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2007/09/30

「太陽」と「白」

柳田國男の「稲の産屋」を読んでいたら、
こう書いてあってびっくりした。

  そこで立戻ってもう二度、何故に琉球列島の一部に、
  稲の蔵置場と人間の産屋とを、ともにシラと呼ぶ言葉が、
  残り伝わっているのかを考えてみたい。
  容易には国語の先生の同意を得られぬ一説と思うが、
  自分などは是をDR二つの子音の通融、
  と言おうよりもむしろダ行がかつてはもっとラ行に近かった
  時代の名残ではないかと思っている。
  一つの類例は太陽をテダ、是は照るものというより他の解は有り得ない。
  沖縄ではすべての行為の主体を、
  A母音一つをもって表示する習わしがある故に、
  生むものまたは育つものを、
  シダすなわちシラと謂って通じたのかと思う。

ぼくたちは少し前、池田さんの『無学日記』を頼りに、
ダ行とラ行は、相互変化するのではないかと考えてみた。

  「デューティ <d → r ?>」


柳田の考察を見ると、根拠は分らないが、
「ダ行がかつてはもっとラ行に近かった時代」があると想定している。
柳田は、琉球弧をめぐった時に、そんな例を耳にしたのだろうか。

そして、ティダをティラと同じとして、
「照るもの」という理解を導いている。

ところでこれは、最近もうひとつ引用した、
村山七郎の考察とも符号しているように見える。

  言語学者の村山七郎は、ジャワ語 sila[光線]、
  フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」
  に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導いている。
  この、*t'ilak(「光線」)は、ティラでありティダ(太陽)へと
  つながっていく。
  (「百分間の帰省-映画『めがね』メモ」

  村山は、ティラ-ティダを祖語として、
  それが、「白」につながることを言い、
  「白」について、「輝かしいこと、ひかり輝くこと、光」
  という意味を想定している。
  (「赤と白-赤碕と寺崎」
 

強引かもしれないが、系譜をたどってみる。

 ティラック?(*t'ilak) 
  | 
 ティラ
  | \
 シラ ティダ
  |  |
  白  太陽

ダ行とラ行は相互変化する。
このことが、「太陽」と「白」を結び付けているようだ。

何か、とても面白い点と線を辿っている気がする。



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2007/09/29

トライアルは「海」、リピートは「人」

南の浜辺を歩いたとき、
立神と呼びたくなる巨岩の下で、
楽器の練習をしている旅の人と出会った。

ウクレレだった。

供利港が向こうに見える
幅の広い浜辺の端を示すように聳える巨岩の下には、
広い蔭でできていて、
彼はそこで楽譜を眺めながら弾いていた。

聞けば、神奈川からの旅行で、
与論にハマったという。

 沖縄の離島もめぐりましたけど、
 与論がいいですね。

 何といっても海がきれいなのと、
 それから、いい意味で、
 人がリゾートリゾートしてないです。

こんな風に、与論のことを気に入ってくれていた。


与論島の二大魅力である、
「海(の蒼)」と「人(の情け)」は、
トライアルとリピートの価値ではないかと思う。

ブログでも頻繁に見るように、
与論の海の美しさは、来たい理由になるし、
来た瞬間から魅了されるものだ。

また来たいと思う理由に、
海の美しさは欠かせない。

けれどもうひとつ、来てびっくりするのが、人(の情け)だ。
もてなしの笑顔だ。とおとぅがなし、だ。

こんな優しさがあるのかという優しさに触れて、
それに触れたくて、また来たくなる。
言い換えれば、人(の情け)を感じることができた旅人は、
また来る理由を手にするのだ。

 トライアル価値 海(の蒼)
 リピート価値  人(の情け)

こう位置づけて、
与論島のアイランド・ブランドを組み立ててみたい。


追伸
こんどまた彼が与論島に来ることがあれば、
あのウクレレを聴いてみたいものです。




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2007/09/28

『めがね』を反芻する-時間の溶解劇

  小林:監督ねぇ。毎回、不安になるんですけどね(笑)。
  「これで本当に映画になるの?」って。
  市川さん、不安だったでしょ。
  市川:はい(笑)。「えっとーえっとー、何かーえっとー、
  もっとー、素な感じで-」とかもたいきんに言っているのを聞くと、
  こんなの私、わからないって。
  (映画のプログラムから)

これが琉球弧の民俗に資源を求めた映画だったら、
ユタ(巫女)の役だったろうと思わせるのは、
浮世離れしたオーラを放っていた、
もたいまさこ演じるサクラだった。

そのもたいまさこが、「もっと素な感じで」と
監督から要請されるところに、この映画の特徴は顔を出している。

荻上監督は、限りなく演劇性を排したところで作品を
構成したかったのだと思える。

それは脱演技、という意味ではない。

また、この映画は、物語があるようでない、と評されている。
でも、脱物語が目指されているのではない。

たしかに、この映画では何も物語は起こらないと言ってもいい。
けれど物語性は解体されようとしているのではない。
映画の途中でハマダに宿泊するヨモギは、
タエコに会うなり「先生」と声をかけて彼女を驚かすのだが、
二人がどういう関係なのか、映画のなかで語られることはない。
それはしかし、物語が脱構築されるためにそうあるのではなく、
二人の背景は、作品にとってあまり大切ではないということと、
背景は鑑賞者の受け止めにゆだねるという
両方の意味を持っているようにみえた。
実際、作品の背景には、物語が充満していると感じられるのだ。

だから、物語の解体劇ではない。

荻上監督が、「もっと素で」というとき、目指したのは何か。
それは、時間の減速と一重、だ。
こういうと分りにくいが、この逆はたぶんイメージしやすい。
時間の加速と重畳、である。
こう書けば、それは都市生活の感覚であるとすぐに了解されるだろう。

流行の前に流行に気づきたいと誰もが思うほどに、
時間はつんのめって加速される。
そしてそれだけでは足りず、時間は多重化している。
テレビを見ながらインターネットをし、
会議をしながらノートPCを打ち、
“ながら”は牧歌を失いながら常態化している。

時間の減速と一重、というのは、その逆だ。
時間をあたうかぎりゆるやかにし、また、層を重ねない。

メルシー体操をするときはメルシー体操だけするのだし、
朝ごはんを食べるときは朝ごはんを食べるだけだし、
釣りをするときは、釣りだけをするのだ。

そのために、舞台は携帯電話がつながらない必要があった。
時間の重畳化の象徴的な道具こそ、携帯電話だからだ。
「ここはね、携帯電話がつながらないんです、いいでしょ」。
ここでは時間は折り重ならない。そう言っているのだ。

映画『めがね』には物語性が希薄だからといっても、
物語の解体劇なのではない。
言ってみれば、溶かすように時を止める、時間の溶解劇なのだ。

 ※「百分間の帰省-映画『めがね』メモ」


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2007/09/27

あふれる無意識と知恵

池田福重さんの『無学日記』は、
自然との交感と親子の情愛の記録だ。

『無学日記』には動植物がよく登場する。
ガジュマル、福木、アダンなどの植物は、
母の知恵や生活背景として日記を覆う世界になっている。
また、「イラに襲われる」、「恐ろしいタフの力」、「うずらの鳴き声」、
「蟻の悲しみの心」、「青大将の恋愛」、「鼠の戦い」、
「カモに負ける」など、タイトルを見ただけでも分かるように、
海、空、地の生きものたちが次から次に登場する。

その動物たちは、池田さんとのかかわりの中だけで現れるのではない。
それぞれが、ある意味で与論島の住人として主役を張るかのように
生き様を披露してくれている。池田さんは、主役の生き生きとした様を
書き記すための目撃者、観察者なのだ。

昆虫や動物たちがとても近い。
近いというのは身近な存在だというだけではない、
昆虫や動物たちが、まるで人のような存在として、
池田さんに働きかけている。
池田さんは、彼らと一緒に生きているのだ。

それは、イシャトゥをはじめ、
ムヌ(物の怪)とのかかわりでも同じだ。

自然は、加工する対象ではなく、
対話し抱かれる相手であるとはどういうことか、
行間から尽きない泉のようにあふれている。

 ○ ○ ○

親子、人と人のあいだの情愛も豊かだ。
『無学日記』で、それは、
「だから、親のいうことは聞かなければならない」
というように、教訓の締めくくりになって現れている。
けれど、『無学日記』は、教訓譚としてあるのではない。

「鳩を打ち落とす」を見てみる。

  カカと二人イモを耕す。
  私はイモを掘り出しにカカにチュクルイさせながら畑の周りから
  草を刈ってあるく、上の木に鳩が巣を架けて座っている。
  鳩は首を出して私を見て座っている。
  よし!これを打ち落としてやろうと石を取って鳩みがきて投ぎつけた。
  見事命中して鳩はバタバタと私の足下に落ちて来た。
  私は自分の腕の偉さを自慢にカカに持って行って見せて  
  誉められようと急いで持って行ってこれ見よと見せた。

  いかばかり喜ぶであろうと思ったのに反対に
  「アッシェー ウリヤーヌガ イックーチナリバン 
  ワラビガマ ガティ チュムチョイ」と泣くのである。
  もうただ泣くばかり何も言わない、そのとき私はびっくりした。
  よく考えてみるとカカはおなかに赤ちゃんが大きく出来ている。
  そんなときにこんな事するもんじゃないという事が、
  私には初めてわかってくるのである。
  そこで鳩に済まなかった、今後はこんな事はもう一切しませんから
  許してくれと言いながらその(鳩の巣にその鳩を置いたのである。その後)
  鳩は元気になったのかそれとも死んだのかそこはわからない。

  さて、カカのおなかの子は長男として男の子が生まれた。
  その生まれた子は昭和十九年三月まですくすくと伸び
  みんなを喜ばしていたのに急にキンエンとなり
  私が打ち落とした鳩の内股と同じ様に内股にキンエンが出てきた。
  私は一人心の中で五年前のあの時のあの鳩さえ打ち落とさなかったら
  こんな事にはなかったのにと残念で残念でならなかった。
  長男はとうとうどうにもならずにその四月一日にこの世を去ったのである。
  だから君達はこういう事はよく聞かねばならない。
  また、海に行ってはカメなどに手をかけるものじゃない。
  よくよく注意して世渡りせねばならない。
  (「昭和十五年 鳩を打ち落とす」『無学日記』池田福重)

カカというのは、この年二十六歳の池田さんの奥さんのことだと思う。
カカは、自慢げに鳩を持ってきた池田さんにこう言う。

  「アッシェー ウリヤーヌガ イックーチナリバン 
  ワラビガマ ガティ チュムチョイ」

あれまあ、これは何。いくつになっても子どもみたいで、残念。
こんな意味だ。

それを聞いて池田さんは初めて我に返るように、
鳩を打ち落としてはいけないと後悔をする。

ここで、池田さんを諭しているのは
他のほとんどの場面とは違って、親ではない。
けれど、池田さんが、
日記を読むだろう子や孫達に当てるメッセージの型は同じだ。

親も奥さんも池田さんを叱るのではない
(父が叱る場面はいくつか出てくるが)。
奥さんが、ただチュムチョンと残念がって泣くように、
池田さんを取り巻く大人たちは、情愛を差し出すだけだ。
そしてそれを見て池田さんはわが振る舞いに悔い、
子ども達に、かくあってはいけない、と諭そうとする。

親、特に母を喜ばせてあげることができなかったという
池田さんの悔いから、こんなことにならないように、
と、日記を締めくくるのである。

こんな構造だから、ぼくたちは、日記に説教くささを感じることはない。
親の情愛の豊かさであり、池田さんの優しさに感じ入るのみである。

 ○ ○ ○

『無学日記』には、与論島の知恵と無意識の豊かさが詰まっている。
ぼくはいままで、与論島は、人口少なく土地狭いことに加えて、
いたずらに島を開発し、島人は自己主張せず忘れることに慣れているから、
掘り下げるべき民俗の底が浅いのではないかと気になっていた。

与論島の深層を知るには、琉球弧全体を尋ねるしかないと思ってきた。
もちろん、それが与論島理解の助けになることは変わらないのだけれど、
他島にしかないと思ってきたものが与論島にもあることを、
他のどんな解説より、『無学日記』は豊かに教えてくれた。

数年前にはじめて読んだときも、面白いと感じた。
今回は、いくつもの発見があり、改めて驚いた。
こちらの見聞が深まれば、まだまだ発見すべきことがある気がする。
いずれまた、読み返してみたい。

前にも書いたけれど、池田さんは公開を前提に日記を書いていない。
この日記の存在を知った喜山康三さんの再三のお願いで、
実現したものだ。

与論島の無意識の豊かさを知る者が、
その資質にしたがって記述し、
それに感応した個人が、情熱によって形にしたのが、
この日記の成り立ちなのだ。

この日記のおかげで、
与論島の無意識は、辛うじて(あるいは必然的に?)、
ぼくたちの手に受け渡される機会を持ったのだ。

『無学日記』は、与論島の大きな財産だと思う。
喜山康三さんの熱意に感謝したい。


追伸
『無学日記』は、書籍であるとはいっても
ISBNコードが発行されているわけではなく、
ふつうの書店で買い求めることはできない。
読みたい方は、与論の喜山康三さんに尋ねるといいと思う。



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2007/09/26

「たった一つの許されたヌスドウ」

  大正七年七才の時のことである。
  夕食を早めに済まし初めてのヌスドゥ、
  胸をドキドキ躍らせながら家を出て行った。
  目的の家の門に入りそこの庭を見た。
  トーグラの前の庭にチキウシがすわっている
  「よし!」あれだ、私はひと走り走って行き
  チキウシの中を覗いた。

  チキウシの中にはお膳が置かれている、
  そのお膳の真ん中にデーがありそのデーに
  トゥンガが供えられている。
  私は急いでそのトゥンガをデーもろとも
  掴み上げ走りだしたのである、
  その時そこの叔母さんがトーグラの中で
  「ウヌデーヤ ムチイクンノー デーヤ ウマナン ウチキョー」
  と「イッヒー、イッヒー」と笑うのである。

  私は本通りまで出て行き見てみると
  本当にデーもそのまま抱いて来ている。
  「成るど!」これはトゥンガだぇ取るものだと、
  それからまたひと走り走って行き臼の中にデーを入れた。
  その時おばさんは又「イッヒー、イッヒー」笑っておられました。
  許されたヌスドゥ昔から今も変わることはない。
  (「七才の思い出、たった一つの許されたヌスドウ」
  『無学日記』池田福重)

十五夜はワクワクした。
月の明かりを頼りに歩きながら、
家々に供えられている団子を盗んでよかったのだ。

トゥンガ・モーキャー(モッチャー)。

この日ばかりは、子どもたちだけで夜道を堂々を歩いたものだ。
なかには校区をまたいで遠出したつわものもいたはず。
迎えるほうも迎えるほうで、トゥンガ(団子)の代わりに、
泥の団子を用意してワラビンチャーをからかうこともあった。
でも、楽しかった。

あのワクワク感は、池田さんにもあったもので、
というか、それだけ昔から連綿としていて、
そうした楽しみの連鎖のなかに自分もいたのだと思うと嬉しい。

いまの社会事情を思うと、
子ども達だけで夜道を団子泥棒に出かけるなんて、
なんて牧歌的で優しい共同体なんだろうと思えてくる。

トゥンガ・モーキャーよ、永遠に。
トゥンガ・モーキャー・フォーエヴァー。



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2007/09/25

「母の薬草船」と「風の温泉」

(『無学日記』の「母の命日」の章の一部を少しアレンジしました。
文意は通りやすくなっていると思いますが、
原文の方がはるかに味わい深いことをお断りしておきます。)


四月十七日は、君達のお祖母さんの命日だから、
忘れることなくハガンポーリヨー。

君達のお祖母さんは、心の奥が明るくて立派だった。
そんな方の血を引いた君達は、誠の心で世渡りして
お祖母さんを喜ばせて安心させなければならない。

私の母が植えた福木を朝夕みるたびに、
母はまだ生きて私に、ユカムヌ イイチキシュル、
そんな気持ちで見ているので、
この歌をいつも心のなかで歌っているのだ。

 ウヤヌ ウイテアュル カタミヌ プクギヤ
   スバチカク ユティ ワヌドゥミユル

私がいなくなった後、この福木をみだりに切り倒してはいけない。
この福木は、君達のお祖母さんだと思いなさい。
子や孫達をよく見守ってくれる親なのだ。


昭和十九年八月、大東亜戦争のとき南方で戦死した兄さんが、
大正二年に鹿児島から帰ったとき、母に言った。

 イッチュウー プニソウティ ミシラン
 タビカティソーティ ミシラン

すると母は、

 フマナンウイタル ガジュマルヌ マワイ
 イシンチャン チンモウシボ
 プニエークンヤ チュラクデール

と、こう言った。

そこで早速、私はガジュマルの周りに
石を積み上げているのである。

これを君達は簡単に船の形をしていると、
こう考えて見てはいけない。

母は私が小さい頃から薬草のことをよく話してくれた。
母はこの船に薬草を積み込んでそして見守ってくださる。
そんな意味で、私はこれを、「母の薬草船」と心の中で見ているのだ。

だから、君達はお祖母さんがいつも見守っていることを
忘れてはならない。


兄さんは、またこう言った。

 オンセンカティ ソーティミシラン

すると母は、

 シグトゥシチカラ イチャマボー
 フヌガジュマルヌ シチャキチ
 シダーシャシチ ユフィボ
 オンセンカティ イキューシエークンヤ
 ハミンクデール

と、こう言った。

私はそこで、ガジュマルの下にシバ草を植えた。
そして、これを「風の温泉」と心の中で呼んでいるのだ。

仕事で疲れた時、
このガジュマルの下に来て風にあたり休んだら
本当に温泉より気持ちいい。

母の自然を生かした言葉は尊いものだ。


※『無学日記』(池田福重)の一部をアレンジ



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2007/09/24

「なみだ」と「みなだ」 語音の倒位

池田さんの唄う「無学歌」。

  むいがきんねーだんたん 
   あぬぴちゅんちゃん 
    ぱいいちょをてい

   むにぬうくすくに 
    みなだちみてぃ 
     あわりふぬみなだ 
      ながしぶしゃぬ
       (『無学日記』)

この悲恋歌で目を見張るのは、「みなだ」の表記だ。
「みなだ」は、涙(なみだ)のことだ。

「なみだ」を、「みなだ」と言っているのである。
これは、倒音逆語と同様の、語音の倒位で、
東北や琉球弧によく見られるものだ。

たとえば、

  みなだあふむろし(涙あふれる)
  「与那国(どなん)すんかに節」

の、「みなだ」と同じである。

ぼくは、この例が与論島にもあるのを初めて知った。

しかも有名な歌謡のなかにではなく、
池田さんの歌、つまり島の人の言葉に息づいているのに心惹かれる。

母に聞いたら、割と日常的に使っていて、
「なだ」と言うこともあるそうだ。
「なだ」なら、なおさら東北の「なだ(涙)」と同じだ。

知らない自分にも、やれやれだが、与論島は奥深い。
というか、琉球弧の奥深さが与論島にも残っていて、
それが嬉しい。



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2007/09/23

赤と白-赤碕と寺崎

白に映えた寺崎の話を続けてみる。

 言語学者の村山七郎は、ジャワ語 sila[光線]、
 フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」
 に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導いている。

この考察に際して、村山は、ティラ-ティダを祖語として、
それが、「白」につながることを言い、
「白」について、「輝かしいこと、ひかり輝くこと、光」
という意味を想定している。

もし、そうだとしたら、寺崎とは、語源は「太陽の崎」になるが、
時代がくだると、「白い崎」の意味をなしたのかもしれなかった。
ぼくたちはここから、陽が射し真っ白に輝く砂浜や打ち寄せる波を
思い浮かべるかもしれない。

この「白い崎」はしかし、もうひとつの崎を連想させずにおかない。
そう、それは「赤い崎」、赤碕のことだ。

この、白い崎と赤い崎の色の取り合わせがひときわ関心を惹くのは、
与論島において、赤碕が最初に開発祖神が上陸した地点と言われ、
寺崎はそれに続く地点と呼ばれ、両者は島のウガンのなかで
重要な役割を担っているとみなされているからだ。

ぼくたちは同時に、赤崎の「赤」が、霊的な意味と始まりの意味の
両義性を持っていることを確認してもいい。

いま、こうして、「赤」と「白」の対比で考えたとき、
東海岸に位置する赤崎は、
まさに陽が昇り、アーシカマ(早朝)に空を赤く染める場所であり、
北海岸に位置する寺崎は、
陽が頭上にあり、浜と海も白に光り輝く場所に当たっている。

それが、赤と白の地名として根づいたとしたら、
この二地点が重要視される根拠に付随する属性を
目の当たりにしているのかもしれない。

このアイデアはさらに掘り下げる必要があるけれど、
さしあたって、「赤」と「白」の対照として、
赤崎と寺崎を捉える視点を提示しておきたい。

 ※「始まりの赤、終わりの青」



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2007/09/22

百分間の帰省-映画『めがね』メモ

  観ているうちに、寝ちゃうかもしれないですね。(小林聡美)
  うん。日本にこんなに気持ちのいいところがあるのかしらというくらい、
  海が穏やかで・・・。(市川実日子)

ふつう「寝ちゃうかも」なんて言われたら退屈な映画だと思われそうだが、
これがほめ言葉になるのが、『めがね』という作品だった。

「携帯が通じなさそうな所に行きたかった」という割には、
「いえ、結構です」、「少し、放っておいてください」、「無理」、などと
都市のノリそのままでほぐれない、小林聡美扮するタエコ。

そして、他の登場人物とともに、もたいまさこ扮するサクラは、
「おはようございます、朝です」、「氷、ありますよ」と、
キーワードのような台詞しか言わないのに、
かたくななタエコを、まるでユタ(巫女)のように、
作品のメインテーマである“たそがれ”の世界に導いてゆく。

この流れに乗って、ぼくもぼくのたそがれの世界に入っていくようだった。

茶色に枯れた葉もある蘇鉄、元気なさげなアダン、青々と茂るモンパ、
緑とコントラストをなす島の赤土、背景をなす砂糖きびの畑、
放物線を描くようにたれる砂糖きびの葉、石灰岩がごろごろする道、
海辺の砂の肌色を含んだ白。その砂浜の白に溶け込む珊瑚岩の白。
曇り空の海の青と陽射しに照らされた海の青。
イノー(珊瑚礁)の、あのコバルトの蒼。
黒白まだらの山羊、どこからともなく聞こえる牛の声。
どこからともなく現れる猫。夕陽に照らされた砂浜を掘る犬。
いつも聞こえているような、風の音、鳥のさえずり、波の音。

そうそう。かき氷を食べるシーンだったろうか。
さざ波を映していると思いきや、ぐいぐいと汀に引き寄せられるようで、
思わず、どきどきした。映画撮影としてではなく、観ているうちに、
カメラマンが惹き寄せられたように見えたのだった。

かき氷を食べるタエコの肩越しには、防砂林のモクマオウが見えた。
あのモクマオウの向こうに、もうすぐ洗骨を迎える
祖父ちゃんのお墓がある、などと思った。

タエコの肩越しに、ぼくは現実を見たのだけれど、
それが、作品世界と地続きにあるように、自然に思えるのだった。

寺崎の海岸が白く映えていた。
言語学者の村山七郎は、ジャワ語 sila[光線]、
フィージ語 zila[(天体が)輝く]、サモア語 u|ila(「いなづま)」
に対応させるように、南島の祖語として*t'ilak(「光線」)を導いている。
この、*t'ilak(「光線」)は、ティラでありティダ(太陽)へとつながっていく。

ぼくたちは以前、寺崎のティラを洞穴と解する理解を試みたけれど、
村山の解釈に添えば、寺崎とは「洞窟の崎」ではなく、
「太陽の崎」なのかもしれない。
ぼくのたそがれは、そんな連想に進んでいった。

この上なくゆるやかな時間が流れて、
ぼくは、百分間の帰省を堪能させてもらった。

映画『めがね』は、たとえば、三線や与論言葉や、
本当はめったに見ないけどシーサーなどの琉球的な事象に頼らずとも
(もっとも、メルシー体操したりかき氷をたべたりする
ゆんぬのワラビンチャーは可愛いけどね)
与論島を描くことはできることを示してくれた。

映画『めがね』の「たそがれ」から、
琉球の本質を捉えた高嶺剛監督の映画『ウンタマギルー』の
「琉球の聖なるけだるさ」の世界まで、ほんの少しの距離なのだ。

けれど映画『めがね』のことを言うのにそれを説明する必要はない。
ぼくは、与論島を丸ごと生かすように作品をつくった荻上監督に
感謝しないわけにはいかない。
トオトゥガナシ、ミッタンイチャリタン。

帰省したいけど叶わないとき、ぼくはまたこの映画を観るだろう。

Tilazaki_2

















(春にタエコたちを迎えた寺崎の夏)




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2007/09/21

ダークラ転移考

以前、シニグ祭の祭舎であるサークラについて、
サークラよりザークラ、ザークラよりダークラが古形であると捉え、
かつ、サークラの意味を「酒倉」ではないと仮説した。

 サークラ語源考

これについて、補強と修正を行いたい。

サークラ、ザークラ、ダークラと発音が並存しているが、
それぞれの古さの順序は、
ダークラ、ザークラ、サークラであると捉えるのは変わらない。

改めて、その根拠を示しておきたい。

 ダークラ(da:kula)

 ↓五母音化

 ザークラ(za:kula)

 ↓清音化

 サークラ(sa:kula)

麦屋で呼んでいるダークラが最も古形であり、
もっとも一般的になっているサークラは
いちばん新しい表音であると考えられる。


ぼくは以前は、仮にも男神シニレクを語源にもつ祭儀において、
サークラを「酒倉」と捉えるのは軽すぎるとみなした。

けれど、これは、酒盛りから今の与論献俸を連想したための誤解で、
過去において、酒盛りが神聖な意味を持ったことを思えば、
「酒倉」と解するのに無理はないと思えてきた。

当時、サッチャンさんが指摘したように、
与論で、酒盛りをダーと呼ぶことは傍証になる。

また、d音がy音に転移することからいえば、
ダークラはヤークラとなる可能性のある語である。
しかし、それがそうならずに、五母音化の「ザ」の音を採り、
清音化したということは、「家倉」(ヤークラ)の意味ではないことを
示唆しているように思う。

そこで、サークラは、山田実が指摘したように、
「酒倉」の意味ではないかというのが、今回加えたい修正だ。

(今日の記事は、「ウプドーナタ」のところで、池田さんが
家、倉を指して、「ヤークラ」と呼んでいることから、着想を得たものだ)

 ○ ○ ○

面白いのは、現在、サークラの声音だけが残り、
古形にさかのぼるように、ザークラ、ダークラを復元したのではなく、
小さな島の中に、サークラ、ザークラ、ダークラの声音が並存していることだ。

与論島でも古い集落であり麦屋にダークラの声音残り、
新しい集落は、サークラと清音化しているのは、
語の分布としてとても自然である。

まず、ダークラの声音を保持した麦屋には内閉性の強さが伺える。
そして、シニグ祭のなかで、ダークラからサークラまでのバリエーションが
生まれたのは、ダークラという言葉はもともとあり、
そこに稲作技術を伴った五母音の世界がやってきて、
シニグは農耕祭儀として組織化され、
そこで、ダークラも五母音化、清音化の過程を辿ったのはないか
ということだ。



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全国平均の4倍

  「自然を相手に、百二歳まで生きてきました。
  これからも朗らかな気持ちで幕を下ろしたいです」
  (百寿にまなべ!<下>
  自然の中で奄美の“庭師”有親さん 『捨てず、残さず』信念に)

百二歳になる奄美大島の薗さんの言葉だ。
百二歳でよくしっかり言えるなと思う。

けれど思い返してみれば、ぼくの祖母(ぱーぱー)もそうだった。
祖母が百五歳で他界したとき、
生き切るとは自他に悔いを残さぬこととみつけたり、と思った。

最期まで慈愛の女性であることを止めなかったが、
それでも、晩年は目が次第に見えなくなり、
それに応じて、人の識別が難しくなるようだった。
幻覚を見ている節もあった。

でもその過程は、実にゆっくりしたもので、
ある年、自分のことをすぐに分かってもらえなかったと思ったら、
翌年はすぐに名前を呼んでくれたこともあった。

その年単位の時間をたっぷりかけた移り行きのなかで、
ぼくたちは、祖母がかつての祖母ではなくなっているのを
ゆっくりと受け入れていくことができた。

祖母にしてもそうだ。
叔母が、「物や人を忘れたり見えなくなっていって、
だんだんこの世から去っていってるんだね」と
言っていたのが忘れられない。

そんな祖母が他界したとき、
生き切ったという巨大な完結感がやってくるのだった。

祖母を思うと、かくありたいという希望と、
到底及びがたしという失望とが交互にやってくる。

 ○ ○ ○

薗さんの長男が語っている。

  家の仕事を手伝う中で「捨てず、残さず」をたたき込まれた。
  海で小貝をたくさん取ってきたら、イクさんに「大きくなるまで
  海に帰してきなさい」としかられた。「木を一本切るのも、
  よく考えて切るんだよ」とも教わった。
  ウニの殻は畑にまいて肥料にした。

「捨てず、残さず」。
これは言い換えれば、自然の時間を越えない、
と言っているようにもみえる。

  長寿の島 奄美大島、徳之島、与論島などの奄美諸島は、
  人口10万人あたりの100歳以上の人の数が約95人と
  全国平均の4倍近くに達する(1日現在)。

全国平均の4倍。
これはただの数字遊びに過ぎないが、
奄美は、全国平均の4倍、時がゆっくり流れているのだ。

都市の先端では時間は加速し、
また、都市でなくても、インターネットしながらテレビを観るのは
日常的な光景になり、それだけなく、会議中に携帯したり、
ノートPCで別の仕事したりする人種も現れて、
時間は加速するだけでなく重畳していっている。

奄美・沖縄の琉球弧は、微温的に、ここにはかつての日本がある
などと言われることもあるけれど、ことはそれどころではなく、
奄美の自然時間と都市時間の加速・重畳の分離度は
ますます激しくなっている気がする。

奄美には、自然の時間が流れ、
島人はその時間に調和して生きてきただけだ。

しかしこのことを、都市の時間を同時に視野に入れてみると、
基底となる自然時間を持っている場所としての
存在意義が浮かび上がってくる。

奄美の力とは何か。

薗さんの言葉は、それを知恵として語るかのようだ。




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2007/09/20

奄美料理を肴に

「奄美料理 まれまれ」に向かうには、
あの新宿東口の大雑踏をくぐらなければならない。
ぼくは決して、あれは得意ではないのだけれど、
まれまれに行くには避けては通れない。

それどころか、辿り着くにはさらに、
歌舞伎町に入り、新宿の奥へと歩いていかなければならない。
当たり前だけど風景はいかにもシンジュクシンジュクしていて、
ほんとうに「まれまれ」に向かっているのか、
何回か通っているわりには心細くなってゆく。

けれどお店はちゃんとあって、
暖簾をくぐるとほっとする空間が待っている。

ゆうべもそうだった。

 ○ ○ ○

いままで奄美料理の店に通ったことはない。
それは、そういうお店が少なく知らないという単純な理由からなのだけれど、
「まれまれ」を知って、「奄美料理の店はいかがですか?」
と心丈夫に誘えるようになったのが嬉しい。

しかも、奄美ゆかりの方と、奄美料理や黒糖焼酎を堪能すると、
まるで奄美で話しているような懐かしい感じに囚われるのだけれど、
仕事のつながりで知り合った方を誘うのは、
また違った気分だった。

まるで家庭料理を食べながら、話をするのは、
最初、気恥ずかしくもあるだが、
美味しいと言ってもらえたり、
自分がリラックスする料理を口にしていると、
きっと他の店で話すより、自分が素直になれている感じだった。

日本のブログマーケティングの開拓者の彼は、
紳士で気遣いの人で、その配慮に甘えるように、
ついおしゃべりじょうごになってしまった。感謝です。

奄美料理を肴に楽しい談義、
「まれまれ」にも感謝です。



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ウプドーナタ - 大道那太

  そして力持ちのナタは大工もやれば魚とりも名人である。
  そして夜の海、昼の海、魚は思うようにいくらでも取っていらっしゃる。
  舟も自分で作る何もするお方であった。
  王様からもらった山林より材木も切り倒して一人で運び舟を作る、
  木も運び倉を作る、皆々一人で運んでいらっしゃったのだ。
  現在立っている家や倉もウプドオーナタの神様が
  沖縄から一人で切り倒して運び造られたヤークラだ。
  八百年前に建てられた家や倉だが今から
  千年経っても万年経ってもグットゥンシランヌ家だ、
  そんな立派な材木で造られた家や倉だ。
  君たちも一度は是非拝見するのだ。
  その時はまずウプドオーナタの神様に礼拝を先にする
  そしてウプドオーナタの神様から二十三代目にあたる
  ムラプ叔父さんがいらっしゃる、叔父さんの子や孫さん達もおられる、
  その方々からいろんなお話も聞くのだ。
  (『無学日記』池田福重)

ぼくはここで、ウプドーナタの物語を紹介したいわけではない。
与論の英雄時代の豪傑の一人、ウプドーナタの物語を池田さんは
紹介するのだが、最初、ぼくたちは民話を読んでいるつもりで、
それこそお話に聞き入っている。

ところが、現在建っている家や倉もウプドーナタが作ったものだという
ことを言われて、民話が現実に接点を持つのに、少し驚く。
それだけでなく、子孫の人たちの話をよく聞きなさいと池田さんが言うに及んで
今の与論の人と地続きの話だということになってまた驚くのだ。

ぼくは、ウプドーナタは架空の存在であると言いたいわけではない。
『無学日記』を読んでいると、池田さんの人生回想のはずなのに、
まるで民話を読んでいるような感覚に囚われていく。
池田さんは、海霊イシャトゥと一緒に、民話の主要な登場人物なのだ。

夢か現か分からないところで書く池田さんの筆致は、
『無学日記』を貴重な与論民譚にしているのだが、
この、ウプドーナタの話を池田さんを頼りに読んでいくと、
民話の登場人物は池田さんだけではない、
ウプドーナタの建てた家倉を見物したり子孫の話を聞いたりすることも
できるという可能性を受け容れていくと、
いつの間にか、ぼくたちも民話の世界の中に入っているような気がしてくる。

ぼくたちもまた、『無学日記』の民話の住人なのだ。


  ※ウプドーナタ(大道那太)の物語



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『めがね』、鹿児島でも上映

『めがね』のTVCM第二弾。

  「人はどうして」編

  「ま、人間やってると色々ありますからね」

小林聡美の言いっぷりは、味ありますね。


「朝のたそがれ」は明日まで。

  スッキリ!1分劇場“朝のたそがれ”

明日まで、映画封切の前の日に終わるようになっていたんですね。
なるほど、です。


土曜からいよいよ上映開始。

そういえば、鹿児島での上映が決まっています!

  TOHOシネマズ 与次郎

在鹿ゆんぬんちゅ、あまみんちゅの方は、ここで観れますね。
よかった。


与論島での上映がありますように。




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2007/09/19

立長の由来

ダ行がラ行になる、またはタ行の濁音とラ行の濁音が等価であるという
仮定は、「立長(りっちょう)」の地名の語源にも手がかりを与える。

それというのも、「第6回 琉球語と地名研究の可能性」によれば、
「立長」は、「瀬利覚」と表記されていたことがあるという。

 第6回 琉球語と地名研究の可能性

「瀬利覚」は、「せりかく」と読めるが、
沖永良部島の知名町にある瀬利覚は、「ジッキョ」と呼ばれ、
沖縄の浦添市にある勢理客は「ジチャク(ジッチャク)」と呼ばれている。

つまり、「立長」も、「ジッキョ」あるいは「ジッチャク」と
呼ばれていた可能性があるわけだ。

沖永良部や沖縄の「ジッキョ・ジッチャク」は、
「瀬利覚・勢理客」の表記のままだったので、
「ジッキョ・ジッチャク」の表音が残り、語源探索しやすかったが、
「立長」は、「瀬利覚」から「立長」への表記の変化が伴ったので、
それが語源探索の障害になってきたと思える。

一度は「瀬利覚」と表記された土地が「立長」となるのは
一見、不可思議だけれど、
「瀬利覚」が、「ジッキョ」あるいは「ジッチャク」と発音されていたとしたら、
その声音に則って「立長」と表記される可能性を検討できそうだ。

ここで、「ジッキョ・ジッチャク」の「ジ」には、
古形があると仮定してみるのである。

「ジ」は五母音の「ジ」とみなして、三母音に対応させると、
「ジ」は「ディ」の音をとりうる。

すると、「ジッキョ・ジッチャク」の古形として、
「ディッキョ・ディッチャク」という表音が得られる。

さて、ここで昨日の冒頭の仮説、
ダ行がラ行になる、タ行の濁音とラ行の濁音が等価である、を参照すると、
「ディッキョ・ディッチャク」は、「リッキョ・リッチャク」と表音されて、
こうなると、「リッチョウ」への変化は容易く見て取れることになるのだ。

ここにも、ダ行とラ行のつながりを見ることができる。

 ※「デューティ <d → r ?>」


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2007/09/18

デューティ <d → r ?>

昨日の「ウシュクミ」、潮汲みの話で、母が子に語りかけたことのひとつ。

  デエー ワッタイ フマカラ フヌアダミトゥティ 
  デューティ ショーチ コロン
  さぁ、わたしたち二人、ここからあざみを採って、
  生酢に料理して食べよう

このなかに「デューティ」という言葉が出てくるけれど、
ぼくは、これまで、この「デューティ」という音の、
独特な響きに、心奪われてきた。

「デューティ」と書くと、dutyを思い出すかもしれない。
で、比べてみると、duty の「デューティ」と、
「デュー」にアクセントがかかるのは同じだが、
「デューティ」の「ティ」は、伸ばさず短く切って発声するのが特徴だ。

拵える、捌くなど、料理(する)という意味だと思う。

いままで、ぼくはこの言葉にどこか遠くからやってきたような、
異質な印象を持ってきた。

デューティ。なんとなく格好よくもある?
(いまどきは、ここで、「どんだけー」の合いの手が入るかも)

でも、ひょっとして、異質なものではなく、
料理の「りょう」の音と関係あるのかもしれない。

言い換えると、ダ行がラ行に転訛することはありえる、もしくは、
タ行の濁音とラ行の濁音が等価である可能性はないだろうか。

 ○ ○ ○

「デューティ」の「デュー」は、u音で終わるが、
これを五母音に変換すると、o音をとりうる。

ダ行がラ行への転訛があるとすれば、
「デュー」は、「リョー」の音になるのである。

これはありうるだろうか。

こう思うのは、池田さんの『無学日記』には、
ダ行がラ行に変化している例が散見されるのだ。

 イドゥー   → イル-  (どれ?)
 マンドゥン → マンルン (いっぱい)
 タフドゥ  → タフルゥ (たこを・が)

いずれもダ行がラ行として表音されている。
これは、池田さんの出身の朝戸に見られる発声なのか、
池田さんの表記上の癖なのかは、ぼくでは分からない。

けれど、癖であったとしても、発声する音の類似を感じてしまう。

デューティ、の不思議な響きに、ぼくは魅入られてきたけれど、
これは、「りょうり(料理)」の古形の言葉なのだろうか。

ふと、そう思ったのだ。

まぁ、「料」は音読みであり、新しい言葉だとしたら、
「デュー」との関連づけは見当ちがいで、
笑い話に終わる気もするけれど、アイデアとして出しておきたい。

 ○ ○ ○

と、ここまで書いて。
そういえば、「らっきょう」を「だっちょう」と言います。
やっぱり、ダ行とラ行につながりがありますね。

 ※「ウシュクミ - 潮汲み」




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2007/09/17

ウシュクミ - 潮汲み

ミナタ離れまで、潮汲みに行った母子の道中について、
二人の会話だけを抜粋してみる。

  母 「イッチュー ワッタイ タフ トゥトゥン」
    「ホレ!タフ、ドーヤ」
  私 「イル(ドゥ)ー、イルーウ」
  母 「フンリカ、フンリカ、タフドオーヤ」
  私 「ミャーラジダー」
  母 「ミャアランダボ トゥティ ミシラン」
    「ホレ!トウタンドウーヤ」
    「ニャー ナユン ピンギランヌ ミチミイ ヒュー」
    「イッチュー ニャー ワッタイパヤン」

    「ワッタイ フヌ プクギヌ ナィ ムッチ イジ ウイランヤー」

  母はウシュヲイを頭の上に乗せたままパギヌ ウイビシ
  ピックワアーチ トゥイトゥイ ピックワアーチ トゥオトゥイシ
  五~六個ばかり取った。

  母 「ニヤー ハッサシヤーナユン イッチユウーパヤン」
    「デエー ワッタイ フマカラ フヌアダミトゥティ 
    デューティ ショーチ コロン」

  母はアダミを取りながら

    「フリャー クスイ ナユクトゥ 
    チュッケーナーヤ トゥティ コレルムヌドォーヤ」
    「トー ニャー ハッサシャ マンル(ドウ)ン」
    「イッチュウ」

  母はさっそく私が持っているタコを取って見た。

    「アッセー フリャー コーリュルタプヤ アラジダー
    タファー ヤーテイアユル タフル(ドゥ) コーリュンドー
    フリャー ナナティール(ドゥ) アユイ ナナテイタフヤ
    ヲィムヌタフ デンドー」

  盛って来た福木の種を植える事にした母は言う。

    「ウプギーヌ シチャナンヤ ヒイガモー ムイラヌ シガヨー」
    (『無学日記』池田福重)

潮汲みに行って、蛸を採って、帰りに道草をして。

会話だけを取り出しても、童話を読んでいるように、
ほのぼのしてくる。

ぼくは、自分だけではここまで話せないけれど、
与論言葉で綴られた文章を辿れば意味を追ってゆける。
そういう者には、このやりとりはたまらない。

ぱーぱー(祖母)や、両親やパラジたちの会話のやりとりを思い出して、
懐かしさがこみ上げてくるのだ。

与論言葉の民話、童話、芝居がほしくなる。


でも、与論言葉を知らない方も、読んでいくと、
なんとなく、言葉のリズムが伝わるのではないでしょうか。
できれば、楽しさ、懐かしさをどこかで感じてもらえたら嬉しいです。



     

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2007/09/16

始まりの赤、終わりの青

先日、赤い猫、アーミャーのことを書いたら、
『無学日記』で「アーミャー」を解説している喜山康三さんから、
「赤」には、得たいのしれないもの神的なものという意味、
始まり、先端の意味があると教えてもらった。

たとえば、アーミャー、「赤い猫」は“不漁”を意味するが、
イシャトゥに邪魔されたことを含意しているのかもしれない。
他にも、アートゥイ、「赤い鳥」は、不吉な鳥のことだ。

また、アーシカマは「早朝」のことだが、
始まりという意味にも使われる。

そういうことを教わった。とおとぅがなし。
与論言葉を知っているのは、とても羨ましい。

この流れでいえば、アーサキ、赤崎のことを思い出す。
民話によれば、島人が始めて上陸した地が赤碕であり、
島の起点のウガンも赤崎とされている。

教わったことをもとにすれば、
アーサキ、赤崎は、霊的なものと始まりの両義的な意味をもつ
地ということになる。

 ○ ○ ○

また、「赤崎」を始まりの地と解釈すると、
その対のように、終わりの地として「青島」のことを思い出す。

琉球弧でオー、青と呼ばれる奥武島などの地は、
葬所、墓場であると考えられている。

 ※「どんな小さな島も世界を持つ」

空間化された他界が、オー、青と呼ばれたのである。
始まりに対応させれば、終わりの地が、オー、青だということになる。

始まりはアー、終わりはオー。
始まりの赤、終わりの青。

この色の対照、刺激波を放つ。


Ahshikama_2






















(九月のアーシカマ)

 ※「アーミャー - 赤い猫」



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まともさと清潔さとユーモアと

映画『めがね』を観るのに、これを観ないわけにいかないだろう、
ということで、前作『かもめ食堂』を観た。

 ※『かもめ食堂』

映画が進むにつれて、やってくるのは、
まともさ、清潔さ、ユーモアだった。

いい作品だ。でも、いつものように、それならなぜ、どのように、
心を動かされたのか、そうした説明を、
いまは少し免除させてもらおうかなんて、
そんな気持ちになるのだった。

そのくせ、この作品を観たらその足で、
次は与論島を舞台に映画を撮ってください、と、
そう荻上監督にお願いしたくなるような感じだ。


そういえば、エンドロールで流れる井上陽水の「クレイジーラブ」は、
一見、不似合いな気もするが、とても効いていた。なぜだろう。

ま、今回は、それも深入りせずにいたい気がする。


まともであることはとても大事で、
その動かなさ、変わらなさが、ときに人を救う。
それは地軸のように、それがあるから、
回転していられるというようなものだ。

ぼくも、糸の切れた凧のように飛んでいってしまうきらいがある。
まともさは、とてもありがたいのだ。


追記
映画『かもめ食堂』のまともで清潔でユーモアのある世界観は、
公式サイトにも、素直に反映されていました。

  『かもめ食堂』オフィシャルタイト




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2007/09/15

新世代の息吹き

今日は、上の子の文化祭でした。

文化祭。懐かしいです。
というより、どういうわけか自分の高校時の文化祭のことは、
ほとんど覚えていないので、
まるで、高校生の自分を捜しに行くように校内を歩いていました。

でも、そんな無意識の願望はすぐに消し飛びました。
ぼくが高校のときとは明らかに異空間。

隔世の感を覚えるほど、
のびのびしたティーンエイジャーたちのお祭りです。

Street1










Street2










Street3










Street4










まず、ストリートパフォーマンス部なるものがあって、
そこはいつでも黒山の人だかり。抜群の人気を誇っていました。
手持ちの携帯ではうまく撮れていませんが、
せめて熱気だけでも感じてください。

ぼくはアコースティックハーモニー部に、、
しばし厄介になったのですが、
声と演奏の本格的なこと、びっくりして聞き入りました。
しかも、楽しそうに嬉しそうに、全身で自己表現していて、
聞いているほうも嬉しくなりました。

そのほか、写真も、絵も、ファッションも、
生き生きした感性の発露があって、羨ましいくらい。

これだけ伸び伸びと自己表現をして、
しかもぼくの高校時と比べたら、
格段の表現力を獲得しています。

羨ましい。素直にそう思いました。

ここには、確かに、時代の進みゆきがあります。
現在のすさんだ時代状況を思えば、
特筆したいくらいいい出来事に感じたのです。

新しい息吹き、です。

 ○ ○ ○

息子は、といえば、
出し物は、「おばけやしき」。(^^;)
少年の面影残した素直な出し物。

親の姿を認めると、あの年齢、
そそくさとどこかへ行ってしまいましたが、
こんな空気のなかにいるのかと思うと、
ほっとするやら、伸びていったらいいなと、
親馬鹿に思いました。

年に一度くらいしか、与論に連れて行ってやれず、
でも、そのたびに与論を好きになっていってくれているのが、
ぼくにはかけがえのないことなのだけれど、
与論島で浴びる恵みを、
これからどんな形で表現していくか、
見守っていきたいと、これも親馬鹿に思うのです。

Guide










いい日、でした。




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街なかも、『めがね』

池袋のイルムスを通りかかったら、
なんと、そこに『めがね』の予告編。
思わず、釘付けになりました。

1_3










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予告編はインターネットで配信されているから知っているわけですが、
やっぱり、街中で観るのは迫力が違います。
いよいよだなぁってワクワクしました。

画面に夢中になってしばらく気づかなかったのですが、
見渡せば、『めがね』グッズもありました。

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Photo










街中も『めがね』、です。
もうすぐ与論島が、タビンチュの皆さんを全国的に癒します。
考えてみたら、これは観光ブームの時以上の力になるかもしれません。

この力をぼくは注視していこうと思っています。

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 ※池袋イルムス


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アヤティダ - 綾太陽

  あぁ本当に私は此の世を去り行く者かと思えば
  何もかも目に見えるものは皆々懐かしくなって来るのである。
  福木よさよなら・・ガジュマルよさようなら・・
  石よ、草よ見えるもの皆にさようならを告げたのである。
  そして私はこの世を去り行く別れの苦しさ、哀れさを
  身の一杯味わったのだ。
  それでもまだ私は生きている。
  しかし起き上がろうとしてもいっこうに身動き出来ない。
  だから寝ていて目は上を見ている。
  あぁ・・・ガジュマルの上にお日様が照っている。
  私の上にはアヤティダが流れてくる。
  (『無学日記』池田福重)

『無学日記』は、その冒頭、母の三十日祭を済ませたばかりの
池田さんが、四十を目前にして、作場の砂糖小屋の前で倒れる。
動けない。そんな場面から始まる。

  病名はわからなかったがわかるのは暗闇の中に大木と大石が
  私を取り囲みいくら出ようとしtも出ることができない。
  とうとう身動きもできなくなるまで大木と大石に押しつけられたのである。

動けない池田さんは、まわりにある植物たちに別れを告げる。
そんな池田さんに、アヤティダが流れる。

アヤティダは、「風に揺れるこずえを通し交錯する太陽光」として、
「綾太陽」という字を当てている。

アヤティダ、「綾太陽」。

美しい言葉と字だと思う。「木漏れ日」とは何か違うものに思えてくる。
解説では、「視覚的に一種の幻覚を誘うため惑わす意味を持つと思われます」
としている。

  方言にも「ぴちゅ あやち」人を惑わしてと使われています。
  また、生まれ立てや初々しい意味でも使われ、
  雛(ひな)鳥の羽を綾羽(あやぱに)とも表現しています。
  この場合誕生や希望の未来が開ける意味にも解釈できましょう。
  沖縄民謡で厳粛な雰囲気で歌われる「鷲ぬ鳥」の歌詞に
  巣立つ鷲鳥の羽をアヤバニ(与論ではアヤパニ)と表現し
  明るい希望の未来への飛翔の意味として歌われています。
  蝶々のことを綾パピルといいますが
  これは模様から名付けられたと思います。

「アヤ」が「人を惑わす」意味にも用いられることは、
アヤティダというときの、「アヤ」のニュアンスをよく伝えているかもしれない。
それは、人を夢か現か分からない入眠幻覚に誘う。

ぼくも思わずガジュマルやクニプ(みかん)の木の下で、
アヤティダを浴びてぼんやりしていたことを思い出す。

そうだとすれば、「アヤ」は、「綾」というだけでなく、
「危うい」や「怪しい」という「危」や「怪」とう字義の広がりを
持つのではないだろうか。

解説の喜山康三さんは、この「アヤ」から、
奄美大島の「アヤマル岬」の語源を解こうとしている。

ぼくもここは考えて、いつか考察を出したいところだ。


アヤティダ、綾太陽。魅力的な言葉だ。



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2007/09/14

アーミャー - 赤い猫

海霊イシャトゥのわざわいを避ける方法がある。

  誰かに「今日の漁はどうだったか」と聞かれた時
  「捕れなかった」と言ってはならない。
  なぜなら漁の具合を聞いたのがイシャトゥだったら
  次に海に行った時ひどい目に逢うからである。
  その時は「アーミャーエータン、赤猫であった」(中略)
  と返事しなければならない。

  不漁で帰るとき海に向かって棄て言葉をはくものではなく、
  次くる時は「ティル タラジ シミティ タバーリ」
  駕籠を不足させて下さい(駕籠が不足するほど大漁にして下さい)
  と祈って帰るものだと言います。
  自然に対する人間の関わり方を示しているのでしょう。
  (解説、喜山康三。『無学日記』池田福重、1996年)

不漁のときは、捕れなかったと言ってはいけない。
アーミャー、赤い猫と言うんだよ。
古老の言いつけが聞こえてきそうだ。

情けないかな、ぼくは、こうやって教えてもらうまで知らなかった。

アーミャーとは、イシャトゥを避ける隠し言葉。
海だからこそ使う、隠し言葉なのだ。

もうひとつ。不漁のときは棄て台詞も吐いてはいけない。
ティル タラジ シミティ タバーリ、駕籠を不足させて下さい、
と言うんだよ。ふたたび古老の言いつけが聞こえてくる。

これは隠し言葉ではない。
けれど、海での禁忌への対処に変わりはない。

ここはもうひとつ、ネガティブに言ってはいけないということに加えて、
大漁にさせてください、と直接的に言うのではなく、
魚を入れる籠を足りなくさせてください、
と間接的に、ことに触れるのが面白い。
海への畏怖がおのずと伝わってくる。

 ○ ○ ○

それにしても、アーミャーとは面白い。
亜熱帯魚の色からの連想で、「赤」にしたのだろうか。
アーミャー、「赤い猫」で、いまにも童話が始まりそうだ。

他の島の隠し言葉を知らないけれど、
不漁を“アーミャー”と名づけたゆんぬんちゅは、
なかなかイケてると思う。

「海霊イシャトゥ」



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2007/09/13

海霊イシャトゥ

昔は、イシャトゥにも簡単に出会えたのだ。

  さて、ここの大きなイノーウシに立って餌を投げ込むと同時に
  私の東側のピシバナから年下の若者がこちら向かって歩きながら
  「イシャトゥ ドオー、イシャトゥドオー、
  ハタパギ ドオー、ハタパギドオー」
  と大きな声で怒鳴りながらこちら向かって来る。

  私は夜の海でこんなクチバシ(言い方-引用者注)を
  使ってはいかんと思うその瞬間私が立っている
  大きなイノーウシがゴッソン、ゴッソンと崩れ落ちて行くのである。

  その時私はこれはいかんと向こう三、四間も離れた所の
  イノーウシに力一杯跳んだのである。
  ところが左手だけはようやくすがり付くことが出来たが、
  どうですか左腕の内側は包丁でナマスを刻んだように
  みな切り裂かれているではないか
  真っ黒い血が流れ出ている、
  夜のせいか血は赤くは見えなかった。

  これは大変だと私は舟に駆けつけて行き乗った。
  その後の自分はもうどうなったか判らない。
  気が付いたらトウーシの浜であった。
  三人の方々はすこしでも近いトウーシに早く着けようとして
  当たり前のトウマイであるシバナリには漕がず
  トウーシに舟を漕いだのだった。
  私が気付いて起きたらトゥクヤカが
  ワヌハンギティソーラン(俺が背負って連れよう)とおっしゃった。
  その時私はナイギサイドーアイカリギサイドー
  (なんとかなりそうだ歩いていけそうだ)と
  ゆっくり歩いて来た事がある。
  夜でも昼でも海での言葉使いは慎まねばならない、
  特に夜は注意せねばならぬ。

  話は後に戻るが私が立っていた崩れ落ちた大きなイノーウシ
  それが本当に崩れ落ちたかその後私は行ってみたのだ。
  それがなに!崩れ落ちるものか
  イノーウシが崩れ落ちると見せ掛けて
  あいつが私を取って投げたのであった。
  (「夜の海 言葉使いに注意」『無学日記』池田福重)

ぼくたちは民話を読んでいるのではない。
これは、『無学日記』の池田さんの回想録なのだ。

でもこれはまるで、池田さんが主人公の民話のようではないか。
海の妖怪イシャトゥと一戦交えた、ことの顛末。
イシャトゥのいたずらもなかなかに激しい。

与論島では、ついこの間まで、
物の怪とも濃密な関係があり、
彼らの存在が肌身に感じられた。

池田さんの回顧はそう教えてくれる。
実際、『無学日記』の影の主人公はイシャトゥと言っていいほど、
池田さんが海に行くたびに現れては漁のわじゃく(邪魔)をする。
池田さんは用心が効を奏したり、ひどい目にあったり、
時には命からがら逃げて浜に辿り着くのだった。


あなどるなかれ、イシャトゥ。


 

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2007/09/12

洗骨と戦争-抱きしめたくなるゆんぬんちゅ

池田福重さんの『無学日記』を読み返している。

『無学日記』は、大正二年から平成二年までの76年間を生きた
池田福重さんが残した日記を、
生前、本人から了承を得ていた喜山康三さんが
平成八年に書物として発行したものだ。

たとえば、『昭和十九年長男坊は今年五才になった』
と題された章がある。

  育く育くと伸びて本当にかわいい子であった。
  三月にキンエンになりそんな病気のために四月一日に
  ついにこの世を去ったのである、
  後三年もなれば小学校に入学というのにそんな四月一日に
  あの世の学校に入学したのである。
  そんな時我がかわいい子は死んだのではない。
  どこか遊びに行ったのだ。どこか遠い所へ遊びに行ったのだ。
  いつかはきっと帰ってくる、いつかはきっと帰ってくると
  私はそんなことばかり信じていた、
  それから二ヶ年が過ぎた。
  いよいよ改葬する日がきた、
  さて行って、チュラク(美しく-改葬したの意。引用者注)なした。
  私はゴウラチュブルガマ(汚れた小さな頭蓋骨。引用者注)を
  手の上に載せて抱いた。
  あぁ私の子は本当に死んだのか、
  このとき初めて死んだのだとはっきりしてきたのである。
  あぁなんと不幸なことであろう、
  これは私の命ある限り忘れることは出来ない。

  それから十月に入った、十日よりアメリカの飛行機が茶花の
  海の上をピャヒラピャヒラ、ダンダンと騒ぎ廻る。
  まず初めにヨロン丸各学校民家といったように焼き払う。
  こんな悪年悪夢これがまた一生忘れられない。

『無学日記』は出版を意図して書かれたものではない。
そして喜山康三さんも、基本的に原文そのままにしていると注釈している。
だからぼくたちは、これが素直な日記であると思って読んでいい。

そしてこれは実際に、
ゆんぬんちゅの表情が素直に伝わってくる日記だと思う。

引用した昭和十九年を回想した小文からは、
親子の濃密で豊かな情愛が溢れてくるようだ。
それとともに、「洗骨」が、死を段階化していることも分かる。
肉体の死は、すぐに死の受容とはならずに、
洗骨によって、死の受容はやってきている。
この間、二年。

池田さんにとって息子さんの死は、
二年後にやってきているのだ。
それが、「チュブルガマ」を抱く行為の内実をなしている。

この意味では、火葬とは、肉体の死と、死の受容を
同期化させる葬法なのかもしれない。

ぼくは、洗骨、チュラクナシ、美しくする行為は、
やさしい儀礼であると思うのだ。

 ○ ○ ○

そして、そんなやさしい儀礼のある地にも戦争はやってきた。

与論島は、隣の沖縄本島の地上戦を、
恐怖におののきながら目撃した地だ。

だから、そして特に、戦争を知らないぼくなどの世代は、
沖縄の戦争に目を奪われて、
与論島の戦渦を等閑視しがちなのだけれど、
わが与論島にも、空襲のあったことを忘れまいと思う。

与論島も、アメリカは、今も六十年前も変わらず、
いざとなれば、戦士、民間人の区別なく攻撃する国家であることを
経験した地なのである。

 ○ ○ ○

さて、池田さんは、ご自身の不幸を書いているのだけれど、
その内容からは、優しさが痛切に迫ってくる。

チュブルガマのように、
抱きしめたくなるゆんぬんちゅの姿だ。

そんな池田さんの『無学日記』を、
折に触れて紹介していきたい。



  

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タエコ賞はヨロン島の旅

映画『めがね』がキャンペーンをやっています。
その名も、「“たそがれ”キャンペーン」

  “たそがれ”キャンペーン実施!

映画に登場する犬の当てよ、というもの。
ふむふむ。かわいいクイズです。

しかし、ぼくがもっぱら注目するのは、
タエコ賞がなんと、

 ヨロン島2泊3日の旅

だということ。

いいなとかすごいとかではなく、
ここでやっと、映画と与論との接点が垣間見えました。

嬉しい。

みれば、「ヨロン島観光協会、ヨロン島ビレッジ」が提供しています。

そうか。

こんな接点があるなら、与論島上映も働きかけられるかもですね。

がんばってほしいなぁ、観光協会。

期待。



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2007/09/11

与論に帰ったと思う瞬間

与論に帰ったと思う瞬間は?


1.夜、天井のヤドゥマーブイの鳴き声を聞いたとき。

2.石垣にアマンがカサコソ動く音を聞いたとき。

3.ぱーぱー(祖母)が、「キチャンムイ」と迎えてくれたとき(今は昔)。

4.フバマで泳いだとき。

5.さざなみの音を聞いたとき。

6.「まにゅ」と呼ばれるとき。

7.飛行機から降りて、島の空気を嗅いだとき。

8.自分の欲求がそがれて素になっている感じがするとき。

9.強烈な陽射しに溶けそうになるとき。

10.ゆんぬふとぅばを聞くとき。


あなたの、ソレは何ですか?(^^)
ぽくの一番は、やっぱり、ヤドゥマーブイかな。

Yadumabui1














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めがね尽くしの舞台挨拶

TVCMに続いて、映画『めがね』の試写会が記事になっていました。

今回は、出演者全員、めがねをかけての挨拶。

 観客もめがねをかけて、映画『めがね』舞台挨拶


  気持ちのいい映画が、できました。
  セリフのないシーンの空気感に、
  たそがれどきを感じてください。

というのは、荻上監督の言葉。

セリフのないシーンの主役は、もちろん与論島ですね。(^^)

もうすぐ9月22日です。




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「めがね」のTVCM

偶然、何回かテレビで見かけた映画『めがね』のCMが
ブログから配信されていました。

 公開中のTVスポットです。【第一弾】

 「旅の鞄に詰める荷物は必要なものだけにしよう。
 人生もそういうことで。
 旅するつもりで映画館においでください。」

小林聡美の台詞がとても沁みます。

旅の鞄かぁ。荷物を点検したくなりますね。

ご覧ください。


それにしても、映画『めがね』の与論島上映があればいいのに。
願わずにいられません。



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2007/09/10

津堅地名考9 「グスク」の可能性

ここでとどめておくべきかもしれないが、
もうひとつだけ、可能性を提示しておきたい。

琉球弧にとって大事なキーワード、
「グスク(gusuku)」についてだ。

「グディキン(gudikin)」と「グスク(gusuku)」には
つながりがあるのではないだろうか。

もっと言えば、「グスク(gusuku)」の由来を
「グディキン(gudikin)」に求めることができるかもしれない。

というのも音韻変化としては、「久高(kudaka)」と同じように、
「グディキン(gudikin)」から「グスク(gusuku)」への変遷を
辿ってみることができる。

gudikin

↓「ディ」の転訛で「ジ」

guzikin

↓「ジ」の清音化で「シ」

gusikin

↓「i」の「u」への転訛。
 「n」の脱音
gusiku


こうして、「グディキン」は、「グシク」となる。

「グシク」か「グスク」かという議論もあるが、
サ行内での変化で、訛りの範囲で両方ありえるので、
どちらと言ってもいいことだ。

むしろ、この音韻変化の想定で、いちばん危ういのは、
語尾の「n」が脱音することはありえるかということだ。

語頭が「N」音化する例が、琉球の方言のなかで、
「んかし(昔)」 のように、しばしば見受けられる。
そして、この果てに、
「n」の無声音化による脱落を想定するこもできる。

しかし、語尾の「n」音が脱落することはあるのか、
いま確かなことを言うことができない。
これは、今後の課題としたい。


「崖のある山」として「グスク」を解することはありえる気がする。
また、起点を「グディキン(gudikin)」とせず、
「グディキ(gudiki)」と置くことで、
「グスク(gusuku)」への変化をスムーズにすることも考えられるが、
準備不足の段階で深入りはすまいと思う。

可能性あるアイデアとして提示しておきたい。

 ○ ○ ○

「チキン」を解読しようとして行き着いたのは、
それが「崖のある(生活圏としての)山」という意味を持つということだ。
しかし、その意味は津堅だけでなく、
具志堅、久手堅、宇堅、宇検、そして久高も
同じ意味ではないかという広がりが同時に得られたのだった。

地名の由来は、地名の数ほどにあるわけではない。
むしろ、偶然と発音の自由度の幅のなかで、
音と文字の落ち着いた先に、それぞれの地名を名づけた島人の
個性や環境を見ることができるのかもしれない。

地名は奥深く、興味が尽きない。

ぼくたちはこうして、初期琉球弧の島人との対話の幅を
増やしているのではなだろうか。


 ※「津堅地名考1 チキンとは何か」
  「津堅地名考2 手がかりとしてのウティキン」
  「津堅地名考3 キンは山」
  「津堅地名考4 グシは崖」
  「津堅地名考5 グディキン(gudikin)」
  「津堅地名考6 グディは『崖』か」
  「津堅地名考7 津堅=久高」
  「津堅地名考8 久高島の由来」


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2007/09/09

与論が与論であるために

与論町長選は、現職町長の再選で決したようだ。

与論が与論であるために何が必要なのか。
どうあればいいのか。

この問いへの構想を立て持ち続けることが大切だと思う。

これからも町の行政をしっかり見つめていきたい。
力になれることを確かめていきたい。


亜熱帯の真昼の長い闘いはこれからも続くのだ。



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津堅地名考8 久高島の由来

もう少し先まで行けそうな気がする。

「グディキン(gudikin)」を、起点に「ウキン」というバリエーションを
想定することで、久高島の古い名称である「有見島」も、
同じ、「崖のある(生活圏としての)山」と解してきた。

一方、久高島が地元では「フボー」と呼ばれているので、
その由来を、「クバ」に求めてきた。

ところでぼくたちは、ここまでくると、
久高島の「久高」自体の由来についても
言うことができるのではないだろうか。

「グディキン(gudikin)」から
「久高」に変化することはありうるかもしれないのだ。

gudikin

↓「グ」の五母音化で「ク」

kudikin

↓「i」の「a」への転訛
 「n」の脱音

kudaka

と、辿ることができるのである。

ぼくたちは、この可能性も、これから育ててみたい。

 ○ ○ ○

仮に久高島の由来が、グディキンにあるとしたら、
グディキンからの変化によりウキンと呼ばれたこともあるが、
古名からの別の変化を経てクダカと呼ばれるようになった。

そしてそれとは別に、クバの茂るところとしての、
フボーという呼称が根づいていったことになる。

 グディキン(ウキン) 崖のある山
 フボー        クバの茂るところ

ここで、地勢を地名とする起源の名づけ方は、
グディキン(ウキン)にあるので、
フボーより前にウキンと呼ばれていた時期があるのは、
地名の呼び方として不自然でないことも言い添えることができる。

一見すると、久高島は、フボーより新しい地名と見なしたくなるが、
ここでの仮説に従えば、そうではなく、久高という地名は、
フボーより以前の古名に由来するということになるのである。

地名の織り成す綾は、地層のように含み豊かだ。


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ムコ多糖症の子を知って

ヨロンマラソンの時に、
ムコ多糖症支援のランナーがマラソンに参加されているのは、
ブログで知っていました。

 オレンジの波 ~ムコ多糖症支援ランナーのブログ~

病気のことに明るく前向きに取り組んでらっしゃるんだなという印象でした。

ところが、その当の与論島に、
ムコ多糖症のお子さんがいるのには気づきませんでした。

 ハートフル ヨロン


ムコ多糖症というのは、体内の代謝物質「ムコ多糖」から来ています。
生きていれば体にムコ多糖が生まれますが、
通常はそれを分解する酵素があって、体はうまく機能しています。

ムコ多糖症は、ムコ多糖を分解する酵素がないために発症する子供の病気で、
分解されずにたまる一方のムコ多糖のために臓器に障害を起こすのだといいます。
5万人に1人の新生児に発生すると推測されていて、
寿命は10歳から15歳と言われているのだそうです。

 ムコネット

ぼくたちの与論島にも、一人、
そのお子さんがいらっしゃるのをブログで知りました。
実はパラジ(親戚)のヤカ(兄)に言われて気づいた次第です。

 ○ ○ ○

力になりたいと思ったときには、行政への働きかけ、
治療薬の早期承認に向けての活動を支援することができます。

 □寄付をする
 寄付のお願い

 □支援活動メンバーになる
 メンバー募集

 □Tシャツを買う
 ムコネットTシャツ

 □インターネット基金で募金する
 ムコ多糖症支援ネットワーク・耀くん基金


舛添厚生労働大臣は、ムコ多糖症2型治療薬を
10月の早い時期に承認すると発言したばかり。

 舛添厚生労働大臣がお約束してくださいました!

また、この一昨日の7日に、「ムコ多糖症支援ネットワーク・耀くん基金」は、
NPO法人として発足しています。

 ムコネットから大変重要なご報告


実は、ぼくはこの手のことに言及するのはとても苦手なのですが、
与論という縁を想い、書かせていただきました。


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南の海辺でちょっと変わった旅人を演じる

JALの機内誌「SKYWARD」に、
小林聡美さんのインタビュー記事が出ていました。

 「南の海辺でちょっと変わった旅人を演じる」

Skyward

















「与論島」という言葉は出てきませんが、

「ロケ地は、ついた途端に頭からセリフが飛んでしまったほど、
ボーッとできる雰囲気なんです」

と、しっかりほめてくれています。

映画『めがね』は22日公開。
与論が舞台なのだから、与論でも上映してほしいですね。


メモ

 完結しています。
 かもめとめがねのおいしいごはん

 寺崎の映像が嬉しい。
 朝のたそがれ 

 22日初日には舞台挨拶が再びあるとのこと。
 めがね オフィシャルブログ




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2007/09/08

津堅地名考7 津堅=久高

さて、「グディキン(gudikin)」を起点に、
津堅島の「チキン」の由来を考えてきたが、
ここで、「チキン」にヒントを与えてくれた「ウティキン」の
文章を思い出そう。

 琉球の地図として最も古い『海東諸国記』(一四七一年)
 所載の「琉球国之図」に本島の東海上に「通見島」、
 「有見島」が見えているが、「有見島」が現在の久高島
 に間違いない。どう読めるのか久高島とは差が大きすぎる。
 しかし久高島の西海岸にウティキンの地名があり、
 ウティキン→ウキンと読める。古くは有見島と作られた。
 (『地名を歩く』新垣源勇)

これに助けを借りれば、

 通見島 - チキン - 津堅島
 有見島 - ウキン - 久高島

と、こう見なしている。

ところでぼくたちは、「チキン」も「ウキン」も
同じ「グディキン」から派生した言葉だと見なした。

「チキン」と「ウキン」は同じである。
ということはつまり、
津堅島と久高島は地名として等価だということになる。

津堅島と久高島は、その古名の語源が同じなのだ。

 ○ ○ ○

 津堅と久高と 船橋かけて
 津堅のみやらび わたちみさぶ

津堅島と久高島に橋をかけて、
津堅の乙女を久高に渡してあげたい、という、
これは両島の親密感を示した詩である。

この詩が示すように、二つの島は、男性と女性というような、
対なる関係とみなされてきた。

ぼくたちは、この寄り添っているということに、
地名として等価だという意味を加えることができる。

沖縄島から、二つの島を眺めたとき、
同じような形の島が対にあるように見えるに違いない。
そして二つとも同じ意味の地名がつけられた。
両者は、互いを区別するように違う音に落ち着くが、
やがて漢字が当てられる頃には、
語源が同じということは忘れられていたに違いない。

けれど、無意識のうちには、
地名を同じくしたことを互いの親近感のうちに
確認しあってきたのだと思える。

ぼくたちはここで、西表島の沖合いに浮かぶ、
波照間島と鳩間島が、同じ「沖の島」の意味ながら、
音を変えていった例を思い出す。


後世の人は地名の字面にロマンを見つけたがるのだけれど、
実は、地名の変遷のなかにロマンは宿っている。
これはそんな例かもしれない。


 ※「津堅地名考1 チキンとは何か」
  「津堅地名考2 手がかりとしてのウティキン」
  「津堅地名考3 キンは山」
  「津堅地名考4 グシは崖」
  「津堅地名考5 グディキン(gudikin)」
  「津堅地名考6 グディは『崖』か」
  「津堅地名考8 久高島の由来」
  「津堅地名考9 『グスク』の可能性」
  


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写真作家デビュー

鈴木ゆりあが写真作家デビューした。

彼女は、高校生で、たしか楽園荘の手伝いをしながら、
好きな写真を撮るなんてアクティブな与論滞在生活を送っていた。

世代に持つイメージとは逆に、
大きなアナログカメラを首から提げていたのが印象的だった。

ぼくは、当時、百四歳だったぱーぱー(祖母)と
二人並んだ写真を撮ってもらったのだけれど、
その翌年、ぱーぱーが他界したことを思うと、
それは間に合わなかったかもしれない一枚で、
ぼくの大切な宝物になっている。

これはそのとき与論を写したものをいただいた一枚だ。

Shell
















(c) Yuria.Suzuki (画像のダウンロードやプリントはご遠慮ください。)


一度、お誘いを受けて、高校の文化祭に行ったことがあった。
与論をはじめとした彼女の作品を観たのだけれど、
対象物とのあいだの透明感というか、
被写体にそのまま触れているような、鮮やかな印象が残っている。

彼女の後輩が、先輩は格好いいと話していたけれど、
ぼくも同感だった。

この9月の「フォトコンテスト」という雑誌に、
鈴木ゆりあのいくつかの作品とインタビューが載っている。

Photcontest











彼女は、高校を卒業すると学び舎での道を終え、
写真作家としてデビューしたとある。
そして、18歳で個展を開催、写真作家デビューしたというのだ。

 鈴木さんが好んでカメラを向ける対象は、
 雨に打たれて錆びたもの、使い古され朽ち果てたもの、
 ひび割れたもの。
 それらはすべて、堆積した時間の跡であり、
 街の跡、島の跡であり、
 作者自身がたどってきた足跡でもある。

鈴木ゆりあがこれからどんな作品を見せてくれるのか。
どんな与論の表情をぼくたちに教えてくれるのか、
いまからとても楽しみだ。




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2007/09/07

津堅地名考6 グディは「崖」か

ぼくたちは音の可能性を頼りに、
グディキン(gudikin)という語を復元し、
そこから、チキンをはじめとする地名のバリエーションを想定してきた。

では、グディ(gudi)は何を意味するだろうか。
というより、グシの「崖」という解釈をもともと手がかりにしてきたが、
「グディ(gudi)」は、「崖」の語源たりうるだろうか。

まず、アイヌ語の「崖」である「ピら(pira)」は、
琉球弧のなかでも「ピら(pira)」が語源と思われる地名を
散見するけれど、「グディ(gudi)」は、
どう転んでも「ピら(pira)」にはつながりそうにない。

 pira ピら
 【H】がけ;土がくずれて地肌のあらわれている崖。
 (『地名アイヌ語小辞典』知里真志保)

「グディ(gudi)」が、荒唐無稽な言葉ではなく、
「崖」に結びつく可能性はあるだろうか。

たとえば、奄美の方言で、「崖の崩れているところ」を指した
「クズぃルぃ」という語が紹介されている。

 「クズぃルぃ」 

 アマ ヌ クズィルィー アム ヌ フルバ アブネサット。
 あそこ の 崖は 雨 が 降ると 危ないよ。

Webの表記通りには書けていないのだが、
「クズ」で「崖」の意味も含意させているのが面白い。

この、(崩れる~崖)としての「クズ」であれば、対応できると思える。

gudi

↓「グ」が五母音化して「ク」
 「ディ」の転訛で「ジ→ズ」
kuzu

と、「グディ」の「クズ」への変化は想定することができるからだ。

ぼくたちはひとまず、「グディ(gudi)」を「崖」の意味であると考えよう。

 ※「津堅地名考1 チキンとは何か」
  「津堅地名考2 手がかりとしてのウティキン」
  「津堅地名考3 キンは山」
  「津堅地名考4 グシは崖」
  「津堅地名考5 グディキン(gudikin)」



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ジャンプ!

Yoshijump_2

















シャチボート?からジャンプ!
(勝手に遊びました。お店の方、ごめんなさい)


Yoron2007_038













落石したフバマの岩からジャンプ!
(NASHIさんのようにはシャッターを切れなかった)

Kyukei













しばし、休憩。

Kyukei2













ふたたび、休憩。
(これまたホテルの宿泊客でもないのに)

Sojump

















そして、珊瑚岩からもジャンプ!

Gomanetsu













シャチボート?でご満悦。
(これまた勝手に。m(_ _)m)


少年たちの夏のハイライトは、フバマ・ジャンプでした。
ぼくが小さい頃はこんな風に遊んだことはなく、新鮮。

思えば、三年前、パラジのヤカが貸してくれた
ローボートからジャンプして飛び込んだときの気持ちよさに、
味をしめたのでした。

 ※「格さん、助さん、漕ぎなさい」

こんなことができるのも、
フバマの礁湖が、湖のように穏かで優しいから。

フバマは与論一優しい海と、
勝手に思い込んでます。

少年たちを優しく迎えてくれたフバマよ、
とおとぅがなし。



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2007/09/06

津堅地名考5 グディキン(gudikin)

津堅(チキン)、具志堅(グシチン)、宇堅(ウキン)、
久手堅(クディキン)は、地名として等価だろうか。
改めて問うてみる。

こんどは、地名の意味を脇に置いて、音のみを頼りに、
チキン、グシチン、ウキン、クディキンになりうる語を
古形に向かって遡るとどうなるだろう。

ここで、ぼくの狭い知見の及ぶ範囲で、
極力、必然性のない語の操作を排除して由来をイメージすると、
グディキン(gudikin)の表音に行き着く。

 グディキン(gudikin)

グディキンという語を置けば、
チキン、グシチン、ウキン、クディキンの
表音にたどり着くことができると思える。

表音の変化を想定してみよう。


■チキン(津堅)、ウティキン

□グディキン

gudikin

↓「ディ」の転訛で「ヂ」。
 「ヂ」が清音化して「チ」

gutikin

↓語頭の g が脱音

utikin

□ウティキン

↓語頭の母音が脱落

tikin

□チキン(ティキン)

------------------------------

■ウキン(宇堅)

□グディキン

gudikin

↓語頭の g が脱音

udikin

↓母音に挟まれた d の脱音

uikin

↓母音 ui が u に単音化

□ウキン

-----------------------------

■グシチン(具志堅)

□グディキン

gudikin

↓「ディ」の転訛で「ジ」

guzikin

↓「ジ」が清音化して「シ」
 k の転訛で t

gusitin

□グシチン

-----------------------------

■クディキン(久手堅)

□グディキン

gudikin

↓「グ」が五母音化して「ク」

kudikin

□クディキン


このように、グディキン(gudikin)を、
復元された起源の語として置くと、
チキン、ウティキン、ウキン、グシチン、クディキン
への転移を想定することができる。

グディキン(gudikin)。

この、聞いたこともない奇妙な表音は、
何を物語っているだろう。


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砂浜をめぐる

「なんでそんなことするのかさっぱりわからんちょー」
と、パラジ(親戚)のアンニャー(姉)に言われて苦笑したものの、
今回、やりたかったのは、与論の砂浜めぐりだった。

もっと言えば、与論島の全砂浜を写真に収めようと思った。

仮にも、ぼくは「砂の島」と、「ゆんぬ」の地名を解している者だ。
自分の足で、“砂の島”としての与論島の感触を
つかみたいと思ったのだ。

 ※「砂の島、与論島。」

思えば、与論に何度も帰ってきているとはいえ、
ぼくにとって与論滞在とは、
宇和寺でパーパー(祖母)と過ごし、
フバマに泳ぎにいくことだった。

子どもを連れてくるようになってもそれは変わらない。
むしろ、フバマから上がって少し休むと、
すぐに、「お父さん海行こう」とせがまれるので、
フバマへの頻度は高くなったくらいだった。

ぼくはそれでよかった。
それ以上にやりたいこととてなかったから。

宇和寺と祖母とフバマ。
祖母の生前、ぼくのいう与論とは、
畢竟、この三つのことだったかもしれない。

そのせいで、与論が好きで何度も帰っている割には、
与論を知らないのだった。

それに、言葉を手がかりに地名を探りながら、
フィールドワークをしていない(できない)後ろめたさは
いつも感じているので、砂浜めぐりは、
しなくては、という思いがあった。

 ○ ○ ○

旅の人に、南国モータースを紹介したついでに、
自分もそこで自転車を借りた。

それを足に、ぼくは一周道路ではなく、
もっと海辺の通りを走った。

巡っての実感は、東西南北(あがりいーぺーみし)、
どこも、砂浜だらけだった。

隆起珊瑚礁は、その裾野に砂浜を置いて、
海とのクッションをつくり、
島を穏かに包んでいるようだった。

さすが珊瑚の島だ。

行程は純粋に砂浜めぐりに終始したわけではない。
朝、出発して、もう幾時間も経たないうちに、
ある浜辺で、漁師さんにとれたての魚をいただき、
腐らせないようにと、一端、戻って冷蔵庫に入れて、
一休みして、また出かけるという嬉しい道草もあった。

ただ、時間の勘定をしていなかったので、
午後の、陽射しがいちばん強い時間に、
島の南の、砂浜少なく勾配急な道を走ることになった。

岩陰があると思い、少し休もうと近づくと、
うすうす思っていた通り、風葬の跡。
のんびりするわけにもいかないと、
そこから目の前にある急な坂を砂浜目指して下ると、
そこは、与論では珍しい巨石が並ぶ岩場だった。

人を寄せ付けないその風景は、
他界としてのニライカナイ、「根の堅州国」を思わせた。

けれど、ぼくもまいっていた。
わずかばかりの木陰に、腰をおろして、
荒い息が収まるのを待とうとした。
ああ、これが進むといわゆる熱中症になるのかなと
漠然と思っていたが、場所が場所、
坂の上には風葬跡が見え、
すぐ下には、他界への入り口が口を開けているようで、
長居はいけないと感じていた。

けれど、身体は動かない。
はーはー、と息を切らしていると、
ちょうどそこへ携帯にCメールが入る。

学校があるからと先に帰した子どもから、
「お父さんのメールアドレス教えて」。

他愛ないもので、
ぼくはそのひとことで力が湧きあがってきて、
腰をあげ自転車を再び漕ぎ出すことができた。

今思えば、あれはちょっとした危険な状態で、
ぼくは子どもに助けられた気がしている。

 ○ ○ ○

充電切れには万全を期して?
充電池をもう一個、用意していたのに、
自転車で走ればついつい、
花や七離れや辺戸や沖永良部を写したくなるもの。

予定外に枚数を重ね、
想定外にSDカードを切らしてしまった。

で、一日では完遂に至らず、
二日をかけて巡ることになった。

極度の方向音痴の本領を発揮して、
また、海に向かう小道を見つけては入り、
途中、農道の終わりを確認して戻ることも繰り返したので、
おかげで、与論が小さなアップダウンの多い、
坂の島であることも体感した。

ヨロンマラソンのきつさも少し分かった。

でもなにより、足はパンパンに腫れたけれど、
砂の島としての与論島を実感することができた。

 ○ ○ ○

名を知らない浜も多くあり、
強烈な陽射しの中、見落としている小さな砂浜も
きっとあるだろうけれど、
与論の砂浜を見てきました。

画像データを整理しながら、
その成果を少しずつ、披露していくつもりです。

(長文、ごめんなさい)



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2007/09/05

関わらずには生きていけない

「よろしければどうぞ」と窓際の席をカップルに譲ったら、
「ありがとうございます」と言われた。

二人より後に席に辿り着いたので、
自然にそうしただけのつもりだったけれど、
お礼を言われてみると、
指定された席に機械的に座らなかったのは、
気持ちのゆとりのせいなのかもしれなかった。

ただ、飛行機が東京に着けば、
そんなこと瞬時に忘れて、
また加速し重畳する時間の矢に紛れ込むように
過ごすのかもしれないなと思いながらも、
これは悪くない気分だった。


今回の帰省は、これまでのなかでも、
いちばんと言っていいくらい大切な出来事が重なって、
与論の海と人の情けに言葉にならないくらい
感謝したい濃密な時間だった。

そしてそのなかでも、
東京に戻った直後に、胸に刺さっているのは、
パラジ(親戚)のヤカ(兄)と話していたとき、

 おまえのこと、分かる気はするよ。
 あれだろ。関わらずには生きていられないんだろ。

と、言われたことだ。

関わらずには生きていられない。

もう、まったくその通りだ。
それは今のぼくの気分にぴったりだ。

そう思った。

けれど、そう思ってすぐに、
いや、今の気分、じゃなくて、
ぼくの生の規定みたいものじゃないかと思い返した。

無視を決め込んだことはない。
けれど、諦めようと思い込んだことは何度もある。
この際、与論に全てを駆けると思ったことも、ある。

けれど、どれもうまくいった試しがない。

 関わらずには生きていられない。

だから、この言葉は、生きる基軸のようになってくれる気がする。
ありがたいひと言。
 
 とおとぅがなし。


今回、出会えたすべての方々にも、
心から、お礼をいいます。

とおとぅがなし。



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津堅地名考4 グシは崖

津堅(チキン)、具志堅(グシチン)、宇堅(ウキン)、
久手堅(クディキン)は、地名として等価だろうか。

そこに行く前に、キン(チン)は、
「生活圏としての聳えていない山」のことだと解したのと同じように、
「キン」の前に来る部分の意味をおおよそ掴んでおきたい。

地名としてみるなら、
何かのある「生活圏としての山」となるはずだ。

『地名を歩く』には、
「具志川」について考察した文章がある。

 具志川は方音で「グシチャー」、「グッチャー」と言っている。
 (中略)

 旧具志川市(うるま市)の具志川城は、字具志川小字下敷原
 の海に面している。築城は同市字安慶名にある安慶名城大川
 按司の子により、三代の居城であったという。
 以上の三城跡には次のような共通したところがある。
 (1)いずれにも海に面して、海側は標高二〇メートルの
 断崖絶壁をなし、後方はゆるやかな台地に続く。
 (2)久米島及び喜屋武の具志川近くの海岸に大和泊があり、
 旧具志川市の同城には大和泊があったかどうかは不明である
 が、プラマ港という海外貿易に利用した港を控えている。
 (3)遺跡から出土する遺物には、青磁、中国製陶器、
 グスク系土器などがある。
 (『地名を歩く』宮城幸吉)

宮城は、具志川の意味について結論を述べていないのだが、
ここでは、(1)に着目したい。

(1)の「海に面して、海側は標高二〇メートルの
断崖絶壁をなし、後方はゆるやかな台地に続く」という観察だ。

ここで、標高二〇メートルにこだわる必要はないと思えるが、
断崖という観察は、「キン」の前部分の地名の意味なのかもしれない。

津堅島には、ホートゥガーから遊歩道にかけて、
崖と呼ぶべき地形を持っている。

 ホートゥガー
 遊歩道
 
斎場御獄のある知念半島の「久手堅(クディキン)」も
断崖になっている。

 久手堅

金武湾のある「宇堅(ウキン)」は、
崖と呼ぶにふさわしい場所があるのか確かめられていない。
ひょっとしたら、「宇堅(ウキン)」は、
別の地名なのかもしれない。

もっと個別の地形は見ていかなくてはならないけれど、
言葉の意味を先に進めてみよう。

「具志川」を例に、「グシ」を「崖」の意味に採ってみる。

すると、「グシキン」は、
「崖のある(生活圏としての)山」という意味になる。



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2007/09/04

Cafeチカ

今回の帰島でとても助かったのは、
与論にインターネットカフェができたことだった。

 Cafeチカ

Cafechica














手持ちの装備は、細い回線で、
時間を気にしながらつなげるしかないので、
心もとないのだけれど、
ネットカフェがあると心強い。

島の外とすぐにつながることができる。

 ○ ○ ○

ぼくは二度しか足を運んでいないけれど、
昼下がり、驚いたのは小学生の多いことだった。
ネガティブな意味でいうのではありません。
ぼくは嬉しかった。

お店においてある落書き帳には、
将来の夢として、Webデザイナーと書いている子もいた。
彼ら彼女らは、与論と世界がつながる術として、
インターネットがどこでもドアの役割を果たし、
彼らの未来を作ってくれる道具であることを、
直感的に知っているのだと思う。

ぼくは、Cafeチカから、将来の与論を支える力が
生まれてくるのではないかと、
頼もしく嬉しく思った。

店主さんも、子ども達に暖かい言葉を投げかけていて、
ネットカフェはよくある、無機質空間ではなく、
人のいる空間に思えて居心地もよかった。

目下、町長選挙のただ中だけれど、
候補者の方は、このカフェの持つ潜在力を知ってほしい。
いや、生かし甲斐のある道具が目の前にあることを、
現行政担当者も知ってほしいと思う。

もとい。がんばれ、Cafeチカ!



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津堅地名考3 キンは山

多良間(タラマ)や来間(クルマ)、慶良間(ギルマ)などの
古形として波照間(パティルマ)を考えたのと同じように、
「ティキン」または「ウティキン」の
古形を想定することはできるだろうか。

そう考えて、波照間地名考の際、語尾の「マ」を軸に、
多良間(タラマ)や来間(クルマ)、慶良間(ギルマ)、
鳩間(パトゥマ)、加計呂麻(カキルマ)の類縁を辿ったように、
「ウティキン」の「キン」を軸に探ってみると、
次のような記述に出会う。

 これまで「キン」は、アイヌ語の“山脈”をいう「キム」
 に関連する訳が大方である。
 金武の他に、具志堅(グシチン)、健堅(キンキン)、
 宇堅(ウキン)、久手堅(クディキン)など、堅の字が
 当てられ、方音で「キン」や「チン」と読む地名の地は、
 全て琉球石灰岩台地に立地する。
 (『地名を歩く』久手堅憲夫)

実をいえば、久手堅は、ここからアイヌ語とは異なる
自説を展開するのだけれど、ぼくたちはひとまず、
アイヌ語に止まって考えてみる。

手元の『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保)によれば、

 kim きム(「ム」は小さく表記されている-引用者注)
 里または沖合に対して云う山。生活圏の一部としての山。
 村の背後の生活資料獲得の場としての山。
 「爺さんが山へ柴刈りに行った」などという時の「山」
 の観念に当る。従ってこの kim は聳えることができない。
 それが nupuri「山」との差である。

生活圏の一部であり聳えることはない「山」の意味なら、
山脈的に捉える必要もないので、南島的な景観にも合っている。
聳えていなくても、植物の茂ったところを「山」と呼ぶ
呼び方もあるくらいだ。

注目したいのは、具志堅(グシチン)、健堅(キンキン)、
宇堅(ウキン)、久手堅(クディキン)で、
「キン」が語尾にくる地名のうち、「健堅(キンキン)」以外は、
同じと見なせそうな気がする。

「宇堅(ウキン)」は、「津堅地名考 2」で見た新垣の
「ウティキン→ウキン」としての「有見島」のことを
思い出させる。


果たして、津堅(チキン)、具志堅(グシチン)、宇堅(ウキン)、
久手堅(クディキン)は、地名として等価だろうか。



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公開質問状への回答を見る

今日、告示された与論町長選挙の候補者に向けた
公開質問状の回答を見ることができる。

 与論町長選における公開質問回答

ぼくはタイミングよく帰島したおかげで、
回答の内容を肉筆で読むことができた。

これを肉筆で読むことの意義は、とても大きい。
もちろん、ネット上に公開されている回答を読むだけでも、
二人の候補の考え方、姿勢がつかめてくるのだけれど、
肉筆は、肉筆でしか伝えられないものを雄弁に物語っている。

ぼくは、島に住む者ではないので、
無責任な言い草として聞き流してもらって構わないけれど、
島に住んでいる方は、
ぜひ、手書きの回答書を見て、
意思決定の判断にしてもらえたらと思います。

 ○ ○ ○

今日、南の浜辺でお会いした旅の人が、
与論にはまったと話してくれた。

沖縄の離島もめぐったけど、与論がいい。
何より、海がきれい。
そして、人が、いい意味でリゾートリゾートしていない。

ほんの一例だけど、
こんな旅の人の想い育む与論島づくりの新しい局面に、
今、島は立ち会っているのだと思う。


 ※喜山康三議員の公開質問状




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朋の遠方より来るあり

与論に帰島する前の晩は、
奄美大島から出張でいらした高梨さんと、
奄美料理まれまれの夜だった。

 朋の遠方より来るあり。

初対面だったけれど、
そう呼ばせていただきたいとても光栄な夜だった。

奄美とは何か?
そのことをめぐっての話は夜半まで続いた。
夕方から時間を設けたのだが、
やはり足りなかった。

話題は尽きない。

  また楽しからずや。

まったくそのとおりだった。

ぼくは、奄美の捉え方をめぐって
共感を得られたことはめったにない。
同世代でもどちらかといえば、
出身地の話題を避ける、
あるいは出身地の話題を持たない
奄美出身者ならよく知っている。

だから、まれまれでの夜は、
自分の他愛ない孤独感も氷解していくようだった。
こんな出会いを用意してくれるのだから、
ブログはありがたいと思わないではいられなかった。

 「奄美諸島史の憂鬱」

このブログを読む人のなかに、
もし、自分の考えや表現に孤立感を抱いている方がいたら、
思い切って表現することを勧めます。
きっと、共感の出会いが待っていると思います。


さて、ぼくはといえば、
その晩、いただいた多くの資料を吸収していくことが、
返礼だと思っている。

再びこの機会のめぐってくることを楽しみに、
奄美への眼差しを育んでいきたい。

本当にありがとうございました。




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出陣式の朝に

父の最大の囲碁友達だった竹下先生に、
父が生前、お世話になったこと、
お礼に伺いたいとお伝えしたら、
時期が時期、人目をはばかるでしょうからいいですよ、
とおっしゃられた。

それでもお目にかかりたいと思っていた矢先、
今朝、町長選挙の出陣式を行なうと聞いて、
そこでお会いすることができると思い、お邪魔してきた。

Photo_2












ぼくは投票権も持たない身なのに、
TV局や新聞社の方に混じって前の方で聞いてしまい、
後ろに大勢いらした支持者の方達には失礼かもしれなかった。

けれど、竹下先生にはお会いすることができ、
また、貴重な出陣式の場にもいさせてもらって、
与論の大事な局面に立ち会うようで嬉しかった。

今日、告示。こんどの日曜が投票日。

よりよい与論島づくりが始まる日であることを、
切に願わずにいられない。

 ○ ○ ○

課題もポテンシャルも巨大な与論島。
こんな地域はそうそうない。

ポテンシャルの巨大さで、
巨大な課題に立ち向かう力強さを持ってほしい。

ぼくもまた、コミットの形を見つけていこうと思う。



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2007/09/03

津堅地名考2 手がかりとしてのウティキン

津堅島と対で語られる久高島は、
地名のつながりはないのか、関心をそそられる。


そういう目で見ていたら、
久高島には、ウティキンという地名があるという。

 琉球の地図として最も古い『海東諸国記』(一四七一年)
 所載の「琉球国之図」に本島の東海上に「通見島」、
 「有見島」が見えているが、「有見島」が現在の久高島
 に間違いない。どう読めるのか久高島とは差が大きすぎる。
 しかし久高島の西海岸にウティキンの地名があり、
 ウティキン→ウキンと読める。古くは有見島と作られた。
 (『地名を歩く』新垣源勇)

新垣は、「ウティキン→ウキン」とい転移を想定しているが、
ぼくは、津堅島のこととして、
「ウティキン→ティキン」という転移を想定する。

語頭の母音は脱落することができるから、
(utikin)→(tikin)という転移はありうる。
それなら、チキンの古形としてウティキンを
想定することができるからだ。

そして、「ウティキン」が想定できるなら、
その古形もさらにありうると思える。

というのも、ぼくたちは以前、
波照間(パティルマ)の地名について、
語頭の子音pと母音aが脱落することで、
多良間(タラマ)や来間(クルマ)、慶良間(ギルマ)
のバリエーションを持ったと想定してきたが、
このような転移の途中の形として、
「ウティキン」を想定することも可能だからだ。

「来間島、『沖の島』のひとつ」




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2007/09/02

津堅地名考1 チキンとは何か

久高島とペアで語られるお隣の島、津堅島が気になってきた。
チキンという地名の由来が分らないからだ。

 ※「久高オデッセイ」


ただ、なんとなく反芻するうちに
こうではないかと思うことが出てきたので、書いておきたい。

もとよりぼくは専門家ではなく、
地名を研究するものに必須であるという
現地に足を運んだこともない。
そういう意味では、資格なしなのだけれど、
けれど、決して通りすがりの興味本位で
やっているわけではないので、ご容赦いただきたい。

あるいは、ぼくは通りすがりの旅人に過ぎないけれど、
民俗を内側から開く視線を手離したことはないので、
お許しいただきたい。

 ○ ○ ○

ぼくがここでやりたいのは、
地名を通じた琉球弧のつながりの確認だ。

チキンの由来について、野本さんの『海と島の思想』では、
『遺老説伝』に、島に移ろうとした親子が
やっとの思いで島に着いたとき、
「チキタン(着いたぞ)島に」「チキタン、チキン」と思わず叫んだ、
という故事が書かれていて、
地名はそこから来ていると紹介されていた。

これは、駄洒落ならともかく、真に受けるわけにいかない。

なんとか、手がかりを見つけてみたい。


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2007/09/01

『海のふた』

 ソテツが大きくて、全体に少しさびれていた
 愛すべき奄美大島よ。
 ある日ドライブして行った国直海岸で
 「喫茶・工房てるぼーず」のかき氷を食べて、
 そこ出身の奥さんに集落の福木の道を案内していただき、
 私はその思い出を「海のふた」という小説に書いた。
 睦念さんがそこにすばらしい絵をつけてくれた。
 自分が産まれたところを愛する気持ち・・・
 それがいかに気高いものなのか、
 私は彼らから学んだのだと思う。

と、よしもとばななが、『なんくるなく、ない』に書いていて、
『海のふた』に導かれた。

海のふた (中公文庫)
Uminohuta












短大を卒業して南の島に移住しようと考えた「まり」は、
下見にのつもりで行ったその島で、
かき氷屋のおばさんのひと言に打たれる。

 「この景色が好きで、ついついここに帰ってきちゃった。」
 とおばさんは笑った。その真っ黒に焼けた肌と
 大らかな接客の芯のところに、
 ふるさとをどうしようもなく愛している心があった。
 私はそれにがつんと打たれるような気がした。

 そうか、そうなんだ。
 私にはソテツも福木もさとうきびもガジュマルもみんな、
 とっても珍しくて新鮮なものだ。
 いつまでだって見ていたし、
 恋したみたいに夢中だ。

 でも、私にとって、
 この人がこの海と福木があるこの場所に
 戻ってきてしまったように、
 とてもうっとうしいけれど心がいつも帰っていくところは、
 あの、西伊豆の夕陽に映える景色や植物以外にはないのだ、
 そう思った。

このきっかけはいい。
この、まっとうなきっかけで「まり」は西伊豆に帰り、
かき氷屋を開店する。

物語は、「まり」の母の親友の娘である「はじめ」と
西伊豆で過ごしたひと夏の思い出を綴ったものだ。

「はじめ」は、祖母の他界を機に起こった親戚の諍いを、
まるで避暑のように避けるために、「まり」の家に預けられた。

「まり」は、かき氷屋をやりながら、
どこか自然の精のような「はじめ」と接することで、
人と自然の深いところに降りてゆき、
また、貝で魂をこめるように、
ぬいぐるみを作るという「はじめ」の再生の力に癒されてゆく。

 ○ ○ ○

そんな、とてもいい作品なのだが、
ぼくは、その感想というより、
奄美とのかかわりで別のことを書こうと思う。

 でも、ほんとうは、そういう小さな痛み・・・
 おばあちゃんの木を残したいとか、
 そういうくらいのことだけしか、
 私たちは背負えないんじゃないだろうか。
 人ってそんなに遠くのことを心配するように壮大には
 できていないと思うの。

 もちろんはじめちゃんの彼みたいに、
 縁があって遠くの国の子供のために働いている人は別だよ。
 私の言っているのは、普通の、
 一生国から出ないような人の話ね。
 たとえばこの目の前の海には、
 ほんとうに昔はもっともっとたくさんの生きた珊瑚がいたんだよ。
 そこはまるで森のようで、
 海草が茂っていて、小鳥が飛び回るみたいに、
 いっぱいの魚がいたの。
 でも、今はいない。
 そのことが、私はただ淋しいし、
 どうしても受け入れることができない。

主人公が、西伊豆について語るところ、
ぼくなど、ほとんど、与論の海のことを代弁してくれているように読む。
自然なまっとうな心情の吐露を作品を通じて受け取りながら、
ぼくたちはぼくたちもまた淋しいと思い、
日ごろ、それを我慢しているのを気づくのではないだろうか。
ぼくたちもまた、珊瑚や魚たちのいなくなった海を、
受け容れることができないでいるのではないだろうか。

 ○ ○ ○

もう一度、こんな述懐は出てくる。
こんどは、自分で立ち直ろうとするところまで、ある。

 この夏、はじめに素もぐりをしたとき、私は思ったものだ。
 昔からもぐっている同じポイントで・・・・
 海の底には昔と同じ形の岩があり、
 まるで建物のように立派な形でそびえたっていて・・・
 でも、そこにはもう生きた珊瑚はなかった。
 魚もいるにはいたけれど、昔みたいに、
 色とりどりにむせかえるようにはいなかった。
 ここはまるで廃墟のよう、遺跡のようだった。

 遺跡とは過去のすばらしいものがすばらしさゆえに
 残っているものだと、私は思っていた。

 でも、それは違う。遺跡は、
 かつて栄えていたとてもすばらしい場所の、残骸なのだ。

 もうどうやってもあのにぎやかさは帰ってこないのか?
 そう思っただけで、私は悲しくなった。

 こんなに多くの何かを失って、
 得るべきものはなにかあったのか?
 より安全になったわけでも、
 すごく便利になったわけでもない。
 ただがむしゃらに道を作り、排水を流し、
 テトラポッドをがんがん沈めて、
 堤防をどんどん作っただけだ。
 いちばん楽なやり方で、頭も使わないで、
 なくなるもののことなんか考えないで。

 考えれば、適切な方法は
 絶対にあるはずだったのだ。
 お金か? 誰がそんなものを引き換えにするほど
 お金を節約できたり、楽ができたのか?
 私の友達たちを、返してほしい。
 はじめちゃんに、おばあちゃんの思い出の
 かげりのないものを返してほしい。
 私やはじめちゃんの愛することを、
 お金に換算しないでほしい。

 誰もいなくなった淋しい海底で、
 私は水中眼鏡をしたまま、息を止めたまま、
 泣きそうになった。
 私のかき氷屋なんて、すごくちっぽけで、
 役に立たなくて・・・。

 でも、ざばっと上がって、
 この小さな体がしなやかにしょっぱい水を
 イルカみたいに切ったとき、
 真っ青な空と山のまなざしを強く感じたとき
 「いいや、とにかく続けよう」と
 静かに澄んだ気持ちで思ったのだ。
 それしかできることがないから、無駄っぽくてもしよう、って。

 そして古代の遺跡が雨に洗われて、
 やがて花が咲き、木が育ち、道もでき、店もでき、
 世界中から観光客が来てにぎわって・・・・
 決して元のようではなくても、
 またかりそめの反映が訪れたりするように・・・・
 できることなら、一匹の小さい伊勢海老でも、
 赤ん坊のウニでも、ひとつまみの珊瑚でもいい・・・
 またこの海に戻ってきますように。

 誰かが神社を大事に思って毎日散歩に行ったり、
 ちょっと掃除をしたり、ご神木にありがとう、
 お疲れ様と言いますように。
 一軒でもいいから、にぎやかで小さなお店ができて、
 この町のけだるさに流されずに人を呼んでくれますように。

 誰かが、たとえひとりでもいいから、
 この町を大好きだと思い、そしてその愛のこもった足の裏で
 道をぺたぺた歩いてくれますように。

 この町に来た観光客が、
 言い知れない懐かしさや温かさを感じて、
 そして「また来よう」とここを大切に思う気持ちを、
 住んでいる人たちの糧になるような輝きを、
 置いていってくれるようになりますように。

いけないくらい長い引用になってしまった。
でも、途中で止めるわけにいかない気持ちになる。
誰かを責めて終わりたいわけではない。
でも、このままでいいとも思っていない。
できることをしようと思う。
その気持ちの流れをしっかり辿りたくなった。

  ○ ○ ○

あれ、どうやらぼくは、
このところを読んでほしいと思って書いたようです。
写し終えたら、なんだか済んだ気がしてきた。

心の洗濯のできるまっとうないい作品です。
ぼくは、奄美への応援歌のように、読みました。

名嘉睦念の絵も、小説作品に拮抗するようによかった。

この作品は、小説ではなく、小説と絵というのがふさわしい。


 ※(「なんくるなく、ない」



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