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2007/08/31

『海と島の思想』を辿って

『海と島の思想』 を頼りに、
琉球弧を、身体感覚に染み込ませたいと思った。

自分が実際に辿るのがいちばんに違いないのだが、
それはいつのことやら、おぼつかない。

だから、実際に島歩きをした人の記述を辿って、
琉球弧の島の息吹を追体験してみたかったのだ。

この本を辿って、おぼろげながらに琉球弧像がつかめるようだった。

 ○ ○ ○

ただ、正直に言えば、この本は少々、難儀だった。
はじめ、ぼくは、親近感から本書の順番ではなく、
奄美の島々から辿ってみたのだけれど、
なんとなく物足りなかった。

けれどそれは沖縄のことを書く人がしばしばそうであるように、
奄美になる途端に関心が低くなってしまうアレかと思ったが、
読み進めるうちにそうではないと分かった。

なぜだろうと考えて思ったことは、
媒介が見つからないということだった。

たとえば、ここには沖縄の神女や巫女さんの発言がよく出てくる。
富士山で他の宗教の巫女さんが、
アマミキヨという神霊が一緒に行くと言っているが
アマミキヨとは誰だろうということを、言ったりする。

その言葉が、生のまま記述されるので、
どう受け止めたらいいのか分からなかった。

憑依的な発言は信頼できないと言いたいわけではない。
ただ、それを受け取るには、どう理解すればいいのかという
媒介が必要な気がする。

これは、野本さん自身のことでもそうだった。
野本さんは霊感があるのだと思う。
随所で、たとえば、ここで塩を買ったほうがいい気がした、
というような、気配を察知する記述が出てくる。

これにしても、野本さんの感じたこと行動がそのまま、
ただ、書かれているので、どう受け止めていいのか、困った。

また、地元の資料や伝承も、そのまま記述している。
というか、それをどう受け止めるかという野本さんの考えが知りたい。
地元の資料や伝承がそのまま事実のように
受け止められているように見えるので、戸惑うのだ。

野本さんが琉球弧を渡った時期は、9.11以降の、
混迷の新しい世紀に入ってからだ。
そこで、野本さんは戦争に抗するように、
沖縄に意義を見いだしていくのだが、
どうアメリカの戦争が批判されなければならないのか、
どう沖縄は抗することができるのか、を書くのかと思いきや、
無媒介に、「生命」、「平和」が主張されるので、
ここでも、具体的な考えが知りたくなった。

こうして、媒介の言葉が読むほどにほしくなるのだった。
ぼくは、あまりにひっかかるものがないので、
島々の事実や文献を調べるようにしか読み進めることができず、
難渋した。

その意味では、ぼくはこの本のよき案内役ではなかったと思う。
これは申し訳ないことだ。

 ○ ○ ○

ぼくは読み進めるために、
琉球弧の地理と歴史のテキストを読んでいるのだと思うことにした。

沖縄県の人は、沖縄の歴史を学ぶことはあるのだろう。
ぼくは、与論の歴史も奄美の歴史も教わったことはない。
鹿児島県の歴史ならあるが、
それは、遠い世界のこと自分とは関係ないことのように思えた。
そのせいか、日本史でさえも、
世界史のひとつのようにしか感じることができなかった。

ぼくは、「与論島の地理と歴史」を辿りたいと思う者だ。
だから、その前段で、琉球弧のそれを読んでいる、と思うことにした。

そういう力弱い読みになってしまったことはお詫びしたい。

ここで得られた琉球弧の身体感覚を礎のひとつに、
神女の言葉と現在をつなぎ、
地霊的な琉球弧の力を表現したい。

そして、琉球弧の民俗的な理解を更新し、
それらが日本や世界に対して持つ意味を
少しずつ言葉にしていきたい。

本当は、屋久島の節もあるのだが、
黒潮の形成した琉球弧からはお隣さんだということを言い訳にして、
『海と島の思想』(野本三吉) を辿る道行きは
これにて完了とします。




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2007/08/30

琉球弧のなかの琉球弧-八重干瀬

ある意味で、琉球弧のなかの琉球弧は八重干瀬(やびじ)だ。
時を待って地上に顔を出す佇まいが、
否応なしに喚起する詩情と、
海の畑として琉球弧島人の生活の資を提供してきた豊かさが
そう思わせる。

 八重干瀬のサンゴ礁は台礁と呼ばれている。
 台礁とは陸地から離れた場所にあり、
 常に海面の上に出ている部分が少ないリーフのことをいう。
 八重干瀬にあるたくさんのリーフは全て台礁で
 日本最大の規模と言われている。
 そして、大潮の干潮の時に礁原の浅い部分が海上に浮上してくる。
 毎年、旧暦の三月三日にもっとも潮が引き、
 干上がる面積が大きくなるために
 「レニツ」という伝統的な浜下り行事(女性の厄払い)が行われ、
 池間島や宮古島から八重干瀬に渡って
 一日潮干狩りなども行われてきた。
 (『海と島の思想』 野本三吉

干瀬は特別な感情を呼び起こす。
琉球弧の民俗に関心を寄せる先達も心を奪われている。

 干瀬はさながら一条の練絹のごとく、
 白波の帯を持って島を取巻き、
 海の瑠璃色の濃淡を劃している。
 月夜などにも遠くから光って見える。
 雨が降ると潮曇りがここでぼかされて、
 無限の雨の色と続いてしまう。
 首里の王城の岡を降る路などは、
 西に慶良間の島々に面して、
 はるばると干瀬の景を見下している。
 虹がこの海に橋を渡す朝などがもしあったら、
 今でも我々は綿津見の宮の昔話を信じたであろう。
 (『海上の道』柳田國男)

これは、干瀬という存在が喚起した詩情だ。

また、谷川健一は、現世と他界の接点として見ている。

 他界を夢想するのに最もふさわしい場所が、
 南島の海岸であった。
 沖縄の海は本土と違って、
 干瀬と呼ばれる暗礁が島をとり巻いているので
 二重になっている。
 干瀬の彼方はどす黒い波がうねっている海である。
 そこには舟が発達しなかった頃は、
 島民はめったに行かない非日常空間であり、
 死んだ人の魂だけがおもむく他界であった。
 干瀬の両側は目もさめるような青い海であり、
 潮が引くと州があらわれ、島民が魚介や海藻をとる日常空間であった。
 沖縄の海の魅力は干瀬によって仕切られた他界と現世が
 一望に見渡せるところにある。
 (『魂の民俗学・谷川健一の思想』大江修編)

ぼくたちはいずれ、自然と生活と信仰の場である干瀬について、
それを琉球弧の文化の中核にすえた
徳之島の松山光秀の考察を読むことになるだろう。

八重干瀬(やびじ)は、その干瀬のなかの干瀬として、
琉球弧のなかで特別な存在価値を持っている。


追記
ここは、八重干瀬の具体的な地名が分かるのが嬉しい。

 八重干瀬地形図


『海と島の思想』 野本三吉
Ⅴ 原初的世界との共生
45 幻の島・八重干瀬



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美日子と「めがね」と与論島

「LOVE YOU SOMETHING」のブログで、
映画『めがね』に関する本や雑誌をチェックできます。
ぼくは見落としも多いので、ありがたし。

 【book&magazine】 映画「めがね」と市川実日子さん関連雑誌メモ

このなかで、『装苑』を手にとってみました。


市川実日子さんのインタビューが載っている。
例によって、与論島に関係のありそうなところを引いてみる。

 ほかにすることがないということもあるんですけれど、
 生活の中の普通の一つ一つのことがすごく楽しくて、
 東京にいる時の“欲”みたいなものが
 自分の中からなくなった感じ。

 島にいる時に“やりたくないことはやらなくていい”
 ということをよく言われて。
 それってわかるけど、だけどものすごく難しい。
 でもそれを目の前で実践してくださった作品。
 大切なものを、本当に大切にしていこうよというのを、
 目の前で実践してくださったんですよね。
 なんか現場が殺伐としてない感じ。
 本当にそうやって映画を撮っているんだなあと。

 そのころ、東京の仕事では「もっと早く、もっとテンポを!」
 と言われていたから、それが私の中で抜けないっまでいたみたいで。
 だから、撮影の初めのころ、監督から「もっとゆっくり」
 とよく言われていました。
 しばらくは、それでもどこか焦っているようなところがあったんですけど、
 島の海や空、全部を感じてほしいと言われて、
 だんだんと「あ、なんかこういうことかな」と。
 何回かそんな気持ちになることがありました。
 いつも焦っていたのかなあ。それが癖になっていたということか。


監督の荻上直子さんのインタビューもありました。

 ロケ地の与論島は、昔、ある映画を観て
 個人的に憧れを持っていたところです。
 とにかく海がきれいで、海以外には“たそがれる”しかない。
 その印象は、1年前の春、脚本を書くために再訪したとき、
 ますます強まりました。

 ニュースを見ているだけで悲しい気持ちになることが多い今。
 だからこそ、気持ちのよさ、
 思い出すだけでくすくす笑えるような心地よさを、
 映画の中だけでも味わってほしいと思っています。


お二人とも変わらず、いいことをおっしゃってくれてます。

荻上さんが観た映画って何でしょうね。気になります。

映画の舞台に与論島が選ばれたのは、
荻上さんのなかに与論島がすでに存在していたからなんですね。
それはとても素敵なことです。

与論のなんたるかをまっすぐに感受した方が
映画を撮ったということですから。

これは逆のケース、与論の青いを海と空を、
ただの観光地として撮られたとき悲惨を思えば、貴重なことです。

市川さんへの、「もっとゆっくり」というアドバイスも、
「ここは与論だよ」という声をコノテートしていますね。

加速された時間のなかに、
分裂的に身を紛れ込ませるような都市のなかにいて、
しかも、自他ともに壊れゆくような出来事が迫りくるいま、
荻上さんの、せめて「映画の中だけでも」というメッセージは、
切実に聞こえてきます。

もっと言えば、与論島が提供できる価値が
大きくなっているということです。




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喜山康三議員の公開質問状

9月4日に与論町の町長選挙が告示される。

 与論町長選 来月4日に告示

それに先立ち、喜山康三町議員が公開質問状を候補者に出したが、
Webサイトでも公開しているので、ぼくたちも見ることができる。

 喜山康三議員の報告集

いきなり憲法第9条第2項についての質問から始まってびっくりするが、
憲法を個人個人が考えるのが大切であるのと同様、
ひとつひとつの行政単位の長の考え方は重要だと気づかされる。

この質問状が、ぼくなどにありがたいのは、
質問状を読むことがそのまま町の実態を浮き彫りにしている点だ。

・財政は、町民一人当たり100万以上の借金。

・ギリシアとの交流に、旅費以外で、数百万の交際費。

・空港整備が遅れている。

 空港整備が遅れているため運用条件に 左右され本来の性能を発揮
 できない状況にあり、航空会社に不条理な負担 を掛け尚且つ、安全
 運行にも若干の懸念がないとはいえない状況が続いて います。
 (沖永良部は拡張整備をすでに終了しています。)

・製糖工場本社の本町への移転、経営内容の公開を農業関係者が
 求めている。

・堆肥センターの収支計画が計画を大幅に下回り、 一般財源から
 4千万近く毎年投入しなければならない状況にある。

・国や県、町の財政悪化や基盤整備の充実により公共工事が減少している。

・茶花中央通りの交差点改良事業が進められている。

・臨時職員の給与は10~15万円程度。

・飲酒の風潮が教育現場や家庭に大きな悪影響をもたらしている事は
 教育関係者からも強く指摘されている。

・10年後には5~60名の与論小学校校舎建設に伴う地元負担は
 最終的に5億近くに上ると言われている。
 次は那間小学校の改築を予定している。

・ましきな住宅、宇和寺住宅は一戸当たり1500万以上で建設され、
 一般町民からは住宅というよりは邸宅といわれるほど豪華。

なるべく事実に即する個所のみピックアップした。
それだけでも町の抱える課題、問題はある程度、見えてくる。

町選挙は、公約やその実現のための政策が問われなければならないところ、
それを訴えはするものの、ある意味で、お互いをよく知った者同士の
立候補であり投票であることも手伝って、
選挙の本来の内実が見えなくなってしまいがちだ。

そこで、質問状の回答は、町長立候補者の考えを示すことにより、
町長選挙に風穴を開けてくれる。

それがこの公開質問状の意義だと思う。

 ○ ○ ○

これを町長候補者宛のメッセージではなく、
ひとりひとりに向けられたものとして、
自分だったらどうするか、問うことが大切だと思う。

ぼくが町長の立場だったらどうするだろう。

・「ガジュマル百本植樹」(ガジュマルに限らず)によるヤンバルの10%回復
・クチコミ重視の観光施策実行
・行政、観光従事者のメールコミュニケーション力強化
・土木・農業従事者への再就職支援
・町長ブログの開設
・公務員の飲み会削減
・与論献棒の酒量選択と限定一巡回宣言
・黒糖焼酎企業一社設立
・仕事における遅刻罰金(ビジネスにおける与論時間の廃止)
・空港、港から市街地への道路両脇をハイビスカスで埋める
・町主導の事業における地元業者の優先
・助産婦の確保
・小学校統合
・統合による敷地のコールセンターや、人口密集地域にある企業の代替施設誘致
・留学制度の導入
・逆生涯教育。与論の元気な老人が小中学生に人生を語る
・島民のネットコミュニケーション支援
・空港整備(どの程度?)
・メッセージの伴った寄付公募
・バーチャル与論町民のネットワーク化(セカンドライフ活用?)
・アイランドテラピー事業の推進
・「まるごと博物館構想」(竹盛窪)支援
・洋上から見た与論島を緑で覆う(施設はその向こう)

アイデア羅列、レベルばらばら、堪忍。

いい刺激を受ける。誰もが構想を膨らませて議論していけたらいい。


さて、これを機に、喜山康三町議員には、
Webサイトでの更新頻度を上げてくださるようお願いしたい。
町がよく見えてきます。


追記
「質問公開状」は、「チヌマンダイ」のブログで知った。
感謝します。



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2007/08/29

八重山の表情

石垣島、西表島周辺の八重山の島々は、表情が豊かだ。
竹富島というと、安里屋ユンタをすぐに思い出すし、
最近では、竹富島出身の崎山毅さんの
「大隈・奄美、八重山の地名相似説」を知った。

 「大隈・奄美、八重山の地名相似説」

小浜島では「ちゅらさん」、鳩間島は「瑠璃の島」のテレビ番組、
由布島では、水牛車と不思議な植物園、
新城島では、アカマタ・クロマタを思い出す。

でもぼくの皮相な認識はここまでで、
黒島はイメージできるものがなかった。

『海と島の思想』で、
辿ってみると、これらの島々の姿がもう少しはっきり浮かび上がってくる。


たとえば、由布島はかつて、
西表島の古見部落の雨乞いの「祈願所」であったという。

西表島の東の少し離れた小島で、むべなるかなと思う。

地名が、ぼくのいちばん身近な与論の海、フバマと
同じ由来のように見える小浜島には、
ダートゥダーという仮面芸能がある。

1926年から封印されてきたが、2001年に復活。
小浜島にしかないものだという。

ダートゥダーは、収められていませんが、
ダートゥダーが行われる結願祭の触りは見ることができます。

 結願祭(きちがんさい)
 
黒島は、2002年から無医村状態になった。
それから、石垣市からの週一回の巡回診療や
保健師の方のボランティア活動でつないできたが、
無医村は続いている。

野本さんの記述はそこで止まっている。
気になるので、調べてみると、去年の10月、
常駐の医師が誕生したという。

 住民安ど、大喜び「常駐医師が来た」黒島診療所

診療所再開の喜びを伝える記事もある。

 診療所再開で島をあげて歓送迎会

医療不安から島を離れるケースもあるから、
医者がいるという安心感は計り知れないと思う。

そういえば、ドクター・ヘリのことを思い出す。
Wikipediaによると、沖縄県では、ニーズはあるが、
財政事情からドクター・ヘリ事業は行われていない。

補完として、陸上自衛隊と海上保安庁の
航空機による搬送が行われているという。
ぼくが覚えている範囲でも、那覇から来たヘリコプターで
患者さんが与論島から搬送されることがあった。

ただ、機内での高度な医療はできないものの、
ヘリコプターを使った患者搬送は始まっているようだ。

 民間ヘリで患者搬送/県内初

 ○ ○ ○

鳩間島では、深刻な過疎対策として、
「里親制度」を敷いている。「子乞い」だ。
ぼくはそれだけでもびっくりするのに、
テレビ番組の「瑠璃の島」は
それをテーマにしたものだと初めて知った。

 瑠璃の島2007

南の果ての受け皿になるから、
何か大きな意味を感じるけれど、現状をぼくは知らない。
とても知りたく思う。

顔立ちのはっきりしている八重山の島々も、
琉球弧の現在形の姿を教えてくれる。

 ※「巨人伝説の島・波照間」




『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅳ 暮らしの思想
28 離島の輝き・鳩間島
29 「星砂」の島・竹富
32 ダートゥダーの島・小浜
33 島づくりの夢・黒島
35 水牛車の風景・由布島
36 アカマタ・クロマタの島・新城



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かもめとめがねのおいしいごはん。連載中

その1 『かもめ食堂」ごらんになりました?

「かもめ食堂」もいいけど、昔懐かしくなる緑と赤土の
与論の道が最高です。

その2 目玉焼きは、かりかりに。

「氷金時」もいいけど、かき氷と役者さんの向こうの
与論の寺崎や海も最高です。

その3 だいじな朝ごはん。

でも、朝ご飯もやっぱりとっても美味しそうです。

その4 ふたつのポテトサラダ。

ジャガイモがすごく美味しそうだけど、もたいまさこさんが
両手を上げる寺崎の海と空には言葉を無くします。


ちょっと邪道な連載紹介でした。



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2007/08/28

『ノマド・ソウル』

今ごろになって元ちとせの『ノマド・ソウル』を聴いた。
ついこの間リリースされて、そのうち聴こうと思っていたつもりなのに、
年譜をみると、2003年、もう4年も経っているのだった。

元の作品は、とても懐かしい感情を蘇らせてくれる。
それがどんなときのことなのか、
うまく手繰り寄せられないのだけれど、
『ハイヌミカゼ』は、何度もなんども繰り返し聞いて
飽きることがなかった。

 ※(「元ちとせの南の風」) 

『ノマド・ソウル』も、間違いなく元ちとせの作品だと思えた。
彼女の奄美の歌唱力と魂(ソウル)が響いてきて、
与論へのノスタルジアにため息をつく。

違いがあるとしたら、
『ハイヌミカゼ』が、
奄美の歌姫が奄美に優しい風を送っているのだとしたら、
『ノマド・ソウル』は、
奄美を離れた魂が都市を草原を駆け抜けている。
そんな風に感じた。

その分、『ノマド・ソウル』は、
奄美、与論島を離れる者には、
感情移入しやすかった。

元(はじめ)の“遊牧民の精神”は、
奄美を生かしながらどこまで歩んでゆくのか、
これからも楽しみだ。


『ノマド・ソウル』(元ちとせ)

Nomadsoul_2













トライアングル
音色七色
千の夜と千の昼
いつか風になる日
翡翠
オーロラの空から見つめている
この街
月齢17.4
百合コレクション
ウルガの丘



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2007/08/27

与論島と石垣島の接点、ナーマ

石垣島と西表島は、地名で通過してみたい。

石垣島については、『地名を歩く』を読んで、
与論島の那間と増木名と同音の地名があるのに気づいた。

 ※「那間は泉」

Photo

























(「石垣島の川の方言名」『地名を歩く』)


まず、地図の下方にある円のgは、
フナーと呼ばれる川だが、
その周辺に、長間(ナーマ)と呼ばれる場所がある。

『地名を歩く』によれば、「石垣島地方の『ナー』は、
地下水が自然に地表に湧き出る泉を指して」いる。

与論の那間も、泉を持っており、
ここにいう「長間(ナーマ)」と同一の地名と思われる。

また、上の方の円のcは、マニシキナカーラと呼ばれている。
マニシキナーは別名マシクナー。
これは、那間にある「増木名(マシキナ)」と同一だ。

石垣島のマシクナーは、轟川の上流の支流だという。
「増木名(マシキナ)」も、増木名池と呼ばれていたから、
泉の元のような意味なのかもしれない。

石垣島と与論島の意外?な接点が嬉しい。

 ○ ○ ○

西表島は、以前、スネ島と呼ばれた時期があるという。

 西表島について最初に記録されたものは『李朝実録』の
 「済州島民漂流記録」と呼ばれるもので、
 そこには「所及(スネ)島」と書かれている。
 「一四七七年のこと、済州島の民が漂流しているところを救助され、
 与那国から所及島(西表島)へと送られてきました。
 彼らは所及に半年間滞在したあと、島づたいに沖縄、
 さらに九州まで行き、そこから本国である朝鮮へと無事、
 帰国しました。・・・
 所及は現在“祖納”と字を当て、
 一般的には“ソナイ”と呼ばれていますが、
 島の人々はそれを“スネ”と呼ぶことから“スネ”の名称は
 五百年以上も変わっていないことがわかります」
 (『ヤマナカーラ・スナイビトゥ』西表島エコツーリズム協会、
  一九九四年、六四頁)

これとは別に、西表島は、古見島と呼ばれていたこともある。

 (前略)古見がかつて一たびは南島文化の位置中心であって、
 しかも近世に入ってから他に類例もないほどの激しい盛衰を
 経ているということだけは、弘く世上に向かって是非とも説きたてて
 置かねばならぬ。是には幸いにしてまだ有形無形の史料が、
 必ずしも没しきってはいない。

 ただ統一時代における我々の関心が、法外に乏しかったのである。
 最初にまず西表という現在の島の 名だが、
 もとは普通に古見の西表、すなわち古見という島の西の船着きを
 意味しており、そこの開発もかなり古く、
 多分はいわゆる倭寇時代の船の往来によって、
 発見の端緒を得たものと思うが、
 一方には土着者の家にもほぼ同じ頃からの言い伝えがあって、
 後に筆録せられて世に行われている。

 是には主として水土の功、ことに与那国という近隣の一孤島の
 収容と連絡とが窺れるが、対岸大陸との交通にはまったく触れて
 いないのは、或いは隠れたる動機があったのかもしれない。
 とにかく明治の新時代に入ってから、ここが汽船の航運に
 利用せられたのは必然であったうえに、
 さらに南島としては珍らしい石炭層が、ほんの僅かだが
 ここの渓谷に発見せられたために、
 ここが重要なる寄航地となってしまい、
 それに引き続いては労働力の供給問題、
 島の人たちはちっとも来て働こうとしないので、
 囚徒を入れまた浮浪者や貧窮人を連れ込んで、
 ひどい虐待をしたことが評判になり、
 いわゆる西表炭鉱の惨状が新聞に書きたてられて、
 若年の私などは、是で始めてこの名の島の存在を、
 知ったような次第である。

 古見という一郷の驚くべき盛衰史を、
 人が片端でも知っていたならば、
 こんなまちがった改称を公認するはずがなかったのである。
 (「根の国の話」柳田國男 1955年)

柳田は、古見から西表への改称に憤っているが、
ぼくたちは、古見の前型として、祖納を置き、

西表島の地名の呼称について、

 スネ(祖納、所及) → クミ(古見) → イリムティ(西表)

という変遷を想定できるかもしれない。

あるいは、

西部は、スネ(祖納、所及)、
東部は、クミ(古見)

と呼ばれ、
 
統一されたとき、西部のイリムティ(西表)を採用した、と。

スネは、祖納(ソナイ)からの転訛を想定できると思う。

 sonai →soni(母音aの脱落)→suni(三母音化)→sune(同一行の転訛)

最初の、母音aの脱落がありうるのか、
明確に言えないが、ありうる気がする。

意味の変遷は、

 スネ(祖納、所及) 水のあるところ 
 クミ(古見)     米の地
 イリムティ(西表) 西の船着場

となるだろうか。


八重山の大島の地名メモとして。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅴ 原初的世界との共生
40 南風の吹く島・石垣
44 原生林の島・西表



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2000メートルの集客効果

与那国島に、アイランドリゾートホテルが建設されるそうだ。
すでに着工済みで、来年2008年2月にはオープンするという。

 与那国に大型ホテル 琉球日産グループ

 同ホテルは契約農家を通じた食材調達による
 地産地消や観光客の体験農業などを進めるほか、
 ホテルで利用する資材も再利用可能なものを使う
 「循環型エコホテル」を目指す。
 (「琉球新報」)

このコンセプトを見る限り、
ホテル内で完結するのではなく、
地域に開かれた施設になる印象を受ける。

ホテル建設に踏み切ったのは、

 ・「国境の島」というポジション
 ・「海底遺跡」、「Dr.コトー」の島のロケ地という資産

こんな大きな魅力は前提としてあるのだが、
なんといっも、2000メートルの滑走路の存在が大きい。

空路による客数は、2004年度3.8万だったところ、
2年後の2006年には、4.7万だという。
2年で1万人近く増えたわけだ。

2000メートル滑走路の集客効果をよく示している。


与論島にも、直行便があったらと思うけれど、
島ではどんな議論になっているのだろう。

 ※「与那国2000のインパクト」



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2007/08/26

いつか風になる日

元ちとせの「いつか風になる日」は、
風葬のことを歌っているという記事がいくつかあって、
ぼくは遅ればせながら、この曲を聞いた。

『ノマド・ソウル』(元ちとせ)

Nomadsoul_2













 ♪ 何故に陽炎はゆらめいて
   黄泉へと誘う澪標か

   遥か紺碧の空と海
   すべてをのみ込むあの蒼さよ

   還らぬ日の想いを胸に抱く季節
   儚き泡沫のような運命のものたちも

   果てしない輪廻を彷徨えるのなら
   いつもずっとずっと傍にいてあげる

   赤い花弁が落ちる瞬間
   数多の生命が誕生れ逝くの

   幾千の歳月を波が弄ぶ
   麗らかな陽の中で私も風になる

   大空を花が埋め尽くすように
   海をもっともっと抱きしめてあげる

   やがてきっときっと永遠は刹那に去って
   だけどずっとずっと此処にいてあげる
   ただ風が吹いている


言われるように、海に面した風葬の洞窟のことが浮かんでくる。
詩もメロディも冒頭の三線も、歌声も、いい作品だ。
島の突端で歌う元の顔つきも海の風景もたまらなく懐かしい。


けれど、メロディの甘さ優しさよりもっと深いところに
この曲の生命源はある気がする。


4年前に施設ができて、与論も火葬をするようになった。
ぱーぱー(祖母)も長生きをして、
本人が望まなかった時代の洗礼を受けることになった。

それまで土葬だったわけだけれど、
けれど、それ以前に、風葬も樹上葬も行っていた。
ほんの二百年前までそうだったのだ。

火葬になったとしても、
自分の身体性のなかに、
風葬、樹上葬の感覚が眠っていることを
ぼくは大事にしたいと思う。

風葬、樹上葬は、人間が自然と等価である段階での
他界観念が生み出したものだ。

人間と自然物はとても近かった。
それらと会話することは当たり前のことだった。

風葬により、故人は自然物に返る。
風葬の字義を受け取れば、風になるかのようだ。

「千の風になって」と、今年の流行歌も歌う。
21世紀は、身体消滅後に「風になる」というイメージを
育んでいるのかもしれない。

ぼくはそれは、風葬、樹上葬の時代の自然との関係が、
現在に蘇ってきている現われだと思う。


いま、島はお盆。
父と、父方母方の祖父母を想う夕暮れだ。

今年は、祖父の改葬も控えている。



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2007/08/25

『めがね』の視点

雑誌『ピクトアップ』が、映画『めがね』を特集しています。

 ピクトアップ#48

キャスト、スタッフ全員のインタビューが載っているので、
与論島に関わるところをご紹介します。

小林聡美さん

 でも、実際にロケ地に入ったら、
 普通の健全な人であれば誰でも、
 あの海と大自然のパワーでリラックスせざるをえない風になるわけです。

市川実日子さん

 島に一ヶ月も滞在することが初めてだったこともあるんですけど、
 東京で撮影している人たちがあの現場に入ったら、
 普段、自分たちがいかに早足でいるかということに
 ビックリするんじゃないかと思うんです。

加瀬亮さん

 いい台本だなと思いました。
 邦画界っていまバブルとかいわれてて、
 テンポのいいイケイケな作品が多い中で、
 『めがね』はすごく孤立してて、
 珍しく地に足がついたスタンスで企画された作品だなと思って。

これは、直接、与論に触れたコメントではありませんが、
どこかで与論につながりますね。

荻上直子さん(監督)

 何もしなくていいっていう贅沢を、
 フィンランドで教わったんです。
 で、そのあとに、与論島に行ったら、
 観光するところなんかどこにもなくて、
 あるのはきれな海だけ。
 ボーッとたそがれるしかないわけです(笑)。

 島全体にゆるーい空気が流れていて、
 フィンランドとは真逆の南の島なのに、
 共通するものを感じました。
 私自身がそういうことに憧れて、
 体験したいという気持ちはあったかなと思います。

富田麻友美さん(美術)

 最初は建てるつもりはなく、
 良い場所があればそこを借りて、
 飾りつけしようと思ってたんですよ。

 島は小さいので、すぐ回れちゃう。
 だから、粘っても、ないものはない。
 それで『プランを描くので、良ければ建てさせて』と提案して、
 1週間後にプランを上げて、
 その1週間後には建て始めました。
 
飯島奈美さん(フードスタイリスト)

 監督にもプロデューサーにもそう言われていたので、
 おいしそうに見えるための湯気や、
 ビールの泡なんかは死守しなきゃと思っていて。
 『ちょおっとすいません!
 ビールの泡、足します』と撮影を待ってもらうこともありました。
 たぶん『めがね』じゃないと、
 『湯気を見せたい』なんて言っても、
 聞き入れてもらえなかったと思います

これも与論のことを直接コメントしたものではないけど、
通じますね。

伊藤千枝さん(振付家)

 一見ふわっとした雰囲気があるけど、
 根底には強い何かがパイプラインのように流れていて、
 その上にすべてが乗っている感じ。
 だからこそ、揺るぎのないゆったり感が出ているのだと思います。

「揺るぎのないゆったり感」。
これも与論ぽい。

霞澤花子さん(プロデューサー)

 ゆったりというか、なんにもないところがよかったんですよ。
 そしたら、「そうか、与論島がある!」って。
 それは、「ヘルシンキがある!」というのと同じ。

ぼくは、映画の『めがね』の舞台としての与論島のことを云々しているけれど、
考えてみれば、「与論島」を選ぶ過程を経て、
与論島舞台の映画になったわけですね。

それもすごいことです。


 

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黒糖饅頭 黒蜜

仕事場の同僚の方にいただいた、
帰省先の熊本からのお土産。

 その名は、「黒蜜」

やっぱり、黒砂糖入りの和菓子。

仕事場のデスクですぐに撮ったので、
うつりはあまりよくありませんが、
こんなお菓子。

Kuromitsu_2













美味しそうでしょう?

実際、黒蜜というだけあって、
黒糖の蜜が口のなかでとろけて、
とっても美味しかった。


JALの機内誌でも特集された逸品なんですね。

 創業95年、素材にこだわる老舗の和スイーツ

黒糖は、こんな風に生きる道もある。

与論島の黒糖も美事に生きていってほしいです。



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2007/08/24

どんな小さな島も世界を持つ

奥武島と書いて、おうじまと呼ぶ。
『海と島の思想』で辿っているのは、
沖縄本島の南部の「奥武」だ。

というのも、琉球弧には、七つの「奥武」の地名があるというから。

野本さんは、仲松弥秀の「墓地」としての「奥武」の考察を引いている。
これは、『日本の地名』の「沖縄の青の島」で、
谷川健一も考察の起点に置いたものだ。

 (一)陸(主島)から比較的近いところにある。
 (二)現在は人が住んでいる場合も、かつては集落のない島であり、
    人は住んでいなかった。
 (三)いずれも小さな島である。
 (四)古代の、或は古代からの墓地である。

 (中略)
 奥武地名の島は、陸地に近接した小島をなして乏水性の島であり、
 古代生産性の低い時代には集落立地には不適なところではあるが、
 葬所としては最適な条件を持っていたと思う。
 おそらく沖縄の古代人は最初は集落近い場所に
 葬所を選定したであろうが、
 次の時代には、もし近接した小島があった場合には、
 その小島を葬所としたのではないだろうか。
 このような小島が、“奥武”であって、
 この名称は葬所としての機能の面からの名付けであろうと思われる。
 (『古層の村』1977年)

奥武が葬所であるとして、
それならなぜ「青」を意味する「オー」と呼ばれるのだろうか。

それは、谷川健一の要約が分かりやすい。

 洞窟墓の中の死者の住む世界は、
 真暗でもなく、赤や白のように明るくもなく、
 その中間であるぼんやりした黄色な世界であることから、
 それを青と称したと仲松は考えた。
 沖縄では近代に入っても黄色という呼称はなく、
 黄色をアオと呼んでいた。
 (『日本の地名』1997年)

なるほどなあと思う。

黄色の葬所としての青の島だ。

離島の集合地としての琉球弧(あるいは日本)は、
どんな小さな島にも名があり、名には意味がある。
その初源は、地勢を地名とするが、
時代がくだれば、さまざまなバリエーションを持つようになる。

奥武島は、色から名付けられた島だが、
意味は色であっても含意するところは、墓地である。
これは、他界概念が空間化されたことの表出の一形態だ。

ある重たい意味を担ったのが、琉球弧の「青の島」だ。

 ○ ○ ○

沖縄南部の奥武島の西側にある瀬長島は、
奥武島と同じく、どんなに小さくても島には名があるという意味では同じだ。
しかし、瀬長島は、奥武とは逆に生者の世界、
拝所もあれば、生活の場もあった。

それを分かつのは、奥武が洞窟の多い岩場であるのに対して、
瀬長島が、アンジナと呼ばれるように、
砂場である違いに起因しているのかもしれない。

野球場と比べられるほどの小さな島にも世界がある。
島はどんなに小さくても、世界を持つ。
それはなんて大きなことだろう。



『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
16 あんじなの島・瀬長
Ⅲ 古代信仰と女性原理
27 青の世界・奥武島



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かもめとめがねのおいしいごはん

ほぼ日刊イトイ新聞で、
『かもめ食堂』と『めがね』に出てくる料理をテーマに、
フードスタイリスト、飯島奈美さんの連載が始まるようです。

 かもめとめがねのおいしいごはん

またまた楽しみが増えました。

別ウィンドウで開いた画面の最後が、
与論島の画像で、嬉しくなってしまいました。

なんだか、『めがね』もお腹の空きそうな映画ですね。



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奄美郷土料理の店 だるま

最近、よく飲み歩いている気がする。
やけ酒か?

でも、ゆうべは同僚と飲み、楽しんだ。
一緒に仕事をしているからこそ分かち合えるものがあって、
仕事帰りの一杯って美味しいもんだなぁと思った。

 ○ ○ ○

新橋というのは面白いところで、
飲食店は、どんどん新陳代謝するから、
お店に飽きるということがない。

飽きるどころか、
いつまで経っても知らない店ばかりだ。

その店のひとつひとつが、
得意の料理とお酒で、勤め人を和ませて、
うさを晴らさせてあげている。

新橋というと、
汽車ぽっぽの前の酔っぱらいのイメージが
強いかもしれないけれど、
勤め人をいつでも迎えてくれる優しい街だと思う。

仕事帰りの一杯、の基準でみたら、
こんなすごい街、なかなかないんじゃないだろうか。

で、話はやっと奄美なんだけど、
検索したら新橋にもあってびっくりして入ったのが「だるま」。

 奄美郷土料理の店 居酒屋だるま

十数年歩いている場所なのに、
なんで知らなかったのだろうと不思議だったが、
聞けば、昨年オープンしたとのこと。どおりで。

でも、なんというか、
ふつうの居酒屋メニューが多く、
逆に黒糖焼酎の銘柄は少なくて、
奄美を満喫というわけには、ちょっといかなかった。

ただ、奄美料理なのかどうか分からなかったけど、
この、すみうどんは、
お酒を締めるのにさっぱりしてて美味しかった。

新橋の駅のすぐ近くです。
寄ることがあったら覗いてみてください。

でも、なんで、だるま?

Sumiudon


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2007/08/23

久高オデッセイ

久高島について、『海と島の思想』では、こう書いている。

 その時、上映されたのが、『神屋原(カベール)の馬』であった。
 この映画は、一九六六年に行われた久高島のイザイホーの祭りを
 記録したものである、
 民俗学の世界では注目されていたイザイホーは、
 まだ映像化されたことはなく、
 日本では最初の記録映画であった。
 (中略)
 そしてモノクロの映像と共に、北村谷栄さんのナレーションが続いていく。
 洗い髪のまま白衣に身を包んだ久高島の神女達が
 「エーファイ」「エーファイ」とかけ声をかけながら
 「神アシャギ」(祭祀を行う小屋)の中に入ったり出たりする迫力に圧倒された。

ぼくが観たのもこれと同じだろうか。
ぼくも、島の女性たちが神アシャギに出たり入ったりしながら、
集団憑依に入っていく映像を覚えている。
「エーファイ」「エーファイ」という掛け声が耳から離れない強力な映像だった。

母系的な共同祭儀であるイザイホーは、
久高島の神女になる資格のある女性が減ったため、
1978年を最後に行われていない。

ところが、このイザイホーを復活させる動きがあるという。

 この島に移り住んだ映画監督の大重潤一郎さんは、
 二〇一四年に復活する、次のイザイホーのために、
 今から準備過程も含め、四部作の映画を製作するという。

気になるので検索してみると、『久高オデッセイ』と題されている。

 映画「久高オデッセイ」へのいざない

 久高オデッセイ上映会

これを見ると、去年の夏に第一部が完成して、
今年、自主上映会が開催されているのが分かる。

映画は、第4部を2014年上映と予定している。
いまの紹介記事からは、2014年、
イザイホーを復活させるのかどうかは分からない。
しかし、島を再生するとは民俗を再生することだというアプローチは、
さすが久高島だと思う。

 ○ ○ ○

地名としての久高島は、フボー(クボー)と呼ばれる。
御獄のあるフボーから付けられたものと思われ、
その名は、御獄に繁茂している植物のクバ(ビロウ)のことだという。
琉球弧の他の地域にもあるフボーという地、拝所も、
同じくクバの自生しているところだから、
久高島の地名は、フボーから来ているのは確からしく思える。

久高島と対の関係にあるという隣の
津堅島は、チキン、という。
この由来は、いまのところ、ぼくには分からない。

『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅲ 古代信仰と女性原理
22 イザイホーの島・久高
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
15 第二次世界大戦と津堅島



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「観光するところなんて、ありませんよ」

このタイトル、ドキっとしましたか?

これ実は、映画『めがね』の台詞だそうです。
観光したいと言うタエコ(小林聡美)に返される答えが、
 
 観光するところなんて、ありませんよ。


他にも、
 
 たそがれないのに、一体何をしにここに来たんですか?

とも。


予告編では、

 ここ携帯つながんないんですよ、いいでしょ。

たしか、こんな台詞も入ってました。


実際の与論島は、島中観光地だし、携帯は浜辺だってつながるし、
たそがれるだけじゃなく、希望もロマンもいっぱいなんだけど、
映画『めがね』の台詞は、妙に、与論ぽい。

観光するところなんてない、も、
携帯はつながんない、も、
たそがれないのに、何しに来たんですか、も、

 与論ぽい。


そういえば、また最近、どこかのブログで、
「ヨロン島はバリ島の近くにあると思ってたの私だけ~」
と驚いている記事を見かけました。

これもまた、カタカナヨロンのこととはいえ、与論ぽい。


かつて沖縄は「天国にいちばん近い島」と、
キャンペーンされたことがありました。

与論島はかつて南の最果ての島でしたが、
今は、与那国島や波照間島が、その任についています。

与論島のポジションはどこだろう?

そう思うとき、

何もない、
何もしない、
どこか分からない、
どこかの南の島。

という映画『めがね』の提示するイメージは、
旅する島、与論島のポジショニングとして、
いいなぁと思えます。


 ○ ○ ○

上の台詞は、このサイトで見ました。
試写会の様子を含め、いちばん詳しい紹介が出ています。

 『めがね』完成披露試写会レポート



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2007/08/22

シヌグの語源考

これまで何回か記事にする機会のあったシヌグ祭だが、
ぼくも「シヌグ」の語源のについて仮説を提出したい。

 シヌグは、奄美・沖縄の開発祖神の男神とされる
 シニレクから来ている。

これは、新しい考えではなく、
『与論島-琉球の原風景が残る島』によれば、
小野重朗が、「シネリヤ(琉球神話の最初の男)からきている」
という説を出している。

また、山田実は、『与論島の生活と伝承』で、
「シニグク(神名)という形から、末尾の『ク』音を省略して、
『シニグ』という語形が生じたものと見られる」と書いている。

ぼくの仮説も、開発祖神名からの音韻変化で説明するものだ。

シニレクから始める。

まず、シニレクなどで表音される開発祖神は、
五母音の言葉であり、それが南島の三母音の世界で、
変容を受けたと仮定する。


 sinireku

まず、母音(a・i・u・e・o)に挿まれた(r音)は、
語中で脱落するというのが、
東北語や西南語の特徴として挙げられている。

 ↓語中の「r」の脱落

 sinieku

次に、三母音変換を行う。

1)(a・i・u・e・o)は、(a・i・u・i・u)となるので、(e)→(i)。
2)吉本隆明-加治工眞市による、
 八母音(五母音)と三母音を対応させた五十音表のカ行音により、
 (ku)→(gu)。

 八母音(五母音)   甲   乙   甲乙  甲乙
           カ キ   キ ク ケケ  ココ 

 三母音        ti     ku su,ki (ku)ku
           カ チ   キ ク スキ  クク
           ga ti n,si giz gu gi   gu
           ガ チ   ギ グ ギ   グ

 ↓三母音変換

 siniigu

 ↓「ii」の単音化(i)

 sinigu

こうして、「シニレク」は、「シニグ」に変換される。

「シニグ」と「シヌグ」は、ナ行間の変化だから、
シニグとシヌグのどちらかという議論もあるが、
両者は訛りの範囲であり、シニグでもシヌグでも等価である。

また、「凌ぐ」から来ているという説は退ける。
そもそも、豊かさを祈願する祭儀において、
「凌ぐ」は、名称として採用されないと思える。
さらに、谷川健一の「しのくる」(踊る)というおもろ語と関連づける説も、
無理があるのではないかと考える。

 ○ ○ ○

シヌグ祭にはある人工的な匂いと、
共同祭儀としての新しさを感じる。

シヌグは、その核には、
・スク(シュク)の到来の祝い
・パラジ共同体の由来の確認、祖霊信仰
・豊作祈願
・共同体のお払い
など、個々それぞれは、深い歴史を持つ自然な祭儀だが、
シヌグとなったときには、
それぞれの要素を複合させていること、

また、本来、豊漁祈願の別の共同祭儀であるはずの、
ウンジャミ祭と同期を取り、カップリングしていること。
シヌグとウンジャミは起源同一説もあるが、
この共同祭儀としての複合性に、
人工的な匂い、あるいは政治性を感じる。

また、男性中心である点、母系制の強い琉球弧にあっては、
新しい祭儀だと思える。

そうだとすると、祭儀の名称も、
抽象的な言葉を選択するのではないかという考えから、
開発男神名を由来にをとる仮説を検証してみたところ、
音韻変化からきれいに説明がつくのに気づいた。
こんな過程で考えたものだ。

この仮説がどこまで行けるか。
シヌグ祭自体の分析やウンジャミ祭との関連について、
後日を期したい。




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2007/08/21

縦断するシヌグ祭

『海と島の思想』で、勝連半島の先の島々の記述をたどると、
与論島との親近性を感じる。


それは、琉球弧の開発祖神とされる
アマミキヨ、シネリキヨの伝承がはっきりあること。
そして、シヌグ祭があること、だ。

ただ、浜比嘉島には、伝承があるというだけではなく、
アマミチュー(アマミキヨ)、シルミチュー(シネリキヨ)
が住んだと伝えられる洞窟があり、
島の東方のアマンジと呼ばれる岩礁にある墓は、
アマミチューの墓であると言われている。

アマミク、シネリクの伝承は、名称の微差異を段落として持ちながら、
琉球弧全体に広がっているが、住居、墓と具体的な場所を持つのは、
この島の特徴ではないだろうか。

そして、宮城島には、シヌグ堂という場所があり、シヌグ祭も行われる。

アマミク、シネリクの伝承がはっきりあることと、
シヌグ祭があることにどんな関係があるだろう。

『与論島-琉球の原風景が残る島』を参照して、
シヌグ祭のある地域をプロットしてみる。

Shinugumap2_2






















・シヌグのみ行われる
・ウンジャミのみ行われる
・シヌグとウンジャミの両方

この3つに分けみた。

国頭村、知念村などは、
もっと細やかに集落単位でのプロットができるが、
ここではまだそこまでできていない。

ただ、単純化してみただけでも、
シヌグは沖縄島の東海岸を中心に分布し、
ウンジャミが西海岸を中心に分布しているように見える。
そして、シヌグもウンジャミも両方、行う場所が、
北部沖縄に集中しているように見える。

この荒っぽいゾーニングで判断するわけにいかないけれど、
イメージとしてだけいえば、

・北部に行われていた2つの祭儀のうち、
 東海岸にシヌグが流れ、西海岸にウンジャミが流れた。

・もともと東海岸中心にシヌグが行われ、
 西海岸中心にウンジャミが行われてた。
 その両方が交わる北部の島端を核に、
 二つとも行われる地域が発生した。

こんなイメージはすぐに湧いてくる。
これらは解いていきたいテーマだ。

 ○ ○ ○

もうひとつ、勝連から伸びる島々、それらはもう架橋されて、
離島ではなくなっているのだが、
そこここの記述を辿って整理しておきたいのは地名の意味だ。

 浜比嘉島 ハマピジャ
 平安座島 ヘンザ
 宮城島  タカハナリ
 伊計島  イチハナリ

従来ある由来を集約しながらの再整理だけれど、
いまの時点ではこう理解したい。

 浜比嘉島 ハマピジャ 東の浜
 平安座島 ヘンザ   干瀬のあるところ
 宮城島  タカハナリ 高い離れ島
 伊計島  イチハナリ 一番、離れた島

この場合、浜比嘉は、「浜の東」で、倒音逆語と解する。

『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅲ 古代信仰と女性原理
19 タケオバアの島・伊計
23 アマミキヨの源流・浜比嘉島
27 海との共生・宮城島


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2007/08/20

コーラル・サンド・ケイの久米

まだ、久米島には行ったことはない。
しかし、地図からその居住まいを見ると、
ある独特の思いに囚われる。

久米島は、琉球弧に中心線となる曲線を引けば、
そこからかなり離れた場所にある。

これだけの距離があれば、離島のなかの離島として、
離島苦を人一倍思わせる寂しさを漂わせていそうだけれど、
久米島は、そう感じさせないところがある。

それはまず、本島の引力圏に吸引されないだけの
大きさがあるからだが、
でも、それだけに留まらないものも感じる。

それはひとつには、あの、君南風、チンベーの存在感だと思う。
野本さんは君南風(チンベー)について書く。

 稲の穂の化身である君南風は、人々に豊作を約束し、
 山々の植物の化身となっていのちの恵みを人々に語りかけていたのだ。

君南風(チンベー)の、たとえば六月ウマチーは、
ぼくの言葉でいえば、
第零次段階の行為を、第一次の世界で行ったものだ。

 ※ 「移住の根拠」

自然を人間のイメージ的身体とするという関係式を、
植物を育てるという農の世界に適用したものだ。

その君南風(チンベー)の姿は、
六月ウマチーの映像で触りを見ることができる。

 ※ 六月ウマチー

ところで、農の世界で、植物の化身となる行為ができるのは、
久米島の「農」が豊かであることが条件になるはずだ。

そしてその豊かさは「米」の豊かさであり、
それは地名に表れていると指摘したのは、柳田國男だった。

 (前略)奄美大島にも沖縄の主島にも、各々その西南側に
 古見または久米という旧地があり、
 さらに南端の八重山群島のまんなかに、
 古見または球美という稲作の大きな根拠地があったのである。
 (『海上の道』)

稲が豊かであるということが、地名に由来になっている。
地名は地形を物語るのが初源の形だから、
久米が「米」を語源にしているとしたら、
それは地名としての新しさを物語るとともに、
従来の名を捨てるほどに、
稲が豊かであったことを意味すると思える。

もうひとつ感じる豊かさは、
久米島には、北東に伸びる珊瑚州島があることだ。
これは、地形として心惹かれるポイントでもある。

珊瑚州島、コーラル・サンド・ケイは、
海面すれすれの珊瑚礁の上にできるという。

 サンゴ礁の白い砂

これをみると、与論島の百合が浜は、
珊瑚州島ではないかと思うのだが、
そんな説明を見たことがない。
知りたいところだ。


もとい。久米島は、第零次と第一次がともに豊かな世界として、
その点で、琉球弧の中でも、
独特な位相を持った島として迫ってくる。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
11 君南風と「立神」の棲む島




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海人写真家 古谷千佳子-「情熱大陸」

ゆうべのTV番組「情熱大陸」は思わず惹き込まれた。

 「情熱大陸」海人写真家 古谷千佳子

もううる覚えなところもあるけれど、
古谷さん自身は東京生まれ。
十四歳で訪れた沖縄の海に魅せられ、
それは大人になっても続き、カメラマンという職業を選ぶ。

しかも被写体は、沖縄の漁師、海人(うみんちゅ)だ。

撮りたいものはシンプルだという。
海人は、自分たちが自然の一部であり、
自然に生かされていることをよく知っている。

それって人間の基本だ。
その基本の姿を撮りたいのだ、と。

彼女はそう言っているように見えた。

漁船に同乗させてもらう。
そこで、漁の邪魔にならないように、
海人を、そして魚たちを撮る。
ときに、島の言葉が分からず、
段取りに遅れることもある。
けれど、めげない。
やりたいことがはっきりしているから。

いま、撮らないと、喪われてしまう。
古谷さんにはそんな危機感もあるように感じられた。

それを自分の仕事と思わせる海人の魅力と、
自分の仕事としてしまうカメラマンのひたむきさがよかった。

まっすぐな人の想いは迷いがなく、
すがすがしい。

琉球弧に、こういう人がいると思えるのは嬉しかった。

古谷さんのホームページも迫力満点だ。

 海人写真家 古谷千佳子




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2007/08/19

欲が少なくなった-与論島感想

「奄美の島々の楽しみ方」の山川さんが、
ぼくの『めがね』オタクぶりを見かねてか、
『ナチュラルスタイル』という雑誌に、
市川実日子さんのインタビューが載っているのを教えてくれました。

市川実日子さん。
ぼくもさすがに『めがね』に出ている役者さんと覚えました。

 9月に映画「めがね」が、
 「かもめ食堂」と同じ制作スタッフで公開されますが、
 今回は与論島で長期間ロケをされたそうですね。
 与論島に行かれたのは初めてですか。

 はい。初めてです。「いいところ」だとは聞いていたのですが、
 鹿児島から離れた島というイメージくらいしか思っていませんでした。
 映画を観ていただければわかると思いますが、
 海も空も本当にきれいなんですよ。
 与論に着くまでは頭痛がとまらなかったのですが、
 島に着いた翌日にはすっかり治っていました。
 でも、島の陽気のせいなのか、
 ほんとに思考回路が止まったしまうというか、
 何か考えようとしても考えられない不思議なところでした。

 どういうところが普段と一番違うと感じましたか。

 東京に帰ってきて、
 また頭が痛みだしたんですよ。
 たぶん島時間と東京時間の変化を体が調節しようとしていたのが、
 調子を取り戻すまでにしばらく時間が必要でしたね。
 東京に戻って気づいたのは、
 東京にいて普段の暮らしのなかで当たり前と思っていたことが
 与論島では違っていたことです。
 与論島に滞在したことで、
 いろんな自分の中の欲が少なくなったんですよね。
 それっとすごいことだなと思いました。
 ロケ中にはふざけて「買い物に行きたーい」と
 いうようなことを言ってみたりしたんですが、
 東京に帰っても全然行っていないですよ。
 (『ナチュラルスタイル』9月号)

相変わらず、いいことを言ってくれますね。

頭痛が治る、思考回路が止まる。
どちらも与論島真実です。(^^;)

 ○ ○ ○

「欲が少なくなった」というのに、
その通りと頷きながら過ぎることがあります。
それは、格差社会のくぐり方をめぐってです。

「格差社会」には、冗談じゃないという面と、
知ったこっちゃないという面があると思います。

冗談じゃないという側面は、
ここ数年、資本主義の興隆期のように、
富の偏在化が進み、
景気回復などと言われてもまるで実感の湧かない事態のことです。

これは特に選挙期間中は、
都市と地方の格差がクローズアップされましたが、
都市の内部でも大企業と中小企業の格差として露出しているものです。

この、重たい課題はある。

でも一方あるのが、知ったこっちゃないという側面です。

それが、市川さんのいう「欲が少なくなった」ということに関わります。

思い返せば、「格差」は、奄美、琉球弧にとって、おなじみの言葉です。
奄振が、そもそも「格差是正」を謳い文句にしていました。

ぼくも少年期には、
鹿児島県の県民所得が最下位を争う地域ということを
数値としてみていました。
そして鹿児島のそれを下げているのは奄美だろうから、
自分(たち)はよっぽど貧しいということなんだろうな、と。

でも、だろうな、と思っても、
どうしても実感は湧かなかった気がします。

与論での生活を思うとき、
貧しいという言い方がそぐわない気がしました。
むろん、ぼくは、水道、電気が通ったあとの世代であり、
テレビも電話も最初からあった世代なので、
「知らない」ということもであるでしょう。

でも、あの空や海や静寂や人と人の間柄や、
植物たちの中にいだかれた時間の流れは、
その後、どこで味わいたくても味わえない贅沢な時の流れでした。

なんというか、経済指標の及ばないところで、
桁違いの豊かさを享受していた気がします。

だから、ありていな言い方になってしまうけど、
経済価値に変換されるものを尺度にするなら、
貧しいかもしれないけれど、
それに還元されないものが豊かにあったと思っています。

その価値尺度の違いを踏まえるなら、
格差社会など、知ったこっちゃないという面を持ちます。
これはいまでも大事な点だと思います。

その、経済価値に還元されてこなかったものを
味わっているということ、
経済価値にもし還元したら、とても大きな価値を持つことを、
市川さんの「欲が少なくなった」という言葉は示唆しないでしょうか。

この言葉は、
都市が人の欲望を喚起することで、
消費と生産を生んでいるという人工性を示すと同時に、
別の価値を享受していることを意味しているとも思えます。

現に彼女は、頭痛が止まったというのですから。

耳を澄ませば、市川さんの言葉のなかにも、
与論島の向かう道のヒントがあるような気がします。


追伸
教えてもらわなかったら、『ナチュラルスタイル』
気づきもしなかったでしょう。ありがとうございます、山川さん。

追伸2
いまTVで、小林聡美が『めがね』のCMやってました。
びっくりして何を言ってたか、分からなかった。
観ましたか?



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「沖縄問題」とは何か 4

こんな風に『「沖縄問題」とは何か』を巡ってくると、
ぼくは仲里の考察に可能性を見出す。

 「日本復帰運動」を越えなければならない壁として
 はっきり意識しはじめたとき、
 沖縄戦のもっとも際立った特徴の一つに挙げられる
 「あまりに沖縄的な死」としての「集団自決」がにわかに
 のっぴきならない形で浮上してきたのである。

 親が子を、子が親を、夫が妻を手にかけ
 集団でしに至らしめた凄惨な出来事はなぜおこったのか。
 その問いを徹底して突き詰めることによって
 「あのイクサ」が「われわれのイクサ」になった。
 「あまりに沖縄的な死」に、
 植民地化された人たちの共同の幻想の極限的な倒錯を見てしまった、
 ということである。
 (「浮上する『集団自決』の共同幻想」仲里効)

この考察は真摯なフォーカスがなされていると思う。
この突き詰めのなかで、
「あのイクサ」が「われわれのイクサ」になると、
ぼくも、言える。

大事なのは、「われわれのイクサ」という権利を、
仲里が、沖縄人以外にも持たせることだ。

つまり、「集団自決」は、「あまりに沖縄的な死」という以外にも、
「あまりに日本的な死」という普遍化できる
問題を孕んでいるという視点だ。

この突き詰めを、沖縄だけで共有できるものとして特権化する限り、
仲里の考察は空振りすると思える。

しかし、その視点は、
ビジョン構築に向けて鍛える価値があると思う。

仲里は、「ヤマトンチュ」というテーマでは、
「1/47でなく1:46」と、書く。
日本の一部としてではなく、対日本として見よ、というメッセージだ。

ぼくなら、「1/47かつ1:46」、
あるいは「着手1/47、着眼1:46」と言うところだ。

 ○ ○ ○

さて、交響することなく、不協和に終始した二重の考察を出版するにあたり、
二人は対論を行っている。

 -高良さんと仲里さんは学校教員によって共通語を刷り込まれた世代だ。

 高良 それは、しかし、単に学校の教育によって言葉を奪われ、
     ウチナーグチをしゃべらなくなった人が輩出したということなのか。
     方言の断絶で問題なのは、むしろ家庭で言語のバトンタッチを
     自覚的にやってこなかったことにある。

 仲里 それをやってこなかった背景にも、「方言」の排斥が
     教育的権力によって運動として強力に推進されたことがあるだろう。
     それが、私たちの世代が後の世代に言語を引き継げないでいる
     大きな要因だ。失われた言語や想像力を回復するためには、
     自覚的に主体をめぐる問題圏でそのことを
     まなざし返していかなければならない。

 高良 言語の問題を政治的メカニズムのみに収斂させるのは
     間違いだと思う。
     私たちの子ども時代はまだ地域のつながりがあり、
     学校で共通語を教育されても地域の中で
     方言に触れる機会があった。
     しかし今の都市部では横のつながりがなくなり、
     家庭で方言を使わなければ、ほかに使う場所はない。
     それに、私たちと子どもの世代に言葉のギャップがあるのは、
     沖縄だけの現象ではない。地域の伝統文化が受け継がれなく
     なったという日本全国どこにでもある現象だ。
     方言を語るときには、そのことを考慮に入れなければ
     一方的な議論になる。

 仲里 そういう風に一般化してしまえば元も子もない。
     沖縄という場にこだわって植民地主義の問題や
     国家のあり方を考えるとき、
     沖縄の言語体験は
     日本中のどこにでもある問題だということではすまない。

このあたり、仲里は、「植民地的身体性」というのだけれど、
身体性はそんなに底の浅いものではない。

つべこべいわずに方言を覚えればいいのに。
そしたら楽しいことも発見もあるのに、と思ってしまう。

高良の言う「日本全国どこにでもある現象」という整理と、
仲里が「そういう風に一般化してしまえば元も子もない」
という反論は根が深い。

高良の言う側面があればこそ、
異論を唱える方は、「元も子もない」ということを、
相手に伝わるように言わなければならない。

奄美の課題も同じ構造を持っている。
植民地の問題を言挙げするだけでは、
「われわれだって植民地のようなものだった」という声が返ってくる。
ある意味で、それは薩摩の思想の常套句でもある。
だからって許さないぜ、というためには、
「一般化」されない論拠、
「教育的権力によって運動として強力に推進された」
ということが、他の地域と違っていること、
それがどんな影響を持ったかということを
伝えていかなければならない。

「沖縄問題」とは何か?
それは、現実を捉え損ない空転する理念と、
現実を捉えるも、沖縄を生かしきれていない理念との対立だと、
ぼくは受け止める。

仲里と高良の向こう側へ、ぼくたちは行かなければならない。


※編集者による脚注に基地収入と観光収入のメモがあった。

 1972年 基地収入(県民所得の15.5%)
 2003年 基地収入(県民所得の 4.7%)
       観光収入(県民所得の10.0%)

観光収入は基地収入をすでに上回っている。
この実力増強は、とても重要な意味を持っていると思う。


 ※「『沖縄問題』とは何か」1
  「『沖縄問題』とは何か」2
  「『沖縄問題』とは何か」3


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2007/08/18

一初(いちはつ)の想い

金曜の晩は、ヤカと呼ばせてもらっているウジャ(叔父)と、
北千住で一献だった。

 一初(いちはつ)

カメラは持っていかなったので、サイトでご覧ください。
この店構え、いいでしょう。

いわし料理と沖縄料理の二枚看板。
でも、時節柄で、沖縄料理のみ。
もちろん、それで不足はないのでお邪魔した。

もずく酢、チャンプルー、グルクンなど、
いつものメニューに舌鼓を打った。

ウジャは、自分の好きなことを主軸に仕事を生き成功させ、
いままた与論島に拠点をつくらんとしている。

与論のために何ができるか。
そう考えるとき、ウジャの方法は理想のひとつだ。

尊敬する。

ぼくは、まだその方途すら掴めずにいる。

何が与論を元気にすることなのか。
ぼくは、ぼくなりの方法を見つけなければと思う。

宮古島の美味しい料理とともに、
想いを新たにする宵だった。

そのうち、イワシ料理をご馳走になりたい。



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「沖縄問題」とは何か 3

『「沖縄問題」とは何か』の「沖縄という地域」のテーマで、仲里は、

 島々の連なりからなる群島的想像力が
 <方法としてのアジア>を獲得するのは、
 アジア・太平洋を横断する日米の軍事力を問わない
 <沖縄イニシアティブ>の内部ではないだろう。
 沖縄が沖縄でありつづけるのは、
 天皇制とその国家への抗いにおいてである、とみたい。
 (「反『国家』が群島の未来を拓く」仲里効)

と、書くのだが、「天皇制とその国家への抗い」という問いの立て方が
このままでは空念仏になってしまう空疎さを感じる。
抗い方を問わなくてはならない。


ところで、ここでいう「沖縄イニシアティブ」は、
もう7年前に、高良倉吉などが発表し、
当時の沖縄知識人に激しく批判された提言だという。
仲里は、当然、「沖縄イニシアティブ」を批判しているわけだ。

「沖縄イニシアティブ」の中身も、読むことができる。

 ※ 沖縄イニシアティブ

ぼくは、ここで高良に躓く。
これは、折角、沖縄にいながら、
沖縄の経験と可能性を台無しにする腰砕けの論理ではないか。

ぼくが最も躓くのは、「『基地沖縄』の評価」のなかのメッセージだ。

 しかしながら、そうした努カを尽くしたにもかかわらず矛盾が
 拡大すると判断される時は、一定の範囲において、国際的
 理解を得ながら軍事力を行使することもまた止むを得ない、
 との国連憲章の認識を私たち3人も支持する。平和や安定を
 阻害する要因に対し、国連を介するぎりぎりの選択肢としての
 軍事力の行使は必要である。

なぜ、国家の矛盾を身に沁みて知っている沖縄から、
国家の戦争行為を肯定する議論を出すのか。
ぼくには、敗北宣言に見える。

高良はここで沖縄の可能性を見損ねているのではないか。
もったいない。


考えてみれば、高良の限界は、
沖縄の根拠を琉球王国に求めたことに
胚胎していたのかもしれない。

ぼくは、この本で、高良は、
近世をただ「唐世」と済ませてしまっては静的に見えてしまうけれど、
目を凝らせば、中国と交易し、難しい外交文書を取り交わし、
薩摩ともやりあった、生き生きした琉球像が見えてくる。

そのように、生き生きした歴史を描きたかったと書いているのを見て、
自分の偏見をほどく思いだった。
ぼくもまた、「与論島の地理と歴史」を書きたいと思う者だからだ。

しかし、高良の「沖縄イニシアティブ」を見て、
捉え返してみると、
沖縄の根拠をたかだか琉球王国を作ったことに求めれば、
やはり、現在の国家を運営すること自体にしか、
活路は見いだせないのかもしれない。

 つづく

 ※「『沖縄問題』とは何か」1』
  「『沖縄問題』とは何か」2』


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2007/08/17

「沖縄問題」とは何か 2

これに対して、『「沖縄問題」とは何か』での高良はこんなトーンだ。

たとえば、「日本復帰とは何だったのか」で書いている。

 よくよく考えると、七二年の沖縄の日本復帰は、
 圧倒的な軍事拠点である基地オキナワを
 日本国憲法体制が受け入れたということである。
 アメリカ側の基地の整理によって生じた余白に
 自衛隊が進駐したことを含めると、
 沖縄の復帰の瞬間に、
 憲法の掲げる平和主義はその内側に巨大な軍事拠点を
 含んだことになる。
 さらにまた、憲法がその理念の一つとする国民負担の
 公平性から言えば、沖縄という地域に基地負担が
 過重なかたちで偏在するという現実をも、
 憲法体制は制度として受け入れた。
 アメリカ統治下にあるかぎり問題とはならなかった事態が、
 沖縄の憲法体制への参加によっていわば国内化したのである。
 
 (中略)憲法が規定する国家像の何が問題なのか、
 それに代わるどのような国家像を画くべきなのか。
 試されているのは、沖縄県民を含む日本国民の人智の側である。
 (「『復帰』の瞬間に抱えた矛盾」高良倉吉)

この文章は、日本国家からみたら、沖縄の復帰はどう見えたか。
どう見える側面を孕んでいたかということを繰り入れて書かれている。
この気づきは、一度、沖縄の立場を離れてみて見えてくるもので、
高良の議論に深みをもたらしている。

その結果、日本復帰が、ひとつ沖縄だけではなく、
日本人全体で考えるべきこととして、
課題を占有せず、本土へ橋渡すことができているのである。

 ○ ○ ○

また、「テロリズム」のテーマではこう応える。

 一九三四年(昭和九年)二月、
 沖縄連隊区司令官の石井虎雄大佐が
 陸軍省と参謀本部に提出した意見書、
 「沖縄防備対策」はまことに示唆的である。
 太平洋と東シナ海を結ぶ軍略上の枢要な位置にありながら、
 当の沖縄住民の郷土防衛意識の薄弱ぶりを大いに
 嘆いてみせている。
 そのうえで、原因を彼らの風俗や習慣を背景とする
 「惰弱」な性格にある、と石井大佐は談じざるをえなかったのである。

 大佐の言う防衛意識の薄弱ぶりや「惰弱」な性格がもし
 「われわれ」の属性だとすれば、
 戦士としてのテロリストは生まれないのであろう。
 しかし、大事な点は、大佐の悲憤慷慨には同情するが、
 「惰弱」ゆえの防衛意識の薄弱ぶりこそ
 「わさわれ」の側の心底の武器だったことだろう。
 「敵」に対し鋭角的な対立を得意とするのではなく、
 また、暴力の行使を至上化するのでもなく、
 ただひたすらにテロには傾斜しない
 「惰弱」な抗議行動に終始してきたからだ。
 沖縄の意思のテロへの傾斜は、
 小説や評論などの言説空間止まりで良いのだと思う。
 (「『惰弱』こそを武器に」高良倉吉)

沖縄はテロリストを絶対、生まないとは思わないが、
「惰弱」さを積極的に評価する視点は健やかだと思う。
少なくとも、われわれは「惰弱」ではないと否定するより、いい。

「沖縄差別」というテーマでは、
仲里は「終わらぬ植民地主義」と題し、
高良は「制度としての差別は存在せず」と題している。

タイトルだけで、両者の主張の違いは一目瞭然だ。

ヤマトゥンチュとウチナーンチュという、
例のものいいにしても、
その構図で言う権利は常に沖縄の側にあり、
しかもこの物言いのなかに、
ヤマトゥンチュは均質化されるという指摘を、高良はしており、
沖縄でもやっとこんな発言が出てきたと嬉しくなるところだ。

 つづく

 ※「『沖縄問題』とは何か」1』



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居酒屋与論島(ゆんぬ)のゆうべ

父の他界が引き合わせてくれたみたいに、
友人と十数年ぶりに話をした。

彼の気遣いで、二軒目は、
荒田近辺の居酒屋、与論島(ユンヌ)なのであった。

聞けば店長さんはぼくの同級生で、
奥さんはパラジ(親戚)だった。

しかも、これまた偶然にも、
少し前に父が来て飲んだと聞いて、
ぼくは父の座った席に陣取って、
供養になった気がしたものだ。

友人は饒舌で、
ぼくは酒を飲まずに語り続けた中学、高校のときを思い出した。
酒を飲むようになっても変わらないものだなあとつくづく。

店長さんは、他の同級生に電話をして
およそ三十年ぶりくらいに話をさせてくれた。

野球部の面々で監督さんを呼び、
与論で野球を計画しているという
いい話も聞かせてもらった。

いやあ、同級生っていいなぁと柄にもなく感謝。

懐かしく美味しい夜は、更けてゆき、
ぼくは翌日の父の五十日祭を前に、
あったかい気持ちになっていた。

ありがとう、わが友人。
とおとぅがなし、店長さんと奥さんとお子さんたち。


※鹿児島へ行ったら、居酒屋与論島(ゆんぬ)をたずねてください。
美味しい夜が待っています。
飲んだらラーメンでしめたいという向きにも、準備万端です。

Photo_2











Iyugama











Idawatitabari



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2007/08/16

「沖縄問題」とは何か 1

「奄美諸島史の憂鬱」の高梨さんに教えてもらった
『「沖縄問題」とは何か』は、
現在の沖縄知識人による「沖縄像」が
どこにあるのかを教えてくれるようだった。

Okinawamondai














『「沖縄問題」とは何か』は、
仲里効(なかざといさお)と高良倉吉(たからくらよし)が、
「日本の中の沖縄」、「沖縄独立論」などのテーマについて、
それぞれに書くスタイルを採ったもので、
30のテーマについて、掛ける2で計60の論考を読むことができる。

どう言ったらいいだろうか。

ぼくの印象は、
仲里の考えは、イオロギー内部で自動回転する空疎なものに見え、
高良の考えには、沖縄住民の目線を失わない
現実的な説得力を感じるものの、
ビジョンを構想する場面ではそれが失せ、
可能性はむしろ仲里の視点を深化させることにあると感じる、
そんな入り組んだものだった。

 ○ ○ ○

たとえば、「リゾートアイランド沖縄」のテーマで、仲里は書く。

 やっかいなのは、こうしたリゾート化した沖縄像を
 沖縄の人たち自身が内面化していくようになったことである。
 疲れた日本のナショナリズムの幻影を
 沖縄人自身が模倣し、演じる、
 これはもはや喜劇以外のなにものでもない。

 忘れてもらっては困るのである。
 癒やしを求められたリゾート沖縄の対極で、
 高い失業率や自殺率を記録する現実を生きている
 沖縄の人が、リゾートを享受することは決してない、
 ということである。
 九・一一以降、落ち込んだ観光客の穴埋めのため
 「沖縄の人だってリゾートしたい」という
 地元誘客をねらったキャンペーンは、
 痛烈な皮肉になって沖縄自身を笑った。
 (「地元は癒やされぬ『喜劇』」仲里効)

これなど、現実の沖縄の人の生活感情をかすらないのではないか。
沖縄の人は疲れた日本のナショナリズムを模倣し、
リゾート像を内面化しているのではない。

沖縄が都市化され、沖縄の人が都市としての疲れを知り、
それによって、癒す場としてリゾートの力を持つ沖縄を発見し、
いままで意識もしなかったことを、改めて受け止めている。
沖縄の人はリゾートを享受しているのである。

もちろん、失業率や自殺率の背景を見れば、
享受する余裕などないという現実が転がっているのも事実だが、
沖縄の人がリゾートを享受しないというのは虚像である。

日々量産されていく琉球弧テーマのブログを見ていると、
とくにこのシーズン、半分以上は観光客の「青い海、きれい」の記事が多い。

けれど、島に住み、島を見つめる記事だってある。
彼らは島固有の生活の困難を見据えながら、
同時に、島に癒されていることを、
ぼくは信じて疑わない。

むしろ懸念すべきなのは、
リゾートとして差し向けている表情のなかで、
民俗や文化が風化されてしまうことだ。
それがリゾート化とは別に深く掘り下げられているかが課題だ。

 ○ ○ ○

「日本国憲法」のテーマについては、こう書く。

 沖縄の自律の思想は、
 「平和主義」と「象徴天皇」の結婚から生まれた
 <われわれ>とは異なる政治的公共圏を
 群島的想像力において独自に案出した。
 八一年の「琉球共和社会(国)憲法」がそれである。
 この憲法空間は、九条と一条の抱き合いの構造を越えた外部に、
 天皇を持たない異族としての沖縄の可能性を発明した。
 前文には「好戦国日本」への決別がうたわれ、
 九条の理念が析出されていた。
 (「九条と一条が抱き合う幻想構造」仲里効)

「九条と一条が抱き合う」構造になっているという指摘は分かるが、
一条を外せば済むということにはならない。
天皇制に対して沖縄は無縁ではありえず、
聞得大君を持った歴史を振り返れば、
通底する宗教性を持っているのである。

本当に克服するには、時間が、要る。
その自覚がないだけ、呑気な啖呵に見えてくるのだ。

仲里が触れている「琉球共和社会(国)憲法」が気になるので、
探してみたら、「神戸まろうど通信」さんが
「琉球共和社会憲法試案の紹介」で引用してくれていた。

仲里のいう前文の一部を引用する。

 九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が
 国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。
 だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。
 われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省
 に立って「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた
 「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、
 最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。
 日本国民の反省はあまりにも底浅く、淡雪となって消えた。
 われわれはもうホトホトに愛想がつきた。

 好戦国日本よ、好戦的日本国民者と権力者共よ、
 好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは
 人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。

国家と市民を区別しない視点を残念に思う。
決別も悪くないが、
好戦的を「日本国民者」に押し付けたら、自己理解を誤る。
誤った自己理解は、ブーメランとして自己を襲うだろう。
だから、対話をすべきだと思う。

 つづく


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帰ってきた与論地図

Yoronmap
















あった、あった。
汗だくで格闘した末に、いちばん奥のダンボール箱で見つけた。
無くなっていたらどうしようと思っていたのでほっとした。

これは、三十数年前、小学五年生の時に作った与論の立体地図。
屋根裏の倉庫に入っていると聞いてはいたものの、
そこは、いわゆる物置だから、
いつも屋根裏の戸を開けるたび気が遠くなり、
探すことすら断念してきた。

父の忌明けの機会にと、思い切って洞窟探検のように、
漁ってやっと見つけた。ほとんど二十年ぶりに手にした。

小学五年の時の担任の先生は、
鹿児島大学を卒業したばかりの若い先生だった。
当時、小学校は与論出身の先生ばかりだったから、
とても新鮮だった。

その先生が社会科学クラブ(正確な名前は忘れてしまった)
をやっていて、そこで、与論島ゆかりの場所を訪ね歩く他に、
立体地図をつくることもやった。

等高線に添って切り取り、色を塗って、
それを地層のように重ねて板に貼り、作ったものだ。
地名の紙を貼り、仕上げにニスを塗った。

ぼくはこれに味をしめて、
夏休みに、山内建材店から大きな板をゆずってもらって、
日本地図をつくった。

 (※「南島のない日本地図」

幼く粗末だけれど、
地図づくりは楽しかった。

不思議なことに、二十年ぶりの対面だというのに、そんな気がしない。
昨日もおとついも、ずっと前から手元にあったような感じだ。
おまけに、見ていると、カッターで厚紙を切っていた自分に戻るようで、
ドキドキしてくる。

思えば、この頃にはもう与論島に夢中だった。

そのうち、時間を見つけて、
汚れを拭き取り、離れた厚紙を付け直し、ニスも塗りなおしたい。


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2007/08/15

離れ島の命運

琉球弧の島々を地図で眺めていると、
沖縄島のような本島に寄り添っている離島や、
慶良間のように小さな島が寄り添っている離島もある。

でも、それら本島から離れ、
近くに寄り添うべき島々も少ない。
そんな離島をみると、いわゆる島のさびしさもひとしお
なんじゃないかと心が吸い寄せられていく。

粟国島と渡名喜島も、そう感じさせる島たちだ。

野本さんの紀行に頼ってみていくと、
粟国島は、中江裕司監督の『ナヴィの恋』の舞台になったところだ。

そのせいかどうか、野本さんの紀行文も明るい。

伊佐達雄さんとの出会いもあり、伊佐さんはこう語る。

 民俗調査が好きで好きでたまらないという感じであった。
 「この村の屋号を全部調べてみましたよ。
 それと、地名一覧もまとめてみました」
 手製の和綴じの冊子には、
 ビッシリと手書きの文章が並んでいる。
 「もっと前からやっとったらノーベル賞じゃのうと笑うんさ」。
 一ページ一ページ繰りながら、達雄さんは本当に楽しそうだった。
 「この小さな島に、八四もの地名があるというのは不思議じゃないですか。
 それに、調べただけでも、五つの殿内(どんち)があり、
 拝所は九ヶ所もあるわけさ。
 これも、この島にしては多すぎると思うけど、
 なぜかなと考えておるところです。

こんな語りを読むのは嬉しい。
こんな方がいる限り、島は大丈夫だと思えてくる。
与論の菊さんや与那国の池間さんのことが思い出される。

一方、渡名喜島には、水中運動会が行われているのだという。
水中運動会。つまり、運動会をやるのだ。
玉入れも綱引きも。競争は水泳。
これ、楽しそう。

粟国島の人口は2001年現在、889人。
30年間で、ご多聞に漏れず、人口半減。
渡名喜島は2004年現在、人口472人。
ただ、この40年で人口は3分の1に減っている。

どちらも人口減少を免れていないが、
粟国島は、那覇から空路で20分で行ける。
渡名喜島は、航路で90分という。
この差は、大きいだろうと想像できるところだ。

この傾向を回帰線を引けば、零に向かっているようにみえる。
でも、それは数字上の話で、島に残りたいと思う人は絶えない。

離島は、大橋によって架橋されることで、
離島を終える島も出てきた。

大橋によって架橋されることのない離島は、
どうなっていくのか。

経済の架橋がなされなければならないことは言うまでもないが、
ぼくは、粟国島の伊佐さんのような営みが尊いと思う。
それによって、島の心が理解できるからだ。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅲ 古代信仰と女性原理
20 ナヴィの恋・あぐに
24 温もりの海郷・渡名喜


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2007/08/14

地獄と死と家路と

「あまみ便りblog」さんに教えてもらって、
NHKの「夏うた2007」を観た。

 今夜のNHK「夏うた2007」

琉球弧の関心でいえば、
元ちとせの「死んだ女の子」、
中孝介の「家路」、
coccoの「heaven's hell」を聴けた。

 ♪ ♪ ♪

元ちとせの曲は、死んだ女の子の立場で歌う曲で、
その分、歌詞はあからさまで異様ですらある。

けれど、原爆ドームをバックに坂本龍一のピアノで歌うと、
別のムードをかもし出す。
いや、ムードというよりそれはオーラかもしれない。
なんというか、歌うノロ(神女)に見えてくる。

それは彼女の歌唱と舞踏の力だ。

なにより、これが圧巻だった。

coccoは、沖縄の海を諦めない思いを込めて、
天国の地獄を歌い、

中孝介は、帰るべき地の自然を豊かに持つ中が、
満点の銀河を降ろしたような渋谷の夜景を背景に、
お盆らしく、家路を歌う。

それぞれの切実さがにじみ出たいいパフォーマンスだった。

NHKとはいえ、琉球弧の三人の歌い手を
ひとつの番組に出て、不思議な感じだ。

でも、琉球弧像の更新であるには違いない。

嬉しい。




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沖の島感覚

来間島の地名の由来を考えるとき、
表音はクリマとしているのだが、気になることがあった。

『島々清しゃ』の「来間島」には方言名として「フィマジマ」とあって、
どちらで考えればいいのだろうと思ったのだ。

そこで宮古市と溝の口にある「地名資料室」に確認してみた。
宮古市では、来間島出身の50代の方にお聞きし、
地名資料室では、角川の辞典などいくつか参照していただいた。
結果、「クリマ」という表音だけが見つかったので、クリマで考えている。

でも、「フィマジマ」という発音がないわけではないと思っている。
そういう言い方もあった、と聞く機会があれば、こちらも考えてみたい。
古宇利島の「フィ・フィジマ」の「フィ」と同じかもしれない。

来間島の展望台には、来間島憲法が書かれているという。
その第三条は目を引く。

 第三条 住民は、集落の景観を美しく保つために以下の努力をしなくてはならない。
 一、屋敷内の庭にブーゲンビリアの花を一本以上植える。
 二、屋敷内の庭にハイビスカスの花を一本以上植える。
 三、屋敷内の庭に花を植える。

「屋敷内」というのはすごいけれど、これ、いいと思いませんか?
与論は、パナウル王国。与論も、花と木を植えたいものです。



来間島の地名の由来を、沖の島とみなした。
ところで、来間島自体は、現在は宮古島と橋でつながっていて、
沖の島ではなくなってしまっているが、
宮古島には、もうひとつの「沖の島」がある。
多良間島、だ。

ただ、多良間島は、宮古島から西に約67キロ、
石垣島の北東約35キロだというから、
沖の島という名づけは石垣島からのものであったかもしれない。
石垣島からはどう呼ばれているのか、調べてみたいところだ。

多良間島で、野本さんはこう書いている。

 その中の洞穴に入って腰を下ろす。
 上下左右の空間も開け、どこからでも海が見え、空も見える。
 快い風が吹き込み、晴海は岩に腰を下ろして眠っている。
 岩陰の白砂に寝ころび、目を閉じる。
 波の音が遠く近くに重なり合い、
 近くを何の警戒心もなく走り廻るカニの足音がする。
 太古から続いてきた自然の営み。

 原始そのものの海と岩と砂に埋まり、
 ぼくはグングンとけていく。
 時間が止まってしまったような空間の中で、
 実に素直に、ぼくは宇宙に拡散し、
 呼吸するたびに大きくなったり小さくなったりしている。
 輪郭のなくなったぼくは、
 白砂でもあり、岩にもカニにもなってしまいそうだ。

何をすれば琉球弧を味わったことになるのか?
ぼくは、溶けることだと思っている。
溶けるとはどういうことか?
それが、野本さんの文章に表れている。

時間と空間への溶解。
それを感じることができれば、
旅人は、琉球弧の何たるかが身体に染みてくるのではないだろうか。

多良間島で、それが濃厚に感じられるなら、行ってみたい。
沖の島感覚を味わいに。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅳ 暮らしの思想・祈りの思想
31 神話の生きる島・来間
34 緑と白砂の島・多良間


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2007/08/13

1964年の与論島

父(アチャ)の忌明け祭の折、
改めて写真をひっくり返していたら、
中から与論島の航空写真が出てきた。

ときは、1964年。

Yoron1964_3



















真新しい南島開発の製糖工場が見える。
真ん中に見える施設は茶花小学校だと思う。
かやぶき屋根の家も散見できる。
宇和寺が写ってないのは残念だけど、
まだまだ耕地と山原(ヤンバル)の緑が広がっている。

空港もなければ、プリシアもない。

1964年の前後で、与論には、プロパンガスが入り、
南タクシーが開業し、製糖工場、そして江が島桟橋も竣工。
与論村から与論町になり、水道が敷かれた。
東京オリンピックの影響で、テレビも普及し始める。

原始・古代を濃厚に保ちながら、近代化が目に見え始めた時期だ。

この写真の向こうに生後一年に満たない自分がいる。
身体性の原風景。それがぼくにとってのこの写真の意味だ。


これを見るみなさんは何を感じるだろう。
それを知りたく思う。

与論島よ、永遠に。




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来間島、「沖の島」のひとつ

柳田國男の『海南小記』を読み返して、
地名の由来が「沖の島」である島は、
これまで仮説した島以外にもまだあるのに気づいた。

大正14年に刊行された『海南小記』の「南波照間」で、
柳田は書いている。

 西常央翁から聴いたと、南島探険記には書いてある。
 波照間の島はすなわちハチウルマで、
 うるまの島々の南の果の、意味であろうということだ。
 なるほど気をつけてみると、八重山郡の東の海には多良間があり、
 宮古群島には来間島あり、沖縄の西南に近く慶良間があり、
 さらに大島に続いて佳計呂麻の島がある。

 南北三つのエラブ島もその転訛かもしれぬ。
 語尾のよく似た島の名が、これほどまで多いのは偶然ではあるまい。
 あるいはかつて島をウルマと呼ぶ人民が、
 ここにもやまとの海辺にも多く栄えていて、
 自然に都の歌や物語にも、
 「ウルマの島の人なれや」などと、
 口ずさまれるようになったのではないか。
 そうでなくても昔なつかしい言葉である。
 (『海南小記』柳田國男)

ぼくが、「沖の島」として挙げきれてなかったと思うのは、
来間(クリマ)島のことだ。

来間島は、宮古島の沖の島なのだ。

これで沖の島と考えられるのは、
波照間島、鳩間島、多良間島、来間島、
慶良間諸島、加計呂麻島の六島になる。

波照間のパティルマを元にしたとき、
地名として同じになる変化を挙げてみる。

 波照間島  パティルマ
 鳩間島   (語中が縮退)→パトゥマ
 多良間島  (語頭のパが脱落、ティルがタラに転訛)→タラマ
 来間島   (語頭のパが脱落、ティルがクリに転訛)→クリマ
 慶良間諸島 (語頭のパが脱落、ティルがギラに転訛)→ギラマ
 加計呂麻島 (パティがカキに転訛)→カキルマ

これらの詳細な根拠は、別の場に譲りたい。

柳田がハテウルマから同じ意味ではないかと連想を広げていったのは、
波照間の語源として、「果ての琉球」という仮説は出されているが、
「果ての珊瑚礁」はまだ提出されていない段階でのことだが、
表音から地名の同一性を捉える見識は豊かだと思う。

地名を考えるとき、この豊かさは今も大きな助けになる。

 ※ 「『沖の島』の流れ2」
   「『沖の島』の流れ」
   「『波照間』地名考」
   「波照間=加計呂麻」


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2007/08/12

どことなく与論に似ている伊江島

与論島とは伊江島とも交流があり、
どことなく似ている島という印象がある。

 海に囲まれた伊江島は、周囲二四キロ。
 人口は5000人といわれている。
 本部半島の先端から西方約五キロに浮かぶ島である。

この大きさや人口は、似ていると感じる点だ。
隆起珊瑚礁の島だということも。

でも、よく見ると、与論島よりは、
沖永良部島に似ているのかもしれない。

・ユリフィールドなど、ユリの栽培が盛ん。
・農業が盛んで、裕福に思える。
・城山と大山と200メートル級の山がある。

けれど、地上戦と基地の経験は、
与論にも沖永良部にもないものだ。

数ヶ月前、伊江島の役場の方と話す機会があった。
音楽ホールのような施設のパンフレットがあって、
離島には考えられない豪華なものだと感じて、
どうしてこれができるのか尋ねてみると、
米軍の射爆場があるので、その補助金なのだという。
そうした現実も、ある。

『伊江村史』は、地名について、

 定説はないが、イイシマ(良い島)・イイジマ(石島)・
 イリシマ(西の島)などの発想から名付けられたと思われる。

こう説明がある。

このなかでいえば、ぼくは「西の島」に説得力を感じる。

伊江島の佇まいは、琉球弧の他の離島と違う印象がある。
本島に近く、島自体も農で潤っている。
このゆったりした島の存在が、
離島の孤独感を緩和させているのではないだろうか。

それが、島にゆとりのようなものを感じさせる。

もしかしたら、あまりこだわらないおおらかさが、
与論といちばん似ていると思わせる点かもしれない。

いつか、自分の見聞で確かめてみたい。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
14 イーハッチャー魂・伊江島

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心地のいい空気感 『めがね』のモチーフ

雑誌『PEN』に、映画『めがね』の荻上監督の弁が載っていました。

 スクリーンに漂う、心地よさの秘密とは?

 脚本を書く前に、舞台となる与論島に行ってみました。
 今回は映画の中で“たそがれ”という、
 とってもヘンな言葉をわざわざ用いているんですけど、
 本当にボーッと、“たそがれる”以外にすることがない。
 余計なことをしたり考えたりしなくていい場所なんですね。
 私が味わった心地のいい空気感をぜひ観客の皆さんにも
 届けたくって、『めがね』を作りしました。

これじゃあ、役者さんたちが与論島のことを言うはずですね。
だって、与論島を描きたくて作りました、
と言ってるようなものではないですか。

「心地のいい空気感」。

この映画のモチーフであると同時に、
与論島の惹句になっていますね。



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2007/08/11

「てるしの」の島、註

以前、伊平屋島の章に触れたときには、
島の異称の「てるしの」について、何もコメントできなかったが、
とても面白い考察に出会ったので、註を添えておきたい。

 ※「てるしの」の島・伊平屋島

「てるしの」の「しの」は、カタログ語、インドネシア語に
由来を持つ、というのだ。

 実はそのカタログ語 sinag あるいはインドネシアの sinar と
 同源の言葉が『おもろそうし』に出てくる照ル・シナ(ノ・マミヤ)、
 あるいは照ル・シノ「太陽、月」のシナ、シノであります。
 沖縄の内裏言葉の辞典『混効験集』(一七一〇年)には
 「てるかは 御日の事」「てるしの 右に同」とあって、
 シノが太陽であることが明示されています。

 (中略)そしてこのシナは沖縄語の記録に出ているだけでなく、
 聖徳太子の歌(シナ照る片岡山・・・)にも出てくるのです。
 しかし聖徳太子の歌のシナは「太陽」か「月」という意味が
 不明になっていたのですが、
 沖縄では一七一〇年に編纂された辞典においても
 まだはっきりとその意味が残っていたのであります。

 本土よりずっと長く沖縄では南方系の単語
 -フィリピンの公用語であるカタログ語の sinag「光」、
 インドネシア共和国の国語インドネシア語(=マライ語)
 sinar「光」、ポリネシア諸語の ma|sina「月」と同源の
 単語が残っていたのです。

 『おもろそうし』のシナ、シノ、『混効験集』のシノ「太陽、月」
 と同源の言葉は全太平洋からインド洋にかけて分布しています。
 マダガスカル島にも沖縄のシナ、シノと同源のma|sina「神聖な」
 という言葉があります。
 (村山七郎『南島の古代文化』1973年)

面白いのは、南洋の言葉が、琉球弧に残っていたというだけでなく、
大和本土への広がりを持っていたことだ。
そして、大和本土では意味不明になっていても、
沖縄では、意味あるものとして残っていたということ。

伊平屋島が、またぐっと身近になってくるようだ。

それにしても村山七郎の考察は、
言葉が、広く大きなものであるのを感じさせてくれて楽しい。

伊平屋島をなんで「てるしの」というのか、
と小さく考えていたところに、
それが、全太平洋、インド洋に広がっているというのだから。

ぼくたちは、思っている以上に、
きっとつながっているんですね。



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宇和寺回想

この写真は、約20年前の宇和寺。

Uwaderamui_2


























30年前くらいまでは、この坂はもっと急で道も狭かった。

写真を撮っている位置が、珊瑚の石垣の入口。

この道で、父がよくキャッチボールをしてくれた。

夜になるとあたりは真っ暗になって、
奥の家屋から漏れてくる光を見るまでは、本当に怖かった。
頭の中は、日ごろ聞いていたムヌ(物の怪)の話でいっぱいで、
光を認めると慌てて走り出して、玄関になだれ込んだものだ。


舗装された道を折れて奥に入った途端、
時間が止まるようだった。

訪ねて来た客人が、
ここへ来ると、昔の与論に来たみたいだと言っていた。
当時、意味は分からなかったけれど、今はよく分かる。

ぼくはこの宇和寺が大好きだった。

この、うっそうとした宇和寺の森を復活させること。
いま、それはひそやかな夢だ。



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2007/08/10

瀬底は瀬戸か?

瀬底島の語源由来をめぐって、野本さんは書いている。

 瀬底島は、『南島風土記』(東恩納寛惇著)には、
 かつて「獅子島」と呼ばれていたと書かれている。
 また、沖縄学の外間守善さんは、瀬底の瀬は「精森の精(シーヌギュン)」で、
 「底」は『古事記』の伝える海神・
 少名毘古那神(スクナヒコナ、海の彼方からやってきた神)
 のスク(海)の意味ではないかという。
 つまり、瀬底は稲作の技術をもってきたアマミクの来訪神が
 渡来した「精(シー)」のある聖なる地(島)ではにかというのだ。

 さらに瀬底島出身で言語学者である千葉大学の内間直仁教授は、
 地元では瀬底島のことを「シーク」と呼んでおり、
 この「シーク」は「セスク」の変化したものと推論している。
 セは干瀬の瀬で、海中に顔を出して平たく続いているサンゴ礁。
 スクな「ウチグシク」(瀬底の拝所名)のシクであるという。
 したがって「セスク」が瀬底の語源で
 「聖なる聖所」「瀬なる神の在所」という意味だと指摘している。(『瀬底誌』九頁)

地名となると、どうしてもロマンティックに解したくなるものらしい。
最も身近なロマンティシズムの拠点を指して地名という、
と言いたくなる。

だが、このロマンティシズムの影に、
見失われるのは、地名を名づけた初期琉球弧人の言葉だ。
地名のロマンティシズムは、
初期琉球弧人とのコミュニケーション回路の封鎖だと思う。

外間守善はここでもトンチンカンだ。
アマミクが渡来した聖なる地。
地元の島人の矜持を怪しく支えてしまう
不用意な物言いだと思う。

地元出身者の推論は、瀬を干瀬と解して、
地形を根拠にした力強さが感じられる。

しかし、”聖なる”場所と解したい誘惑のほうを
ぼくたちは感じてしまうのをどうしようもない。


ぼくは、瀬底のシークは、
素直にいえば、瀬戸、つまり狭い海峡の意味に解したいと思う。

現に瀬底島は、狭い海峡を通じて本部半島に面している。


ただし、瀬戸の「トゥ」が「ク」と
同音であるという根拠を挙げることができない。

そうとすると、「ク」は、「ハニク」「カネク」などと同じ、
「砂地」と解すべきかもしれない。

シーク、狭い海峡に面した砂地、と解釈するのである。

いまはまだ結論が出せない。


瀬底からの移住で、島が開拓されたという水納の由来は、
まだ分からない。
 


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海域の風景-琉球弧のつなぎ目

高梨さんが『奄美諸島史の憂鬱』で、
高良倉吉の奄美エッセイを紹介してくれている。

 高良倉吉氏の最新刊!『対論「沖縄問題」とは何か 』

与論島に触れたくだりが印象的だった。

 与論島の海岸から沖縄島を見ると、
 与論よりいくぶんは大きい島にしか見えない。
 その右手に沖縄県に属する伊平屋(いへや)島や
 伊是名(いぜな)島が見えるが、
 27度線や県境が存在することを疑いたくなるような
 海域の風景である。

与論から沖縄島を見たときの印象は、
与論人(ユンヌンチュ)にとっては、
「与論よりいくぶんは大きい島にしか見えない」ことにはならないと思う。
それは、地形の物理でしか言えない。

あの島影を、「ヤンバル」というときの愛着や、
「ナファ」と呼ぶときの都感覚が、
島の人たちの言葉には宿っていたから。

「与論よりはいくぶん大きい島」ではなく、
「与論よりとても大きな陸地」だったと思う。

 ○ ○ ○

ただ、沖縄島や伊是名や伊平屋を一望すると、
「27度線や県境が存在することを疑いたくなる」のは、
その通りだと思う。

小さい頃、「あそこは今アメリカなんだが、こんど復帰する」
という話を聞いても、まるでチンプンカンプンだった。

ぱーぱー(祖母)やパラジ(親戚)の言葉から感じられる
沖縄への親近感や、黒潮という大河でつながるお隣感覚からして、
国境だのなんだのというのは、
とても無理のある人工的なものに思えた。

琉球弧のつなぎ目の「海域の風景」は、
つながりの感覚を湛えている。


追記
高梨さんのおかげで興味を持てた。
ぼくもこの本、読んでみたい。



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2007/08/09

心の橋、愛の壁

古宇利島、屋我地島、奥武島と沖縄本島。
瀬底島と沖縄本島。

ふと気づくと、沖縄島は周辺離島とやたら橋でつながっている。

 1.屋我地島 1963年
 2.平安座島 1971年
 3.宮城島  1975年
 4.野甫島  1979年
 5.奥武島  1979年
 6.伊計島  1982年
 7.瀬底島  1985年
 8.池間島  1992年
 9.来間島  1995年
 10.古宇利島 2005年

ぼくは、野本さんの整理を追いながら、
なんというか、沖縄から離島が減り、
沖縄本島が膨張するイメージを持った。
なんとなく、ちょっと残念な気分混じりだ。

もちろん、架橋は離島苦解消を目指したものであり、
島人の切実さの背景を見逃してはいけない。

しかし、離島苦のうち、人口減少については、
架橋は必ずしもこれを食い止める力にはならない。

架橋による交通の実現は、
沖縄本島の都市の中心性を高めるだろう。
架橋は、旧離島の無人化か郊外化を招くように思う。

現に、野本さんのレポートには、
島の人口減少と島外からのゴミ流入が報告されている。

これは、沖縄本島の都市化の過程そのものに他ならない。
同時に、沖の島々としての琉球弧の個性喪失の過程でもある。


ところで、ジョン・レノンに『心の壁、愛の橋』というアルバムがある。
この邦題を、心の壁を愛の橋で乗り越えようと素直に受け取ってみる。
沖縄の架橋も、離島苦の壁を橋で解消しようとしたものだろう。

けれど、それをするなら、「心の橋、愛の壁」が要ると思う。
島はなにゆえ島なのか。それは島だからである。
島は島ゆえ、世界であり宇宙である。
架橋するということは、島ではなくなるということだ。
島ではないということは、世界、宇宙でなくなるということだ。

だから、架橋するなら、というか、架橋の前に、
島の世界、宇宙を掘り下げ、浮かび上がらせたい。

その世界観を、愛ある壁で大切に持てば、
橋が島の心をなくすのではなく、
橋が島の心を渡すことができるようになると思う。

愛の壁で島を守り、橋が島の心を渡す、のだ。
(ちょっとコジツケすぎか?)

 ○ ○ ○

ところで、古宇利島の章では、地名にまつわる収穫があった。

 古宇利島がウチナーグチで「フイ・フイジマ」「クイ・クイジマ」
 などと呼ばれていることを知った。
 フイやクイは「越えた」のウチナーグチということであった。

ぼくは、古宇利島という名前を聞くと、
ぱーぱー(祖母)が、「こーり、あまんがた」と言っていたのを思い出す。
「ずっと、むこうのほう」という意味だと思う。
その、強調のように聞こえてくるのだ。

でも、あながち当たらずとも遠からず。
「フイ・フイジマ」、向こうの向こうの島、ということだ。

オーの向こう、ヤカの向こうにある島。
明日の明日、みたいな反復表現だ。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅲ 古代信仰と女性原理
21 人類発祥伝説・古宇利島
Ⅳ 暮らしの思想・祈りの思想
30 架橋への夢・瀬底島


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2007/08/08

めーげらま王国

野本さんの慶良間諸島めぐりのなかに、
心惹かれるエピソードがある。

那覇から西へ約20キロくらいだろうか、
慶良間諸島を構成する離島のひとつに前島がある。

ここは、1963年、全島民が沖縄本島に引き上げたので、
以来、無人島になってしまった。

そこへ、なんと2003年から一組の夫婦が住み、
故郷の島を復興しようとしているというのだ。

中村さんは、1951年まで前島に住んでいた出身者。
島を離れ、四〇代に入ってから前島に帰りたいと考えるようになり、
五二歳で会社を止め、大工仕事を覚え、
船の免許を取り、前島に住民票も移したという。

すごい。こんなことはある、というか、こんな方がやはりいるんですね。

活動はどう進んでいるのだろうと気になって、探したら、
「私は島で考えた」というブログでお元気そうな
消息を知ることができた。

感謝。

 いざ慶良間諸島、前島へ(「私は島で考えた」)

パナウル王国ならぬ、めーげらま王国とは、
前島に付けられた名称。

めーげらま、前の慶良間。
ぼくの理解だと、”前にある沖の島”の意になる。

無人島の後にも島の蘇生はありうる。
そういう励ましとして、中村さんの行動は響いてくる。

与論島の蘇生という言葉がふと頭をよぎっていく。



『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
12 鯨の見える島・座間味
13 集団死・渡嘉敷島
17 島で育つ心・阿嘉島
18 ふたりの故郷・前島

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『めがね』の島、与論島

「ロケ地に行きたい映画・ドラマは?」と聞かれたアンケート結果は、
秋以降の与論島のポテンシャルを感じさせる。

 ロケ地に行きたい映画・ドラマは?旅行サイトがアンケート結果を発表

国内でいえば、第1位は、Dr.コトーの島としての与那国島。
そして、海外第1位はなんと、「かもめ食堂」。
これは映画『めがね』の前作にあたる。

荻上直子監督の『めがね』は、
「かもめ食堂」のスタッフ&キャストが再集結したと謳われるのだから、
「かもめ食堂」のファンがそのまま引き継がれるということでもある。

「かもめ食堂」でフィンランドに行きたいと思って人が、
そのまま、『めがね』で与論島に行きたいと思うことも多いはずなのだ。

ここに、『めがね』公開以降の与論島のポテンシャルがある。

役者さんたちの言葉や予告編を見る限り、
『めがね』は、与論島を舞台にしたというだけではなく、
ある意味で与論島を描いている。

なおさら、ポテンシャルは高いのである。


 ▼海外編
 1.「かもめ食堂」/フィンランド
 2.「冷静と情熱のあいだ」/イタリア
 3.「サウンド・オブ・ミュージック」/オーストリア
 4.「ロード・オブ・ザ・リング」/ニュージーランド
 5.「ローマの休日」/イタリア
 5.「赤毛のアン」/カナダ
 7.「ザ・ビーチ」/タイ
 8.「ダ・ヴィンチ・コード」/イギリス、フランス、イタリア
 9.「冬のソナタ」(ドラマ)/韓国
 10.「ティファニーで朝食を」/アメリカ

 ▼国内編
 1.「Dr.コトー診療所」(ドラマ)/沖縄県与那国島
 2.「北の国から」(ドラマ)/北海道富良野
 3.「世界の中心で、愛をさけぶ」/香川県庵治町
 4.「フラガール」/福島県いわき市
 5.「男たちの大和/YAMATO」/広島県尾道市
 6.「UDON」/香川県丸亀
 7.「いま、会いにゆきます」/長野県諏訪市
 8.「解夏」/長崎県長崎市
 9.「鉄道員(ぽっぽや)」/北海道空知郡
 10.「二十四の瞳」/香川県小豆島


まぁ、それがどうしたのとばかりに、
映画のことは知らないかのように過ぎてゆくのが、
これまた与論らしいといえばらしい。

そのよさを生かすとしたら、
『めがね』の島などと宣伝もしない与論島があり、
そこに、映画を観て行きたくなった人が訪れ、
『めがね』よろしくたそがれて帰ってゆく。
島では、宣伝も何も、あの浜辺の案内すらなかったよとクチコミする。
それが、よさとして伝えられていく。

こんな絵だろうか。

それならそれを徹底すべし、ですね。



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2007/08/07

戦争反対の根拠

これは2003年3月、アメリカがイラクへの攻撃を開始した時に、
鶴見俊輔が、『沖縄タイムス』に発表したものだ。

 戦争反対の根拠を、自分が殺されたくないということに求める方がいい。
 理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。
 それは自分の生活の中に根をもっていないからだ。
 イラクでは、女性、子ども、そして戦闘力のない老人が殺される。
 そのことは、アジアの中で大きな富と武力をもつかつての日本が、
 アジアに対してしたことを思わせる。
 これに反対する運動は、新しい形を必要とする。

 (中略)(今度の戦争は)世界で一番新しい文明が、
 最も古い文明に対して加えた攻撃である。
 この新しい文明は、地球上に住む他のあらゆる生物
 (動物や草木を含めて)に対する破壊力を備えている。

 米国の大統領はそのことを自覚していないが、
 もはや人類は地球に対する謝罪として
 自分たちの終わりを考えるべき時に来ている。
 (2003年3月24日)

「自分が殺されたくないから」という戦争反対は、
イデオロギーが崩壊した後の、根拠の表れになっていると思う。
つまり、加担すべき米ソの対立構図が無くなった後に、
戦争反対はどのように言うことができるか、を問うている。

「自分が殺されたくないから」は、
戦争反対の起点にある心情で、
もともとイデオロギーだって、
ここから巣立っていった側面もある。

鶴見はその心情を託すべき新しいイデオロギーがないと言うのではなく、
それがあったとしても、イデオロギーに託さない、
根っこにある心情のまま、
根拠を遠くにやらないほうがいいと言っているのだ。

戦争は、戦争それ自体に反対するべき段階にきている。
だから、起点となる根拠も露わになるが、
それを堅持せよ、というのだ。

この主張には、イデオロギーに振り回され、
結局はそれが瓦解していった苦い経験が滲んでいる気がする。

しかし、鶴見が「自分たちの終わりを考えるべき時に来ている」と言うとき、
「自分が殺されたくない」という生活心情から離れないという
戦争反対の根拠は、大きなニヒリズムを抱え込んでいるように聞こえてくる。

ぼくにはこう言う度胸はない。
鶴見も、怖いことを言う人だ。

 ○ ○ ○

野本さんの『海と島の思想』は、
上の鶴見の言葉を引いていた。

というのも、野本さんが、第二次世界大戦で米軍が上陸した
慶良間諸島を旅するタイミングで、
アメリカによるイラク攻撃が開始されていたからである。

というより、アメリカによるイラク攻撃という戦争に抗することは、
野本さんが琉球弧の島をめぐるモチーフになっていったように見える。

米軍は、阿嘉島をはじめに、慶良間島、座間味島に上陸し、
その過程で、沖縄島民の集団自死が起きる。

野本さんも、勢いそのことに紙片を費やすのだが、
時を隔てて、つい最近は、教科書問題としてこのテーマは表面化した。

ぼくは、集団自死への軍関与の有無をめぐる教科書記述問題には、
何か、ちぐはぐなものを感じる。

本来、歴史記述の主体となるべき沖縄島民がその任になく、
戦争放棄を内包すべき国家が、その任に顔をそむけ、
その分、沖縄島民が、戦争放棄を主張する役を担っている、
そんなちぐはぐさ、だ。

ぼくは、閉鎖的共同体が追い込まれ、
それがある閾値を越えたとき、
内発的に集団自死を発生させたという歴史記述を、
沖縄の島民は、自らの手によって生み出さなければならないと思う。

一方、国家は、関与の強弱の問題より以前に、
結果的に集団自死を引き起こした戦争に責任があるのだから、
戦争放棄を内包し続ける不断の努力を行わなくてはならないはずだ。

そして、沖縄の島民が、
内発的な集団自死を自らの手で記述し引き受けることで、
直接の関与の有無に関わらず、
集団自死にいたる要因を、軍も担っていたことは
自ずと明らかになると思える。

 ○ ○ ○

吉川さんという案内人が、渡嘉敷島での戦争体験を語っている。

家族みんなで死のうと、兄が手榴弾を投げようとしたそのとき、
吉川さんの母が、

 死ぬのはいつでもできる、
 今はいのちを大事にして、
 生きられるだけ生きよう。

そう叫ぶ。それによって、子供たちは助かる。

この母の叫びは尊い。
集団自死に雪崩れ込む最中に発せられたことを思えば、
これは稀有な声であった。

この声を、吉川さんの母から引き継ぎ、
自分の内に育みたい。



『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
12 鯨の見える島・座間味
13 集団死・渡嘉敷島
17 島で育つ心・阿嘉島
18 ふたりの故郷・前島


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2007/08/06

与論町へ。もっとメッセージを

以前、「ヨロン島サンゴ礁基金」の募集が始まったときに、
この基金の考え方、想いをもっと語ってほしいと書きました。

 もっと想いを-「ヨロン島サンゴ礁基金」に寄せて

何にどのように使われるのか、
そして何より、この基金にはどんな想いが込められているのか。
それが無ければ、賛同するにもしにくいと感じたからです。

それは今も同じです。あれから基金は増えつづけているでしょうか?

いまも与論町のウェブサイトを見ると、
町からのメッセージより、基金を寄せた方々の想いのほうが
はるかに伝わってきます。

 与論町 「ヨロン島サンゴ礁基金」のご案内

これはアンバランスです。というより、順序が逆です。
主宰者の想いに打たれて、寄付に応じるというのが、
基金のコミュニケーションの形というものです。

現在は、寄付に応じた方々の好意に
甘えているようにみえるのですがいかがでしょうか?

もっとメッセージを出すだけで充分だと思います。
もっと知りたい。もっと力になりたい。
そういう想いはぼくだけかもしれませんが、
ぼくはメッセージを聞きたく思っています。

 ○ ○ ○

もっとメッセージを、ということでいえばもうひつ、提案があります。

それは、いわば映画『めがね』小判鮫作戦です。

9月22日に公開される映画『めがね』では、
出演する俳優さんたちが、試写会の舞台挨拶で、
口々に与論島のよさを語っていました。

「何もしないために行く」「リラックスしに行く」というのです。
これは、与論島のよさを美事に言い当ててくれています。

もたいまさこさんなど、「みなさんも行ってみたらいいですよ」
とまで言ってくれていました。

誰が頼んだわけでもないのに、こうしたクチコミが生まれているのは、
それこそ与論島の魅力あってのことです。

これに、与論町が反応しない手はありません。
そこで提案です。

町長さんによる「明日の与論ブログ」です。

「明日の与論ブログ」は、

 ・町長さんが、直に、日々やっていることを書く。
 ・雨が降らないのが深刻なことも綴る。
 ・「ヨロン島サンゴ礁基金」を直に呼びかける。
 ・また、その経緯を、報告する。
 ・来てほしい人へ直接、呼びかける。

基本は、町長さんと与論島好きをつなぐブログです。

そしてこんな日々の話題のひとつの流れとして、
映画『めがね』の舞台となった浜辺や宿泊所の紹介や、
撮影に協力した方々の感想などを、挙げていくのです。

ただ、それだけでいいのです。
いま、Web日記をウェブサイトでやってらっしゃいますが、
あれをブログでアクティブに展開すればいいのだと思います。

映画『めがね』は、予告編を見るとなお一層、
与論島の魅力が表現されていると思えてきました。

 映画『めがね』 予告編

この映画を観て、与論島へ行きたいと思う方は少なくないと思います。
その人たちの気持ちに応えるコミュニケーションの場を設けるのです。

町長さんは忙しくてそんな暇はないというのであれば、
近くのスタッフが取材して書いてもいいのです。
いまや、首相だって小泉内閣メールマガジン、
安部内閣メールマガジンでやっていることです。

このシンプルな方法は、

 ・まず、お金がかからない。
 ・クチコミを自動波及させるインターネットの力を生かせる。

というメリットがあります。

与論町は、「観光元年」を位置づけたと聞きます。
観光の島として与論島を位置づけるなら、必要なのは交流人口です。

交流は、コミュニケーションから生まれます。
ブログはコミュニケーション発生装置として、最適です。
活用しない手はありません。


もっとメッセージを。与論町へお願いしたいことです。



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2007/08/05

加計呂麻、純黒糖が美味しい

加計呂麻島の純黒糖が美味しくて、愛用しています。

Photo_4
















一個いっこの黒糖の粒が大きくて、黒々していて、
封を開けると、あの黒砂糖のいい香りがしてきます。

昔はおやつといえば、お茶と黒砂糖でした。
そんな思い出と一緒に食べるのが楽しいです。

ぼくは、コーヒーにも入れて飲んでます。
これがなかなかイケます。

 奄美自然食
 さとうきび100%
 加計呂麻 純黒糖
 300g
 かけろま独自の自然と風土が
 育んだ伝統の味!!

雰囲気あるパッケージ。
東京のスーパーで買えるのが嬉しいところ。

与論島も純黒糖、作らないかなぁと期待してます。



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サンゴ礁の海から~島で考えること

タイトルは、阿嘉島臨海研究所の大森さんが、
2003年に「近海離島総合研究会」で報告したテーマだ。

それを聞いた野本さんが、『海と島の思想』で、要旨を書いているが、
与論島のマーケティングとしても
いいアドバイスになっていると思うので、引用しよう。

 国が島の方針を作るのではなく、
 島の住民が主体的に参加し、自分たちの島、島の宝、
 サンゴをどうしたらよいのかを考え、
 行動を起こさなければ状況は変わっていかないと言われる。

 サンゴが生き生きとしているから阿嘉島は豊かなのだと
 再確認する必要もあるという。
 その宝(神)である「サンゴ」をどうするかと考えると、
 これまでの観光観を転換しなければならないだろうとも言われた。

 これにはハッとさせられたのだが、
 慶良間諸島を「宝の島」として明確に位置づける。
 そうすると、観光客をいかに多く集めるかという発想ではなく、
 一生に一度は行ってみたいと思うような、
 本当に素敵な島にすればよいのである。
 民宿も安くするのではなく、今の10倍ぐらいの値段にする。

 夏の観光は、五〇倍ぐらいにしたっていい。
 ダイビングをする人は、キチッとマナーを守り、
 サンゴを大事にする人でなければ入場を断るくらいの
 気持ちが島民全体になければ、
 島の宝、島を守ってくれる神(サンゴ)を守りきることはできない。

「観光客をいかに集めるかという発想ではなく」、
「本当に素敵な島にすればよいのである」。

これはクチコミの原理だ。

外からの集客を狙って当てのない広告を打つのではなく、
また来たくなるような、人にいいよと伝えたくなるような、
内の魅力を高めること。それがクチコミを呼ぶ。

それは、珊瑚礁だけでなく、民俗、自然、人を
総動員して行うほどいい。

阿嘉島臨海研究所の活動は、サイトでも報告されている。

 阿嘉島臨海研究所

「世界初の新技術! 卵から群体まで─ 海でサンゴを育てた」も嬉しい成果だ。

『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
12 鯨の見える島・座間味
13 集団死・渡嘉敷島
17 島で育つ心・阿嘉島
18 ふたりの故郷・前島




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2007/08/04

よろんの里、再び

ゆうべはパラジ(親戚)のヤカ(兄)と、よろんの里なのであった。

ヤカ(兄)と店長さんは同級生。
三十年ぶりというすごい再会。
それを聞いてもうお一方、同級生が駆けつけたので、
さながら小さな同窓会状態、思い出に話が弾んだ。

ぼくの知らない話だけれど、
懐かしいムヌガッタイで旧交をあたためあう中に
いさせてもらって、心地よかった。

父が担任したこともあると、
父の思い出話をしてくれたのもありがたかった。

店長さんと懇意の首里在住のオーボエ作者の方もまじり、
それは楽しかった。
そういえば、与論の人なのになんでネクタイしてるのって言われたっけ。

そうして目白の与論の夜はこんこんと更けてゆくのだった。

目白。
ゆうぐれ。
居酒屋の片隅。

スクガラス。
海ぶどう。
満杯の夕泉。

琉球民謡。
三線の音色。
尽きない話。

あの人はどうしておいでだろうか。
あの人はどうしておいでだろうか。
もう分からない。

阿久悠に敬意を表して、
「横浜たそがれ」風に書くとこんな感じ。

同級生っていいもんだなぁと思うこと仕切りの夜でした。


それにしても、よろんの里の料理は美味しい。
なんというか、いかにも沖縄料理じゃないのがいい。
いかにも、は味付けのこと。
ひとことでいえば、味が濃くなくて量がしっかりある。
味がいかにもじゃない分、懐かしい。

懐かしさと美味しさを求めて、
また、行くことでしょう。

Photo










「よろんの里、初」



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2007/08/03

あけみおの島・屋我地

現在、屋我地島は、
古宇利(こうり)島-屋我地(やがじ)島-奥武(おう)島-沖縄本島と、
橋でつながっている。

屋我地島には、ハンセン病患者が療養する沖縄愛楽園がある。
ぼくは、愛楽園のことは、
『笑う沖縄』のなかで、
小那覇舞天の活動の一齣として知ることができた。

 (※「笑う沖縄-『唄の島』の恩人・小那覇舞天伝」

1996年、「らい予防法」はやっと廃止が決まる。

 将来的には、現在の患者全員が地域で生活できるようにしたい
 という現実的な夢を語ってくれた。(愛楽園自治会長談)

現実的であるが、理想にかなった「夢」だと思う。

野本さんは、学生たちと愛楽園を訪ね、交流を深める。
結局は、ひとりひとりが直接知り合い、言葉を交わすことが、
偏見や差別をほどく発端になるのだから、
野本さんたちはその先鞭をつけたことになる。

 ○ ○ ○

古宇利(こうり)島-屋我地(やがじ)島-奥武(おう)島。

この三島は、地元では、
「フィ」、「ヤカ」、「オー」と呼ばれていた。

「オー」については、谷川健一が「青の島」として解釈している。
「フィ」や「ヤカ」の意味が解き明かされるのが楽しみだ。
この島々の地霊とは本来、何だったのか。
島のその後の命運への理解を深めることができるかもしれない。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅱ 戦争の記憶・いのちの記憶
10 あけみおの島・屋我地

メモ
・「あけみお」は、夜明けの美しい静かな入り江の青々とした水の流れ、
 と説明されている。

参考

「屋我地島のドン・キホ-テ」で、ある医師の奮闘記を読むことができる。

 屋我地島のドン・キホ-テ 上 
 屋我地島のドン・キホ-テ 下

 古宇利、屋我地、奥武三島の地理と画像は
 「沖縄離島ドットコム」に詳しい。
 



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ますます与論!『めがね』予告編

映画『めがね』の公式サイトで、予告編を配信しています。
1分版と2分版があります。

 ★ 映画『めがね』予告編

これ、いいです。

ますます与論島を感じます。
与論の風、空気が流れてて。

 何が自由か、知っている。

このコピーも、与論だから言えるフレーズに見えてきます。
言い過ぎかな。少なくとも、与論が舞台だから、不自然じゃない。

与論、奄美大島、鹿児島でもやってほしいですね。

ますます期待が膨らみます。



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2007/08/02

幻の根の国・大神島

野本さんは、大神島にも向かう。
大神島。宮古島の北、狩俣海岸の東、約3.5キロに位置する。

大神島はこう説明される。

 当島は島内外から神高い島(神聖な土地)と強く意識され、
 島外者の聖地周辺への立寄りを極度に警戒してきた。

これはよく分かる気がする。
沖縄本島に対する久高島と同じ、
ある意味では、島の原型だ。

大神島は、宮古島の「根の島」と言われる。
島民は、2006年現在、37人。
子供たちは小学校を卒業すると島外に出て行くから、
人口は減少する一方だ。

野本さんは、大神島は「宮古の根の国」だから、
「この根を何としても蘇生させたい」と結んでいる。

 ○ ○ ○

島の展望台に立つと、
北に広がるのは、年に一度浮上するという八重干瀬。
南と東に宮古島。
西には、池間島と伊良部島が、見渡せるという。
きっと、見事な景観だろう。

東方にあり、各島を遠望できること。
これが、神の島の地勢に共通している。

琉球弧の島々をめぐりたい。
それはぼくの夢だけれど、
仮に足を運んだとしても、
そっと通り過ぎるべき場所のあることを忘れずにいよう。


「幻の根の国・大神島」を読んでいて、
学生の頃、与論の風葬跡などをめぐったときのことを思い出した。
当時、ぼくが島の人であっても、
意気揚々とは見に行ってほしくない空気をかすかに感じた。
無理ないことと思った。

それがあるうちは、島の信仰は健在。
それがあるうちは、タビンチュとの共生はハードルも多い。


P.S.
大神島の雰囲気は、「沖縄離島写真ブログ」さんからよく伝わってくる。

 「離島旅行大神島編。離島中の離島『大神島』です」


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
9 幻の根の国・大神島


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東京榕樹 2

台風の影響か、
今日の東京の空は、絵の具で描いたように、
線を引いていた。

Tokyo_sky1

Tokyo_sky2













雲は流れてどこどこ行くの、だ。


あたたかくなったら東京のガジュマルにも
新しい芽が出てきた。

Tokyo_yoju2_2
















そうだ、父の五十日祭には、このガジュマルの枝を持っていこう。
万事こだわりのない父だったが、
せめて与論ゆかりのもので、供養したい。


 (「東京榕樹 1」




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2007/08/01

「宮古島の神と森を考える会 」に学ぼう

池間島は、宮古島の北約1.3キロにある。
宮古諸島の最北端の離れ小島。
ただ、1992年に池間大橋がかかり、両島はつながった。


「ナナムイの島・池間」で気になったのは二つ。

ひとつは、池間島の地名について。

 「池間島は、“池が在って広がりのある島”と解釈される。
 そしてその池とはイーヌブー(北の入江・現“池間湿原”)のことである」
 (『池間民俗語彙の世界-宮古・池間島の神観念』)

これを、野本さんは納得できる、と書くものの、続ける。

 しかし、イチ(伊計)とはイチハナリともいい、
 離島でもっとも先端の島を言うという説もあり、
 沖縄本島の伊計島や、奄美大嶋の南端にある
 請島のイケジ(池地)と並んで、イケマ(池間)
 もそうした離れ小島の意味と考えられる。
 その考え方からすれば、
 池間島は「生き果ての離れ島」を想起させる。

ぼくは、琉球弧の波照間島、加計呂麻島、多良間島、
慶良間諸島、鳩間島をすべて「沖の島」と解釈しているけれど、
その名づけを背景におくと、
「離れ小島」という解釈に親近感が湧いてくる。
池間の地勢にかなった表現だからだ。

 ○ ○ ○

もうひとつは、宮古島のことになるが、
谷川健一がつくったという「宮古島の神と森を考える会 」。
気になったので、検索すると、こんなサイトがあった。

 ※ 宮古島の神と森を考える会

冒頭、発足の経緯で触れられているのは、森林率だ。
 
 ある地域で、自然がどのくらい残っているかを示す尺度として、
 その土地面積の森林が占める割合を示した「森林率」があります。
 日本全体の森林率は69%。沖縄本島では46%。
 しかし、宮古島の森林率は、たったの16%。

この事実に対する危機感が、会の発足の契機になった。

ぼくも、少し前に、山原(やんばる)率というアイデアを出した。
類似する指標で、林野率で与論島の山原率をみると、
たったの4%なのだ。

与論島もこの意味では、とても危機的な状況にある。
与論島の地霊と自浄力と旅人誘う力において、である。
(※「奄美の多層圏域と離島政策 12」

与論島にも、考える会があっていい。


メモ
・ナナムイ(七森)は、聖地のこと。
・池間族は、宮古や琉球の人々と異なるという説がある。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
8 ナナムイの島・池間


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『めがね』、いっそ与論上映を

映画『めがね』のトップページ、
デザインが更新されています。

 ★ 映画『めがね』公式サイト

それから、劇場も公開されました。

 ★ 劇場情報

これ見てがっかり。

沖縄では上映されるけど、たった一個所。
九州は、福岡、佐賀止まりで鹿児島での予定もありません。
鹿児島本土に住む与論の人もすぐには見れないということ。

もったいない。

こうなりゃ、与論島上映をしたらどうでしょうか?
島民、観光客、こぞって観にいくこと請け合い。

上映は、公民館あたりで簡易劇場的にやるので充分。
本土からの旅人にだって新鮮だし、いい思い出になります。

小さい頃、公民館で、「ライオン丸」や「忍者赤影」を
わくわくしながら観たのを思い出します。

あるといいなぁ、与論上映。




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