« 来間島、「沖の島」のひとつ | トップページ | 沖の島感覚 »

2007/08/13

1964年の与論島

父(アチャ)の忌明け祭の折、
改めて写真をひっくり返していたら、
中から与論島の航空写真が出てきた。

ときは、1964年。

Yoron1964_3



















真新しい南島開発の製糖工場が見える。
真ん中に見える施設は茶花小学校だと思う。
かやぶき屋根の家も散見できる。
宇和寺が写ってないのは残念だけど、
まだまだ耕地と山原(ヤンバル)の緑が広がっている。

空港もなければ、プリシアもない。

1964年の前後で、与論には、プロパンガスが入り、
南タクシーが開業し、製糖工場、そして江が島桟橋も竣工。
与論村から与論町になり、水道が敷かれた。
東京オリンピックの影響で、テレビも普及し始める。

原始・古代を濃厚に保ちながら、近代化が目に見え始めた時期だ。

この写真の向こうに生後一年に満たない自分がいる。
身体性の原風景。それがぼくにとってのこの写真の意味だ。


これを見るみなさんは何を感じるだろう。
それを知りたく思う。

与論島よ、永遠に。




|

« 来間島、「沖の島」のひとつ | トップページ | 沖の島感覚 »

コメント

おはようございます。
貴重な写真ありがとうございます。
イチョーキながはまが写って、江が島桟橋は開通ですかね。
農協が移転した様子ですが、産業道路が見えない。
「うぶくりじー」に農協ができてから
観光ブームが到来、
いまの銀座通りに商店街が移っていったときいています。
他にも、このような写真が残っていたら、
興味ある研究者集めて談義したいですね。
郷土研究の資料として大変貴重だと思います。
地理学的にも興味が湧きます。

投稿: awamorikubo | 2007/08/14 05:39

 クオリアK山Souさん!

 お疲れさまです!1964年の
懐かしい写真見せて、頂きました。
昭和だと、S39年ですか!
SouさんとM也が生まれた後ですねぇ、

写真の中心部、茶花小学校の右隣後方が、
M也の実家、生地です。
それと、南タクシーの開業:(当時私の父
もバス、タクシーの運転手でした。
また、母も南ショッピングで長々働いて
おりました。)
先月7月初旬に創業者である南前村さんが
96,7歳で、お亡くなりになったんですよねぇ。
懐かしい写真、尊尊我無(とーとぅがなし!)

投稿: ゆんぬヌあがさヌM也。 | 2007/08/14 19:57

awamorikuboさん。

銀座通りの前の繁華街は、今の中央通りでしょうか?
わずかながら、中心地の変遷もあったんですね。

ご存知の方が見れば、やっぱり情報の宝庫になります。
郷土研究の資料になれば嬉しいですね。

投稿: 喜山 | 2007/08/14 20:36

ヤカのヤーは、写真のちょうど真ん中くらいですね。

アンマーは、ウレーの両親のこと、よく覚えていました。
鹿児島市の「ゆんぬ」という居酒屋をご存知ですか?
そこで、ウレーの話題が出ましたよ。

投稿: 喜山 | 2007/08/14 20:38

鹿児島の居酒屋“ゆんぬ”

Souさんと同じ歳のK田信ヒロくんの
お店ですよねぇ、キシャバ通りの!
母方の“パラジ”ですハイ、
居酒屋の他にも、ラーメン屋を
開業された情報も耳にして
おりますよ!
 居酒屋“ゆんぬにて”8年まえに、与論同窓会
もしました!又また懐かしいなぁ。

投稿: ゆんぬヌあがさヌM也。 | 2007/08/14 21:43

みつややか。

今は、そのラーメン屋さんと居酒屋が合体しています。
同窓会にはピッタリの場所ですね。
イューガマも有泉もラーメンも、ムール、マサタン。

投稿: 喜山 | 2007/08/15 08:32

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 1964年の与論島:

« 来間島、「沖の島」のひとつ | トップページ | 沖の島感覚 »