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2007/09/28

『めがね』を反芻する-時間の溶解劇

  小林:監督ねぇ。毎回、不安になるんですけどね(笑)。
  「これで本当に映画になるの?」って。
  市川さん、不安だったでしょ。
  市川:はい(笑)。「えっとーえっとー、何かーえっとー、
  もっとー、素な感じで-」とかもたいきんに言っているのを聞くと、
  こんなの私、わからないって。
  (映画のプログラムから)

これが琉球弧の民俗に資源を求めた映画だったら、
ユタ(巫女)の役だったろうと思わせるのは、
浮世離れしたオーラを放っていた、
もたいまさこ演じるサクラだった。

そのもたいまさこが、「もっと素な感じで」と
監督から要請されるところに、この映画の特徴は顔を出している。

荻上監督は、限りなく演劇性を排したところで作品を
構成したかったのだと思える。

それは脱演技、という意味ではない。

また、この映画は、物語があるようでない、と評されている。
でも、脱物語が目指されているのではない。

たしかに、この映画では何も物語は起こらないと言ってもいい。
けれど物語性は解体されようとしているのではない。
映画の途中でハマダに宿泊するヨモギは、
タエコに会うなり「先生」と声をかけて彼女を驚かすのだが、
二人がどういう関係なのか、映画のなかで語られることはない。
それはしかし、物語が脱構築されるためにそうあるのではなく、
二人の背景は、作品にとってあまり大切ではないということと、
背景は鑑賞者の受け止めにゆだねるという
両方の意味を持っているようにみえた。
実際、作品の背景には、物語が充満していると感じられるのだ。

だから、物語の解体劇ではない。

荻上監督が、「もっと素で」というとき、目指したのは何か。
それは、時間の減速と一重、だ。
こういうと分りにくいが、この逆はたぶんイメージしやすい。
時間の加速と重畳、である。
こう書けば、それは都市生活の感覚であるとすぐに了解されるだろう。

流行の前に流行に気づきたいと誰もが思うほどに、
時間はつんのめって加速される。
そしてそれだけでは足りず、時間は多重化している。
テレビを見ながらインターネットをし、
会議をしながらノートPCを打ち、
“ながら”は牧歌を失いながら常態化している。

時間の減速と一重、というのは、その逆だ。
時間をあたうかぎりゆるやかにし、また、層を重ねない。

メルシー体操をするときはメルシー体操だけするのだし、
朝ごはんを食べるときは朝ごはんを食べるだけだし、
釣りをするときは、釣りだけをするのだ。

そのために、舞台は携帯電話がつながらない必要があった。
時間の重畳化の象徴的な道具こそ、携帯電話だからだ。
「ここはね、携帯電話がつながらないんです、いいでしょ」。
ここでは時間は折り重ならない。そう言っているのだ。

映画『めがね』には物語性が希薄だからといっても、
物語の解体劇なのではない。
言ってみれば、溶かすように時を止める、時間の溶解劇なのだ。

 ※「百分間の帰省-映画『めがね』メモ」


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コメント

 クオリアさん

 今 与論の島に溢れるほどにあるのに ないもの?
なんでしょうね?

 あるのに ない? ヌーゲーラ?
ウリャーヨ ウトゥデール サンシヌヌ ウトゥデール

 一昔、二昔前に比べれば 三線は マンドゥシガヨ
唄がない 昔唄がない イキントウがないのです

 イキントウとは イチャーカシチ イッキュンドウ
という意味ではないかと思っています

 夜の空気を引き裂くように 響く ウトゥヌネーダナ
時空を拓いて 瞬時に消え去ってしまう 
音楽的な豊かさが 今のユンヌには なくなっている

 もういらないのかもしれない
なくなっても 知られずに消え去る文化
廃れるのも文化 だという言葉は 虚しすぎますね

 なんとかしようと まだ 50、60の若者たちが
いるようで・・・
イッチャンーカ スーワアー ユルチュシガヨ


    

投稿: サッちゃん | 2007/09/28 22:28

イキントウ

   テンテン

  トゥン 
       てん 
          とぅんてん

     昔 いきんとぅ  にしましょうか・・。

   やっぱり  音がひつようですね。

            今日から

       さんしぬ
          練習します。

投稿: awamorikubo | 2007/09/29 04:38

サッちゃんさん。

本当にそうですね。そう、思います。ションシ。

でも、盛窪さんがやってくれるなら心強いです。
楽しみが増えました。

投稿: 喜山 | 2007/09/29 10:43

くおりあ、そうサン

 お疲れ様です!

 先日9/26水、14:00~渋谷シネセゾンに

「めがね」鑑賞してきました!!

与論島を背景にした映画・・・よかったぁ。

当日、食事抜きで観ていたら、

美味しそうな、卵焼き(真さギィー猿、フガ焼キ)や、

海老(イビ)料理!、空腹をガマンして(ヨー写真・茶ゃー

船ぇーティ)・・・本当に(ションし)美味しそうでした

(マサギサタン)。

♪僕がぁうまれたぁ ふぬユンヌぬ海(空、唄)をぉ

僕は、どれくらい知ってぇるんだろぉ~う・・・「中略」

~大切なモノがきっとユンヌにあるはずぅサアァ~ア
            
フリガ、“ユンヌんチュぬ たぁかぁらぁ~”♪

 そうさん、きゅうに唄いたくなりました(笑)

 


投稿: ゆんぬヌあがさヌM也。 | 2007/09/29 11:39

みつや兄

いい歌ですね。ぼくも歌いたくなりました。

 われは与論の子、さざ波の染み入る浜辺の丘の上、
 石垣奥のトタン屋こそ、わがなつかしき住みかなれ。

がしが、「めがね」や、わーちゃ、いちゃりゅいやー。
ゆかてー、ゆかてー。


投稿: 喜山 | 2007/09/30 10:09

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