだった。

子どもたちは、親を励ますために、
文化祭という名の場を設けているのではないのか。
わが子の歌う初々しい立ち姿を思い出しながら、
反芻するのは、そんな実感だ。



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与論砂浜三十景 6 イチャヅキバマ

ナホーバッタイをさらに北に進む。

近くの漁師さんには、イチャヅキバマと聞いたけれど、
盛窪さんからいただいた砂浜地名には、イチャジキバマとある。
どちらも正解のように思える。

“石が敷き詰められた浜”という意味ではないだろうか。
その通り、浜へ降りていく道も、
浜自体も、石が敷き詰められていた。

珊瑚岩が突き出ていて、日陰をつくっているが、
「石が突き出た浜」の意味ではないだろうと思う。

ぼくは、この浜の名を知って、
石垣島の、「イシャナギ」と呼ばれる地名の意味について、
ヒントをもらった気がした。

Ityazikibama

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島唄と泥染めと

ゆうべの「奄美料理 まれまれ」は、
『奄美の島々の楽しみ方』の山川さんのご紹介で、
山元隆広、俊治兄弟の島唄を堪能したのだった。

Yamamotob














「朝花節」に始まり、「いきゅんにゃ加那」では、
早速、「まれまれ」に集った奄美と奄美好きとの共演で、
ぼくは山川さんはじめ、みなさん歌がうまいのに驚いた。

山元兄弟のいでたちは大島紬。
色のしぶさもさることながら、三線を持ち、
奄美の歌謡を奏でるいでたちは、
まごうかたなき奄美の唄者の雰囲気があり、
格好よかった。

与論島生まれのぼくは、「安里屋ユンタ」になると、
それまでの奄美歌以上に身体が騒ぐのをどうしようもなかったが、
これまで、奄美歌謡をCDやラジオで聞いてきたときの、
あの哀切極まりなく、奄美の過酷な歴史性のみ感じてきたのとは、
少し違い、歌自体の持つ楽しさ、エロスを感じることができた。

「花」、「島育ち」を交えながら、「ワイド節」、「六調」へと次第に
リズムが昂揚していく流れは、
馴染み深い琉球音楽の流れと同期していて、
与論と通底する何かを体感していた。

それは、ヲナリ神(ウナイガミ)信仰かもしれないし、
三線にあわせて踊るスタイルであったかもしれない。
ぼくは、自分も奄美の人と感じることができて嬉しかった。

隣の席の龍郷出身という男性は、
与論献捧を経験したことがないというので、
する必要ありませんよ、それとも今しますか、
と談笑させてもらった。

 ○ ○ ○

島唄ライブのあと、少し、山元兄弟と話すことができた。

「どこか遠くへ行きたい」も、
藤田朋子のわがままを奄美の人々が優しく受け容れる
「田舎に泊まろう」
たまたま観ていたので、
泥染めの様子は想像することができたが、
実際にバッグや名刺入れの作品を見せてもらって、
その風合い、味わいをすぐに気に入った。

母が長年、大島紬を織っていたので、
機織る音は生活音そのもので、そんな親近感も手伝っているかもしれない。
けれど、素朴だけれど、風土と歴史なくしてできない作品の
力強さは迫ってくる。それが心地よかった。

ぼくは、ブランドロゴと、
作品の成り立ちをめぐる物語がほしいことをを伝えたかった。

 「本場奄美泥染 TEBA BROWN」


ぼくは改めて、奄美の課題はNP変換だと思った。

ネガティブ(N)にあるものをポジティブ(P)に変換することだ。
しかも、欠点(N)を直して長所(P)と言えるようにしようね、というのではない。

もともとポジティブ(P)なものなのだから、
ネガティブ(N)という思い込みを捨てようぜ、ということに尽きる。

ぼくは、奄美の人の、自己主張しない
もの静かな居住まいを心から愛する者だ。
けれど、奄美がつくる作品を卑下のもと無価値のように見なすのを
かばいたく思う者だ。

山元さんの泥染めの作品が、
多くの人の生活を、奄美の自然の色の風合いに染めてゆくのを
想像するのは楽しい。
それは、人の自然に優しいスタイルを身近にしていくことと
同じことだと思えるからだ。

せっかくのご縁、応援していきたい。

Tebag















この縁をくださった山川さんに、感謝いたします。



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2007/10/26

与論砂浜三十景 5 ナホーバッタイ

シナパを北に進んだところ、宇勝まではいかない浜辺。
菊千代さんの本や、盛窪さんからいただいた砂浜地名図をみると、
ナホーバッタイに当たると思う。

砂浜までの道のりは捜す余裕がなく、
上から映すのみにとどめた。

ナホーって何だろう。
単純に考えると、ナホーバッタイは、
“ナホーの畑”の意味に思えたりするが、
全く分からないので、ご存知の方は教えてほしい。

汀ちかくは、白砂が底に透けてみえて、
白と蒼のとろけるようなグラデーションをなしている。

与論らしい浜辺だ。


Naobattai

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2007/10/25

与論砂浜三十景 4 シナパ

シナパは、品覇という漢字が当てられている。
シナパ以外にも、まるでp音のバリエーションを教えるかのように、
シナファ、シナハとも聞いたことがある。

島の北西に位置していて、
洋上には、七離れがはっきり離れた島のように見える。

Sinafa


















フバマから遠くないし、話にはよく聞いていたが、
残念なことに、シナパで遊んだことはない。

でも、海亀が産卵に来る浜であること、
パラジの兄(ヤカ)が、木の上に家をつくって過ごしたことがあるという、
楽しいイメージのある浜だ。

シナパは、那覇(ナハ)と似た地名だが、
ナハは、シナハのシが脱音したものとは考えにくく、
那覇とは別系列の地名と思われる。

現在の与論言葉で、砂を「シナ」というので、
シナハとは、素直に、「砂場」「砂のあるところ」という意味ではないだろうか。
下の画像に続くように、七離れと沖永良部が同じ浜辺で見えるほど、
砂地が横に広く連なっている。

大きな島にいるような、広々とした心持になれる浜辺だ。

Sinapa


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2007/10/24

与論砂浜三十景 3 アイギ

B&Gの施設を映さぬように、
でも、朝陽の影が差し込んでいて、
あまりいい画像になっていない。

アイギの砂浜は、「ちゃくれの写真倉庫」が美しいので、
ここで味わってください。

  「艇庫より1」

ここには、アイギアブ、アイギの洞窟があった。
そこを潰すようなことはしてはいけないと、ぼくは思う。
初期与論人の住居であり、戦中は防空壕にもなった場所だ。
あるいは、アブを潰して施設を作ることに痛痒を感じないとしたら、
それが辛い。

アイギアブは、20年前、写真に収めたことがある。

  「宇和寺は『岸の洞穴』!?」


フバマからアイギまで。

高校生になる長男は、近くだろうと思って一人で泳いだら、
角に見える珊瑚の岩を越えても越えてもアイギに辿り着かず怖かった、
と話してくれた。そのくせ、自分のたどった行程を確かめたいのか、
今度は一緒にと誘うので、親子三人でフバマからアイギまで泳いでみた。
知っているつもりだったが、確かに、すぐそこではなく、
ここを一人で泳ぐのは心細かったろうと追認するようだった。

でも、ぼくは距離よりも、
高校中学になった子たちがスイスイ泳ぐのにむしろ驚いた。
成長したものだと親馬鹿の感慨です。


いまは公共施設になってしまったが、
昔のアイギは、フバマより人の来ない浜辺で、
それこそプライベートな浜だった。

Aigi_2

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2007/10/23

与論砂浜三十景 2 ウドゥヌスー

与論の砂浜をめぐる道程は、
フバマから一路、北に進路を取ったのだけれど、
フバマの南隣の浜は、旅は道連れでひとつ戻るように、撮った。

ウドゥヌスーだ。

ここはよく、「ウドノス」と表記されたりして、
小さい頃から、そのカタカナを見るたびに、
一瞬、どこだろう?と思って、ああウドゥヌスーのことねと了解するのだった。
それはいまも変わらない。

ウドゥヌスー。

どういう意味だろう、といつも引っかかってきたが、
いまは冗談のように、“布団の(ような)州”と解してみた。


フバマからウドゥヌスーに行くと、雰囲気は一変した。
ビーチパラソルがすらりと並び、観光客がゴロゴロして、
ユーミンや山下達郎の曲がホテルから流れていた。
なんか、都会だった。

(あ、でも、ウドゥ(布団)のように寝てるということだ。
ということは、未来を予言した地名になっているのだろうか。
もしくは、昔から、寝そべる浜辺だったのか。(^^;) )

でも、70年代から、島の人ではない、
優しいヒッピーの方たちが、
観光客のお世話をしていたように覚えている。

フバマの隣なのに、
フバマに比べると波も砂も荒く感じて、
ここでゆっくり泳いだことはない。
もっとも、その前に、観光客に気後れして近寄れなかった
というのが正確かもしれない。

Udunusu

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2007/10/22

与論島イメージのポジショニング

(大上段に構えるつもりはないので、
一視点として読み飛ばしてください)

「海外の南の島」から「この世界のどこかにある南の島」へ。

「この世界のどこかにある南」は、映画『めがね』の舞台説明だ。
この舞台説明を、そのまま与論島のキャッチフレーズに引用する。
今後のポジショニングにふさわしいと思うから。

 ◇ ◇ ◇

かつて与論は、「ヨロン」と表記されたことで、
「オキナワ・ヨロン」とセットで観光ブームを生きた。
そしてそれだけでなく、「ヨロン」は「オキナワ」から一人歩きして、
「ヨロン」として離脱した。

そしてそうなると、「ヨロン」はイメージ化されて、
プーケットやグアムらと並んで、
どこか海外の南の島にポジションされていった。

学生の頃、与論は国内にあると伝えて
友人たちに驚かれることは、一度ならずあったものだ。

その「ヨロン」は、いまも健在だけれど、かつでほどではない。

これからポジショニングするなら、
「この世界のどこかにある南の島」がいい。

幸い??、沖縄県に属していないから、
沖縄県の離島案内図には、とても近いにもかかわらず、
与論島は登場しない。

与論島は、どこかにある南の島、なのだ。

沖縄の離島マップに登場しないなら、そこことを逆手にとるのもいい。


与論島は、「この世界のどこかにある南の島」とポジショニングする。

すると、『めがね』の言葉を借りれば、
“たそがれ”たい人たちの行く先になる。

もちろん、本当は、飛行機に乗れば、
那覇をちょっと折れると行けるのは知っている。

けれど、「携帯もつながらない場所で何もかもから解放されたい」
という都市生活者の想いに応える場所として、
「この世界のどこかにある南の島」というイメージが生きる。

携帯は実際には通じる、ことは心配しなくていい。
「携帯もつながらない」は比喩で、
都市生活から一時オフすることを意味していればいいのだから。

 ◇ ◇ ◇

「海外の南の島」から「この世界のどこかにある南の島」へ。
ポジショニングの一視点です。




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与論砂浜三十景 1 フバマ(宇和寺)

与論の砂浜めぐりは、フバマからスタートした。
ここからスタートしたのは、全くの好みで、
ぼくの原点でありサンクチュアリであるという以上の意味はない。
でも朝一番でここに来たので、影になっていて、
撮るに向かない時間だったけれど、
それでも、ここから始めないわけにいかなかったとです。

ホテルができる前は、
ウドゥヌスーで遊ぶうちに、
たまたま気づいたタビンチュが来る
知る人ぞ知る浜辺だった。

浅瀬にも枝珊瑚が生えていて、
ピンクや白のきれいな枝珊瑚を、よく観光客が取っていった。
そんな時は、岩場に仮に置かれた戦利品の枝珊瑚を、
彼らにばれないように取り返して海に戻すのが仕事だと思っていた。

その頃は砂浜で覆われていなくて
もっと岩が露出していたと思う。
茶花港の影響で砂が寄ってきたのだろうか。

与論島のなかでも奥行きある礁湖(イノー)が広がっていて、
贔屓目にいって、与論でいちばん優しい海だとぼくは思っている。

フバマ、“小さな浜”という意味だ。

小さいころ、フバマで泳ぎ、フバマに抱かれた。
与論に帰るということの半分は、
長いあいだ、ここに来るという意味だった。

「来たよ」「また来る」と挨拶するのも、フバマだ。

(※与論にはフバマは三ヶ所あるのが分かったので、
宇和寺の、と注釈をつけた。)


Wadyla_fubama_4

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2007/10/21

二つの森に挟まれて

2007年10月、高度5000メートルからの国頭の眺めだ。

Kunigami


















与論を過ぎたあと、あるいは、本島から与論へ向かうとき、
この国頭の森を、うっとりと見つめてしまう。
乱開発の問題を抱えているとはいえ、
ここには森が広がって豊かな生命を育んでいるのが分かるのだ。
(観方を変えれば、龍が与論を睨んでいるようにも見える。
そのこともいつか、書いてみたい)

その森は、与論のお隣さんにあるのだ。
与論の地理的条件は、森を育む規模ではない。
けれど、こんな近くに森を控えていると思うと、
安堵に似た気持ちが過ぎってゆく。

そして森に不向きとはいえ、
国頭の森の次ある連続性を感じられるくらいには、
与論島に緑を増やしたいと思うものだ。


もう少し考えてみると、
与論島の北にも奄美大島の大いなる森が控えている。
高度20000メートルまで上がれば、
ぼくたちは、奄美(あるいは徳之島)と国頭の森に挟まれた
与論島を見いだすだろう。

与論島は二つの大きな森に挟まれているのだ。
そう思うだけで、ほっとする思いだ。

森の連なりのなかに、与論島を位置づけたい。
森の続きとして、与論の樹木と植物を構想するのだ。



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2007/10/20

牛飼いの同級生

飛行機まで少し間があったので、
ケータイで牛を撮って子どもに送ってやろうと、表へ出た。
大きな池の向こうには牛舎があったはずだ。
二月、父と最後に会ったとき、
朝もやのなかを池沿いに散歩して、
牛小屋の横を過ぎたのを思い出していた。
そこへ向かうつもりだった。

ところが、交差点で誰かに声をかけられる。
振り向けば、牛飼いだった。(^^;)

彼は小学校のときの同級生。
ぼくにとって気の置けない島の同級生といえば、
間違いなく、彼のことだ。

がたいは牛級で、それは昔から変わらず、
近所だったぼくはよく苛められた。というより泣かされた。
けれど、末っ子の彼はどこか甘えん坊の性分があって、
ぼくは憎めなかった。

さっそく彼の車に乗り込み、
三十数年ぶりに彼の家へお邪魔した。

彼は数年前に結婚して、
なんとも可愛い五ヶ月目のお子さんもいて、
ぼくは牛と一緒になったとばかり思い込んでいたので、嬉しかった。
本土から来たという奥さんに、
「アイツ、牛に見えませんでしたか?」と聞いたら、
「それは失礼です」と笑いながらきっぱりと言われ、
それも嬉しいひとことだった。

牛小屋も見せてもらった。
島の人口より牛が増えたらまずいんじゃないの、とぼくは思っているが、
このときばかりは、それはさておき、
小さい頃、祖父の家でエーナン(牛)に
砂糖きびの葉をあげながら、
そのうまそうな食べっぷりに惚れ惚れと見入ったのを思い出した。

つかの間の滞在。
彼は、車で島を一周してくれて、
再会を約束し別れた。

いつの日か、本当に心置きなく飲める日の来ることを願う。
そのとき、亡くなった同級生の供養もできるだろう。
いまから楽しみだ。

Eenan

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2007/10/19

唐牛健太郎の穴

神無月の与論島で、これ以上は望めないと思わせてくれる
ガイド、盛窪さんが案内してくれたなかでも、
唐牛健太郎が住んだという洞窟は印象的だった。

洞窟の中は岩場だけでなく砂地もあり広く、
住んだということが信じられた。

そしてそこは、格別の場所だった。

Hole_2
























これは、洞窟の奥に腰を下ろして眺めた入口の景色だ。

洞窟のなかといっても柔らかな砂地で、
赤崎の波の音も聞えてくるので、
まるで夜の浜辺に座っているみたいに、
気持ちが鎮まっていった。

七つ道具だけ持って一週間ここで過ごしてみたいですね、
大人のロマンです、と盛窪さんはおっしゃったが、
まさにそんな気分に引き込まれそうだった。


ところで、手前に見える明るい点は、
陽がそこだけ当っていたのだ。

Light1















見上げれば、裂け目から陽射しが差し込み、

Light2















丸く砂地を照らしていた。

スポットライト。

闇を照らす一条の光が貴く思えて、
おお、と盛窪さんと二人、声をあげた。


唐牛は、唐牛もまた、このスポットライトを見つめただろうか。
見つめたに違いない。

彼はそこに何を感じただろう。

孤独になるには最適だ。
しかしそれは孤立ではなく、
自然に抱かれた孤独だ。

結局、最果ての地も、
メディアの力と無縁ではなく、
唐牛の滞在は長くなかったという。

沖縄の復帰前、ぼくは茶花小学校に入学して
「奄美潮路の」と歌っていた頃だ。

 ○ ○ ○

唐牛健太郎のような、ある隠遁を抱えた人物たちを
南の島は受け容れてきた。

島人にしてみれば、
島に住み始めたヒッピーの一人というだけだったかもしれない。

しかし、いつものあの島人の笑顔には、
無限の包容力があり、隠遁の人に優しい。
それは、この洞窟とともに、
唐牛の骨太なひきこもりを支えたに違いない。

与論島は、その時代その時代の唐牛健太郎を受け容れる
懐を失わずにいてほしい。

それは、与論島の魅力のひとつだから。




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2007/10/18

「南の貝のものがたり」

「南の貝のものがたり」は愛らしい。

いつも何気なく見てきただけだったが、
『ヤコウガイの考古学』を読んで、
貝は初源のアクセサリーであることを知った。

「南の貝のものがたり」は、
その絵解きのようだ。

Minaminokai_3










いまも通用する不思議なデザインの蝶形骨製品、
シャコガイの斧、ゴホウラ製の腕輪。

与論島の街中でも時に見かけるスイジガイ。
これは、Whitesands@与論島でも紹介されていた。

  「魔除け」

そしてあの、ヤコウガイの貝匙。

これなど、すぐれて奄美の地域ブランドだと思う。
完成品はとても美しい。

 ヤコウガイ製貝匙

貝といえば、宇和寺の家の石垣に放置してあった
シャコ貝を、バーベキューのとき皿代わりに使っていた。
そうすると格別な味に感じるのだった。

でも、それどころではない。
貝は匙として、美しく製品化されていたのだ。

この貝匙の画像は、『奄美諸島史の憂鬱』からもの。
徳之島の池村茂さんの作品だ。
「南の貝のものがたり」でインタビュー記事を読むことができる。

 ◎ ◎ ◎

貝はどんな役割を担ってきたのか。
ぼくたちはブローチやブレスレットに、
その現在形を見ることができるが、
「南の貝のものがたり」は、その初源の形を教えている。


(※この本は、朝日新聞社に問い合わせて
取り寄せることができる。)

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図録 南の貝のものがたり
税込価格:1300円
発行日:2006年7月29日
編集:九州国立博物館、朝日新聞社
発行:朝日新聞社
総頁数:137頁
サイズ:A5判タテ

*購入方法*
朝日新聞社企画事業部(小野)
092-411-1137 電話連絡のうえ入手方法確認を
または
かりゆしショップで取り扱い。0942-87-3365(代金引換)
または
ミュージアムショップで取り扱い(代金引換)
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2007/10/17

奄美の紹介文を更新する

  奄美諸島は、二重構造の国家境界領域である。
  琉球世界からも大和世界からも周辺地域として位置づけられている。
  奄美諸島の考古資料は、評価不定の存在として宙に浮いている。

  島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が
  値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。
  本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた。
  しかしほんとうは沖縄といっしょにこの琉球弧の島々が、
  日本の歴史に重要な刺激を運びこむ道筋であったことを、
  もっと深く検討してみなければならないのではないかと思う。
  明治維新は日本の近代的方向を決定した。
  その重要な歴史の曲りかどで、薩摩藩が演じた役割が
  どんなに大きなものであったかをわれわれ日本人はだれも疑わない。
  しかし藩の経済を支えていたものが、
  奄美が島々を挙げてゆがんだ砂糖島にさせられた
  犠牲の上に立っていることを知る者は少ない
  (もちろん琉球王国との密貿易の役割を考えた上で)。
  信じられないことだが、このあとさきの歴史的研究に対して
  奄美はいまだ処女地だということは、
  やはり、いままで本土から奄美がどう扱われてきたかを
  象徴的に示すものだと思う」(「奄美-日本の南島」)

  と述べているが、
  この島尾敏雄の指摘から四〇年近く経過しているにもかかわらず、
  奄美諸島の考古学研究はいまだに端緒的研究段階に
  置かれているのである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

島尾敏雄は、奄美最良の理解者かつ紹介者だ。
奄美を紹介するなら、島尾敏雄の文章を尋ねればいい。
ぼくはそう思ってきた。

ところで『ヤコウガイの考古学』は、
奄美の紹介文に、いままでにはなかった
新しい響きを加えているように思える。

それは、脱「付録」としての奄美の自己像更新というべきものだ。
この更新作業を進めているのは考古学である。

考古学は、高梨さんが再三指摘しているように、
資料の実態に根拠を置く。
言い換えれば、事実に基づく。

ところで、奄美というあいまいさを旨とする領域に、
確たるものを見いだそうとする者は、
時間をかければ済むわけではない、
大きな無力感にとらわれてきた。

それは、島尾敏雄も、時に身につまされた無力感だ。

なにしろ、奄美は過去を持たない。
過去を持たないから、確たるものを築こうにも手がない。
あいまいさを宗旨に彷徨うしかない。
奄美には、いつもそんな悲哀がつきまとった。

それだから、奄美が脱付録としての自己像を、
考古学による過去の事実によって更新しようとするとき、
そこには深い慰めがあると、ぼくは思う。

なぜなら、奄美に対して、
奄美よ奄美、お前に過去はあるのだ、
と、告げ知らせることになっているからだ。

それは、奄美の自己確立というか、
自己表現にとって、欠かせない。
その不可欠のものをもたらしていることに、
『ヤコウガイの考古学』の意義はあると思う。

高梨さんは、「あとがき」にこう書いている。

  筆者には、島尾敏雄が奄美大島在住時代に耳にした
  「琉球弧のざわめき」がヤコウガイ大量出土遺跡から
  聴こえたのであるが、
  果たしてそのざわめきは本書の読者に少しでも届いたであろうか。

ぼくも不十分な耳ながら、
高梨さんを介してヤコウガイの遺跡に立ち会うように、
そのざわめきをいくらか聞けたように思う。

奄美が自信を持つのはよいことだ。
というか、奄美は自信を持たなければならない。
そのための大切な歩みがいま、記されつつある。


現在進行形のこの成果を、ぼくの課題に引き寄せれば、
今後の奄美像が、
琉球王国としての沖縄像の縮小再生産に陥らぬよう、深呼吸しながら、
広くゆったりした琉球弧像に、
新しい奄美像をつなげていくことだと思っている。

いまは、高梨さんの労作に敬意を表したい気持ちだ。

 ※「境界領域の自任感覚」
  「奄美諸島史の逆襲的問題提起」
  「スセン當式土器から兼久式土器へ」
  「兼久式土器出土層の下層」
  「奄美諸島の土器編年」
  「小湊フワガネク遺跡の豊か」
  「浮上するヤコウガイ」
  「基礎としての『贈与』」
  「歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。」
  「貝の道」
  「喜界島・奄美大島勢力圏」
  「脱付録としての奄美論」



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2007/10/16

脱付録としての奄美論

奄美は、国家中心からみれば、「辺境」に位置するが、
もうひとつ、そこには「境界」という側面がある。

そして、「境界」とはフロンティアである。
何のか? 国家との交流のフロンティアである。

  国家周辺地域は、静態としてとらえるならば「辺境(マージナル)」
  という理解になるが、動態として捉えるならば「境界(フロンティア)」
  という理解が生まれてくる。

  「辺境」と見なされているところも、
  交流の様態を見つめてみるならば「境界」という
  別の姿が見えてくるのである。
  琉球王国についても、機能的側面から考えるならば、
  中世国家の境界領域に誕生した巨大交易機構という見方もできる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

こう主張する高梨さんからはもうひとつの声が聞こえてくる。

  これまで琉球弧の考古学研究において、
  奄美諸島と沖縄諸島の考古資料はほとんど同一視され、
  奄美諸島の考古資料をめぐる評価は
  沖縄側の研究成果のなかに解消されてきた。
  しかし、貝塚時代後期以降の奄美諸島と沖縄諸島における
  考古資料の様相には相違が認められる事実を問題提起して、
  本章の前半で沖縄側から評価できない奄美諸島の考古資料、
  すなわち評価不定の考古資料について、
  ヤコウガイ大量出土遺跡・鉄器出土遺跡・カムィヤキ古窯跡群・
  城郭遺跡を取り上げ、それぞれの研究課題の確認を進めてきた。

  筆者は、奄美諸島と沖縄諸島の考古資料に認められる差異のなかに、
  奄美諸島史の実態が隠されているのではないかと孝えている。
  その差異は、地域的差異として片づける単純なる理解論では
  到底説明できない問題を多数かかえているはずである。
  そうした差異を読み解くための視角として、
  社会環境について「国家境界領域」、
  自然環境について「高島・低島」 の分析概念を用意して、
  本章の後半で奄美諸島史の知られざる姿について検討してきた。

奄美は沖縄と同一視されてきたが、そうではない。
奄美には奄美の姿があるのである。

奄美は沖縄の付録ではない。
それがここから聞こえてくるひとつの声だ。

付録。それは、奄美につきまとってきたアイデンティティの別称だった。
沖縄(琉球)の付録。大和(鹿児島)の付録。

しかし、考古学の成果が物語るところによれば、
奄美は付録ではない。

ぼくは、奄美による奄美の自己主張の胎動を感じる。
こと奄美については、こうした声の存在自体、
価値があるように響いてくる。

脱付録としての奄美論だ。



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2007/10/15

喜界島・奄美大島勢力圏

喜界島は南下する倭人勢力の拠点となった。
そう、『ヤコウガイの考古学』は仮説する。
そしてこの勢力による国家造山運動の萌芽のような動きは、
琉球王国形成に先立つものだった。

ここからは、大和との交流手として生きた
奄美の姿が垣間見えてくる。
それは、島津侵攻によって始まったのではなく、
古代にはじまっていたのだ。

喜界島は、奄美大島以南にゆるやかに連なる
琉球弧の入口に位置する。
そのポジションゆえ、
南下する倭人勢力の拠点となったのだ。

こうした位置がもたらした姿が明らかになるにつれ、
喜界島は、いま自己像を大いに更新しつつあるはずだ。


高梨さんの整理を引いておこう。

  2 喜界島・奄美大島勢力圏
  (前略)喜界島・奄美大島における当該段階の
  発掘調査成果には沖縄諸島であまり確認できない考古資料が
  集中分布する特徴的様相が認められ、
  そこからうかがわれる交流の様子は文献史学側の
  研究成果と整合的に理解することが可能になりはじめている。

  当該段階における喜界島・奄美大島・徳之島等の一部の
  島嶼社会は、単なる漁撈採集経済社会に止まるものでは決してなく、
  すでに階層社会が営まれていた様子を示していると考えられる。

  とくに古代後半段階から喜界島・奄美大島北部に
  形成されはじめる政治的勢力の存在は、
  後に国家形成にいたる沖縄本島の動態に
  先行するものとしてきわめて注目されるのである。

  『日本紀略』や『小右記』に記された十世紀終末の
  奄美島人による太宰府管内諸国の襲撃事件や『吾妻鏡』に
  記された十二世紀後半の阿多忠景の貴海島逐電事件等、
  古代終末段階にキカイガシマをめぐる動態が集中して
  認められる事実から、キカイガシマの拠点的機能を次第に
  喜界島が果たしはじめていたのかもしれない(永山二〇〇四)。

  徳之島におけるカムィヤキ古窯跡群の出現も、
  そうした動態が展開していた時期にまさしく相当する。
  カムィヤキ古窯跡群が出現する十二世紀代の直前段階には、
  すでに喜界島に倭人の拠点的遺跡(防御性集落)が
  出現していたと考えられるのであり、喜界島・奄美大島北部に
  形成されはじめた政治的勢力圏が当該地域の
  経済的権益を掌握していた可能性はきわめて高いと思われる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修)

Kikaiamami














そしてこれは、喜界島の自己像更新であるとともに、
琉球弧の自己像更新につながると思える。

谷川健一は、『甦る海上の道・日本と琉球』で、
琉球王国の建設は、
南下した倭人勢力によるものだという仮説を提示し、
同時に、そのとき奄美は先進地域として重要な役割を担っていたと
指摘していた。

 ※「蘇る海上の道」

というより、奄美の考古学の成果をもとに谷川は語っているわけで、
順序は逆、考古学成果のあとに谷川の仮説は来るものだ。

ところで、この谷川の仮説を引き継ぐと、
「喜界島・奄美大島勢力圏」は、琉球王国に先立つ、
倭人勢力の拠点だったことになる。

倭人勢力は、最初、喜界島を拠点におき、
ついで、沖縄本島を拠点に、国家を形成した。
こういう言い方も可能になる。

琉球王国も喜界島・奄美大島勢力も、
南下する倭人が実現したものだ。
自分の直観に過ぎないけれど、
こう仮説するのは納得しやすい。

琉球弧は内発的には国家を形成する必然性を
持ってなかったと、ぼくは考えてきたから。

だから、やはりそうか、と思う。



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2007/10/14

オオゴマダラとの再会

「チヌマンダイ」の盛窪さんが、
オオゴマダラの羽化を記録している。

  「蝶・オオゴマダラの再生記録(羽化)」

今回の帰島の際、見せていただいたので、
ぼくも、オオゴマダラに再会することができた。
何年ぶりだったろうか。

Oogomadara















Sanagi















見よ、洗濯干しだって、オオゴマダラを助ける。

ワリバマでは、オオゴマダラの食草になる
ホウライカガミ(蓬莱鏡)を教えてもらった。

Houraikagami















盛窪さんの努力が実を結ぶよう、応援したい。
そしてそう遠くない日に、
与論産のオオゴマダラと森で出会いたいものだ。
昔、よくそうしたように。

 ※「たゆたうオオゴマダラ」
  「癒しの場としての南島」

 ○ ○ ○

盛窪さんのケアはオオゴマダラに向けられているけれど、
それは結局、与論島へのケアなのだ。

与論島ケア。

与論島ケアが与論の魅力を維持し高めることは言うまでもない。



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2007/10/13

貝の道

琉球弧と九州のあいだで行われていた貝交易は、
「貝の道」と呼ばれてきたという。

『ヤコウガイの考古学』の整理を頼りに、
「貝の道」の変遷を辿ってみよう。

  1 弥生時代並行期
  本土地域で南海産大型貝類の利用がはじまる時期は、
  弥生時代前期後半にさかのぼる。
  稲作農耕を基盤とする農耕社会が全国に浸透しはじめていた時期、
  北九州地方を中心に南海産大型貝類を用いた貝製腕輪が
  突然に使用されはじめるのである。

農社会の成立と機をいつにして「貝の道」は始まる。

  そして弥生時代中期後半に国内でも銅器生産が開始されはじめ(中略)、
  弥生時代後期以降、北九州地方を中心とする貝製腕輪の使用は
  次第に衰退していくのである。

  材料となる月殻を供給した琉球弧側に目を転じてみよう。
  対外交流は、縄紋時代並行期まで緩やかに営まれていたが、
  弥生時代並行期からにわかに活発化しはじめた様子がうかがえる。

しかし、本土で銅器生産が開始されると、
貝製腕輪は次第に使用されなくなる。
銅製腕輪が使用されるためだが、しかし貝の魅力は衰えていない。
銅製腕輪は、貝製腕輪を模倣して作られていたのである。

また、

  奄美諸島・沖縄諸島の島嶼社会では、
  弥生文化はおそらく受容されていないと考えられる(攻略)。

  2 スセン當式土器段階(古墳時代並行期)
  幾内政権が誕生して、畿内地方から古墳文化が全国に波及していくなかで、
  一度は弥生時代に衰退した南海産大型貝類の貝製腕輪が
  ふたたび盛行しはじめて、新たなる展開を遂げていく。
  貝製腕輪は、古墳文化の波及に伴い、
  九州地方・瀬戸内地方・盤内地方・東海地方・中部地方・北陸地方等の
  列島各地で台頭していた首長たちに所有され、
  限られた社会階層だけに許された威信財としての性格が
  一層顕在化してくる。

一度は衰退した「貝の道」は、階層社会が成立するにつれ、
威信財として、再び活発になる。

  古墳時代における琉球弧の島嶼社会については、
  残念ながらほとんど不明に近い。
  ただし、当該段階の奄美諸島・沖縄諸島の遺跡からは、
  前段階のように九州地方の外来遣物があまり出土しなくなるので、
  貝殻供給システムには大きな変化が生じていると考えられる。

  3 兼久式土器段階(古墳時代終末~平安時代後期並行期)
  古墳時代の終末段階は、九州地方以外では貝製腕輪が
  ほとんど使用されなくなる。
  九州地方ではイモガイ製腕輪が盛行するが、
  北九州地方と南九州地方に偏向した集中分布が認められる。
  ゴホウラ製腕輪はほとんど消失して、
  オオツタノバ製腕輪が南九州地方でわずかに認められる。

貝製腕輪は、北九州に残るのみになり、他地域では流行らなくなる。

  またイモガイ螺頭部分の円盤を金属枠内にはめ込んだ馬具が、
  六世紀後半から北九州地方と関東地方を中心とする東日本で盛行する。
  当該段階におけるイモガイの盛行は七世紀前半までのことで、
  七世紀後半にはイモガイ製馬具もイモガイ製腕輪も終焉を迎えて、
  おおよそ消失してしまうのである。

  従前の研究成果では、いわゆる「貝の道」が機能していたのは
  当該段階までと理解されてきた。
  しかし、南海産大型貝類の遠隔地交易は新たなる展開を遂げていて、
  本土地域で月製腕輪の使用が終焉を迎えようとしていたころ、
  琉球弧からヤコウガイが運び出されはじめて、
  その後の島峡社会に大きな影響を与えるヤコウガイ交易が
  開始されていたのである。ただし、きわめて新しい研究成果であるため、
  本土地域側の様子がよく解らない。

「貝の道」は、7世紀で終焉したというのが従来の理解だったが、
実はそうではない。

ヤコウガイの交易が始まるのである。

  ヤコウガイ大量出土遺跡をはじめとする当該段階の
  奄美諸島の遺跡からは、多数の鉄器が出土していて、
  奄美諸島の島惧社会のなかにすでに鉄器が普及していた
  様子がうかがわれる。沖縄諸島には、こうした鉄器普及の様子は
  まだ認められない。ヤコウガイ交易を享えていた奄美諸島の島嶼社会は、
  鉄器保有の事実からも社会階層が発達していたと理解され、
  当時の列島を概観した際に、
  北海道地方における擦文時代と対比できる社会状況が準えられて
  いたのではないかと考えられる。
 
  すでに述べたように、奄美諸島ではふたたび
  弥生時代並行期の段階のように
  土師器をはじめとする外来遺物がしばしば出土するようになるので、
  琉球弧と本土地域の交流史は新たなる段階に
  突入している様子がうかがわれる。奄美諸島の在地土器は、
  台付蛮形土器からふたたび平底の整形土器(兼久式土器)に
  変化していて、沖縄諸島でもようやく深鉢形土器の
  平底化(アカジャンガー式土器)がはじまるようである。

  とくに奄美諸島の奄美大島や喜界島からは、
  土師甲須恵器が相当に高い頻度で出土するようになるので、
  文献史学側から指摘されているように、球弧の拠点地域として
  機能していた可能性が高い。ヤコウガイ交易の問題も含めて、
  やはり奄美諸島の実態が注意されるだろう。

奄美諸島が、ヤコウガイを軸にした「貝の道」の拠点になったと考えられる。

  4 類須恵器段階(平安時代後期~鎌倉時代並行期)
  奈良時代に開始された螺銅は、国内で独自に発達を遂げながら
  十二~十三世紀にもつとも盛行する。
  たとえば、十二世紀に成立した中尊寺金色堂(岩手県平泉町)は、
  確認できる螺鈿総数が二七〇八四個を数えるそうであるから、
  膨大なる数のヤコウガイ貝殻が東北地方まで運び込まれて、
  消費されていたことになる。

27084個、万単位である。膨大な量だ。

  もちろん当該段階におけるヤコウガイ貝殻の需要は、
  ほかにも存在したはずであるから、
  それだけのヤコウガイ貝殻を本土地域に恒常的に供給できる
  交易システムが必ず存在していたにちがいない。
  そうしたヤコウガイ交易と関係が考えられる動態として、
  まず十一世紀、奄美諸島の徳之島で突然開始された
  窯業生産が注目される。カムィヤキ古窯跡群と呼ばれる当該遺跡は、
  一〇基前後の窯で構成される支群が一二カ所も
  確認されている大規模遺跡である。

  カムィヤキ古窯跡群は、十一世紀から十四世紀まで稼動していたが、
  その生産品はトカラ諸島から先島諸島に主たる分布地域がかぎられるため、
  商品の大量生産という窯業生産の性格から、
  カムィヤキ古窯跡群における商品生産は琉球弧を対象としたものであると
  理解されている。カムィヤキ古窯跡群が出現するまで奄美諸島では
  土器(兼久式土器)が用いられていて、
  土器生産技術が内的に段階発展して窯業生産技術の
  発生にいたる様子は認められないので、
  外部世界から窯業生産の技術導入が行われたと見てまちがいない。

奄美大島と徳之島こそは、「貝の道」の拠点だったのではないか。

  そうしたカムィヤキ古窯跡群をめぐる技術系譜は、
  高麗の無釉陶器に求められると考えられていて、
  生産品の技術的共通要素から朝鮮半島南部の
  西海岸地域が関係地域として指摘されている。
  カムィヤキ古窯跡群が出現するまで、奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島に
  共通する考古資料は、わずかに開元通宝ぐらいしか認められない。
  カムィヤキ古窯跡群で大量生産された商品が
  島峡世界のすみずみまで流通して、
  いっしょに白磁・青磁・滑石製石鍋・鉄器等も運ばれて、
  はじめて奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島に
  共通した文化要素がもたらされるのである。

はじめてか、何回目か、琉球弧がモノとしての共通性を確認したのは、
奄美の生産物だったかもしれない。

  十五世紀初頭、沖縄本島に琉球王国が成立して、
  一〇〇〇年以上にわたり継続してきた琉球弧と本土地域における
  南海産大型貝類の遠隔地交易もひとまず終焉を迎えるが、
  ヤコウガイそのものは琉球王国で螺細等の原料として
  その後もますます需要が高まるのである。

「貝の道」は、千年にわたり続いてきた。
琉球弧の歴史を刻む意味ある歳月だ。

ぼくは、高梨さんの整理を読みながら、
柳田國男の「海上の道」が蘇ってくるようだった。

柳田の「海上の道」が真実だと言いたいのではない。
宝貝を求めて日本人は渡来したという壮大な仮説のうち、
「宝貝」を求めるという欲求にリアリティを感じることができなかったのだが、
それはありうることを知らされた。

「貝の道」は、琉球弧の、奄美の、存在の証かもしれない。



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懐かしきアフリカマイマイ

九月に帰島して、島のアンニャー(姉)は、
自宅庭を開放して、バーベキューでもてなしてくれた。

そこには、ヤドゥマーブイ(ヤモリ)もいて、
すっかり帰ってきた気分に浸ていたのけれど、
三十年ぶりの再会もあった。

アフリカマイマイだ。

それはもう懐かしくて、子どもたちを呼んで見入ったのだった。

Africamaimai09











子どものときは、ここあそこにわんさかいて、
害虫と聞かされていたし、確かにキャベツなど穴だらけになるので、
目撃すれば、塩をかけるか、石を投げつけるかしていた。
殻だけだと、アマン(ヤドカリ)と見分けがつかないので、
アマンと思って手に取ってびっくりすることもあった。

なんでも食用で持ち込まれたと聞いていたけど、
実際に食べたという話も聞いたことはなかった。
竹下徹さんの『ドゥダンミン』でも、
食用で持ち込まれたが食用になることはなく、
誰が持ち込んだかも不明のまま、とたしか書いてあったと思う。

アフリカマイマイという名前からして、
アフリカから来たのかと想像して、
さすがワイルドだなと意味もない納得をしながら、
いつも目の端々にその存在を確認していたような気がする。

島の人には、「いるよ」と言われるものの、
それ以来、出会ったことがなかったので、
数は減ったのかなと思っていた。


そんな一ヶ月前の感慨を、
今回の鹿児島でのアフリカマイマイ発見の記事は思い出させた。
ぼくはアフリカマイマイ発見それ自体より、
この腫れ物に触るような記事に驚いた。

 「アフリカマイマイ 新たな個体発見されず」


オレヲカゴシマジョウリクサセトイテ、
アフリカマイマイデオドロクコトハナカロウ

と思わないでもない。(^^;)




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2007/10/12

「なにもないが、ある」-『めがね』を真っ芯で

  「なにもないが、ある。」

これは、映画『めがね』を真っ芯で捉えた言葉だと思う。

「なにもない」と「なにもないが、ある」とは随分、違う。

たとえば、この映画でも象徴的な意味を担う携帯もそうだ。

ぼくたちは地下鉄やなにかで携帯の圏外にいたり、
電池が切れていたりすると、携帯が通じない、と言う。
ふつう携帯が通じる世界にいると思っているから、
通じないのは、「ない」ということだ。

「ない」という時、ぼくたちは、
「ない」という不在感を「欠如」として感じている。
それは、出かけるときに携帯を忘れた時の、
あの、居心地の悪さというか不安を思い出してみればいい。

けれど、あらかじめ携帯の通じない世界だったらどうだろう。
そこにいればぼくたちは、携帯が通じないのは、
ただの「ない」ではなくなる。

携帯が通じ「ない」のは、一時的な、
そう、圏内に入ったり、充電池を確保したり、
自宅に戻って携帯を取りに行けば、
解消されるものではなく、
通じ「ない」のが日常になる。
通じ「ない」時間を生きることになる。

そこでは、携帯が通じ「ない」という世界が「ある」のだ。
ふつうに考えれば、それはただの不便だから、
「ない」が「ある」と言われても困るが、
ぼくたちは、心の隅で、携帯も通じない世界で、
何もかもから解放されてみたい、
という願望を秘めることもあるから、
それだけ、この「ない」が「ある」には価値を感じる。

だから、ここでは、携帯が通じ「ない」ということは、
欠如ではなく、過剰になるのだ。

 ○ ○ ○

ところで、あんとに庵さんは、
単に「ない、がある」と言っているのではなく、
「なにもないが、ある」と言うのだから、
「ない、がある」より、もっと深く呼吸をしている。

そして、吐き出す息でもって、
もう少し、問いを進めてくれている。

  島に住んでる島人がこの映画見たら
  なんていうだろうか?
  (映画『めがね』なにもないがある島の日常
  「あんとに庵◆備忘録」

ぼくも気になる。
想像すれば、「なにもないが、ある」という言い方は、
「なにもないが、ある」と言えるのは、
「ある」世界にいるからだ、とか、
本当は携帯も通じるように、
ここは、「なにもない」どころではなく、
そもそも「ある」のだ、とか、
いう声を呼んでも可笑しくないからだ。

まだぼくは、「島に住んでる島人」の
感想を聞く機会はないから、
ここから先は、シミュレーション的な話。


今回、祖父の洗骨をしに帰島したので、
パラジ(親戚)との再会も多かった。

なかに、ぼくより前の与論をぼくより長く住んで
いまは関東在住の兄(ヤカ)も『めがね』を観ていた。

ぼくの「よかったでしょう?」という問いかけに、
「ようわからんかった」。

でもって、兄(ヤカ)は、

「だって空港出たら、すぐ寺崎ってそれはねぇだろう」

と、江戸っ子ばりに言い切る。

いやこれは映画だから、と一瞬、半畳を入れたくなったが、
それだけ、映画の世界が現実の与論島と地続きだから
出てくる台詞だと受け止めることにした。

でも楽しかったのは、関東出身の姉さん(兄の奥さん)は、

「本当は、“たそがれる”ってすごくネガティブなことよね」

と話していたが、みんな出かける時には、

「じゃ、ちょっと“たそがれ”てくるから」とか、
「だって、ここは観光するとこなんかないんだよ」とか、

それが、小さなコミュニティの合言葉になっていた。
断っておくと、合言葉は、自嘲でも卑下でもなく、
楽しく語られた。

 ○ ○ ○

島は、「なにもない」と、
しこたま言われてきて、それを、
欠如として受け止めることに島人は慣れている。

でも、島出身の兄(ヤカ)や島つながりの姉さんが、
与論島と地続きに映画を観てしまうけれど、
それでも、「観光するとこなんか、ないんだよ」と、
合言葉のように言う、その言い方が、素敵で愉快だった。

「観光するとこなんか、ない」。
こういう時、それは欠如ではなく、
過剰として受け止められているのだ。

ぼくはそこに、近い将来の島人による映画感想を、
先取りして見ている気分だった。

島人は、「なにもない」を欠如として受け止めてきたが、
それが、「なにもないが、ある」という過剰へ
反転して受け止めるように、映画が後押ししてくれている。
そんな風にも感じられた。

もし、そうだとしたら、それが島人にとっての
最大の効用に思える。

 「あんた、タビンチュね」
 「はい、観光に来ました」
 「ヌッチュウ?観光?そんなとこ、どこにもないがねー」

島の人が、もしこう言ったら、とてもいい。
いまのところ架空の対話をぼくは思い浮かべるけれど、
こんな対話が島で飛び交ったら、
この島は大丈夫、と思うのだ。


もっとも、そんなこと考えなくても、

  でも島んちゅは素直だから
  「島をこんな風に撮ってくれて嬉しい」
  っていうと思うけど。

という、あんとに庵さんの弁に、
ぼくも、そうそう、と思うのだ。

 ○ ○ ○

それにしても、

  いや、ものの見方を変えるなら「過剰にある」
  ものが沢山あるんだけど・・自然とか、
  海とか海とか海とか植物とか植物とか
  キビとかキビとかキビとか山羊とか牛とか
  犬とか猫とかねずみとか蟲とか虫とかムシとか・・・・。

ここには、与論風景的リアリティがあって、
大笑いさせてもらった。

とおとぅがなし、である。


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2007/10/11

本当に必要なものは、実はあんまりない

またまた、「奄美の島々の楽しみ方」の山川さんに、
『めがね』掲載の雑誌を教えてもらった。

 「エココロ」

みなさん、いい笑顔です。

Megane1011














小林聡美さんコメント。

  「そうですね。1カ月のロケなので、本とかDVDとかたくさん持って
  行ったんですけど、一切見る気分にはならなかったです(笑)。
  映画の中でも、市川さんの役のハルナに
  『ここじゃ本なんて読めないでしょ』って言われるんですけど、
  その通りで(笑)」

共感しますね。

ぼくも持っていく本は、いつにもまして睡眠誘発剤になるし、
仕事柄、パソコンを持っていってメールするのですが、
すべて文字化けに見えてしまいますから。

もたいまさこさんコメント。

  「そうか、そうだよな、そんな荷物、早く捨てればいいのにって。
  でも実際、与論島(今回のロケ地)に行ってみて思ったのは、
  本当に必要なものは、実はあんまりないんだなってことでした。
  映像そのままのとてもきれいなところでしたけど、
  なんにもないところなんですよ。気持ちいいくらい。
  だから、ない中で、工夫して食べたり飲んだり、
  あたり前の生活を楽しむんですね」

「本当に必要なものは、実はあんまりない」。
この気づきを与論島が与えてくれるとしたら、
それは素敵なことですね。



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歴史は頭上を過ぎる。洋上だけでなく。

  第二に、ヤコウガイ交易をめぐる生態環境について、
  「高島・低島」という島峡分類に則しながら考えてみたい。
  遠隔地交易において、
  高島は島峡地域の拠点的機能を備えていることから、
  島峡社会の中心地として交流が展開していた場所であると
  理解されてくる。農耕が行われていない段階でも、
  高島の豊かな水文環境と深い山地は
  飲料水・木材・石材等と良港を提供してくれたのであり、
  海上交通の拠点となる重要条件が備えられていたのである。

  また高島に隣接している低島は、
  高島と経済的補完関係が形成されていたことにより、
  文化的共通性を生み出したと考えられる。
  琉球弧で認められる文化要素の多重的連続性には、
  そうした生態学的社会条件も深く関与していることが予測されるであろう。

  文献史料に見える多禰・夜久・奄美・度感・阿児奈波・球美・信覚等の
  島峡は、通説による比定を考えるかぎり、
  高島が主体を成している様子も指摘しておきたい。
  そして開元通宝の出土遺跡もほとんど高島で占められている。
  こうした一致は単なる偶然とは考えられず、
  琉球弧周辺海域の海上交通や遠隔地交易で高島が
  集中利用されていた拠点性を如実に物語るものであろう。

  古代並行期の奄美諸島が
  国家の境界地域に当たる事実を認識するならば、
  境界地域の高島である奄美大島と徳之島が中核地域として
  機能していた可能性が高いと考えられる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

ぼくは奄美大島と徳之島が担った歴史と培われた気質を思う。
と、同時に、そう同時に、与論島の宿命を思う。

与論島にとって、島津の琉球侵攻といい米軍の沖縄上陸といい、
歴史は洋上を通り過ぎる。
ぼくはそう考えて来たけれど、どうやらそれだけではない。
歴史は頭上も過ぎて行ったのだ。
高梨さんの言を借りれば、それは「低島」の宿命といっていいかもしれない。

断っておけば、ぼくはそれを安堵するのでも嘆くのでもない。
亜熱帯の自然だけでなく、
その位置と規模からときの政治勢力に見放されることで、
与論には「島人の原像」が息づいている。

そうも言えるはずである。
それをぼくは与論島の可能性と捉えるのだ。



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2007/10/10

砂に帰る。

今朝、スーツを着て地下鉄に乗り込もうとして、
昨日のいまは、まだ暑いあの島にいて、
改葬のさなかにいたのに気づいたら、
棺を開けたときに、ウバンカが、「とおちゃん」と叫んで、
すすり泣いたのを、ふいに思い出した。

みなだが流れてしまい、気が遠くなりそうになる。
昨日偶然に会った同級生が、
「明日、帰れよ。今日は飲もう」と誘ってくれたのも思い出した。

洗骨をしたこの手が、24時間後には、
必要な書類を持って、もう肌寒い東京の、
地下鉄に乗り込もうとしている。

ぼくは、これからも、この両極の時間をふたつとも抱えたまま、
生きていけるだろうか。途方に暮れるようだった。

でもその時、携帯電話が鳴り、
「少し早めに来れますか?」という声を聞き、
ぼくはたちまち東京の時間に吸い込まれていった。

 ○ ○ ○

土に帰る、という言葉がある。
でも、昨日、棺を掘り起こしたとき、
下の方も、まだ白砂だったと思う。
あの下には、土が厚い層をなしているのかもしれないけれど、
ぼくたちは、白の世界に祖父を訪ねていった。

祖父の肉体は、砂に帰ったのだ。
それは、砂の島の人の宿命だろうか。


ぼくもすぐには砂に帰れない。
いまは、与論島に向かう時が、ぼくの帰る時間だ。

それを糧として。


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『めがね』の居眠り

「眠ってしまった」という感想を見かけたり、
映画を改めて思い出したりすると、
つくづく、『めがね』は都心の逆写像だと思う。

ここでいう都心は、必ずしも都会の真ん中のことではない。
たとえば、いまや与論島だってインターネットは快適にできるし、
携帯電話も実はよく使っている。
そこにおいては、都心的なのだ。

先日、「時間の加速と重畳」と書いたけれど、
時間が速度を増し幾重にも重なる場のことを
都心的と仮に呼んでみる。

『めがね』は都心の逆写像だ。
都心にいると、時間は加速しかつ重畳される。
そこでぼくたちはあるところまでは
快適に感じながら、度を越すと、
神経が磨り減るような消耗感を覚える。

果ては、どんな過激な映像やニュースを見ても、
無感覚になってゆく。

これを事件の深刻さで解釈しないとしたら、
時間の流れに身体が過飽和になっているのだ。
もうこれ以上は、都心の時間の流れに身体を合わせることができない。
身体に時間が溢れ、過飽和になるのだ。

『めがね』は、都心がそうであればあるほど身体が要請する
その逆写像の映像だ。

ここでは時間は流れない。
時間を折り重ねる携帯電話も永久圏外だし観光地もない。
時間は希釈されて、まるで胎内の時間の流れのように、
身体に調和していく。

映画『めがね』を観るとはどういうことか。

 ○ ○ ○

濃度の異なる二つの溶液を半透膜で隔てると、
濃度の低い方から高い方へ液体が流れ込む。
ぼくたちはそれを浸透圧と呼んでいる。
『めがね』はその浸透圧を連想させる。

映画館では、『めがね』上映の間、
浸透圧が発生するかのようなのだ。
希釈された時間の映像を、
「24時間じゃ足りない」と、時に呟くほどに
過飽和になった身体が観る。
すると、希釈された時間がスクリーンを通じて、
過飽和になった身体に雪崩れ込む。

ぼくたちは、希釈されて希薄になった時間が
身体に殺到してくるのを感じるだろう。

そして、希釈された時間に身体を委ねる。
そのいちばん素直な反応は、睡眠だ。
都心とは、眠らない場所だから。

だから不思議なことに、「眠ってしまった」は、
この映画のネガティブな評価にならない。
それどころか、居眠りはきわめて『めがね』的身体反応だ。

 ○ ○ ○

過飽和の水溶液にゴミを入れると結晶が析出されるように、
ぼくたちは過飽和の時間の流れの最中から、
必死に何かを生み出そうとしているのかもしれない。

けれど同時に同じ身体も、
過飽和を解き、限りなく自然時間の流れに身を委ねたくなる。

その欲求に『めがね』は応えている。
その意味では、『めがね』は都心の落とし子なのだ。



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2007/10/09

再会と別れと-21世紀の洗骨

夜明け前、寺崎の端の東の空が、
そこだけ赤紫に染まる頃、
ぼくは改葬する一人に加わらせてもらった。

ガンプタを取り、寺崎の白砂を丁寧に取り除いてゆくと、
棺が現れる。よかった、崩れていなかった。

棺が開かれると、
そこには亡き、祖父がいた。

いや、亡き、というのは本当は正確ではない。
棺を開ける前に、それは揺さぶられて、
祖父に、これからチュラクナシをすると告げるのだ。

頭から取り上げて、洗骨を行う。
白砂を除くのも洗骨をするのも、
まずは祖父が愛した子どもたち、
ぼくのウジャンカ、ウバンカたちだった。

チュラクナシをすると、祖父のきれいになった頭が現れた。
瞬間、祖父の顔がそこに蘇る。
ぼくも少し抱かせてもらった。
初孫として抱いてもらったぼくが、
祖父を抱くのは、当たり前のことだが初めてのことだった。
ぼくは、懐かしい優しい気持ちに浸ることができた。

そこにいる誰もがそう感じているように、
祖父は亡くなった人ではなく、
その瞬間そこにいて、再会を喜んでいるのだった。

チュラクナシしながら従弟は、
洗っているとき、水が温かかったと話していた。
そうだと思う。

再会を果たしたあと、
祖父のチュラクナシを直接していない孫娘が
もっと前に亡くなった祖母の頭を拭いてあげる。
考えてみれば、祖父と祖母は、
三十二年ぶりに寄り添うことができる。
そんな再会の場でもあることに気づいた。

改めて納骨したとき、
祖父の身体イメージはまた少し希薄化してゆく気がした。
再会のあとの、お別れだ。

そして寺崎の海が輝き始めるころ、
ガンプタのあった白砂を地ならしして、
一行は寺崎を後にした。

 ○ ○ ○

ぼくはといえば、
小さいころ、祖母の死に目にも葬儀にも立ち会えず、
祖父の危篤には駆けつけられたものの、
葬儀には行けなかった積年の心残りを果たすことができて、
ほっとしている。

こんなに優しい行いも、
都市化によるパラジ関係の希薄化と個人化の進展で、
火葬場が生まれ、いまや島人の9割は火葬を選択し、
チュラクナシは急激に行われなくなろうとしている。

冠婚葬祭の負担が厳しいからと近代用語は説明するが、
本当は、他界は存在しないという他界観の変遷が、
チュラクナシにまつわる儀礼を消滅に追いやっているのだ。

でも、ぼくたちは、再会と別れのチュラクナシの優しさを、
どうやって受け継いでいけばいいのか、
その課題を手にしているのだ。

久しぶりにパラジたちにお会いして、
そう思わずにいられなかった。

それがぼくのチュラクナシ経験だった。


Aatiradaki



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10月9日に寄せて

40を越えたとき、真っ先に、

 やれやれ、ジョン・レノンより年上になっちまうんだな。

と、思った。

ジョン・レノンより年上になるとはどういうことか。
ぼくはまだうまく実感できない。
ジョン・レノンは40で亡くなったが、
彼の生は完結感を湛えていて、やり残しは無いと思えてくる。

こちらは40を過ぎてもそうはいかない。まるで。
不惑などまるで無縁の体たらくが切実だ。

いまや、ジョンの40での他界は、
超高齢化社会時代にあっては夭折ではないかと思える。
彼の生の完結感も、夭折者によく感じる完結感だろうか。

でもそのジョンが、死の間際に残した曲は、
“Life begins at 40” だった。
人生は40から、というのだ。

これならまだ実感として分かるところがある。
40才頃でリセットして、再び生き直すというような意味で。

 ♪ ♪ ♪

ところで、与論島は長寿の島だ。
ぼくの祖母も百五歳まで生きた。

でも彼女は、ぼくと同じ年に、
不惑なんてどこ吹く風とも思わなかったろうし、
こんなに未熟ではなかったはずだ。

文明は超高齢化社会をもたらし、
与論島の長寿社会に接近してゆく。
けれど、人の生き様ときたら、まるで違う。

こちらは成熟を禁じられているように、
延長される未熟さを生きているのに、
祖母の長寿は、自然の流れのなかで育てた成熟だった。

どこも、似ていない。

ぼくたちは駄目になっていく一方なのだろうか。
どこかで祖母に追いつけるものを持てるだろうか。
それとも、ここだけは祖母と同じだと言えるものがあるだろうか。

かろうじていえば、それは与論島への想い、なのかもしれない。

 ♪ ♪ ♪

生きていればジョンの67才の誕生日。
ジョン・レノンより年上であることに戸惑う時間を生きている。




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基礎としての「贈与」

  そして「二面性」の分析で、
  交易の主要形態を贈与交易(gift trade)、
  管理交易(administer trade)、
  市場交易(market trade)に大別している。
  贈与交易は、集団双方が互酬関係において
  結び付けられているものである。
 (『ヤコウガイの考古学』高梨修

これは、ヤコウガイの交易が
管理交易である仮説を導く前段として、
高梨さんがカール・ポランニーの考えを
引いている個所なのだけれど、
ここで少し脱線してみたい。

  贈与交易は、集団双方が互酬関係において
  結び付けられているものである。

このくだりに少し触発された。

ポランニーは、経済形態を、
互酬、再分配、交換の三つに分類しているのだが、
この、互酬、再分配、交換は、
贈与によって基礎づけられるかもしれない。

 ○ ○ ○

「贈与」を時間と空間に分解してみる。
贈与は、純粋に捉えれば返礼を期待せずに、
与えることのみで終わる。
贈与は、返礼を受けて打ち消されると考えれば、
時間的には終わりがない。
いま、時間を t とおけば、(t=∞)になる。

また、贈与は、汝の隣人を愛せよという聖書の言葉に
なぞらえれば、隣人に施すものだから、
空間的な距離は零のところでなされる。
空間を s とおけば、(s=0)である。

したがって、経済形態を f(t,s) と置けば、
(贈与)=f(t=∞,s=0)であらわすことができる。

「互酬」はどうだろうか。
互酬は、贈与交易に見られるように、
ある空間距離にある相互が、贈与を行い、その後、
贈与を受けた側が返礼を行う形態であると捉えられる。

そこで、時間も空間もある値を持つことを示せばいい。

 (互酬)=f(t=h,s=m)


今度は、「再分配」である。
再分配も、贈与とその返礼に時間差と空間距離が生じる。
ただし、互酬と異なるのは、
空間距離が極大化している点だ。
再分配は、集権的な政治共同体の存在を背景に
できる経済形態だからだ。

そこで、再分配は次のように表すことができる。

 (再分配)=f(t=h,s=M), M>m


同じように「交換」を考えてみれば、
交換は、空間距離を持つが、時間の差異が無い。
贈与とその返礼が同時に行われる贈与をさして
交換と呼ぶことができる。

したがって、「交換」は次のように表すことができる。

 (交換)=f(t=0,s=m)


以上から、「贈与」を基礎にした「互酬」、「再分配」、「交換」は、

 (贈 与)=f(t=∞,s=0)

 (互 酬)=f(t=h,s=m)
 (再分配)=f(t=h,s=M)
 (交 換)=f(t=0,s=m)

とあらわすことができる。

ぼくたちはここで、「再分配」の特殊な形態
についても考えることができる。
アジア的な専制君主の場合、空間距離は無限大になる。
実際の距離は有限だが、専制君主下の民衆にとって、
君主との空間距離は大きいというより無限であるというのが
実感にかなっている。

そして、空間が無限大になると同時に、時間は零化される。
というのは、専制君主下において、返礼は発生せず、
民衆にとって、贈与そのものが返礼をも同時に意味するからだ。
専制君主の恵みに感謝して贈与すると言っても同じだからだ。
だから、「再分配」はここでは、「貢納」になっている。

そこでぼくたちは、
専制君主下の「再分配」である「貢納」について、

 (貢納)=f(t=0,s=∞)

とあらわすことができる。

 ○ ○ ○

ポランニーが、「互酬」、「再分配」、「交換」として
経済形態を整理したとき、
市場社会を相対化できる視点を得られたことの
意義は大きかったと思える。

と同時に、ぼくにとっては、
「互酬」に意義が与えられるようでうれしかった。
ここでいう「互酬」からは、与論島でよく知っている相互扶助の姿が、
生き生きと思い出されるからである。




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2007/10/08

浮上するヤコウガイ

そして、『ヤコウガイの考古学』のなかで白眉である
ヤコウガイへとテーマは移る。

ヤコウガイ。

  ヤコウガイ(Turbo [Lunatica] marmorata)
  リユウテンサザエ科に属する大型巻貝
  殻径・殻高はいずれも二〇㌢前後に達して、
  重量は二キログラムを超過する。
  殻表全体は暗緑色を呈し、赤茶色の斑点を有している。
  貝殻は分厚で頑丈であり、
  その内面は美しい真珠光沢を有している。
  生息地城はインド洋・太平洋の
  熱帯海域にかぎられるようであるが、
  確実な情報は意外に乏しい。
  岩礁などの堅い海底地形に生息して、
  砂泥質の海底地形には認められない。
  サンゴ礁地形における礁緑部分の外洋側に形成される
  礁斜面に好んで生息する。

  市場魚貝類図鑑
  微小貝データベース

高梨さんは、遺跡から土器が出土するだけでなく、
ヤコウガイが出土するのを目撃する。
しかも、その数は夥しい。

なぜ、これほどのヤコウガイが出てくるのか。
しかも、不思議なことに、大量に出土するのに、
そこには消費の形跡がない。

そこで考古学者は、これは、貝塚ではなく、
地産地消のための製造でもなく、
交易のための製造跡でないかと考える。

具体的に聞いてみよう。

  ヤコウガイ大量出土遺跡における最大の重要事実は、
  大量捕獲されているヤコウガイの消費が島喚地域で
  あまり認められないという点に求められる。
  つまり単一原材が大量確保されているにもかかわらず、 
  製品として消費されている様子が判然としないところである。

  筆者は、当該事実を最大根拠として、
  ヤコウガイが島峡地域の外側世界へ運び出されていたと推測する。
  ヤコウガイの搬出先は、史料や螺細の検討で確認したとおり、
  高いヤコウガイ需要がある本土地域を想定するのが
  もっとも妥当であると考えられる。

  ヤコウガイ大量出土遺跡で認められた貝殻集積や破片集積も、
  原材供給を果たすための集積行為であると考えるならば
  納得できるのではないか。

  日本国内におけるもっとも古いヤコウガイ消費は、
  正倉院宝物の国産品と考えられる螺銀製品に求められるので、
  八世紀代までしかさかのぼることができない。
  さらにヤコウガイ関係記事が認められる一連の史料の成立年代は
  ほとんど九世紀以後のものであることから、
  小湊フワガネタ遺跡群等の七世紀代における
  ヤコウガイ大量出土遺跡をただちに本土側のヤコウガイ需要に
  直結させることはできないが
  (永山二〇〇言、裳島二〇〇〇、田中二〇〇五)、
  少なくと150も土盛マツノト遺跡・和野長浜金久遺跡等の
  古代並行期後半段階のヤコウガイ大量出土遺跡は、
  大型のヤコウガイ製月匙はほとんど製作されなくなり
  ヤコウガイ貝殻の供給に対応するために
  営まれたものと考えられるので、
  本土側のヤコウガイ需要におおよそ対応する動静として
  理解されてくるのである。

  そうしたヤコウガイ大量出土遺跡は、
  交易物資であるヤコウガイの集中管理による
  所産ではないかと推測される。
  ここに奄美大島北部がヤコウガイ供給地として注目されてくる。
  さらに七世紀代にヤコウガイ大量出土遺跡が 
  突然出現する様子も、ヤコウガイ貝殻を大量集積して
  ヤコウガイ製貝匙の大量製作をはじめとする
  貝器製作に特化していた事実からするならば、
  古代国家の南島政策による対外交流を契機として、
  螺鍋原材以前の前段階としてのヤコウガイ交易が開始されていた
  可能性があると考えられる。

  ヤコウガイ大量出土遺跡が七世紀前後から
  突然盛行しはじめる様子は、本土側のヤコウガイ需要に
  おおよそ対応する動静として理解できそうである。
  ヤコウガイ大量出土遺跡は、交易物資であるヤコウガイの
  集中管理による所産ではないかと推測されるのである。
  ここに奄美大島北部がヤコウガイ供給地として注目されてくる。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

大和の文献にしばしば登場するヤコウガイ製品は、
奄美産ではないのか。
古代の地域ブランドとして、
高梨さんは仮説し、指摘するのだ。

発掘現場を精査し、当時の生活をおもんぱかる。
厳密さとロマンティックが同居するような作業だ。
ぼくたちは、ここにある奄美の表情が
生き生きと浮かび上がるのを感じないだろうか。

そういえば高梨さんは、現場に立ち会った興奮を、
本の冒頭で語っていた。

  その二年後の一九九七(平成九)年、
  名瀬市小湊フワガネク遺跡群の緊急発掘調査が実施されて、
  偶然にも筆者自身がヤコウガイ貝殻の大量出土遺跡を
  発掘調査する機会に恵まれた。
  掘り下げればどこからでも幼児の頭ほどもある
  ヤコウガイの巨大貝殻がつぎつぎ顔をのぞかせた。
  ヤコウガイ貝殻が調査区域一面に出土している様子は、  
  異様な迫力が漂う幻想的な光景で生涯忘れられないが、
  土盛マツノト遺跡の発掘調査成果を学ばせていただき、
  解決しなければならない課題を確認していた筆者には、
  さながら実験室のような発掘調査を実施することができた。

ここからは、本書でも繰り返し発言されているように、

  これは単なる食糧残滓ではない。

そんな高梨さんの声が聞こえてくる。




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2007/10/07

小湊フワガネク遺跡の豊か

  一九九七(平成九)年の発掘調査
  (第一次調査・第二次調査)では、
  七世紀前後に位置づけられる遺跡が確認され、
  掘立柱建物跡(四軒)、
  貝匙製作跡(五カ所)等の遺構をはじめとして、
  兼久式土器(七六二八点)、鉄器(一八点)、
  ヤコウガイ貝殻(約三〇〇〇点)、ヤコウガイ製貝匙(九一点)、
  ヤコウガイ製有孔製品(四四点)、イモガイ製貝札(三〇点)、
  イモガイ製貝玉(二七〇三点)、
  礫(約一五〇〇点、石器を含んでいる)等の
  多数の出土遺物が発見されている。
  現段階で当該遺跡に関する中核を成す資料群である。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

小湊フワガネクは名瀬市にある。
転記に過ぎないが、出土品を箇条書きで抜き出してみる。

 掘立柱建物跡     4
 貝匙製作跡      5
 兼久式土器     7628
 鉄器           18
 ヤコウガイ貝殻  約3000
 ヤコウガイ製貝匙    91
 ヤコウガイ製有孔製品 44
 イモガイ製貝札     30
 イモガイ製貝玉   2703
 礫          約1500(石器を含む)

こう並べてみると、門外漢の目にも、
小湊フワガネク遺跡が、いにしえの奄美の生活光景を
豊かに伝えてくれるものだと映ってくる。

特に、兼久式土器、ヤコウガイ貝殻、イモガイ製貝玉の
物量には目を見張るものがある。

けれどここでは、数は少ないものの、
鉄器が出土されていることに高梨さんは注意を促している。

  すなわち琉球弧の鉄器使用開始時期は、
  ほとんど常識的事実として
  十二世紀前後に位置づけられてきたが、
  小湊フワガネタ遺跡群における発掘調査成果は
  その通説よりもいちじるしくさかのぼるからである。
  小湊フワガネク遺跡群にかぎらず、
  兼久式土器出土遺跡からは
  地中で腐りやすい鉄器が多数発見されている。
  しかも、並行時期となる沖縄諸島の貝塚時代後期の遺跡は、
  実施された発掘調査の絶対数の点で
  奄美諸島よりも圧倒的多数であるにもかかわらず、
  鉄器出土遺跡は僅少なのである。
  当該事実から、奄美諸島と沖縄諸島では鉄器の普及年代
  が相達していた様子もうかがえるのではないか。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

ぼくたちは鉄器を通じて、
奄美と沖縄の差異線が走ってゆくのを目撃している。

この楔が、奄美と沖縄の互いの個性を浮き彫りにするなら、
ぼくたちはそれを奄美の自己理解へとつなげてゆきたい。



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思いがけず、与論島探訪


今日は思わぬ幸運に恵まれた。
盛窪さんに、与論島ガイドをしてもらったのだ。

おかげで、ぼくにとっては二十年らいの謎だった
寺崎ウガンの場所がわかったし、
赤崎ウガンにも二十年ぶりに行くことができた。

それだけではない。

あの巨大な洞窟シルクアブ、シゴー、ヌルの墓、
上城遺跡、アージニッチェーの墓、チンバー、
城(グスク)集落、シヌグの神道などなど、
気になっていた与論島を存分に探訪することができた。

町が体育祭で湧いていて、閑散とした島の中を、
ルーツを探る目つきで走り回ったひととき、
城(グスク)の家並みやシゴー付近の風葬跡を歩くと、
いにしえの島の声が聞こえてくるようだった。

これだけの充実した時間は、
その道のガイドさんなしで味わえるものではない。

最後は盛窪さんのパーマカルチャー実践の場も見せてもらい、
そこで久しぶりに、オオゴマダラにも再会したのだ。

とおとぅがなし、盛窪さん。
おかげで与論島を深呼吸することができました。


※証拠写真といっては何ですが、
ワリバマで瞑想する盛窪さんです。(^^)

Waribamameisou

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2007/10/06

『めがね』の島だ

着いた瞬間、『めがね』の島だ、と思ってしまった。
オレは出身者じゃなかったのか。

でも、台風の接近のための曇り空が、
ちょうど映画の曇り空のようで、
そういえば、タエコはこんな空の空港を
横切っていった気がしたのだった。

そんな心準備があったのか、
飛行機に乗る人が「たそがれ族」に見えてしまう。

那覇で、

 あんなちっちゃいよ。
 チャーター機みたいだ。

与論に近づくと、

 見てみて、すごい、海があんなにきれい。
 めちゃくちゃキレイね。

そういう声を聞いて、

ああ、考えてみれば、
那覇から、あのプロペラ機に乗るときにはすでに
与論物語が始まっているんだなと思った。

彼ら彼女らは、あの那覇空港で、
プロペラ機に乗るときは、
与論島への期待に胸膨らませてるんだ。

あの、ちっちゃい飛行機だって、
与論旅の一部として、
働きかけるといいんだなって改めて思った。

昔でいえば、クィーンコーラルが、
その役目にあずかっていたわけだ。

台風が近づいていたけれど、
雨がなかったおかげで、難なく与論には着けた。

祖父の改装が無事に済むよう、願う夜だ。


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奄美諸島の土器編年

スセン當式土器と兼久式土器の分類と編年の成果をもとに、
高梨さんは、奄美諸島の土器の編年を試みている。

ちなみに、「並行期」という言葉が出てくるが、
この言葉の使い方にも背景がある。
奄美とは互いの共通性を知らぬ者たちと言いたくなるほどに、
共有するものの共通認識を育ててきていないのだが、
時代区分もそのひとつであり、
高梨さんはそれで、本土のたとえば、
弥生時代に当たる歴史時間を指して、
「弥生時代並行期」と呼んでいるわけだ。

ぼくは、奄美と、本土、沖縄とのつながりとして成果を追ってみたい。


  ■縄紋時代晩期並行期
  弥生時代並行期の直前段階における土器様相は、
  沖縄諸島とよく共通した特徴が認められる。
  きわめて強い地域色を備えた土器群が盛行している。

  ■弥生時代並行期
  沖縄諸島に認められる尖底土器はほとんど認めらず、
  土器様相の相違がいちじるしくなる。
  九州地方における土器文化の影響が強く認められるようになる。

  ■スセン當式土器段階(古墳時代並行期)
  奄美諸島の土器変遷のなかで、もっとも判然としない段階である。
  発掘調査事例がいちじるしく僅少であるため、
  標本となる資料に恵まれず、土器様相がほとんど明らかではない。
  若干の資料にうかがわれる土器様相からは、
  前段階に引き続き九州地方における土器文化の影響が強く認められ、
  沖縄諸島の土器様相と相違がいちじるしい。
  既知の土器型式としては、
  いわゆる「スセン當式土器」が知られているが、
  実態が明らかではない。

  ■兼久式土器段階(古墳時代終末~平安時代後期並行期)
  古代に並行する当該段階の土器様相は、
  ふたたび沖縄諸島と類似するようになる。
  しかし、前段階までに比べて、
  九州地方の土葉化の影響は顕著ではない。
  地域色を強く備えた土器群が、盛行するようになる。

  ■類須恵器段階(平安時代後期~鎌倉時代並行期)
  兼久式土器は消失する。沖縄諸島でいわゆるグスク土器
  と呼称される鍋形・壷形の土器群が奄美諸島にも
  存在するようであるが、実態は明らかでない。
  最近、奄美大島の宇宿貝塚、小湊フワガネク遺跡群、
  喜界島の山田中西遺跡(喜界町)、
  徳之島の小島後竿遺跡(伊仙町)、
  沖永良部島の内城友竿遺跡(和泊町)等で、
  実態が明らかにされていない在地土器の出土事例が
  相次いで確認されはじめている。
  十一世紀代に徳之島で窯葦産が突然開始され
  (カムィヤキ古窯跡群)、当該窯跡の生産品
  (類須恵器もしくはカムィヤキと呼称される)が
  琉球弧全域に流通するようになる。
  さらに白磁(玉緑口縁碗)・滑石製石鍋・布是痕土空焼豊)
  も同時に流通している。
  こうした動態が、奄美諸島では土器文化の終焉を
  加速させていくようである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

これを見ると、土器としてみた奄美は、沖縄と共通した段階から、
本土の弥生期に九州とのつながりを持ち、
ふたたび沖縄とのつながりを持つ段階に入った交互の動きが
潮の満ち干のように感じられてくる。

ぼくはおぼろげながら、
奄美の大和の交流のはじまりを見る思いだ。

ちなみに、与論島の麦屋上城遺跡は、
縄紋時代晩期並行期に属している。

与論島には、いつ、人があの砂浜を踏んだのだろう。
そういう当てのない想いにも、
遠く向こうから手がかりが伸びてくる感触もやってくる。

高梨さんの編年を引こう。
これを見ると、分かりやすい。


Amamidoki

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2007/10/05

兼久式土器出土層の下層

『ヤコウガイの考古学』では、
スセン當式土器と兼久式土器が重視されている。

スセン當式土器は、沖永良部のスセン當貝塚から出土し、
兼久式土器は、カネクという馴染み深い名であるように、
両者はともに奄美を出自に持つ土器だ。

二つの土器について高梨さんは書いている。

  1.スセン當式土器と兼久式土器の層位的重畳問係
  筆者によるスセン當式土器の検討では、用見崎遺跡・
  須野アヤマル第二貝塚・和野長浜金久遺跡・喜瀬サウチ遺跡・
  小湊フワガネク遺跡群(第六次調査)の五遺跡で
  兼久式土器出土層の下層からスセン當式土器に相当する
  土器群の出土を指摘した(高梨二〇〇五a)。

  筆者がスセン當式土器と指摘する土器群の評価は別としても、
  兼久式土器出土層の下層から弥生時代並行期の土器群とは
  相違する一群が出土している事実には注目しなければならない。
  当該事実は、兼久式土器の起源が弥生時代並行期の土器群に
  後続して理解できないことを示しているからである。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

兼久式土器の下層から、弥生時代並行期とは異なる土器が
出土したということ
(高梨さんはそこに、スセン當式土器を位置づけるだのが)、
それが重要である。

なんとなれば、このことは兼久式土器の前段階に、
弥生時代並行期とは異なる土器が存在したことを意味しており、
それは、弥生時代並行期の踵を接するように、
兼久式土器が続いたわけではないことを示すからだ。

高梨さんはそう言っている。

ぼくたちは、それなら、なぜそのことの立論が重要なのか、
と問わなければならない。

  兼久式土器が用いられたと孝えられる七世紀~十一世紀の時期は、
  古代国家の地方統治政策が展開されていた時期に相当する。
  琉球弧は「南島」と称されて、武力行使による威圧的政策と
  賜物・賜姓による懐柔的政策が展開されていた。

  奄美大島は統治政策の拠点地域として機能していたと
  考えられていて(鈴木一九八七)、新たなる対外交流が
  急激に進行する社会動態のなかで兼久式土器は
  成立・展開したと理解できる。

  琉球弧における従前の考古学研究では、
  奄美諸島・沖縄諸島の島峡社会は十二世紀前後まで
  漁撈採集経済段階の停滞的社会が営まれてきたと理解されてきたが、
  古代国家の地方統治政策を背景とした対外交流が活発化することにより、
  小湊フワガネク遺跡群をはじめとして
  少なくとも奄美諸島の一部の地域では鉄器文化を受容して
  階層化社会が出現していたのではないかと考えられている
  (高梨二〇〇〇C二一〇〇一)。

  そうした理解論に立つならば、あらためて確認できた
  兼久式土器の年代理解から、兼久式土器を北海道地方の
  擦文土器に対比させて位置づけることも可能であると考えている。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

従来、琉球弧の奄美・沖縄の島峡社会は、
十二世紀前後まで漁撈採集経済段階にあったと理解されているが、
そうではなく、日本の古代国家の統治政策が琉球弧にも及び、
奄美諸島には漁撈採集経済段階以降の社会が
部分的には現出していたのではないか。

こうした仮説を支える考古学的資料として、
兼久式土器やスセン當式土器の存在は重要であり、
とりわけ兼久式土器が、弥生時代並行期の土器の直接の後継ではなく、
媒介を持つことも、その傍証として重要なのだ。

そう言っているようにみえる。
考古学的事実が、歴史を塗り替える、というより、
薄いもやのかかった状態で放置された場所に、
色を塗ろうとする力を感じる記述だ。


ぼくたちは、次にこの土器編年の成果を辿ることで、
奄美の独自性にもう少し接近できるかもしれない。



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『めがね』の向こうの与論島

まずは、このQ&Aをご覧ください。

  与論島って、そんなにのどかですか?

映画『めがね』を観て、映画にほだされて、
与論島に行きたいと思う人が生まれてきています。

「与論たそがれ族」?が、
秋以降、数を増やしていくのでしょう。

与論そのままの映画だということを思えば、
与論はいつものとおり、
みんなを迎えればいいのでしょう。

存分に、たそがれてもらえたらいいですね。




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2007/10/04

スセン當式土器から兼久式土器へ

高梨さんは、『ヤコウガイの考古学』を、
奄美諸島の「空白の時代」である
古墳時代並行期~平安時代並行期の
土器編年を解決していくために、
スセン當式土器と兼久式土器の検討から始めている。

その検討は緻密なもので、土器の集成、
地層の層位による先後関係や、
器形、文様の要素や意匠に及んで詳細だ。

そこから、スセン當式土器から兼久式土器への
連続的な移行を見て取り、書いている。

  小湊フワガネク遺跡群出土土器の検討を中心に
  兼久式土器の分類を行い、帰属年代を確認する作業の延長として
  兼久式土器の編年まで検討してきた。最後に兼久式土器について
  結論的にまとめておきたい。

  兼久式土器は琉球弧の奄美諸島を中心に用いられた土器文化で、
  おおよそ七世紀前後に成立して十一世紀代に消失する。
  器種は基本的に甕形土器壷形土器から構成されていて、
  杯形土器等は含まれない。

  構成比率は、甕形土器が圧倒的多数を占めていて、約九割に達する。
  甕形土器の約九割、壷形土器の約八割が沈線文隆帯文
  装飾されていて、整形土器のほとんどは底部に木葉痕が施されている。
  その出現から終焉まで五段階に大別することができ、
  出現段階の土器群は沈線文のみを施すもの・刻目隆帯文を回らせて
  沈線文を施すもの・隆帯文を貼り付けるもの・無文のもの等で多彩に
  構成されているが、段階が新しくなるにつれて沈線文が次第に減少して、
  単純化(無文化)していく特徴が認められる。

  とくに刻冒隆帯文を回らせて沈線文を施す一群が兼久式土器の
  典型と考えられるもので、出現段階では刻目隆帯文の上下に
  沈線文を施すもの・刻目隆帯文の上部のみに沈線文を施すもの・
  刻目隆帯文のみのものが並存するが、まず刻目隆帯文の
  上下に沈線文を施すものが消失、次に刻目隆帯文の上部のみに
  沈線文を施すものが消失、さらに刻目隆帯文のみのものが消失して、
  段階的に消失して単純化していく様子がうかがわれる。

  兼久式土器の先行段階には「スセン當式土器」と称される
  古墳時代並行期の特徴的土器群が存在する。
  兼久式土器はスセン當式土器の文様を継承しながら
  土師器の影響を受けて底部形態は脚台から平底に変化して
  成立したと考えられ、土器型式の交代には連続的変化が認められる。

  また兼久式土器の後続段階には、類須恵器(カムィヤキ)と
  称される陶器生産が開始されていて、
  その生産開始直後に兼久式土器は消失する。
  (『ヤコウガイの考古学』高梨修

 ※「沈線文」

大部をなすこの本の三分の一が土器検討に割かれているので、
こんな風に一挙に結論まで跨ぎ越すのは、
本の紹介文としては礼を失するのだが、
土器の推移を検討する文章に刻まれたひとつひとつの作業に、
ひとかたならぬ情熱を感じ取ったということは、
感想として書き留めておきたい。

ぼくは高梨さんの土器の表情を繊細に辿る考察を読みながら、
ほんの少し、インディアナ・ジョーンズのような
考古学者の気分を味わわせてもらった。

では高梨さんは、何を目指してこの緻密な作業を行っているのか。
それが次に見たいことだ。


注:土器の用語については、なるべくビジュアルの伴うページを
  任意に選んでリンクした。



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2007/10/03

与論の映画のことを与論の人へ

盛窪さんのチヌマンダイ「映画『めがね』の寺崎海岸」で、

 未だ映画を見ることができないのが残念である。

とあって、公開初日にいそいそ観にいって申し訳ない気持ちも過ぎりました。

 ☆ ☆ ☆

与論のみなさんへ。

映画『めがね』は、与論を舞台に、架空の世界を組み立てたのではなく、
与論そのものを、ワラビンチャーと自然以外は、
琉球的事象に頼らずに、描いた作品でした。

そういう意味で、“これが与論島です”、
と、そのままに誇れるものになっています。
ぼくはそう感じました。

何より与論島そのものを好きになってくれた荻上監督の存在があり、
与論そのものと架空の物語をつなぐ難しい役所を
ノロのようにこなした、もたいさんがおり、
また、身体は与論島に感応しているのに、
それを拒まなければならない難しい役所をこなした
小林さんの存在があり。

監督さんと役者さんのおかげで、
与論島そのもののよさを表現してくれる作品になっています。
与論島で観れる日を楽しみにしてください。

そういえば、おすぎは、「私には全然理解できない」
この映画をいちはやく評しています。

たまたまですが、仕事で渋谷に行くと、
ときどき、彼?とすれ違うことがあります。
いつも眉間に皺を寄せた、きつそうな表情をされています。
与論島に来ればいいのに、ほどけるのに、
と思わないでもありません。

『めがね』は、与論島の価値を表現してくれています。
与論の自信につながってくれたらと願っています。



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奄美諸島史の逆襲的問題提起

『ヤコウガイの考古学』の白熱した個所を挙げてみたい。
それは冒頭すぐにやってくる。

  琉球弧に対する本土地域の異域認識は、
  古代~中世までさかのぼることができる。
  史料のなかに、異域として記されている当該地域の様子が
  多数認められるからである。
  国土の外側地域には異域が存在しているという
  都人の地理認識がうかがい知れる。
  そうした国土認識をめぐる研究成果を参照していく過程で、
  国家境界が奄美諸島付近で伸縮を繰り返している事実を確認した。

  現代においても、アメリカ軍政府による占領統治の時代、
  奄美諸島の南北で国家境界は揺れ動いたではないか。
  奄美諸島が列島南縁の国家境界領域に当たるという問題認識は、
  きわめて重要であると考えられる。
 
  また奄美諸島は単なる異域ではない。
  古代~中世の文献史料のなかに、ヤコウガイ・赤木・櫓柵などの
  南方物産が都人たちに珍重されている様子が確認できる。
  南方物産は、想像以上に膨大なる需要が存在していたと考えられるが、
  奄美諸島でほとんど獲得できるわけであるから
  沖縄諸島までわざわざ行く必然性はあまり考えられない。

  国家境界領域となる奄美諸島は、
  琉球弧における亜熱帯地域の北限でもあり、
  琉球王国成立以前における琉球弧の歴史舞台において、
  一大交易拠点として主役を演じていた時代がある。

  本書では、奄美諸島における小湊フワガネク遺跡群(奄美大島)、
  カムィヤキ古窯跡群(徳之島)、山田遺跡群(喜界島)等の遺跡を通じて、
  そうした歴史に接近してみたいと考えている。

  琉球弧をめぐる従前の歴史学研究は、
  琉球王国論に収斂される潮流が強く、
  奄美諸島や先島諸島は独立国家が育んだ
  社会文化の地方展開を知るための補助資料として対象化されてきた。
  そうした沖縄本島中心史観とでもいうべき歴史理解は、
  国家誕生以前から沖縄本島が歴史舞台の主役で
  在りつづけてきたような錯覚さえ生み出しはじめている。

  沖縄側における考古学や歴史学の専門家たちが、
  そうした視点で奄美諸島と先島諸島を見ているかぎり、
  発見的研究の展開は難しいと考えられる。

  琉球王国論に収赦されてしまう琉球弧の学術研究をめぐる
  支配的趨勢のなかで、ヤコウガイ大量出土遺跡をはじめとして
  奄美諸島に分布するために看過されてきた考古資料が多数存在する。
  そうした知られざる考古資料の翻訳作業を通して、
  奄美諸島史の歴史認識を考察することが本書の第二の課題である。
  奄美諸島史に対する歴史認識について、
  今、筆者は確認の途上にある。

  筆者はまだ出発点にいるにすぎないが、
  筆者のまなざしに映りはじめた奄美諸島史の姿を素描してみたい。
  新しい琉球弧の歴史は、琉球弧の島峡を相対的に比較するなかで
  奄美諸島と先島諸島から記述されるであろう。
  そのとき、奄美諸島史の逆襲的問題提起がはじまるのだととらえている。

奄美は国家の境界を浮遊するポジションにあったことで、
国家から時にあいまいに時にあからさまに
疎外される境遇を生きてきた。

そしてそのことに屈折せずに、まっすぐに立ち上がろうとする言説を
ぼくたちはなかなか持てないできた。

まっすぐに立ち上がろうとしたとき、
琉球王国論に収斂されがちな琉球弧論は相対化されなければならない。
まったくその通りだと思う。

高梨さんが「奄美諸島史の逆襲的問題提起」と言うとき、
味わったことのない爽快感が吹き抜けていくようだ。
できれば、奄美の人に特に味わってほしい爽快感だ。


Yakugai_archaeology_3













『ヤコウガイの考古学』



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2007/10/02

境界領域の自任感覚

  ゴジラといえば、海外でも知られた怪獣映画であるが、
  映画製作のロケ地として奄美諸島がたびたび使われている。
  息子が三~四歳の頃、シリーズ作品をいっしょに見ていて
  そうした事実に偶然気づいたのであるが、
  映画のなかで奄美諸島の映像は南太平洋上の無人島、
  すなわち外国という設定で使われていた。

  映画を見た本土地域の大多数の子供たちは、
  おそらく奄美諸島の映像を映画製作側の思惑どおり、
  外国として受け止めているのだろう。

  奄美諸島の映像が、本土地域の子供たちに
  外国として錯覚されてしまうからくりを考えてみたい。
  映画で使われている奄美諸島の映像をあらためて
  確認してみるならば、リーフが発達している
  サンゴ礁の海とジャングルを思わせる亜熱帯特有の
  植物相の映像が効果的に利用されていることが解る。
  本土地域で見ることができないこうした景観的要素が、
  日本ではないという異域のイメージを見る側に惹起させているにちがいない。
  (『ヤコウガイの考古学』2005年、高梨修)

これを読んで、ぼくもおぼろげながらに、ゴジラの映画を思い出した。
そして、奄美諸島が外国として扱われているということに、
異和と同時に、どういえばいいか、納得のようなものを感じた気がする。

異和は、もちろん、実際に奄美諸島の隅に生まれ住んだ経験から、
映画に描かれるような南洋の無人島ではないと知っていることからやってくる。

けれど同時に、その異和は、反撥へとは向かわずに、
いや向かったかもしれないけれど、それよりはある納得を伴っていた。

それは「外国」ということに関わる。
ぼく自身が、本土に視点を移して奄美を外国とみなしたということではない。
ぼく自身もまた、本土を外国のように感じることがあったということだ。
ここにいう本土というのは、本土自体のことではない。
本土でしばし「日本とは、日本人とは」が語られるときの、
日本や日本人に対して、少し外国のように感じてきた。
それを日本、日本人というなら、ぼくはきっと外国人だ。
そんな風に感じてきた。

それは、たとえば富士山や京都や質実剛健といった
事象のことだったかもしれない。
繰り返せば、富士山や京都や質実剛健そのものに対してではなく、
そこに向けられる、「やっぱり日本(人)は」というみなしに対する感覚だ。

おかげで、ぼくは長いこと、
自分を日本人だと自任することなしに生きてきた気がする。

だから、奄美を外国とみなす、ちょうどその逆の視線で、
ぼくは、本土を外国とみなしていたのではないだろうか。
ぼくの納得はそこからやってくる。

ゴジラの映画が奄美を外国とみなすその距離感と、
ぼくが本土を外国とみなすその距離感が、
近似しているようで、そこに納得していたのだ。

高梨さんの『ヤコウガイの考古学』の冒頭からは、
自分の住所不定のような国家領域的な自任感覚を思い出した。
というか、こんな自任感覚が、ぼくの境界領域体験だったろう。



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2007/10/01

百日祭の百枚写真

父の百日祭で、つかの間、東京を離れていた。
母と兄弟だけで集まった。

家に行ったら、母がだいたい1m×50cmのパネルに
父や子どもたち孫たちの写真を貼っていて、
その作業を引き継いだ。

ビデオ編集流行りの今日び、
プリントした写真を切った貼ったするのは、
意外に根気作業だというだけでなく、
写真が痛まないように気遣いながら一枚一枚扱う
アナログならではの緊張感があって、それが返って新鮮だった。

写真をランダムに並べてみると、
父の子のぼくたちが小さいときと孫たちが、
顔だけでなく、笑顔の作り方まで似ているのに気づいたり、
若い頃から晩年の父を追ってゆくと、生涯の完結感がやってきたり、
弟の小さい頃の写真をみて、自分と勘違いしていたり、
楽しい発見がいくつもある。

しかもできてみると、食い入るように眺めても、見飽きない。
きっとそれぞれの写真に思い出が詰まっているから、
百枚の写真なら、そこに百個の物語が見えてくるからなんだろう。

今回は、それが何より、父の供養に思えるのだった。


Photo










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「てるしの」の島、註2

ここ最近たどってきた、ティダ(太陽)にまつわる話を辿ると、
伊平屋島の異称「てるしの」へ、
もうひとつ理解を加えることができるかもしれない。

  容易には国語の先生の同意を得られぬ一説と思うが、
  自分などは是をDR二つの子音の通融、
  と言おうよりもむしろダ行がかつてはもっとラ行に近かった
  時代の名残ではないかと思っている。
  一つの類例は太陽をテダ、是は照るものというより他の解は有り得ない。
  (柳田國男「稲の産屋」)

柳田の解釈に助けを借りれば、「てるしの」の「てる」は、
「太陽」に語源を持った「照る」である。

同じことを、村山七郎は比較言語から接近している。

  言語学者の村山七郎は、ジャワ語 sila[光線]、
  フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」
  に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導いている。
  この、*t'ilak(「光線」)は、ティラでありティダ(太陽)へと
  つながっていく。
  (「百分間の帰省-映画『めがね』メモ」

「てるしの」の、「しの」についても、村山の考察を引いたことがある。

  実はそのカタログ語 sinag あるいはインドネシアの sinar と
  同源の言葉が『おもろそうし』に出てくる照ル・シナ(ノ・マミヤ)、
  あるいは照ル・シノ「太陽、月」のシナ、シノであります。
  沖縄の内裏言葉の辞典『混効験集』(一七一〇年)には
  「てるかは 御日の事」「てるしの 右に同」とあって、
  シノが太陽であることが明示されています。

  (中略)そしてこのシナは沖縄語の記録に出ているだけでなく、
  聖徳太子の歌(シナ照る片岡山・・・)にも出てくるのです。
  しかし聖徳太子の歌のシナは「太陽」か「月」という意味が
  不明になっていたのですが、
  沖縄では一七一〇年に編纂された辞典においても
  まだはっきりとその意味が残っていたのであります。

  本土よりずっと長く沖縄では南方系の単語
  -フィリピンの公用語であるカタログ語の sinag「光」、
  インドネシア共和国の国語インドネシア語(=マライ語)
  sinar「光」、ポリネシア諸語の ma|sina「月」と同源の
  単語が残っていたのです。

  『おもろそうし』のシナ、シノ、『混効験集』のシノ「太陽、月」
  と同源の言葉は全太平洋からインド洋にかけて分布しています。
  マダガスカル島にも沖縄のシナ、シノと同源のma|sina「神聖な」
  という言葉があります。
  (村山七郎『南島の古代文化』1973年)

「しの」も、語源のまま「太陽」の意味である。

すると、「てるしの」は、「太陽の太陽」の意味になる。
これは、「さねさし 相模」、「春日の 春日(はるひのかすが)」のように、
同じ地名を重ねる枕詞の原形と同じ型の言葉ではないだろうか。

ここまで来てやっとぼくは、
「てるしの」が太陽あるいは太陽神と地元で言われている
意味にたどり着くことができた。

 ※「てるしの」の島、註
 ※「てるしの」の島・伊平屋


追記
同じ筆法をもってすれば、「寺崎」は「照る崎」ということですね。



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