« ニライカナイの島・喜界島 | トップページ | 『ドルチェ - 優しく』の調べ »

2007/07/21

ユライ花 - 慰撫するマブイ(魂)

このアルバムを聴いた後に、
その雰囲気にくるまれたまま、表へ出たなら、
道行く光景がゆっくり流れていって、
街路樹の葉や道端の草や、自然だけでなく、
角の凸面鏡なども、きらきらと輝いて見える。

このアルバムはそんなギフトを残してくれるように思う。
中孝介の『ユライの花』だ。

『ユライ花』(中孝介)
yurai-bana : atari kousuke
Yuraibana











曲「花」に言うように、

 ただそこにあるだけで 美しくあれ

そのように世界が見えてくる。

奄美の島歌はその曲調や歌唱が哀切きわまりなく、
奄美の土地と切り離せない重量あふれる存在感を持っている。

その奄美の歌唱を、ポップスの水準に押し上げたのは元ちとせだった。
80年代、沖縄発の歌謡が誰もが楽しめるポップスとして、
矢継ぎ早に発表された頃、
奄美からこの水準の作品が出てくることはあるだろうか、
あるとしてもそれはまだまだ時間がかかるに違いないと思っていた。

だから、2002年に元ちとせが『ハイヌミカゼ』を発表したとき、
奄美の歌唱を生かしながら、それが哀切のほうへ流れるのではなく、
むしろ、奄美の孤独と孤立に、あたたかな風を送っているのを感じて驚いた。

 (※「元ちとせの南の風」

中孝介の作品も、そのように響いてくる。
これが、奄美へのあたたかな風であることは疑いようがない。

けれど、二人は同じだというのではない。
ここには元(はじめ)に対して、中(あたり)が加えたものがある。

 ○ ○ ○

たとえば、ぼくたちはいつしか標準語をしっかり覚え、
そしてそれと反比例するように、方言をすっかり忘れてしまったとする。
すると、それは近代奄美にとっての悲願達成ということになるだろうか。

ある意味ではそうだろう。
ぼくたちは、話せることで生きる障害を減らしているのだから。

でも一方で、方言がこの身を去ったとしたら、
それは何を意味するだろう。

ぼくたちはただの日本人、のっぺりした日本人になって、
はい、それでおしまいなのだろうか。

いや、そうではない。
方言を仮に忘れたとしても、
奄美も生活と自然に培われた身体性は抜けない。

それは、ささやかには眉の濃さのような顔つきや、
言葉のアクセントでやっと表出されるくらいのものかもしれない。
けれど、ちょっとやそっとでは無くなることのない奄美の身体性として、
ぼくたちは奄美人を表現してゆくだろう。

この、方言を忘れても奄美人でありうるという
ぼくたちの存在のありように向かって、
中孝介の作品は響いてくる。

元ちとせは、歌唱法の他に、作品の歌詞や世界観を奄美に置いていた。
だから、ぼくたちは彼女の作品を、
現在の島歌として聴くこともできる。

けれど、中孝介の作品は、
作品の歌詞や世界観について奄美を根拠にしていない。

中は、かつての奄美人のように、
奄美とみなされることを恐れ、隠すように作品を形成したのだろうか?
まさか。悪い冗談はよそう。

中の『ユライ花』は、世界観を奄美に依拠していない。
けれど、このアルバムからは奄美を強く感じる。
それは、六曲目の「Ave Maria」からだって十分、感じられるものだ。

また、アルバムでは、「星空の下で」の作詞を中が書いている以外は、
森山直太郎はじめミュージシャンたちが中(あたり)のために
提供した楽曲が中心になっている。

それは、中の音楽家としての欠点でもなければ、
この作品の弱点でもない。

中のことを理解したミュージシャンたちが提供した楽曲を
中の身体を通過させることで、それは中の色に染まり、
よりいっそう、奄美の身体性を浮かび上がらせている。
それこそが、ユライ花、"集まる寄る花"の意味だと言ってもいい。

この、奄美の世界観を極小に抑えながら、
奄美を最大限に感じさせてくるのが、この作品が、
奄美音楽の系譜に加えた新しい質だと思う。

浮上してくるのは、奄美の身体性なのだ。

それは、中の、決してどのようなことがあっても、
人を傷つけることはないことを宿命にしたような声に乗り、
ぼくたちの、マブイ(魂)を慰撫して流れてゆく。

 ○ ○ ○

ぼくは思わず言葉にする。

奄美とは何か?

島尾敏雄ももどかしげに言葉を繰り出しながら、
ついに、明瞭な輪郭を与えることを、
どこかでためらうかのように、
奄美とは何か、表現しきることはなかった。

その他には、ぼくたちは、
ネガのようにしか、奄美とは何か、
言葉にできていない気がする。

ぼくも、折に触れ、奄美とは何か、
言葉を手繰り寄せようとするけれど、
その内実をぼくがまだ感じきれていない気がして、
空白のままにしている。

中の作品は、ポップスのなかに奄美の身体性を表現する仕方で、
奄美とは何か、という問いに答えているように感じる。

それは、言ってみれば、“ゆるやかなマブイ(魂)”だ。

そのありようも、動きもゆるやかなマブイ(魂)。

マブイ(魂)が、人間を離れ、植物や動物たちの自然存在と交感できる。
それが、琉球弧の身体性だとしたら、
そのなかでも、マブイ(魂)自身がまどろむように、
ゆるやかにゆったりとある。

アルバムを聴いていると、いつの間にか眠りに入っていたり、
逆にアルバムを聴き終わっても、
慰撫される空気が自分をくるんでいるように、
マブイ(魂)がつかず離れず、そばにいる。

奄美の長雨の日は、遠くに行かずにそこにいるだろう。
陽射し豊かな日は、「昼間の花火」のように、
見えないけれど、でもしっかりそこにいるだろう。

このアルバムは、そんな風に、
ぼくたちのマブイ(魂)を慰撫するけれど、
そのありようを通じて、そこに、奄美があることを教えてくれるように、
ぼくには響いてきた。


 ただそこにあるだけで 美しくあれ

奄美もまた。

ユライ花 / 中孝介
yurai-bana : atari kousuke

1. 花
2. サヨナラのない恋
3. それぞれに
4. 波の物語
5. Goin'on
6. Ave Maria
7. ひとさし指のメロディー
8. 真昼の花火
9. 恋の栞
10. 思い出のすぐそばで
11. 星空の下で
12. 家路(piano ver.)



|

« ニライカナイの島・喜界島 | トップページ | 『ドルチェ - 優しく』の調べ »

コメント

中と元の違いは、たしかに・・・あるが
その相違は・・・なんでしょう?

 ユンヌは、海間(うみあい)の島に
しかすぎない

 奄美大島やヤンバルは、海間の島で
あり、山間の島でもある

 元には、その謙虚さがあるが、中は
形だけの真似事である

 学ぶことは、真似ることが語源?・・・
なのだから、中もまた平原児として
心身ともに大成することを期待はして
います

投稿: サッちゃん | 2007/07/22 00:16

サッちゃんさん、コメントありがとうございます。

ぼくも中さんの今後の作品を楽しみにしています。

投稿: 喜山 | 2007/07/22 10:46

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ユライ花 - 慰撫するマブイ(魂):

« ニライカナイの島・喜界島 | トップページ | 『ドルチェ - 優しく』の調べ »