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2007/09/01

『海のふた』

 ソテツが大きくて、全体に少しさびれていた
 愛すべき奄美大島よ。
 ある日ドライブして行った国直海岸で
 「喫茶・工房てるぼーず」のかき氷を食べて、
 そこ出身の奥さんに集落の福木の道を案内していただき、
 私はその思い出を「海のふた」という小説に書いた。
 睦念さんがそこにすばらしい絵をつけてくれた。
 自分が産まれたところを愛する気持ち・・・
 それがいかに気高いものなのか、
 私は彼らから学んだのだと思う。

と、よしもとばななが、『なんくるなく、ない』に書いていて、
『海のふた』に導かれた。

海のふた (中公文庫)
Uminohuta












短大を卒業して南の島に移住しようと考えた「まり」は、
下見にのつもりで行ったその島で、
かき氷屋のおばさんのひと言に打たれる。

 「この景色が好きで、ついついここに帰ってきちゃった。」
 とおばさんは笑った。その真っ黒に焼けた肌と
 大らかな接客の芯のところに、
 ふるさとをどうしようもなく愛している心があった。
 私はそれにがつんと打たれるような気がした。

 そうか、そうなんだ。
 私にはソテツも福木もさとうきびもガジュマルもみんな、
 とっても珍しくて新鮮なものだ。
 いつまでだって見ていたし、
 恋したみたいに夢中だ。

 でも、私にとって、
 この人がこの海と福木があるこの場所に
 戻ってきてしまったように、
 とてもうっとうしいけれど心がいつも帰っていくところは、
 あの、西伊豆の夕陽に映える景色や植物以外にはないのだ、
 そう思った。

このきっかけはいい。
この、まっとうなきっかけで「まり」は西伊豆に帰り、
かき氷屋を開店する。

物語は、「まり」の母の親友の娘である「はじめ」と
西伊豆で過ごしたひと夏の思い出を綴ったものだ。

「はじめ」は、祖母の他界を機に起こった親戚の諍いを、
まるで避暑のように避けるために、「まり」の家に預けられた。

「まり」は、かき氷屋をやりながら、
どこか自然の精のような「はじめ」と接することで、
人と自然の深いところに降りてゆき、
また、貝で魂をこめるように、
ぬいぐるみを作るという「はじめ」の再生の力に癒されてゆく。

 ○ ○ ○

そんな、とてもいい作品なのだが、
ぼくは、その感想というより、
奄美とのかかわりで別のことを書こうと思う。

 でも、ほんとうは、そういう小さな痛み・・・
 おばあちゃんの木を残したいとか、
 そういうくらいのことだけしか、
 私たちは背負えないんじゃないだろうか。
 人ってそんなに遠くのことを心配するように壮大には
 できていないと思うの。

 もちろんはじめちゃんの彼みたいに、
 縁があって遠くの国の子供のために働いている人は別だよ。
 私の言っているのは、普通の、
 一生国から出ないような人の話ね。
 たとえばこの目の前の海には、
 ほんとうに昔はもっともっとたくさんの生きた珊瑚がいたんだよ。
 そこはまるで森のようで、
 海草が茂っていて、小鳥が飛び回るみたいに、
 いっぱいの魚がいたの。
 でも、今はいない。
 そのことが、私はただ淋しいし、
 どうしても受け入れることができない。

主人公が、西伊豆について語るところ、
ぼくなど、ほとんど、与論の海のことを代弁してくれているように読む。
自然なまっとうな心情の吐露を作品を通じて受け取りながら、
ぼくたちはぼくたちもまた淋しいと思い、
日ごろ、それを我慢しているのを気づくのではないだろうか。
ぼくたちもまた、珊瑚や魚たちのいなくなった海を、
受け容れることができないでいるのではないだろうか。

 ○ ○ ○

もう一度、こんな述懐は出てくる。
こんどは、自分で立ち直ろうとするところまで、ある。

 この夏、はじめに素もぐりをしたとき、私は思ったものだ。
 昔からもぐっている同じポイントで・・・・
 海の底には昔と同じ形の岩があり、
 まるで建物のように立派な形でそびえたっていて・・・
 でも、そこにはもう生きた珊瑚はなかった。
 魚もいるにはいたけれど、昔みたいに、
 色とりどりにむせかえるようにはいなかった。
 ここはまるで廃墟のよう、遺跡のようだった。

 遺跡とは過去のすばらしいものがすばらしさゆえに
 残っているものだと、私は思っていた。

 でも、それは違う。遺跡は、
 かつて栄えていたとてもすばらしい場所の、残骸なのだ。

 もうどうやってもあのにぎやかさは帰ってこないのか?
 そう思っただけで、私は悲しくなった。

 こんなに多くの何かを失って、
 得るべきものはなにかあったのか?
 より安全になったわけでも、
 すごく便利になったわけでもない。
 ただがむしゃらに道を作り、排水を流し、
 テトラポッドをがんがん沈めて、
 堤防をどんどん作っただけだ。
 いちばん楽なやり方で、頭も使わないで、
 なくなるもののことなんか考えないで。

 考えれば、適切な方法は
 絶対にあるはずだったのだ。
 お金か? 誰がそんなものを引き換えにするほど
 お金を節約できたり、楽ができたのか?
 私の友達たちを、返してほしい。
 はじめちゃんに、おばあちゃんの思い出の
 かげりのないものを返してほしい。
 私やはじめちゃんの愛することを、
 お金に換算しないでほしい。

 誰もいなくなった淋しい海底で、
 私は水中眼鏡をしたまま、息を止めたまま、
 泣きそうになった。
 私のかき氷屋なんて、すごくちっぽけで、
 役に立たなくて・・・。

 でも、ざばっと上がって、
 この小さな体がしなやかにしょっぱい水を
 イルカみたいに切ったとき、
 真っ青な空と山のまなざしを強く感じたとき
 「いいや、とにかく続けよう」と
 静かに澄んだ気持ちで思ったのだ。
 それしかできることがないから、無駄っぽくてもしよう、って。

 そして古代の遺跡が雨に洗われて、
 やがて花が咲き、木が育ち、道もでき、店もでき、
 世界中から観光客が来てにぎわって・・・・
 決して元のようではなくても、
 またかりそめの反映が訪れたりするように・・・・
 できることなら、一匹の小さい伊勢海老でも、
 赤ん坊のウニでも、ひとつまみの珊瑚でもいい・・・
 またこの海に戻ってきますように。

 誰かが神社を大事に思って毎日散歩に行ったり、
 ちょっと掃除をしたり、ご神木にありがとう、
 お疲れ様と言いますように。
 一軒でもいいから、にぎやかで小さなお店ができて、
 この町のけだるさに流されずに人を呼んでくれますように。

 誰かが、たとえひとりでもいいから、
 この町を大好きだと思い、そしてその愛のこもった足の裏で
 道をぺたぺた歩いてくれますように。

 この町に来た観光客が、
 言い知れない懐かしさや温かさを感じて、
 そして「また来よう」とここを大切に思う気持ちを、
 住んでいる人たちの糧になるような輝きを、
 置いていってくれるようになりますように。

いけないくらい長い引用になってしまった。
でも、途中で止めるわけにいかない気持ちになる。
誰かを責めて終わりたいわけではない。
でも、このままでいいとも思っていない。
できることをしようと思う。
その気持ちの流れをしっかり辿りたくなった。

  ○ ○ ○

あれ、どうやらぼくは、
このところを読んでほしいと思って書いたようです。
写し終えたら、なんだか済んだ気がしてきた。

心の洗濯のできるまっとうないい作品です。
ぼくは、奄美への応援歌のように、読みました。

名嘉睦念の絵も、小説作品に拮抗するようによかった。

この作品は、小説ではなく、小説と絵というのがふさわしい。


 ※(「なんくるなく、ない」



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