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2007/08/16

「沖縄問題」とは何か 1

「奄美諸島史の憂鬱」の高梨さんに教えてもらった
『「沖縄問題」とは何か』は、
現在の沖縄知識人による「沖縄像」が
どこにあるのかを教えてくれるようだった。

Okinawamondai














『「沖縄問題」とは何か』は、
仲里効(なかざといさお)と高良倉吉(たからくらよし)が、
「日本の中の沖縄」、「沖縄独立論」などのテーマについて、
それぞれに書くスタイルを採ったもので、
30のテーマについて、掛ける2で計60の論考を読むことができる。

どう言ったらいいだろうか。

ぼくの印象は、
仲里の考えは、イオロギー内部で自動回転する空疎なものに見え、
高良の考えには、沖縄住民の目線を失わない
現実的な説得力を感じるものの、
ビジョンを構想する場面ではそれが失せ、
可能性はむしろ仲里の視点を深化させることにあると感じる、
そんな入り組んだものだった。

 ○ ○ ○

たとえば、「リゾートアイランド沖縄」のテーマで、仲里は書く。

 やっかいなのは、こうしたリゾート化した沖縄像を
 沖縄の人たち自身が内面化していくようになったことである。
 疲れた日本のナショナリズムの幻影を
 沖縄人自身が模倣し、演じる、
 これはもはや喜劇以外のなにものでもない。

 忘れてもらっては困るのである。
 癒やしを求められたリゾート沖縄の対極で、
 高い失業率や自殺率を記録する現実を生きている
 沖縄の人が、リゾートを享受することは決してない、
 ということである。
 九・一一以降、落ち込んだ観光客の穴埋めのため
 「沖縄の人だってリゾートしたい」という
 地元誘客をねらったキャンペーンは、
 痛烈な皮肉になって沖縄自身を笑った。
 (「地元は癒やされぬ『喜劇』」仲里効)

これなど、現実の沖縄の人の生活感情をかすらないのではないか。
沖縄の人は疲れた日本のナショナリズムを模倣し、
リゾート像を内面化しているのではない。

沖縄が都市化され、沖縄の人が都市としての疲れを知り、
それによって、癒す場としてリゾートの力を持つ沖縄を発見し、
いままで意識もしなかったことを、改めて受け止めている。
沖縄の人はリゾートを享受しているのである。

もちろん、失業率や自殺率の背景を見れば、
享受する余裕などないという現実が転がっているのも事実だが、
沖縄の人がリゾートを享受しないというのは虚像である。

日々量産されていく琉球弧テーマのブログを見ていると、
とくにこのシーズン、半分以上は観光客の「青い海、きれい」の記事が多い。

けれど、島に住み、島を見つめる記事だってある。
彼らは島固有の生活の困難を見据えながら、
同時に、島に癒されていることを、
ぼくは信じて疑わない。

むしろ懸念すべきなのは、
リゾートとして差し向けている表情のなかで、
民俗や文化が風化されてしまうことだ。
それがリゾート化とは別に深く掘り下げられているかが課題だ。

 ○ ○ ○

「日本国憲法」のテーマについては、こう書く。

 沖縄の自律の思想は、
 「平和主義」と「象徴天皇」の結婚から生まれた
 <われわれ>とは異なる政治的公共圏を
 群島的想像力において独自に案出した。
 八一年の「琉球共和社会(国)憲法」がそれである。
 この憲法空間は、九条と一条の抱き合いの構造を越えた外部に、
 天皇を持たない異族としての沖縄の可能性を発明した。
 前文には「好戦国日本」への決別がうたわれ、
 九条の理念が析出されていた。
 (「九条と一条が抱き合う幻想構造」仲里効)

「九条と一条が抱き合う」構造になっているという指摘は分かるが、
一条を外せば済むということにはならない。
天皇制に対して沖縄は無縁ではありえず、
聞得大君を持った歴史を振り返れば、
通底する宗教性を持っているのである。

本当に克服するには、時間が、要る。
その自覚がないだけ、呑気な啖呵に見えてくるのだ。

仲里が触れている「琉球共和社会(国)憲法」が気になるので、
探してみたら、「神戸まろうど通信」さんが
「琉球共和社会憲法試案の紹介」で引用してくれていた。

仲里のいう前文の一部を引用する。

 九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が
 国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。
 だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。
 われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省
 に立って「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた
 「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、
 最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。
 日本国民の反省はあまりにも底浅く、淡雪となって消えた。
 われわれはもうホトホトに愛想がつきた。

 好戦国日本よ、好戦的日本国民者と権力者共よ、
 好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは
 人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。

国家と市民を区別しない視点を残念に思う。
決別も悪くないが、
好戦的を「日本国民者」に押し付けたら、自己理解を誤る。
誤った自己理解は、ブーメランとして自己を襲うだろう。
だから、対話をすべきだと思う。

 つづく


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コメント

最初の喜山さんの感想が凄く興味深い!です。
余計に早く読んでみたくなりました!

投稿: NASHI | 2007/08/16 21:55

NASHIさん。

決して読みやすい本ではなかったです。
はじめは、やれやれまた始まったという感じでした。

途中からは、むきになって読んでいました。
わたしは未熟者です。(^^;)

NASHIさんの感想、ぜひ聞かせてください。

投稿: 喜山 | 2007/08/16 22:31

ユンヌンチュにとって
沖縄は、親であり兄、姉であり
近くて遠い、パラジかもしれません

 ヤンバルンチュは
身近な兄貴=アニキでしょうね

 今帰仁よりも北の その山奥の
安田、奥のクンジャン(国頭)は
パラジのようなものだと思います

 那覇は、波を超えた古宇利島の
向こうなので 話に聞いただけの
憧れです

 生き残った人の者は、一生九死
というべきでしょう

 偶々生きているのではなくて、
九死に支えられて生きている・・?

投稿: sattyan | 2007/08/16 23:38

sattyanさん。

ヤンバルンチュという言葉もあるんですね。
沖縄への親近感は、誰に教わったことでもないので、
我ながら不思議な気がします。

つながっていると感じます。

投稿: 喜山 | 2007/08/17 08:44

内地の一般日本人は、日本の中の沖縄とは何か、を考えるのは当然のことだが、沖縄の人間は、沖縄が主体で、沖縄にとって日本とは何かという考え方であることを、日本人は知らなくてはならないだろう。

それは日本における地方の意識も程度の差こそあれ、同じであると思う。私は北海道人だから、北海道と言う地域コミュニティーが主体で日本を観るという視点が強い。沖縄もそのような視点であろうと思う。

東京の人間は日本は東京と同じ視点だが、地方は「最初に地方ありき」と意識が強い。
この地方の意識の差を、東京に住む日本人認識してほしいのである。

日本の中の沖縄とはどうあらねばならないか、これは中央集権のど真ん中に生活する東京文化圏の意識であって、沖縄人は<沖縄にとって日本とは何か>を考える立場に立っていることを、東京人は認識してほしいのである。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013/07/14 22:19

根保孝栄・石塚邦男さま

コメント、ありがとうございます。
おっしゃること、まったくごもっともなことではないでしょうか。

ぼくは与論人ですが、与論にとって日本とは何か。そういうことを考え続けている気がいたします。

投稿: 喜山 | 2013/07/15 17:14

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