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2007/07/31

近くて遠い与論と伊是名

長方形の伊平屋島に、円形で応えて対をなすような佇まいなのが
伊是名島だ。伊平屋の七離れのひとつをなす。

 (※「てるしの」の島・伊平屋」

「琉球王朝の源流・伊是名島」で、伊是名島はこう紹介される。

 沖縄列島の最北端に位置する伊平屋島、伊是名島は、
 琉球王朝をつくりあげた人々の祖先の住んでいた島として知られている。
 一四二九年、琉球に初めて統一王朝を築いた
 尚円志王の祖父にあたる佐銘川(鮫川)大主は伊平屋島の出身であり、
 伊是名グスクをつくった人だといわれている。
 また、一四七〇年に第二尚円王(金丸)も伊是名島の出身である。

また、こうも書かれている。
 
 この島は東シナ海の海上交通の要所でもあり、
 黒潮の急流に乗って北上する人々、
 また北風に乗って南下してくる人々も多く、
 源平の落ち武者、海の交易商人、
 そして倭寇の集団などが行き来する中継点として
 利用されていた場所である。

伊平屋、伊是名は海上交通の要所に当たり、
かつ、琉球王朝の創設者たちの出自にも当たっている。
ここから、彼らが大和と縁を持った人々だったのではないかという
仮説にもつながっていく。

これは、谷川健一も『蘇る海上の道』で考察していたことだった。

 (※「蘇る海上の道」

 ○ ○ ○

改めて気に留めてみると、
伊平屋、伊是名は与論島からも
島影がくっきり見えるほどに近い島々だ。

しかし、その歴史への関わり方には圧倒的な違いがある。

与論島にとって、琉球王朝とは、
王朝に滅ぼされる北山王、王舅が築城した史実などが
主に伝えられている。が、そのくらいである。

確かに、与論島と伊平屋、伊是名島を比べた場合、
与論島は琉球弧に沿ってカーブを描けば、
沖縄本島の北にプロットされる位置になるのに対して、
伊平屋、伊是名は、本島を臨む場所に位置している。

これが、地理的な側面で歴史との分水嶺になった根拠だろうか。

琉球弧の西海岸を行き来できる航海技術が発達した時、
伊平屋、伊是名は、沖縄本島を臨む、
特に、本部の運天港と行き来しやすいだろう。

与論島も沖縄本島には近い。
ただ、伊是名島が本部を臨むとしたら、
与論島が臨むのは、山原だといっていい。

こう考えれば、与論島のポジションも、
歴史への関与の大きさを決めた要因のひとつかもしれない。

それはひとつ歴史のみならず、
与論の島人(ユンヌンチュ)の気質を形づくる要因になったと思う。


歴史はユンヌ(与論)の洋上を過ぎてゆく。
そのことを、再び、確認するようだ。


追記
野本さんは、伊是名島の帰りに、
「今帰仁グスク」と「今帰仁のクボー御獄」に報告に寄るが、
たしか、久高島を島で呼ぶ名は、フボーだったと思う。

今帰仁の御獄と久高の島名は、同源かもしれない。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
7 琉球王朝の源流・伊是名島


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2007/07/30

海の透明

思えば、海の透明にも心奪われてきました。

Photo_3

















(c) Yuria Suzuki


函館から与論島に来てくれた、ひーろさんの画像も、
あの透明感を、すごくよく映し出してくれています。

「南の島へ」というタイトルもぴったり。

海の透明は、珊瑚と魚を浮き上がらせて、
海を空間にします。

そこは、竜宮城であり、
かつて、海人の生活の営みの場であり、
いま、ダイバーたちの遊び場です。


とどのつまり、
こんな得も言われぬ美しさを放つから、
与論島はただの故郷ではなく、
故郷以上の何かになっちゃうんだろうな、とため息です。




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神高き島・伊良部

伊良部島は、宮古島の西に浮かぶ楕円形の島だ。

伊良部島は昔から「神高い島(カンダカイ)」と言われているという。
ぼくはこの意味は、海蛇(竜)神を島名にした
土地の力のことを指していると思う。

 大竜門へまず着く。ここは断崖絶壁。
 そこから下の海面を見下ろすと、
 キレイなイノー(サンゴ礁)とエメラルド色の海が見える。
 続いて「竜門館」へ。その途中に「潮吹き岩」がある。
 ここには、かつて生みとつながった巨大な洞窟があり、
 そこから打ち寄せた波が地表に吹き上げ、
 巨大な「潮吹き」現象が表れていた。
 天高く海のしぶきが吹き上がり、
 壮大な眺めであったという。
 しかし、塩害のため農家に被害を与えるということで
 コンクリートで塞がれてしまう。

このエピソードは、沖永良部島のフーチャの話を思い起こさせる。
というより、潮吹き上げ洞窟フーチャの話と同じだ。
塩害のため塞がれてしまう、という落ちまで。

 (※「昇り竜の島・沖永良部」

 伊良部島の神女達は、この潮吹きを抑え込んでしまうことで、
 島の神々は怒り、悲しんでいると感じている。

この神女たちの感じ方は、
海蛇(竜)神名=島の地名とした、
伊良部島の感受性からすれば、自然なものだと思う。

潮吹き洞窟をふさぐということは、
地名を忘れてしまうことと同じように、
地霊的な場の力を奪うことを意味している。

竜の嘆きだ。


ぼくは、野本さんの伊良部島紀行を読み、
沖永良部島との地勢の共通性を知らされる。

そこで、沖永良部島と伊良部島は、
地名の由来として同源であり、
海蛇(竜)神としてのイラブが、
地名となったのだ考えていい気がしてきた。

そしてこれが、「神高き」ということの内実でもあると思う。

『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
6 神高き島・伊良部




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2007/07/29

巨人伝説の島・波照間

波照間島では、野本さんは波照間の地霊を感じている。

 この闇の中を歩いている時、
 ぼくは忘れてしまっている記憶が、
 静かに蘇ってくるような不安とも期待ともつかない
 心のざわめきを感じていた。
 生きものの遠い記憶、人類の懐かしい記憶。

 深い深い人類の根、生きものの根のようなものが、
 この島には息づいている。

ぼくは、これが琉球弧の感受の核にあるものだと思う。
それを最も感じることのできる島が、波照間島なのかもしれない。
そういえば、よしもとばななも、こう書いていた。

 なんとなく宇宙って感じ。
 空を見たら円盤が飛んでいても全然驚かない。
 どことなく空気が希薄で、独特のすごみが漂っている。
 そういう場所なのだ。
 (よしもとばなな『なんくるなく、ない』)


この島は、琉球王朝に攻められた地であり、
オヤケアカハチという英雄が生まれ、巨人伝説を残す。
また、離島苦から、波照間島の南に、
「南波照間(パイ・パティローマ)」があるという信仰を生んだ場所でもある。

南波照間は、ぼくの仮説からは、“南の沖の島”という意味になる。

「南の沖の島」を言葉の意味だけとれば、
琉球弧の島々そのもののことだ。

「南波照間(パイ・パティローマ)」は、
琉球弧の端で思い描くもうひとつの琉球弧なのだ。

端というのは不思議なポジションだ。
端という条件だけで、端ではない場所とは違うものを生み出す。

それが、波照間島の地霊の強度であり、
南の島(琉球弧)の幻視だ。

いつかきっと訪れたい。

 ○ ○ ○

たまたま人様のブログで『日本はじっこ自滅旅』という本を知った。
著者の鴨志田穣さんは、この三月に亡くなられている。
この、「はじっこ」の旅には、
種子島、奄美大島、与論島も入っているのだけれど、
大島、与論にどんな「はじっこ」を感じたのだろう。
気になるところだ。

『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
5 巨人伝説の島・波照間




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水の初

ちょうどお盆のころ、父の五十日になる。

菊千代さんの『与論方言集』に頼ると、
五十日まつりは、「シーニチ」。
親戚や父が親しかった人達と一緒に、
父に向き合えるのは嬉しい。


そういえば、祖母(ぱーぱー)はよく、
カレンダーを見ながら、「シューヤミジヌパチ」と言ってたっけ。

「今日は水の初」。

これも菊さんの解説に頼ると、

 ミジ ヌ パチ

 水の初。死者の霊魂に対して最大のお供えものは水の初である。
 水道がなかった頃の昭和四十年頃までは、祖先の命日には井戸
 から運んできた水は最初に水の初をとってから使われた。
 民謡に「グショー(冥土)にいえる親や、ぬがよぷしゃむぬや、水ぬ
 初々という花ぬ三枝」とある。
 これはあの世にいらっしゃる親祖先は何が欲しいものだろうか。
 それは水の初々と三枝の花であるよの意である。

祖母は、「シューヤミジヌパチ」と言うと、
静かに立ち上がって、お供え物をして祈っていた。

あるとき、「ウラチャナイヤ、カミヌミチハワカラジヤー」と
口にしたことがあった。

責めるではなく、苦笑するように、
「お前達には神の道は分からないよね」と言ったのだ。

子どもだった自分が、
そこで、「ハタティタバーリ(教えてください)」とも
何とも言えずに、きょとんとした苦笑で返したことは、
いま思うと、ちょっと残念なことだ。

ことの意味は何も知らない。
祖先を敬い、お祈りしているということ以外は。

それでも、パーパー(祖母)の後ろに、
トートゥビー(正座)をして二拍二礼にあわせていると、
無類の安心感がやってくるのだった。
自分が柄になく、素直な子どもに戻れる瞬間だった。

パーパー(祖母)の後ろで、安心感に浸っていた。



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遠くへ行きたい 奄美

何気なくTVをつけたら、『遠くへ行きたい』で奄美が映り、
思いがけず、最近の奄美大島を観ることができた。

 ★ チチ松村「奄美の夏 島の唄 海の音」

旅人はゴンチチのチチ松村さん。
迎えるのは、唄者の朝崎郁恵さん、写真家の別府亮さんなどだった。

マングローブ、ヒカゲヘゴ、濃い緑の山々。
大島の自然は、柄が大きい。

海辺で波が石を洗う音、泥染めの音、塩を煮る音、
どれを聞いても、松村さんはそこにリズムとメロディをみつける。
さすが音楽家だ。

そうそう、松村さんと朝崎さんが歌う。

 チドリヤ ハマチドリャ 千鳥 浜千鳥
 ヌガウラヤナキュル  何故 お前は 泣き居る

島尾ミホの『海辺の生と死』で、
活字でしか知らなかったので、聞けてよかった。

そういえば、「ヌガウロー(何故、お前)」
というフレーズはよく耳にした。

「ヌガ」という出だしが力強く、流れるように「ウロー」が続く。
標準語で、「何故、お前」とはなかなか言わない。
それこそ、劇中か緊迫した場面での台詞だ。

ヌガウラヤ、ヌガウロー。
考えてみると、イカシタフレーズだ。


番組のおかげでしばし大島を堪能できて嬉しかった。
ただ、松村さん、加計呂麻島を、
「半農半漁の小さな島」と紹介していた。

いえいえ、小さな島ではないですよ。
加計呂麻は、ウプシャンドーヤ(大きいよ)と思わず口にした。



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2007/07/28

どぅなんの島・与那国

どういうわけか、与那国島にはとても惹かれてしまう。
与論島との類縁をどこかに感じてしまうのだ。



 時間は午後六時に近かったが、まだ明るい。
 思いきって「西崎(イリザキ)展望台」まで行ってみることにした。
 ここには観光客が多い。なぜなら、ここが日本でもっとも西の場所で
 知られているからである。

 西崎灯台のすぐ下に「日本最西端の碑」が建っている。
 その背後で夕陽がユックリと海中に沈んでいくのが見える。

「日本でもっとも」西南の場所として、
与論が流行ったことがあった。
与論島は、果ての島として人気を博し、
沖縄復帰とともにそのポジションを失う。

その意味では、急激な観光ブームも地盤沈下も、
戦争の落としなのだ。

与論は、次なるポジショニングを打ち出さなくてはならない。

とはいえ、そうした政治状況にかかわらず、
与論島は、島嶼の流れからしても、
奄美の果ての小さな島であり、
そのポジションのあり方は、与那国島と似ている。

 ○ ○ ○

与那国島で英雄として出てくるのは、
女酋長と称されるサンアイ・イソバ。

 弘治三年(一五〇〇年代)
 与那国島の女酋長
 四人の兄弟をドナンバラ村、ダンヌ村、ダデク村、ティーバル村
 の按司に配置し、
 自分は島の中央に位置するサンアイ村に構えて統治し、
 内治を良くし外患を防いでいた

与那国は、姉が宗教を、弟が政治をつかさどる母系制の時代を
長く持ったことが分かる。

ぼくは、ドナンバラ村、ダンヌ村という地名にひときわ興味を引かれる。
ぼくの考えでは、ドナンバラは、沖縄の「与那原」と同義で、
ダンヌ村は、「与論」と同義になる。

地名の類縁も、親近感を覚えるひとつだ。

 ○ ○ ○

池間栄三さんは『与那国の歴史』を、
その息子さんの池間苗さんは、『与那国ことば辞典』を出している。

ぼくは、ここで与論島の菊千代さんと息子さんの秀史さんを思い出す。

 (※「与論の言葉で話そう」

その土地から離れず、その土地の歴史、言葉に耳を澄まし、
記述してくれる人がいる。とても偉大な行為だと思う。

そんな存在を感じられることも、
与那国に惹かれる理由だ。


想像の域を出ないが、ドゥナンという言葉の存在は、
わが与論のユンヌの古形として、
ドゥンヌと呼ばれた時代があったかもしれないと思わせる。
それは楽しい想像だ。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
4 どぅなんの島・与那国



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2007/07/27

うふあがり島とバリバリ岩

『海と島の思想』の旅は東へ伸びる。

大東島は沖縄県に属しているけれど、
琉球弧の流れからは離れたところにある。
場所についてはそのくらいで、
その正確な位置は知らずにきてしまった。

2ufuagari_1















こうやってみると、沖縄本島に意外に近いように見える。

360キロメートル離れているのだから、
十分に遠いと思われるかもしれない。
けれど、千キロ以上に伸びる琉球弧の距離感覚からすれば、
それほどではない気がしてくるのだ。

いや、待てよ。

でも、間を埋めるものはなく、
奄美、沖縄のような「道の島」ではないから、
孤絶感は強いに違いない。

やっぱり、遠い、と言うべきですね。


バリバリ岩という味も素っ気もない名前の岩は、
大地が裂けたような切り立った崖のこと。

 岩の中に、赤、青、黄、白などの美しい縞模様の
 大東石(レインボーストーン)を見つける。
 古代の貝や赤土、ウニなどの破片が
 石灰岩に溶けてできたものだが、
 思わず見とれてしまう。

そう、大東諸島は珊瑚礁の島なのだ。

その上、大東諸島は、年間4~5cmずつ、
フィリピン海プレートに乗って
沖縄諸島に近づいているのだという。

そして何万年か後、琉球海溝に引き寄せられて、
沖縄諸島の間近で沈み込んでしまうと、
地質学的には予想されている。

島は擬人化したくなるときがある。
地殻変動による大東島の移動についてもそうだ。
360キロメートルまで近づいても、
まださびしくて、距離を埋めようとしているかのようだ。

大東島が開拓されたのは明治期。
開拓希望者は後を絶たなかったが果たせず、
1900年、20世紀を目前にしてやっと上陸に成功し、
砂糖きびを中心とした開拓が始まる。

大東島の例をみても、生きる場所を求める人間の想いは不思議だ。
人間は、孤島苦を引き受け、寂しさを味わいながら、
それと知りつつ、新天地を求めずにいない矛盾した存在だと思う。
背中を押すのは、希望、好奇心、生活の必要、さまざまだろうが、
矛盾そのものが原動力になっているように思えてならない。

 ○ ○ ○

大東島は、琉球の言葉で言えば、「うふあがりじま」。
これは、大(うふ)東(あがり)で、
琉球弧の他の地名とは違って、
漢字がそのまま語源を示している。
そういう意味では、珍しい例だ。

また、「だいとうじま」と共通語読みをすると、
「うふあがりじま」の持つ雰囲気が脱色され、
両者の語感のギャップも激しい。

それは、「うふあがり(大東)」というとき、
「ぱいぱてぃろーま(南波照間)」と同じ、
その言葉が信仰と伝説を含意しているからだと思う。

今度、与論に行ったときは、
太平洋の東南東の方向に、
“うふあがり”島の存在を感じてみたい。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
3 うふあがり島とバリバリ岩



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2007/07/26

「てるしの」の島・伊平屋

『海と島の思想』の旅は、
沖縄の北端、伊平屋島に向かう。

伊平屋島といえば、与論からも近いのに島影しか知らない島だ。
いつも遊んでいたフバマからも、はっきり見えて、
与論とは違う、山々の連なる島影が印象的だった。

それらは後岳、前岳、腰岳、賀陽山、阿並岳といい、
標高は二百メートル級、島の八割を占めるという。

Iheya1













榮喜久元の『道之島紀行』によると、
昔の与論の歌にも、

 伊平屋の七離り うちゃがてるみゆる
 (伊平屋の七離れは、波間から浮き上がって見える)

というフレーズがあるという。

はっきり知りたいので、地図にしてみる。

2nanapanari

















イヒャー、ヌーフ、グシガー?、イヂナ、ヤヌシチャ?、ヤナファ、だろうか。

なるほどあの幾つも連なって見えた島影は、
この七島からなっていたわけだ。ちょっと感慨深い。

奄美八島に比べて、無人島を含む伊平屋の七島は、
寄り添うように近接している。

同じ島の集まりでも、奄美に比べて、
一体感を感じやすいかもしれない。

 ○ ○ ○

伊平屋島は与論島から近いといっても、
その自然は趣きのちがいがあるようだ。

島の北方には、ヤヘー岩が沖合い50メートルにそびえる。
潮が引くときだけ行けるという。
潮が引くときだけ現れる与論の百合が浜のようだが、
ヤヘー岩は、聖地になっている。

また、クマヤと呼ばれる洞窟は、
天の岩戸伝説もあるというから驚きだ。

稲作も盛んで、「伊平屋米(てるしの米)」のブランドもある。

米が生産できるという農の構造が、
この「天の岩戸伝説」を呼び寄せる
背景になっているのかもしれない。

でも、与論でもかつては行っていたウンジャミ(海神)祭もあるという。
稲作以前の歴史をいまも持続しているのだ。

「てるしの」は、太陽あるいは太陽神と解されている。
いつか、伊平屋にとって、陽が昇るほうにある与論島を、
伊平屋島から眺めてみたい。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
2 「てるしの」の島・伊平屋



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与論がいっぱい!「朝のたそがれ」配信中

akiさんの「LOVE YOU SOMETHING」というブログで、
「朝のたそがれ」が動画でも配信されているのを知りました。

 映画「めがね」のスピンオフドラマとして日テレ「スッキリ!!」にて
 放送中のスッキリ1分劇場「朝のたそがれ」が、インターネット
 動画配信サイト「第2日本テレビ」にて配信を開始したそうです。

ぼくも、早速観ました。

 ★ スッキリ!1分劇場“朝のたそがれ”配信中!

これ、いいですよ。

ほのぼのした映像もさることながら、
終わりにオチの台詞が入ります。
それがなんとも可笑しくて楽しい。
笑わせてくれます。

これ、観てると、ああ与論だぁと感じ入ります。

もちろん、舞台が与論島だから当然なんですが、
なんというか、役者さんのやってることも含めて、
ああ、与論だと思えるんです。

与論島という場に逆らわない、どころか、
与論島にたたずんでいると、こうしたくなる、
そんな感じで役者さんたちも振舞っているように見えます。

だから、ああ、与論島だなぁって気分に浸れるし、
役者さんたちが、舞台挨拶で、
与論島のことを口々に言うのも頷けました。

というわけで、与論ではTVでやっているのか知りませんが、
TVでやってなくても観ることができます。

与論がいっぱい!です。ご覧あれ。
(akiさん、ありがとうございます)




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2007/07/25

ニライカナイとは

昨日、触れた「青の島とあろう島」(『南島文学発生論』)で、
谷川健一は、実はニライカナイの由来を考察している。

 さてニライカナイという南島語の由来であるが、
 私は死者を葬った海蝕洞窟のある海岸を
 「根浦 金浦」と呼んだと考える。

 ネウラはネリヤになり、ニーラになり、ニライになった。
 カネウラはカネラになり、カナイになった
 というのが私の仮説である。

この着眼を踏襲するとしたら、ぼくなら、
ニーラがネリヤやニライになり、
ハニラがカニラ、カナイになったと言うだろうけれど、
この仮説は面白い。

 ○ ○ ○

谷川は、「根浦 金浦」を、『古事記』で、
スサノオが「妣(はは)の国、根の堅州(かたす)国」にいきたいと
泣きわめいた記述に着眼している。

「根の堅州国」の「根」は、
ニライカナイ(沖縄本島)、ニーラ(八重山)、ネリヤ(奄美)
の「ニ(ネ)」と同じ意味。

「堅州」は、「永久不滅の場所」で、
「堅州」にあたる語を「金(かね)」と捉えている。

「金」は金属ではなく、
堅いものはすべて「金」と言ったと谷川は捉える。
沖縄から奄美には、「金久」と呼ばれる地名が無数にあるが、

 そこは外洋に面していて粗い砂粒のある砂浜をいう。
 その砂粒が堅いからそう呼ばれたのである。

つまり、谷川によれば、「根の堅州国」と「ニライ・カナイ」は
つながりがあるのだ。

また、谷川は、宮古本島の狩俣で、
「死者を審く者をニッジャカニドノと呼んだ」歌謡を取り上げている。

 につじゃかにどうぬ ニッジャ金殿の
 あろーかにどうぬが アロウ金殿の
 かんがなしぬ    神加那志の
 みゆふぎ      お陰で
 (『南島歌謡大成』宮古篇)

この、「ニッジャ金殿(ニッジャカニドノ)」は、
ニッジャはニライに対応し、金殿はカナイに対応すると捉えれば、
ニライカナイに呼応していると考えられるわけだ。

こうして、「ニッジャ金殿」-「ニライカナイ」-「根の堅州国」
というつながりが得られる。

 ニッジャ金殿
  |   |
 ニライカナイ
  |   |
 根の堅州国

 ○ ○ ○

この仮説の魅力は、ニライカナイの由来を南島の歌謡に見出し、
かつ、それを古事記とも対応させている、連想の豊富さにあると思う。

長く民俗を追究した学徒の、豊穣な見識を感じることができる。


ところで、「海蝕洞窟のある海岸」といえば、
与論の風葬後を思い出す。

(ジシが厨子から来ているなら、
それは新しい言葉だと言わなければならない。
むしろ、ハンシャのほうが
カナイとのつながりを持った言葉なのかもしれない。)



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2007/07/24

安田ヶ島と安田のシヌグ

『海と島の思想』の旅は、
本当は安田ヶ島から始まっている。

安田は、アダと読む。場所は、山原の太平洋側だ。

Adagashima_1


















野本さんは、山原の東シナ海側にある与那から、
与那安田横断道路を通って安田に入り、
小さな漁船で無人島安田ヶ島に向かう。
二十分ほどかかるそうだ。

琉球弧めぐりを安田からはじめたのは、
安田村の隣は伊部村、つまりアダとイブで、
アダムとイブを連想させるからというのはご愛敬として、
安田は、与論島に近く、シヌグ祭もあり、親近感が湧く。

 ○ ○ ○

二つ、メモしておきたい。

野本さんが安田を調べると、かつては「アラ」と呼ばれ、
「安田ヶ島」は「アラハ」と呼ばれていたという。

アラといえば、谷川健一の考察を思い出す。

 奥武の島は人が死ぬと死体を舟で運んで葬った地先の小島であり、
 風葬墓に葬られた死者が黄色い世界に住むということから、
 (沖縄では近代に入っても黄色をアオと読んでいた-引用者注)
 青の島と呼ばれたのである。

この章は、「青の島とあろう島」とある。
アロウ島については、加計呂麻島がそう呼ばれていたことがあり、
谷川は、死者の島と示唆していた。

 (※「アロウ島としての加計呂麻島」

そして、八重山の新城島についても、
「アラという言葉の中にアロウの面影をとどめている」場合もあると
考えている。

この考察を受けると、沖合いの安田ヶ島という小島が、
かつてアラハと呼ばれていたなら、
同様の意味を持つのではないかということ。

(ところが当の谷川は、『日本の地名』のなかで、
安田を「あた」と呼び、鵜を沖縄ではアタックと
呼ぶことを根拠にした説の方に「惹かれる」と書いている。
谷川が安田を訪れたときも、海岸の岩に鵜がとまっていて、
「感慨を深くしたことがある」、と。)


もうひとつ。

 島の小高い丘の上にあるといわれた拝所は、
 ビッシリと生えた木々で見つからなかったが、
 安田ヶ島を中心に、見事なサンゴ礁が取り囲み、
 魚や貝、海藻類の豊かな生息地であることはすぐにわかった。

 また、このサンゴ礁の巨大なリーフは、
 外海からの荒波を抑え、
 ユッタリとした環境をつくりあげていることも理解できた。
 おそらくこの島は、安田、伊部の人々にとって、
 祖先が辿り着いた最初の島であったはずである。

とあるが、島への辿り着き方というのは、
そうなのだろうか。

沖合いの小島に入り、それから本島に入る。
そういう順番なのかどうか、ぼくには分からない。
航海の必然なのか?先住民との対話のためか?

谷川健一は、神話を見ると、
ニライカナイの神はいったん「青の島」に足をとどめてから、
本土に入る風習が見られたと指摘している。

これは神話の語りの必然だろうが、
これと現実は同じだろうか。

この二つは、持ち越しの課題だ。


『海と島の思想』 (野本三吉)
Ⅰ 人類史の基層文化
1 安田ヶ島と安田のシヌグ



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2007/07/23

奄美、この懐かしき島々

奄美は、琉球弧の北に浮かぶ。

高い島から低い島までの連なり。
ガラパゴスから真珠までの振幅。
東洋のガラパゴスと謳われ、
あまたの固有種を擁する森から、
東洋の真珠と呼ばれる珊瑚礁の白砂までの、
両極の亜熱帯。

ここに琉球弧の主たる要素は出尽くし、
さらに南の方へゆるやかなカーブを描き、反復される。

北琉球弧の奄美は、
大和との交流手となって歴史を歩み、
「孤立の連帯」(島尾敏雄)のなか、
お互いが似ていることを知らない、
いや、知らないのではなく、意外に気づいていない、
一同にあること以外、共通性を持たないかのように、
それぞれの島を世界としてきた。

けれど、遠くにゆくまい、ゆるりとあろうとする、
ゆるやかなマブイ(魂)のありようを共有してきた、
いちばん最後に歴史と地理に顔を出す、
懐かしき島々。



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『めがね』オフィシャルブログ

映画『めがね』の公式サイトとは別に、
オフィシャルブログがオープンしています。

  ○-○ めがね オフィシャルブログ ○-○

「はじめまして、『めがね』です」という記事が早速、載っています。
中身は、動画でも記事でも公開されている完成試写会のレポート。

舞台では役者さんたちが、
与論島(ヨロントウ)、与論島と連呼していたのに、
記事では、「ロケ地である南の海辺」などと言い換えられていて、
それが少し残念。

でも、みなさんが口にしていたのは与論島ですし、
間違いなく与論島が舞台なのだから、
島の魅力がこの映画を通じて伝わっていくのを期待します。

トップのこの浜辺、寺崎なんでしょうか?
いい雰囲気です。

それから、公式サイトから、始まる「めがねmap」

これも素敵です。
浜辺も学校も道端も空港も、与論島満載。
映画の雰囲気もちょっと楽しめます。



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2007/07/22

『ドルチェ - 優しく』の調べ

ぼくはこの作品を観たいと思って、机の上に立てておいた。
けれど、走りっぱなしの日常のなかで機会を逸してきた。
日常の時間の流れをどこかで切らないと入っていけそうになかった。

思い立ったらこんどはマシントラブル。
DVDを観るのはこれが初めてのパソコンで、
起動するのに格闘、数時間。やっと鑑賞できた。

『ドルチェ - 優しく』。

Dolce










アンマー(母さん)という島尾ミホの第一声を聞いたときは、
もう作品世界のなかにいる、そんな惹き込む力があった。

島尾ミホが島尾ミホを演じるという難しいテーマのなか、
島尾ミホが発したのは、十代の頃に母を亡くしたつらさだった。

次に、「ミホ、あなたは神戸に行かなければなりません」
という敏雄との生活を促す父の決意の言葉。

そして、マヤさんのこと。

島尾ミホにしかできない、
島尾ミホにしか言えない、言葉たち。

ぼくは、初めて聞く島尾ミホの声が、
可愛らしい幼さを残しているのに驚いた。
美しい老婆から発せられるのは、まるで乙女の声だった。

舞台となる部屋は薄暗く、外は長雨が降りしきり、
それが返って懐かしく、強く奄美を感じる。

思えば、ぼくは生前の島尾ミホとマヤを観ていることになる。
これはお二人の置き土産かもしれないと思った。

エンドロールには、

 TOCИO CИMAO (島尾敏雄)
 MИХO CИMAO (島尾ミホ)
 MAЙЯ CИMAO (島尾マヤ)

とロシア語で文字が流れるのだけれど、
それがとても似合っていた。

作品の日本公開は2001年とあるが、
映像には、1999年とクレジットされていた。
1999年といえば、批評家、江藤淳が逝った年。
考えてみたら、今日は彼の命日だ。

大切な人たちは泉下にある。

そして、明日は父の三十日。
手を合わせよう。

(※「ドルチェ - 優しく」




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2007/07/21

ユライ花 - 慰撫するマブイ(魂)

このアルバムを聴いた後に、
その雰囲気にくるまれたまま、表へ出たなら、
道行く光景がゆっくり流れていって、
街路樹の葉や道端の草や、自然だけでなく、
角の凸面鏡なども、きらきらと輝いて見える。

このアルバムはそんなギフトを残してくれるように思う。
中孝介の『ユライの花』だ。

『ユライ花』(中孝介)
yurai-bana : atari kousuke
Yuraibana











曲「花」に言うように、

 ただそこにあるだけで 美しくあれ

そのように世界が見えてくる。

奄美の島歌はその曲調や歌唱が哀切きわまりなく、
奄美の土地と切り離せない重量あふれる存在感を持っている。

その奄美の歌唱を、ポップスの水準に押し上げたのは元ちとせだった。
80年代、沖縄発の歌謡が誰もが楽しめるポップスとして、
矢継ぎ早に発表された頃、
奄美からこの水準の作品が出てくることはあるだろうか、
あるとしてもそれはまだまだ時間がかかるに違いないと思っていた。

だから、2002年に元ちとせが『ハイヌミカゼ』を発表したとき、
奄美の歌唱を生かしながら、それが哀切のほうへ流れるのではなく、
むしろ、奄美の孤独と孤立に、あたたかな風を送っているのを感じて驚いた。

 (※「元ちとせの南の風」

中孝介の作品も、そのように響いてくる。
これが、奄美へのあたたかな風であることは疑いようがない。

けれど、二人は同じだというのではない。
ここには元(はじめ)に対して、中(あたり)が加えたものがある。

 ○ ○ ○

たとえば、ぼくたちはいつしか標準語をしっかり覚え、
そしてそれと反比例するように、方言をすっかり忘れてしまったとする。
すると、それは近代奄美にとっての悲願達成ということになるだろうか。

ある意味ではそうだろう。
ぼくたちは、話せることで生きる障害を減らしているのだから。

でも一方で、方言がこの身を去ったとしたら、
それは何を意味するだろう。

ぼくたちはただの日本人、のっぺりした日本人になって、
はい、それでおしまいなのだろうか。

いや、そうではない。
方言を仮に忘れたとしても、
奄美も生活と自然に培われた身体性は抜けない。

それは、ささやかには眉の濃さのような顔つきや、
言葉のアクセントでやっと表出されるくらいのものかもしれない。
けれど、ちょっとやそっとでは無くなることのない奄美の身体性として、
ぼくたちは奄美人を表現してゆくだろう。

この、方言を忘れても奄美人でありうるという
ぼくたちの存在のありように向かって、
中孝介の作品は響いてくる。

元ちとせは、歌唱法の他に、作品の歌詞や世界観を奄美に置いていた。
だから、ぼくたちは彼女の作品を、
現在の島歌として聴くこともできる。

けれど、中孝介の作品は、
作品の歌詞や世界観について奄美を根拠にしていない。

中は、かつての奄美人のように、
奄美とみなされることを恐れ、隠すように作品を形成したのだろうか?
まさか。悪い冗談はよそう。

中の『ユライ花』は、世界観を奄美に依拠していない。
けれど、このアルバムからは奄美を強く感じる。
それは、六曲目の「Ave Maria」からだって十分、感じられるものだ。

また、アルバムでは、「星空の下で」の作詞を中が書いている以外は、
森山直太郎はじめミュージシャンたちが中(あたり)のために
提供した楽曲が中心になっている。

それは、中の音楽家としての欠点でもなければ、
この作品の弱点でもない。

中のことを理解したミュージシャンたちが提供した楽曲を
中の身体を通過させることで、それは中の色に染まり、
よりいっそう、奄美の身体性を浮かび上がらせている。
それこそが、ユライ花、"集まる寄る花"の意味だと言ってもいい。

この、奄美の世界観を極小に抑えながら、
奄美を最大限に感じさせてくるのが、この作品が、
奄美音楽の系譜に加えた新しい質だと思う。

浮上してくるのは、奄美の身体性なのだ。

それは、中の、決してどのようなことがあっても、
人を傷つけることはないことを宿命にしたような声に乗り、
ぼくたちの、マブイ(魂)を慰撫して流れてゆく。

 ○ ○ ○

ぼくは思わず言葉にする。

奄美とは何か?

島尾敏雄ももどかしげに言葉を繰り出しながら、
ついに、明瞭な輪郭を与えることを、
どこかでためらうかのように、
奄美とは何か、表現しきることはなかった。

その他には、ぼくたちは、
ネガのようにしか、奄美とは何か、
言葉にできていない気がする。

ぼくも、折に触れ、奄美とは何か、
言葉を手繰り寄せようとするけれど、
その内実をぼくがまだ感じきれていない気がして、
空白のままにしている。

中の作品は、ポップスのなかに奄美の身体性を表現する仕方で、
奄美とは何か、という問いに答えているように感じる。

それは、言ってみれば、“ゆるやかなマブイ(魂)”だ。

そのありようも、動きもゆるやかなマブイ(魂)。

マブイ(魂)が、人間を離れ、植物や動物たちの自然存在と交感できる。
それが、琉球弧の身体性だとしたら、
そのなかでも、マブイ(魂)自身がまどろむように、
ゆるやかにゆったりとある。

アルバムを聴いていると、いつの間にか眠りに入っていたり、
逆にアルバムを聴き終わっても、
慰撫される空気が自分をくるんでいるように、
マブイ(魂)がつかず離れず、そばにいる。

奄美の長雨の日は、遠くに行かずにそこにいるだろう。
陽射し豊かな日は、「昼間の花火」のように、
見えないけれど、でもしっかりそこにいるだろう。

このアルバムは、そんな風に、
ぼくたちのマブイ(魂)を慰撫するけれど、
そのありようを通じて、そこに、奄美があることを教えてくれるように、
ぼくには響いてきた。


 ただそこにあるだけで 美しくあれ

奄美もまた。

ユライ花 / 中孝介
yurai-bana : atari kousuke

1. 花
2. サヨナラのない恋
3. それぞれに
4. 波の物語
5. Goin'on
6. Ave Maria
7. ひとさし指のメロディー
8. 真昼の花火
9. 恋の栞
10. 思い出のすぐそばで
11. 星空の下で
12. 家路(piano ver.)



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2007/07/20

ニライカナイの島・喜界島

『海と島の思想』で、
奄美を先に辿っていると、奄美大島が入っていない。

それはないでしょう、と思いきや、
よくみると、沖縄島も入っていない。

そうか、著者が離島めぐりと言っているのは、
奄美大島と沖縄島の本島を除いているのかと、ひとまず納得。

 ○ ○ ○

かくして野本さんは、奄美大島経由で喜界島に向かう。
そして、郷土研究会の西島常吉さんに導かれるように会う。

 西島さんは、喜界島がどのように観られているかを知るには、
 その島名を示す漢字の変化を見ればよいと指摘する。
 かつて、律令制度のできた時代には、
 自分達の勢力範囲に入れようとしてさまざまな位を与えた。
 その頃、「貴海(界)島」と呼ばれていたという。

 しかし、喜界島が力を持ち、独立して反抗するようになると
 「鬼界島」と鬼という字をつけるようになったという。
 従わない島「鬼界島」というわけである。
 流人の島とも呼ばれ、村田新八などがこの島に流され、
 俊寛が流された鬼界ヶ島も、この島という説もある。

 鬼とは本来、人間の力の及ばないもの、
 神霊の力を持つものとされ恐れられていた。
 王府の命令に従わず、しかも力の強い存在。
 それを鬼と呼んだとすれば、
 鬼界島は現在の喜界島だけではなく、
 沖縄や八重山、奄美も含んだ複数の島だったのかもしれない。

「卑種」と「貴種」の狭間を揺れた喜界島の表記。
「卑種」か「貴種」かを決めたのは、大和との関係。
もっと言えば、大和からの見え方によってそれは決められてきた。

そして、野本さんの文脈に従えば、
鬼界島とは、喜界島と琉球弧の二重性を含意している。
鬼界島の象徴として喜界島はある、というように。

 ○ ○ ○

西島さんの言葉の中にこんなくだりがある。

 喜界島は独りぽつんと海上に離れており、
 他島からの影響も援助もなく島内だけで試行錯誤、
 協力していく他なかった。

ぼくはこの言い方は意外な気がした。
与論島からみれば、
喜界島は、「独りぽつんと」あるのではなく、
奄美大島に寄り添っていて、決して単独のようには見えないからだ。

その「独りぽつんと」という感じ方は、
島の一般性かもしれないが、
孤立感の抱き方が、同じ奄美大島の離島に位置する
加計呂麻島にも似ている気がした。

母なる島をそばに見ると、
孤立感が余計にやってくるのだろうか。

そうも思ったが、いや、もっと独自の感じ方なのかもしれない。

考えみれば、琉球弧の始まり(あるいは終わり)を、
ぼくは漠然と奄美大島とみなしているけれど、果たしてそうだろうか。
確かに緯度からみたら、奄美大島がより北に位置している。

しかし、海流の流れや「弧」の流れで琉球弧をみつめれば、
その入口(あるいは出口)にあるのは喜界島ではないか。
いや、島全体としてみれば、喜界島は最初に通過する島である。
喜界島は琉球弧の入口(あるいは出口)なのではないだろうか。

琉球弧の先端として喜界島。
そうみなすと、鬼界島の象徴としての喜界島に合点がいく。

そして、

 喜界島は独りぽつんと海上に離れており、
 他島からの影響も援助もなく島内だけで試行錯誤、
 協力していく他なかった。

この孤絶感の内実が分かってくる。
それは、大和といつも真っ先に交流しなければならなかった
宿命のことを言っているのだ、と。

そして宿命は、対大和だけでなく、
琉球弧内の境界の拠点として、
琉球王朝の国家造山勢力と対峙しなければならなかったように、
対琉球にも及んだのだった。

そうみなせば、喜界島の“試行錯誤と協力”の意味が重たく響いてくる。

ぼくは喜界島への理解をほんの少し深めることができた気がした。


『海と島の思想』野本三吉
Ⅴ 原初的世界との共生
41 ニライカナイの島・喜界島

Ooshimakikai

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「雲南ブランド化プロジェクト」に学ぶ

島根県の雲南市は、
市の魅力を全国に発信する「雲南ブランド化プロジェクト」を始めている。

 雲南ブランド化プロジェクト

「幸運なんです。雲南です。」

のキャッチフレーズはともかく、(^^;)
2009年まで、今後三年間の活動計画が報告されている。

目がいくのは、詳細は分からないけれど、
映画製作と連動していること。

映画『うん、何?』と連動して、
ジョイントブックの製作や共同試写会などを行う、とある。

映画『うん、何?』の公式サイトをみると、
応援メッセージやサポーターを募集している。
市民と一緒に映画を盛り上げようという作戦だ。

 映画『うん、何?』の公式サイト

この動きは刺激になるし、参考にしたい。

与論島は、映画『めがね』の舞台になり、
しかも頼みもしないのに、
役者さんたちが与論島を気に入り、
よさを声に出してくれている。

日本テレビ「スッキリ!!」の一分劇場「朝のたそがれ」も、
舞台は与論島なのだ。

連動しない手はない。
映画が、始まりから終わりまで、
与論島の魅力を伝えてくれるのだから。




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2007/07/19

干瀬のある風景・徳之島

松山光秀の名前は、高梨修さんの「奄美諸島史の憂鬱」で初めて知った。
そこには、長い間、謎とされているシヌグの由来が、
問わず語りに解明されているようで、とても興奮した。

野本さんも、『海と島の思想』で、
松山光秀さんの『徳之島の民俗Ⅰ・Ⅱ』を紹介している。

ぼくはここでも驚いた。

 ○ ○ ○

松山さんは、琉球文化圏をコーラル文化圏と結論づけているという。

ヤマト文化圏  二段階の構造 (浜-沖)
コーラル文化圏 三段階の構造 (浜-干瀬-沖)

 □第一段階 沖(ウキ) コバルトブルー
  このウキの遥か彼方に神々の住み給うネィラ(ニライ)が想定されて、
  季節季節にこの世に幸いな贈り物を届ける南島特有の
  民俗信仰であることは、すでにご承知の通りだ。

 □第二段階 干瀬(ヒシ) ブラウン
  ヒシは、干瀬になると人々は自由に徒歩で往来することができる。
  思い思いに漁を楽しむことができる。
  このヒシは、一面にム(藻、ほんだわら)が生い茂って
  ブラウン(茶褐色)に光り輝き、潮が満ちてくると、
  それがゆらゆらを揺れ動くやさしい世界であった。
  季節がやってくると、ネィラの神様の贈り届ける
  シュク(アイゴの稚魚)の群れがこのムの林めがけて、
  それはそれは大量に押し寄せてきた。

 □第三段階 砂浜(ハマ) ホワイト
  ハマは神と人間が出会うところ。象徴する色はホワイト。

ウキ、ヒシ、ハマを、役割と色とで段階化し、
そこに琉球弧の本質を見ようとする松山さんの論旨は魅力的だ。


ぼくは、コーラル文化圏という概念化までできていないが、
それこそ与論の特徴として、
陸と海の中間にイノー(礁湖)を置く三段階を想定してきた。

そして、海であり陸(海の畑)である二重性を持つイノー(礁湖)が、
海と陸に明瞭に惹かれる境界を消す力になっている。
それが、与論島の力であると考えてきた。

ぼくは今、その境界を消す力を、
異なるものをつなぐ力として捉えようと思っている。

 ※「イノーは海、イノーは島」「五色の与論」「与論力」

改めて。松山さんの『徳之島の民俗Ⅰ・Ⅱ』は、
琉球弧理解のよき案内なのに違いない。

奄美の先人の労作を辿らなくてはと思う。



Toku

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奄美料理 まれまれ

懐かしい昔話と想いを形にする未来の話とで、
「奄美料理 まれまれ」の夜は、
心地よい酔いとともに更けてゆくのだった。

豚足に地豆豆腐に島野菜。
油ぞうめん、漬物、豚みそ、刺身。
待っていたら仕入れが間に合った海ぶどう。
締めは、鶏飯。どれも美味。

そして、あったのを幸いに、
有泉をロックでいただいた。
何杯もなんぱいも。

開店直後から日が変わる少し前まで、
思えば、長居をさせてもらった。

尽きない話ではあるけれど、
なにまたちかぢかに、
と思い決めて席を立つ夜更けの歌舞伎町。

このタイミングで声をかけてくれたことにとても感謝して、
次に会えるの日を楽しみにしている帰り道。

じんわりあったかい夜だった。


追伸

東京にいらっしゃる時は、
「奄美料理 まれまれ」もお勧めです。
ゆったりと美味しい奄美料理と黒糖焼酎を堪能できます。


Maremare














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2007/07/18

昇り竜の島・沖永良部

『海と島の思想』の野本さんは、
沖永良部島を観光ガイドと縁を頼りにめぐっている。

考えてみると、限られた時間のなかではそれが最良の方法だ。
ぼくも、野本さんが観光地で感じたことを頼りに琉球弧を感じてみたい。

まず、島の北にあるフーチャー。
フーチャーとは、

 隆起サンゴ礁が荒波で侵食された
 潮吹き上げ洞窟のことです。
 季節風や台風時には二〇~七〇メートルも潮を噴き上げ、
 天高く飛び散った水滴が雲霧状となって
 農作物に大きな被害をもたらしたため、
 昭和三十八年、四ヶ所のうち三ヶ所を破砕しました。
 被害の少なかった現フーチャーだけが
 観光資源として残されています。

これは説明書きの言葉。
なるほど。沖永良部の天然身体は、
農のために加工されたことになる。
これは、沖永良部の特徴に思える。

野本さんはこう感じる。

 ドドーンと地の底、海の底から響いてくる波の音は、
 何かしら「神の息吹」のようにも感じられ、
 しばらくは妻と一緒に岩の上に腰を下ろし、
 生き残ったフーチャーと隣接して潮を吹き上げていたであろう
 三ヶ所のフーチャを想像し、
 無限の世界とつながっている紺碧の海を眺めていた。

野本さんは翌日、「昇竜洞」と呼ばれる鍾乳洞を訪ねるのだが、
その昇竜洞について、こう書く。

 その鍾乳洞を、島の人々は「昇竜洞」と名づけた。
 巨大な竜が、この洞窟に棲み、時折ここから抜け出して
 天空に舞い上がる姿を想像して命名されたと思われる。
 この昇竜というイメージは、ひょっとするとフーチャーの
 天に吹き上げる潮の姿と重ね合わせられていたのかもしれない。

 昔から島の人の間では、
 この洞窟には「大きな竜が住んでいて、天空と往来している」
 と言い伝えられており、戦時中の退避場になった時でさえ、
 光線の届く所までしか入らず、
 奥の方には入らなかったと言われている。

台風時には、ニ〇~七〇メートルも潮を吹き上げるというフーチャー。
その数は、四つにも及んだ。
そのフーチャーを目の前にした島人が、
それを昇竜のイメージに重ねるのは、
とても自然なことだと、ぼくも思う。

 ○ ○ ○

ぼくは以前、沖永良部の地名の由来を考えたとき、
「洞窟」説を検討したけれど、
沖永良部島、伊良部島には該当しても、
口永良部島には該当しないという理由から、
いったん退けている。

そして、エラブウミヘビとの表音の近似性から、
海蛇を人格神とした島人が地名として定着させたと仮説した。
(※「沖永良部は、イラブから?」

ところが野本さんの沖永良部紀行を読むと、
洞窟説を退け、海蛇説を採る、としなくても、
洞窟=海蛇神(竜神)とみなしてよいのではないかと思えてくる。

竜神の棲家としての洞窟というより、
海蛇神(竜神)身体としての洞窟であり、
フーチャーの潮の吹き上げが身体表出であったと捉える。

沖永良部には、188の洞窟が報告されており、
しかも、未発表洞窟も多数、存在しているという。
(※沖永良部の洞窟一覧

「大山水鏡洞」に至っては1万メートル以上に及ぶ。
これらは洞窟探検隊に「発見」されたとある。

だが、その多くを初期沖永良部人は知っていたに違いない。
島人にとって、沖永良部とは洞窟の島だった。
沖永良部島の地勢を「洞窟」と捉えれば、
それが地名になるのが自然である。

だから、イラ=洞窟の島として、イラブと名づけたか、
その少し後に、イラブ=海蛇神(竜神)として地名としたか、
いずれかではないかという考えに行き着く。

野本さんの沖永良部紀行からは、
沖永良部の人性についても触発された。
それはまたいずれ。

Erabu

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2007/07/17

ユンヌの語源 註

ユンヌの地名は、「砂の島」であると仮説している。
このとき、ユンヌの「ヌ」は、格助詞「の」と解していた。
砂「の」島、というように。

ただ、これでは、与那国島の「ドゥナン」の説明にはならない気がする。
そこで、「ヌ」は、格助詞「の」ではなく、
アイヌ語の「~を持つ」の意味に解してみる。

「砂を持つ」、ユンヌ、である。

これはもともとは、ユナ(砂)ヌ(持つ)に分解される。

この、ユナ・ヌが、ユンヌやドゥナンになる様を挙げる。

1)   
yuna・nu

yunan (uの脱落)

1-1) 
yunan

dunan (y=d) ドゥナン

1-2) 
yunan

yunon(a→o、訛りによる変化) ユノーン

2)
yuna・nu

yunnu (aの脱落) ユンヌ

2-1)
yunnu

dunnu(y=d)

dannu(u→a、訛りによる変化) ダンヌ

ユナヌから、母音uが脱落(1)して、
ドゥナン(1-1)やユノーン(1-2)のバリエーションが生まれ、
ユナヌから、母音aが脱落(2)して、
ユンヌ(2)やダンヌ(2-1)のバリエーションが生まれた。

※ドゥナン(与那国島の自称)
 ユノーン(与那国島の石垣島などからの他称)
 ユンヌ(与論島の自称)
 ダンヌ(与那国島にある浜の名)

ここで、語中の母音uやaが脱落する合理的な理由を知らない。

強いて言うと、ユナヌという語を言いやすくするため、
「ナ」を「N」にするか、「ヌ」を「N」にするかした
という説明が考えられる。


仮説:ユナヌが、与那国島であり与論島になった。



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ユンヌのマブイ・与論島

『海と島の思想』は、与論島を皮切りにしているわけではないけれど、
やっぱりぼくは与論島から読まないわけにいかない。

野本さんは与論島を、2年前の、
2005年5月に訪れている。

野本さんの二日間の紀行は、
海で遊ばないのなら、
そして、映画『めがね』よろしく何もせずに過ごさないなら、
いい感じの歩き方をしている。

本部港から大型客船に乗り、与論へ。
港からバスでプリシアリゾートへ。
プリシアでレンタカーをたずねるも全部借りられていて、
仕方なく自転車で島内をめぐることに。

兼母海岸のサンセットビーチをを眺めてから、
中心街の茶花へ。
茶花の香文堂書店を探して、
雑誌『ヨロン今昔』をみつけて、
「ハミゴー遊び」の特集を読む。

洞窟の方へ向かってピャーヌパンタを上る。
息切れして自転車を引いてあがると、琴平神社。
明治に作られた琴平神社より、
端の方にある「地主(とこぬし)神社」へ。

そこのピグチウガン(辺後地拝所)で海を眺めると、
沖縄本島北部、伊是名島、伊平屋島が見える。

 ここはまさに琉球そのものだったのだと
 ぼくは一人で納得していた。

その日はハミゴーのある前浜海岸までは行けず、
ホテルに戻る。

海岸が見える食堂ピキで夕食。島の移住者と談笑。

 ○ ○ ○

翌日は、島内一周バスに。
再び、茶花へ。
実質的には必要ないのに、子どもたちの学習のためにと
設けられた信号を過ぎる。

次に案内されたのは「ユンヌ楽園」
ユンヌ楽園は、「三〇人余りの人が暮らしていた家。
その生活と植物をそのまま保存したのがこの楽園」。

ガジュマル、高床式住居、宝山羊、
ソテツ、月桃、アダン、ビロウ、ハイビスカス、ブーゲンビリア、
サタグルマ。

バスは琴平神社に。
昨日、ゆっくり見れなかったサザンクロス館へ。
そして、土葬の墓のあいだを走って「与論民俗村」へ。

一周してまわると、黒糖、ヤキムッチャー(焼き餅)、お茶をいただく。
そこで、小さな二足のワラジを買う。

 この小さなワラジにはマブイ(魂)がこもっていますヨ。
 自分の信じた道を歩いてください。
 きっと、その道中、このワラじが守ってくれますからね。
 菊千代さんはそう言ってやわらかく笑った。

これが、与論島紀行の末尾。

観光ルート以上のものはないと言えばいえる。
けれど、二日間でこれ以上を望もうとすれば、
現地のガイドさんがしっかりついている必要がある。

百メートルに満たない島の頂上では、島に琉球を見いだし、
ユンヌ楽園では、与論島のついこの間まであった近代以前を。
そして、与論民俗村では、
民俗を島に根づかせる価値に島で初めて気づいた菊千代さんと語らう。
これ以上のことはないだろう。

ただ、欲を言えばせっかくの与論島。
こんな時間がほしい。

白砂の浜辺に座り、イノー(礁湖)を眺めること。
きめ細かな砂の感触やさざ波の音に親しみながら、
浜辺との一体感に浸れたら、
それが、与論島を味わうということだ。

どこにもいかずに島を味わう方法。


野本さんの道行きにそれに近いものがないわけではない。
自転車でめぐったとき、
目の端々に見える海や、
身体をなでる風に与論らしさは感じられるだろう。

その意味では、自転車めぐりは正解だ。



Amami_okinawa1_1

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JAPANブランド、公式サイトオープン

日本商工会議所と全国商工会連合会が、
JAPANブランドの育成支援事業などの情報を発信する
「JAPAN BRAND」の公式サイトをオープンした。
仮オープン、だそう。

 ★「JAPAN BRAND」の公式サイト

平成19年度の各地プロジェクトの例には、
鹿児島商工会が、

【薩摩が誇る美と技のコラボレーション】

と題して、

「活用する地域資源:薩摩切子、大島紬」
のプロジェクトを行ったのが分ります。

「大島紬」、がんばってほしいですね。

 ◇ ◇ ◇

JAPAN BRANDは、「匠の品質」「用の美」「地域の志」
の価値を伝えていきたいそうです。

「用の美」とは、

 日本人が日々の実用の中で鍛え上げた美しさ。

と、しています。
消費者調査の13ページを見るとイメージが湧きます。

たとえば、クバの葉で作った扇。
ものすごく手を加えたわけではないけれど、
あれにだって、用の美はほのかに宿ってる。


ということで、
与論島、琉球弧からも、JAPANブランドとして
多くのエントリーのあることを期待します。



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2007/07/16

琉球弧45島の島めぐり

『海と島の思想』で、野本さんは、
2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センタービルテロ事件の後、
何かの機運に押されるように、「琉球弧45島の島めぐり」を決意している。

Photo_87













 あらためて考えてみると、島とは海に囲まれた閉鎖空間ではなく、
 逆に海という全ての方向に開かれた開放空間であり、
 さまざまな文化との交流が自由に行えていただのだということが
 納得できる旅となった。

 そして、こうした島には人類史、生命史の最も本質的な
 原型、母型が豊かに息づいており、
 島の暮らしには「人類史の基層」に連なるものが眠っていることも
 感じることができたのであった。

 その意味では、ようやく「生きものの」地下水と
 出会えたという実感がある。

 この流れをもっと豊かに深々と掘り起こして、
 これからの方向を照らし出せたらと思っているところである。

ぼくもその通りに感じる。

野本さんは、2002年から2006年まで旅をしている。
つまり、この島めぐりは、21世紀の報告なのだ。

21世紀初の琉球弧像からは、
どんな「人類史の基層」が浮かび上がるか、
楽しみに辿ってみよう。


Ryukyuko_3


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"朝のたそがれ"、観た

ほんの偶然、
朝の9時46分頃、
呑気な音楽が流れていると思って、
TVに目をやったら、

なんと、

小林聡美ともたいまさこが、
ベンチに座って、しゃぼん玉を膨らましてた。

その後ろは、
どこの浜辺か分からないけど、
間違いなく、与論島のさざ波。

白砂とおだやかな波で
画面はキラキラ輝いていました。

なんともゆったりした雰囲気。
テロップには、「あきれた二人」。

ああ、これが、「朝のたそがれ」。
『めがね』の公式サイトでも紹介されてました。

観れた、観れた。嬉しい。

与論では放送されてるんだろうか。
これはいいです。




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2007/07/15

『海と島の思想』

いつの頃からか、琉球弧の島々をめぐることが夢になっている。

これまで叶ったのは十島にも満たない。
いつ果たせるとも分からない。
どのように果たすかも、まだ分からない。

でもそうしたい想いだけは確かだ。

それは、琉球弧の島々を通じて、
自分を確かめたい。人間を確かめたいという
ことかもしれない。

そんな夢を抱いている者にとって、
『海と島の思想』は、うらやましい本だ。
なにしろ、そのサブタイトルには、
「琉球弧45島のフィールドノート」とあるのである。

めぐったのかぁ。そう思うと、羨ましい。

けれど、少々値が張る。
近所の書店で中身を確かめてからと思ったが、
運悪く在庫切れ。

そこで、版元の現代書館に電話して、聞いてみた。
「どんな中身と言われても」と最初、困らせた様子だったが、
民俗学的視点であること、著者の生き様自身が素敵であることを聞いた。
ぼくは、与論、波照間、与那国など、
自分の気になる島が載っているかどうかを確かめて、
じゃあ奮発してみますか、と電話を切った。

そうして、手にしたのが、
野本三吉著『海と島の思想』である。

Photo_87













手にしてみると、帯には、

 島は閉鎖空間ではなく人類史の基層

とあって、思わず、うなずく。

背には、「島には未来の祖型がある」とある。
これも同感で、ぼくはますます著者のなしたことが羨ましくなった。

当分、ぼくが琉球弧の島々をめぐることはかないそうにない。
ひとまずこの本を頼りに、琉球弧の島々をめぐる旅をしてみようと思う。




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2007/07/14

奄美の多層圏域と離島政策 13(最終章)

『奄美の多層圏域と離島政策』の第10章は、
「奄美の地域振興と文化」。
いよいよ最終章だ。

本章は、沖縄と奄美の観光の違いから出発する。

沖縄と奄美の観光入り込み客数は、
1977年に交錯し、その後、30年に及び、
奄美は40万人で横ばい推移しているのに対し、
沖縄は、急増し、2003年現在160万人と
奄美の4倍の規模になっている。

この相違を、著者は、
奄美の中規模島嶼は、大型資本にとって魅力的ではないからと説明する。
ここで挙げられる与論島のケースは、痛切だ。

 与論島は沖縄と比べて遜色ない海・海浜をもち、
 気候や文化もほとんど沖縄と変わらない。
 1970年代後半に、発生地の資本は
 観光マーケットでこの島の魅力を大々的に売り込み、
 この島は若者を中心とした大旅行者ブームを経験するが、
 それは一過性のものにすぎなかった。

 与論島の人々は、
 地元が動員できる資源を利用する方式、
 つまり小さな資金力と限られたマンパワーを用いた
 民宿でもって受け入れ態勢を整えた。
 観光地側が作り上げた態勢やプログラムは、
 急速に経済力を高めていった観光需要者の非日常欲求を
 すぐさま満たせなくなった。

 この時、発生地の観光資本は
 小さな面積と人口規模しか持たない与論島をあっさり見捨てる。
 その結果、沖縄観光が目覚しく伸びている最中の1980年代に、
 与論島の観光客は目立って落ち込んでいく。

これは、与論島の観光衰退と、もう少し言えば、その内実は、
民宿の衰退と「非日常欲求」に唯一応えたプリシアリゾートの持続だった。

与論島の観光ブームとは何だったのか。
それは、日本における「最果ての夢」の提供地だった。
だから、それは沖縄の復帰とともに、その座を明け渡すことになる。

もちろん、そんな外的な要因だけでなく、
与論島には、「最果ての夢」を提供するような、
「夢」を見せる魅力を持っていたことが
ブームを呼んだ原動力になっている。

言い換えれば、「最果て」という条件はなくなったが、
「夢」見せる魅力は、手中にあるのである。

 ○ ○ ○

著者の言うところに戻ろう。

奄美は、沖縄のように、地元の文化を観光向けの顔に焼き直し、
その二重性を保つ余力はないだろう。

だから、

 島の人々が楽しむ奄美文化を
 観光客も一緒に楽しめる状況を作り出す

ことを提案している。

そして、沖縄と差別化しうる奄美文化の独自性はあるとしている。


しかし、そう言いながらも、
本章ではなく、本書の末尾の考察としてはこう書いている。

市町村合併について、どんな選択をするにしても、

 全体として島嶼経済に与える負のインパクトは、
 行政あるいは住民の視野に入っていない点である。

これは、事態は厳しいことを現地はまだ認識していないということだ。

このことは、謙虚に受け止めなければならない指摘だと思う。
島の将来、奄美の未来にとって、考えなければならないことだ。

そのことは十分、受け止めた上で、
それでも、ぼくは一読者として言う自由は残っているだろう。

本書の考察は、奄美に切り込んでくれたものとして意義あるものだ。
当初、苛立ちが隠せないこともあったけれど、
刺激的で沈思黙考だけではたどり着けない実証にもめぐり合えた。

しかしことは、著者たちが手つかずの研究対象だともみなしたように、
困難な地域に住む島人の生活に関わるテーマでもある。
そこからみたら、その対象を扱う著者たちの迫力がほしい。
がん首揃えてその知力で奄美に迫るのであれば、
その知力をかけて肉薄してほしい。
そうでなければ、奄美の島人の生活の重量の前には、
気の利いた分析も、
それこそ紙片として吹き飛ぶごとくに軽いものでしかないからだ。

これはぼく自身の課題でもある。

とはいえ、稀有な考察群には感謝したい。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/13

奄美の多層圏域と離島政策 12

『奄美の多層圏域と離島政策』の第9章は、
「持続的・自立的社会の創造に向けて」というかなりマクロなテーマ。

けれどここには、前、「山原率」として提案した指標が、
林野率として載っていて、これだけでもとてもためになった。

2003年について、表を挙げておきたい。

        耕地率  林野率
--------------------------
奄美大島   2.7%  85.5%
喜界島    37.2%  18.7% 
徳之島    27.8%  44.9%
沖永良部島 48.4%  10.3%
与論島    52.7%   4.1%
--------------------------
奄美群島  13.6%   67.2%
--------------------------

これを見ると、ふつうに言って、与論島はヤバイ。
林野率、ここでの言い方では、山原率はたったの4%だ。
山原率に見る限り、
与論島は、そこらの枯れた都市と変わらないじゃないか。
これは相当にやばいです。

もっとも、1970年には、すでに山原率は、
6%に落ち込んでいた。
あの観光ブームの頃にはすでに極小化していたのだ。

とはいえ、このままいって壊滅させてはいけない。
むしろ、山原率は上げなきゃいけない。

与論町は、林野率(山原率)向上を
重要指標に置いているだろうか?

与論島に、森らしい森をつくろう。
明日の与論島にはそれが必要だ。

 ○ ○ ○

著者は、沖永良部島を例に挙げて、
「『農』こそ、命と健康の源であることを認識し、
健康で文化的な、そして持続可能な発展を遂げるために
環境保全型農業の推進が望まれるのである」
と書いている。

これはそうだと思うけれど、
与論島の環境を考えると、別のことも言いたい。

農のために耕地を増やすことが、
林野、すなわち山原を減らすことになってはならない。
環境保全型の観光、
つまり、海原があり山原があることが、
すなわち観光になるなら、
それも与論島持続に大切な要素となるのだ。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)

第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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マンニィにお願い

台風4号、マンニィは、
沖縄本島と奄美諸島の琉球弧をなぞるように北上中。

与論島へは、今日13日の午後、もっとも接近しそう。

島では、すでに100世帯が停電しているという便りも届いた。

島の内外では旅を諦めるため息が漏れる。

マンニィへ。

 どうぞ被害をもたらしませんように。
 どうぞ雨の恵みをふんだんにもたらしますように。

 海を動かし珊瑚礁を元気づけますように。
 海を動かし恵みを漂着させますように。


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2007/07/12

奄美の多層圏域と離島政策 11

『奄美の多層圏域と離島政策』
第8章は「奄美の出産と育児に関する地域・家族研究」。

ここにはサブタイトルがあって、
「少子化時代の相互扶助としての
<沖永良部的家族関係>とパラサイト出産」とある。

これは、沖永良部の合計特殊出生率の高さに着目し、
なぜ高いのかを考察したものだ。

直感的には、沖永良部の農の豊かさと南島の温暖な自然とが、
農社会の人口構造を温存させているのではないかいうことだ。

もちろんこれはぼくの推量に過ぎず、
著者は聞き取り調査をもとに分析を試みている。

結論を引用すると、

「合計特殊出生率が高い理由」と
「出産環境を緩和する出産環境」について。

1)経済的に豊かな生活条件
2)パラサイト・カップルによるパラサイト出産
3)若者における人生設計の自由度
4)温暖な気候など身体的に有利な出産条件
5)医療における出産過程の全把握

ここでパラサイト出産とは、
親元にいたり親がそばにいる状況で出産するなど、
「親の様々な資源を活用しながら出産」することを指している。

また、なんというか、可笑しな響きを感じてしまうのだけれど、
「沖永良部的家族関係」も重視されている。

その核心は、「戸籍上あるいは制度上は家族に類型化されない人々が、
あたかも家族であるかのような関係性を築いていることである」という。

たとえば、兄弟姉妹でもないのに、
「○○にいさん」「○○ねえさん」と呼び合っていて、
相互扶助関係を構成しているというのだ。

そう言われてみると、
ぼくも、やか(兄)や、あんにゃー(姉)と、
血縁にかかわらず言うことはあるので、
そのことを指しているのだと思える。

ただ、これは、ちょっとさかのぼれば、
日本にはあったことで、特に「沖永良部的家族関係」
と括りだすものでもないと思う。
ぼくにはこのくくりだしは、どこか滑稽に感じてしまう。

 ○ ○ ○

けれどぼくは、このまじめな考察から刺激を受ける。

産む島、逝く島。ということは考えられないかと思った。

 産む島、逝く島。

子どもを産むときに、産む場所として選ぶ島。
自分が逝くときに、逝く場所として選ぶ島。
そういう場所としての与論島あるいは琉球弧ということだ。

現実的には、産むためにわざわざ島に行くなど、
相当前から準備しなければならず、
男性パートナーが立ち会いたい場合は、障害が大きくなる。

また、逝く島にしても、
逝き場所など、当人が決めることではなく、
成り行きと家族の意思で決まるものだから現実性に欠ける。

と、最初に多くのネガティブ要因を思いついてしまう。

だからこれはいまのところ、単なる夢想アイデアだ。

けれど、島では、潮の満ち干のように、
自然の摂理をより身近に感じながら産むことができる。
また、より自然の流れに近づきながら逝くことができる。
そんな気がするから、両方とも理想的な環境ではないかと思うのだ。

この著者の考察から、ぼくはそんなことを思った。



目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究
     (片桐資津子)

第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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めがね 舞台挨拶

MovieWalker レポートで、
映画『めがね』の舞台挨拶が出ています。

 「かもめ食堂」の萩上直子監督最新作の癒し系映画「めがね」
 を小林聡美、もたいまさこ、市川実日子、加瀬亮、光石研らがPR

そして中味はやっぱり与論島のこと。

この舞台挨拶、与論島の最高のクチコミになっています。
与論はこのクチコミを生かさない手はないですね。

舞台挨拶は、動画でも配信されています。

 めがね」舞台挨拶

先日、紹介した八雲ふみねさんの「yakumoxTV」より、
萩上監督のコメントは短いですが、
その分、役者さんたちのコメントは多めに収録されています。

楽しいですよ、見てください。


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2007/07/11

奄美の多層圏域と離島政策 10

『奄美の多層圏域と離島政策』
第7章は「市町村合併と群島内の経済モデル」。

この章では、地方交付税の削減というインパクトが、
与える経済的影響についてシミュレーションすることで、
市町村合併のあり方が考えられている。

 筆者の研究は、広く奄美群島区における
 島別の市町村説明会で紹介され、議論を巻き起こした。
 筆者は説明会に出席せず研究メンバーにお願いしたが、
 現地からの厳しい批判にメンバーがさらされた旨の報告をいただいた。
 確かに、シミュレーションの結果は奄美群島内の
 存立に関わるものであったが、
 賛否両論を各会場では得られたということは
 現実感覚が欠如したシミュレーションではなかったと自己解釈している。

こう著者は言うのだが、その通り、
このシミュレーション結果は刺激的である。

まず、これは、「市町村合併問題は、経済統合問題」
という観点からなされる研究である、と前置きしている。

これは、市町村合併問題を、
経済問題としてだけ考える視点に立つということだ。

そこで、各市町村の「純生産」は、
交付税減少の状況下で推移した場合、2020年にはどうなっているか。
この間、何がプラス要因として働き、何がマイナス要因として働くか。
これらを最小2乗法による回帰分析でシミュレーションしている。

結果は、次のように整理された。

1)周辺町村(成長パターン)  100~20% 大和村・伊仙町・知名町
2)群島区中核都市       100%    名瀬市
3)名瀬市と距離感のある町村  90%後半 宇検村・瀬戸内町・喜界町
4)周辺町村を形成できる町村  90%前半 徳之島町・和泊町
5)名瀬市に包摂される町村   83%    住用村・天城町
6)希薄な対抗関係町村     80%    笠利町・天城町
7)沖縄経済圏         50%    与論町

「ある意味で与論町は鹿児島県経済圏からは離脱していると
考えられる結果となっている」と著者がコメントしているように、
わが、与論島については、ドラスティックな結果だ。

現に、「とくに与論町の結果は現実離れしているという批判が集中した」
とある。

この手のシミュレーションは、
2020年にはこうなるという単純な未来予測で見るのではなく、
過去の傾向を踏まえた上で、
今後、交付税減少が続くとしたらという、
現在の延長上に得られる仮定の像として
受け取るのが妥当だ。

だから、将来こうなる、と受け止めるのではなく、
今どうしたらいいかを考える材料として受け止めたほうがいいと思う。

 ○ ○ ○

ここから著者は面白いシミュレーションをしている。
沖縄県のGDPの影響が出た沖永良部と与論を「南奄美」として、
奄美諸島を、「北奄美」と「南奄美」に分ける。

そして、鹿児島県内で、「北奄美」と「南奄美」に市町村合併したらどうなるか。
「南奄美」が、沖縄県に合併されたらどうなるか。

1)鹿児島県内「北奄美」と「南奄美」

シミュレーションの結果は、2分割したほうが、
しない場合より、純生産が落ちるというものであった。

これは、2分割することにより、
名瀬市の中心性が落ちるからで、
北奄美では、2分割の意味がない。

また、南奄美では、合併してもしなくてもあまり差がない。
言い換えれば、南奄美の経済規模からいって、
分割されても、新しい中心性を得られないことに依っている。

2)鹿児島県「北奄美」と沖縄県「南奄美」

南奄美が沖縄県に合併されるに当たり、
交付税が増額されるという仮定で行うと、
南奄美は純生産を増加させるというシミュレーション結果が得られる。

これは、南奄美には望ましいけれど、
こうなるには、南奄美が合併しない場合の
純生産を下回らないことが条件であり、
県境を越えた合併をしても南奄美の財政事情が好転する保証はない。

として、2分割案は、いずれも否定的な結果になる
というのが著者の結論だ。

著者は言う。

 奄美群島区で県境を越えた合併を考えるならば、
 群島区内の沖縄県市町村との合併なら意味があるだろう。
 群島区全体に交付税の増額があれば
 効果的な結果を呼び起こすことはいうまでもない。
 つまり、県境を越えた合併という場合、
 残された地区が経済的に不利益を被るような合併は意味がない。
 奄美群島区のような中心性(名瀬市)をもつ島嶼地帯の場合、
 離島を分離して県境を移動させるのは意味がない。
 むしろ、群島区全体を沖縄へ移籍させるならば意味のあることになる。

著者の真意は分からないが、この結論は妥当だと思える。

 ○ ○ ○

ぼくはこのシミュレーションのプロセスでの思考実験がためになった。
つまり、与論島はむしろ沖縄経済圏だから、
単独で沖縄に合併されるという選択肢が浮上する。

すると、与論は奄美ではなくなるのだろうか。
それなら、ますます奄美とはいったい何なのか、
その問いは、永久に問われなくなってしまうのではないか。

ついで、与論と沖永良部とで、南奄美とする区分は、
すわりのよさを感じ、また、「南奄美」という響きもいい。

南奄美が沖縄に合併されるという場合、
徳之島と沖永良部の間の文化の境界が、
行政区分になってしまうことになる。

この場合も、奄美とは何か?が気になる。
それは、南奄美を抜いたものに収斂していってしまう。
それでいいのか、という問いがやはり残る。

だから、奄美群島全体で合併は考えられるべきではないかという
著者の結論は、奄美の文化を考えることと矛盾せず、
ひとまず落着する。

ある仮定のもとに得られる刺激的なシミュレーション結果は、
議論を活性化する。このシミュレーションに感謝したい。


ただ、付記したいのは、このシミュレーションが、
各島で賛否両論を巻き起こしたのは、
著者が言うように、現実離れしていない証左でもあるだが、
それだけ島の切実さに踏み込んだということでもある。

だとしたら、説明会は、研究メンバーに任せず、
自らが足を踏み入れるべきだったのではないか。
そこでぶつけられる住民からの声を身体に浴びることこそ、
このシミュレーションがさらに生かされる礎になるだろうからである。



目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)

第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/10

マイノリティーの視線を

「マイノリティーの視線を」。

これは、「もうひとつの郷土史」と題した、
与論高校教諭、山之内勉さんが
南日本新聞に書いているコラムにあったキャッチだ。
鹿児島の親友が送ってくれて読むことができた。

ぼくは、このコラムを読んで、
薩摩思想による奄美理解の折り返し地点ということを思った。

「翔ぶが如く」、「篤姫」でみる武家社会の人々は
メディアへ登場する機会も多い。
しかし、与論で暮らしていると、
そのような武家社会主体の「郷土史」を
思い出すことはめったにない、という。

 そのかわり、延々と続くサトウキビ畑から想起されるのは、
 黒糖と民衆の歴史である。
 調所広郷の天保の改革に代表される
 薩摩藩のすさまじい黒糖収奪は、
 「黒糖地獄」と呼ばれるほど奄美群島の住民生活を圧迫し、
 住民の食糧供給に欠かせない稲作地まで
 キビ畑への転換を余儀なくされたと伝えられる。

 それでも奄美群島の人々はしぶとく、
 たくましく、誇り高く、
 今日まで連綿と命をつないできたのである。

こう前置きして山之内さんは書き出している。

 与論の風土は、郷土史の主役が
 島津氏や西郷、大久保だけではないことを教えてくれる。

これは、口を開けば、西郷、大久保一辺倒なのに
閉口してきた立場から言えば、逆像としてよく分かる。

ただ、ぼくは郷土史の主役は、
「島津氏や西郷、大久保だけではない」、ではなく、
島津氏や西郷、大久保ではない、と思っている。

郷土史の主役は、名も無き与論や奄美や薩摩の
民衆であるに違いないからだ。

 「カゴシマからきた先生はおれらを見下している・・・」。
 指導の行き詰まりの果てに、生徒からそう言われることがあるが、

ぼくは、こうした悪態を生徒が口にでき、
また先生もエピソードとして公開できる状況を歓迎したいと思う。

 ○ ○ ○

山之内さんはこう、続ける。

 「郷土史」、さらに「歴史」を考える場合、
 例えば与論のような政治・経済・社会・地理上の周縁部からの
 鋭い視線を内包化させ、
 歴史の重層構造を複眼思考で立体的にとらえることは
 極めて重要である。
 
 歴史に関与するさまざまな立場の
 人間への公平かつ多元的な目配りは、
 社会正義に不可欠の前提であり、
 普遍的価値への近道である。

ここで、マイノリティーという言葉は登場する。
マイノリティーの視線から郷土史を立体化するというのだ。

 第一は、かの宝暦治水事件を新たに
 奄美群島からの視線から立体化することである。
 黒糖収奪が強化された一因に、
 宝暦治水による藩財政悪化があったことは容易い想像される。

 木曽三川に倒れた薩摩義士を顕彰するのは良い。
 だが、同時に、藩財政再建の人柱となった
 奄美群島の人々の無念も救済されなければならない。
 
 義士の鎮魂と島民の鎮魂を同時に行う
 慰霊祭など呉越同舟ではないか、
 という批判はあるだろうが、
 歴史における悲劇の連鎖、差別の再生産という視座は、
 宝暦治水事件に複雑な陰影を与えるのである。

どうして呉越同舟なのか、さっぱり分からないのだが、
ぼくは、奄美と薩摩が、思想の対話の果てに到達すべき事態が、
ここで、ふいに書かれているのに驚く。

ぼくは薩摩によるこうした言葉を、
長い間、待っていた気がする。

二つ目に、山之内さんは、

 幕末の薩摩の雄藩化を
 被差別部落の視点から立体化することである。

としている。

別に奄美の歴史は、
薩摩の歴史を立体化するためにあるのではない、
というような半畳は、おそらく勇気を持って
書いている山之内さんに失礼になる。

山之内さんの文脈に添っていこう。
ぼくは、薩摩の思想は、
薩摩が南島を喰らうことによって明治維新をなしたと認めよ、
と考えているし、そう書いてきた。(ポストコロニアル

だから、奄美と薩摩による思想の対話が必要であると考えている。

山之内さんのコラムを読み、
ぼくは対話の糸口ができているのを知る。

薩摩思想による奄美理解の折り返し地点。
ひょっとしたらそうなのかもしれない。
奄美の二重の疎外、克服に活路を見いだせる。
そういう気持ちになった。

このコラムを書いた山之内さんには敬意を表したい。


また何より、父の他界を機に、ほぼ十五年ぶりに再会し、
このコラムを教えてくれたわが友に感謝したい。




 

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奄美の多層圏域と離島政策 9

『奄美の多層圏域と離島政策』
第6章は「奄美の物流と物流コスト」。

琉球弧は世界との距離を課題にしてきた。
その距離があまりにはなはだしいために、
「日本人」になり、自分を忘れようとしてきた月日があった。

いま、その切迫性はようやく解除された。
しかし距離がなくなったわけではない。
現在、その距離は、
たとえば時間や「物流コスト」に見ることができる。

 ○ ○ ○

著者は、物資の移出入の大半を占める船舶について、
鹿児島新港までの時間を表にしている。
ここに、沖縄の本部、那覇との時間も入れてアレンジしてみる。

      航路距離   所要航行時間
      (鹿児島新港)(鹿児島新港)(本部港)(那覇港)
--------------------------------------------------------------------
奄美大島     383      11     11    14
喜界島      376      12     10    13
徳之島      492      15      7    10
沖永良部島    546      18      4     7
与論島      592      20      2     5
--------------------------------------------------------------------
※単位は、距離(km)、時間(時間)。それぞれおおよその値。

与論から鹿児島に行くとき、鹿児島から与論に帰る時、
この20時間は自分でも身をゆだねた時間だから、実感的にも分かる。

この航行時間を使うと、こんな風に言える。

与論にとって、沖縄は鹿児島より10倍、近い。
沖永良部にとって、沖縄は鹿児島より4.5倍、近い。
徳之島にとって、沖縄は鹿児島より、約2倍、近い。
喜界島にとって、沖縄は鹿児島より、やや近い。
奄美大島にとって、沖縄は鹿児島とほぼ同じ近さだ。

この距離感は、心的距離感とパラレルなのかもしれない。
ぼく自身の、沖縄と鹿児島への心的距離感には合っている。
また、一方で、奄美大島の持つ位相も教えてくれる。
奄美大島は、鹿児島と沖縄の等距離として、
まさに狭間に生きてきたのだ。

 ○ ○ ○

この鹿児島新港との距離は、物価に反映される。

 (前略)鹿児島本土に近く、人口、面積及び経済規模とも
 最も大きい奄美大島の物価が最も低い。
 なかでも特に、名瀬市の物価が安く、
 鹿児島地区との格差も平均3~5%程度にすぎない。
 逆に、鹿児島本土から最も遠く、
 奄美群島主要5島のなかで最も面積及び経済規模が
 小さい与論島の物価が最も高い。

物価地域指数を見てみる。

      2002年度
------------------------
鹿児島地区  100.0
種子島    114.8
屋久島    112.5
------------------------
奄美地区   117.4
奄美大島   109.8
名瀬市    103.7
喜界島    116.6
徳之島    119.2
沖永良部島  123.7
与論島    126.4
------------------------
離島地区   115.6
本土地区   101.2
------------------------

いちばん貧しい与論の物価が最も高いのは変だ、と思ったりするが、
物価高は経済小規模の一因になっているということだ。

奄美の物価高の要因として、著者は三つ、挙げている。

1)島外からの移入が多い。
  輸送コスト(海上輸送コスト・荷役料)の負担
2)商圏規模・店舗規模が小さい
3)競争が小さい

奄美の多くは、物資を移入に頼っていて、
その移入コストを負担しているから
というのが一番目に挙げられる。

ここで著者は面白いケースを挙げている。

 本土から名瀬市に進出した複数の大型スーパーでは、
 輸送コストが高い奄美店舗であっても、
 基本的に本土と同じ価格で販売しているという。
 これらのスーパーでは、店舗ごとに配送コストを
 価格に上乗せするのではなく、
 いったん全店舗の配送コストをプールして
 平均化することで同一価格を実現している。

大型流通のよい側面がここに現れている。
これは重要な解決法だと思う。

大手流通のなせる業には違いないが、
ここには、社会はどうあるべきかという理想が
ひとりでに内包されていると思える。

ところで、農産物の考察のところで、
奄美は、いまや「砂糖きびの島々」ではなく、
「野菜の島々」であると整理したけれど、
どこか実感が伴わなかった。

それはどうしてだろうと思っていたが、
「野菜」の栽培が、移出のためのものであり、
栽培が盛んになるにつれ、
自給率は減少傾向にあると指摘されている。

与論など、野菜自給率は10%だそうだ。
これは、低い。

「砂糖きび」は刈ったりかじったり、
黒砂糖として日常的に食べたりしていたから、
「砂糖きび」の島々は実感的なのだけれど、
野菜は、移出用なので、
「野菜の島々」は実感が湧きにくいのだ。

 ○ ○ ○

著者は、奄美と同様、離島の条件を持つ
沖縄の物流の取り組みを紹介している。

沖縄県では、花きや一部の野菜を対象に、
輸送コストの高い航空機中心の輸送体系から
船舶や船舶とJRを組み合わせによる輸送体系への
移行が進行しているという。

たとえば、

 沖縄でJRクールコンテナに積み込んだ出荷物を、
 コンテナごと上りのフェリーで鹿児島本土(新港)まで運び、
 そこから大阪や東京市場にJRで輸送しようという試みである。

この「船舶・JR複合一貫輸送」では、航空に比べて
コストを3分の2に抑えることができる。

時間はかかるが、適切な温度設定をすれば、
鮮度に問題がないことも実証されたのだという。

 ○ ○ ○

著者は最後に5つの提案を挙げている。

1)移出貨物を増加させて、移入超過のアンバランス解消。
 ・産業が育っていないことが輸送コストを高くしている側面を捉えて。

2)物資の自給率を高める。
 ・外部依存を減らす。

3)企業や業種の壁を越えた協力関係の構築。
 ・共同仕入れ、共同出荷により量を大きくする。

4)奄美群島内の経済的・物流的な関係の強化。
 ・群島内の相互補完関係を強化する。

5)沖縄との経済的・物流的な関係の強化。
 ・輸送コストの高い本土からの移入を減らす。

5つの提案はどれもごもっともだと思う。
なかでも、奄美の島々内での連携を強化することが、
輸送コストのメリットも大きくなるという指摘は大切だ。


「奄美の多層圏域と離島政策」のなかで、
提案に踏み込んだ考察に出会い、少しほっとした。


追記
それにしても、与論島の野菜自給率が10%に過ぎないのはなぜだろう。
そして、あれだけ生産している砂糖きびが、
黒糖焼酎の原料になっておらず、
大部分を沖縄県に依存しているのはなぜだろう。

地産地消を実現する方法を探りたい。



目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)

第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/09

奄美の多層圏域と離島政策 8

『奄美の多層圏域と離島政策』
第5章は「奄美の農業と農協合併」。


各島の農産物を引用してみる。

【代表品目】
---------------------------------------------
奄美大島北部 さとうきび、豚、採鶏卵
奄美大島南部 採鶏卵
喜界島    さとうきび、肉用牛、茶
徳之島    さとうきび、肉用牛、バレイショ、さといも
沖永良部島  花き一般、さとうきび、バレイショ、さといも
与論島    肉用牛、さとうきび、さといも、インゲン
---------------------------------------------

【特産品目(注目品目)】
---------------------------------------------
奄美大島北部 たんかん
奄美大島南部 カボチャ、たんかん、ぽんかん、甘藷
喜界島    ゴマ、メロン、たんかん
徳之島    マンゴー(特に天城町)
沖永良部島  マンゴー、葉たばこ(特に知名町)
与論島    ソリダコ
---------------------------------------------

こうしてみると、「砂糖きび」以外に多くの産物が栽培されているのが分る。
マンゴーなど、熱烈な支持を受けている商品もある。

これは2年前の資料だから、現在は変わっているかもしれない。
与論でも、ドラゴンフルーツがあったり、
先日は、初出荷のパッションフルーツをいただいたりした。
与論も産物の幅が出てきたと思う。

 ○ ○ ○

ところで、2005年時点では、合併は実現していない。
著者は、奄美の合併が遅延した理由はなぜだろうかと問うている。

 それは、奄美農業の多様性(営農類型の島ごとの著しい相違、
 農業構造の相違)に誘因し、島の間隔があまりにも離れていることから、
 合併のメリットが見いだしえない点にもあろう。

農からみても、奄美は奄美、なかなか統一像を持ちにくかった。
ぼくは実のところ、農協の活動内容、存在意義について、
よく分かっているわけではない。
合併にいたる経緯も知らない。

ただ、この章を読み進めるなかにも、
奄美らしさを感じることができた。

2006年4月に実現した合併が、
奄美の相互交流の促進になればいいと思う。



目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)

第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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『めがね』完成試写会レポート

映画『めがね』の完成披露試写会レポート
公式サイトで見ることができます。

 ★映画『めがね』公式サイト
 ★完成披露試写会レポート

先日、「映画『めがね』の舞台挨拶-与論島の場力」
の記事で紹介した内容ですが、
もっと詳しく出ています。

加瀬さんは、やる気満々で現場に臨んだところ、
最初に目にしたのが、山羊と散歩するもたいまさこさんの姿。
それを見て、「あの瞬間、僕の中で何かが崩れまして」と言います。

面白いのは、それぞれに、
与論島のモードに入った瞬間を印象的に話していること。

これこそ与論マジック。

否が応でも高まる期待!



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2007/07/08

奄美の多層圏域と離島政策 7

 山原率

「奄美の多層圏域と離島政策」第5章に、
産業構成、農業生産の指標がある。

ここにある5島について、
与論島の人口、面積を「1」として、各島を比較してみる。

    大島本島  喜界島 徳之島 沖永良部島 与論島
--------------------------------------------------------------------
人口     12   1.5   4.7    2.5    1
面積     40   2.8  12     4.6    1
--------------------------------------------------------------------

この表には、加計呂麻島、与路島、請島が含まれていないけれど、
それにしても、与論島に比べたら、奄美の島々は大きい。

エラブと気軽に呼んでいるけれど、
与論の5倍近くも大きい。

奄美大島は、大島というだけある。
なんと、与論の40倍だ。

ただ、それに対して人口は、
大島の12分の1にとどまる。

これは昔からの特徴だが、与論島は人口密度が高い。
山のないことの裏返しである。

 ○ ○ ○

ぼくはもうひとつの指標に目が留まる。
耕地率だ。

     大島本島 喜界島 徳之島 沖永良部島 与論島
--------------------------------------------------------------
耕地率    2.7   37.3  27.8    48.7   51.2
--------------------------------------------------------------

与論は、面積が小さい。それだから、農産物を増やそうとすれば、
必然的に耕地の比重をふやさざるをえない。
そうした背景が見えてくる。

だが一方、与論島の魅力を考えるとき、
与論島を観光立島として捉えるとき、
ぼくはもうひとつの指標を提案したい。

山原率だ。ヤンバル率、と読みたい。

 山原(やんばる)率。

山原率は、森、樹木や植物でうっそうとした地帯の比率のことだ。
与論島は、沖縄の山原が近い。
あの、辺戸の向こうに広がる山原につながる地域として、
与論島を捉えるのである。

山原は海原とともに、与論島の魅力を引き立てる。
そしてそれだけではなく、与論島を守る。
山原が大地を大地としてあらしめ、島の自浄力を維持する。

ある一定の比率で保つべきは、山原率なのだ。

宅地化にも耕地化にもニーズがあってのことだ。
しかし、そもそも本体の与論島を損なったら宅地の耕地もない。
山原を維持する。山原を増殖する。
この視点を提案したい。

Yanbaru_yunnu_1
















 
目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)

第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/07

奄美の多層圏域と離島政策 6

 野菜の島々としての奄美。

「奄美の多層圏域と離島政策」第5章で、
著者は、『奄美群島の概況』から、面白い表を引用している。
「奄美群島区内の農業粗生産額の推移」だ。

うかつなことだけれど、
ぼくは奄美は、「砂糖きび」の島々だと思っていた。
でも、2002年時点で見ると、
「砂糖きび」が最大の生産物ではなくなっている。

最大の生産物は何か?

なんと、「野菜」なのだ。

さとうきび   27.0%
たばこ     2.9%
野菜      27.5%
花き      21.2%
果樹       3.9%
畜産      17.0%
肉用牛・子畜 14.8%

0.5%の僅差ではあるが、「野菜」が「さとうきび」を
上回っているのだ。

また、「花き」、「畜産」、「肉用牛」も多い。
そういえば、与論島も牛だらけだ。

奄美は、全体でみれば、
「砂糖きび」の島々ではなく、
「野菜」の島々なのだ。

 ○ ○ ○

5年単位の推移をみると、
「野菜」以外に、増加を続けているのは、
「たばこ」「畜産」「肉用牛・子畜」で、
「花き」「果樹」は、すでに減少傾向になっている。

これは、「砂糖きび」の島々から、
もっと付加価値の高い生産物への移行を
それぞれの島の個性で展開した経緯を物語ると思う。

以前、あれは、何の番組だろう。
Dr.コトーだったろうか。
沖縄の砂糖きび畑の道を、シュガー・ロードと称しているのを
見てびっくりしたことがあった。

ぼくにとって砂糖きび畑の道は、圧制と貧困の象徴だった。
それはカタカナになることで軽くなる。
しかも、その名ときたら、砂糖の道で、“甘い”印象すら与える。
この言い換えによる響き転換は、
島の苦難の歴史を軽くしてあげる作用を持つだろうが、
歴史を不要に忘却させないだろうかとも思った。

しかし、この言い換えの背景になったのは、
本当は、この砂糖きび依存からの離脱だったのかもしれない。
実質的に離脱したことが、
「砂糖きび畑の道」から「シュガー・ロード」への言い換えを可能にしたのだ。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)

第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/06

奄美の多層圏域と離島政策 5

『奄美の多層圏域と離島政策』、第5章は奄美の農業と農協合併。


 農としての奄美。


農業比率からみた奄美。

         奄美群島 全国
------------------------------------------
農業純生産比率  4.3%   1.0%
農業就業者比率 15.9%   4.5%
農家人口率   21.5%   8.3%
農家戸数率   18.5%   6.6%
------------------------------------------
           (2000年)


次に、産業構成からみた奄美。

       1975年 2000年    全国(2005年)
-------------------------------------------------------
第1次産業  25%  18%(▲ 7%)  4.4%
第2次産業  38%  20%(▲18%) 27.0%
第3次産業  36%  62%(+26%) 67.4%
-------------------------------------------------------

2000年までの25年間、奄美で最も成長したのは第3次産業。
第1次、2次産業は、ともに減少している。
なかでも、第2次産業が第1次産業以上に減少。

全国と比較してみると、
第3次産業は、全国並みの比率だが、
第2次産業は全国平均を下回り、
第1次産業は、全国平均の4倍にのぼる。

産業構成の推移からいえば、
第2次産業を基盤に第3次産業が成長したのではなく、
第2次産業の衰退と第3次産業の成長が併走している。
一方、第2次産業の衰退を尻目に、
第1次産業は漸減にとどまっている。

著者は、奄美における第1次産業の減少について、
他島嶼との比較して、
「奄美の場合、1975年から25年間における1次産業就業者数、
農業就業者数の減少度が他の島嶼地域より圧倒的に小さい」と指摘している。

    1975年 2000年  
--------------------------------------
奄美  24.9  17.6(▲7.3%)

壱岐  53.9  26.8(▲27.1%)
対馬  41.6  23.9(▲17.7%)
下五島 45.8  17.8(▲28%)
天草  39.0  16.8(▲22.2%)
--------------------------------------

これをみると、他島嶼は、奄美の2~4倍の減少幅であることが分かる。

この奄美の第1次産業の減少抵抗は、
奄美の過疎化の歯止めの役割も果たしていることになる。

 ○ ○ ○

奄美は、なぜ他の島嶼に比べて第1次産業が激減しなかったのだろう。

これは当て推量に過ぎないけれど、

ひとつには、奄美が本土との距離大きい離島のなかの離島だからだ。
島の単独性が高い。それが島外流出の壁となった。

もうひとつには、農の中心にあるのが、米ではなく砂糖きびであったこと。
このことが、国内外の激しい競争に巻き込まれず、
農温存の役割を果たした。

と、ここまでは、地図と統計で推し量れることだ。

このことの前に、ぼくたちは、
奄美がとどまるに魅力的な場だからと言わなくてならない。

そしてまた、農の核が「米」ではなく「砂糖きび」であったことは、
農がそのまま国家としての日本に吸引されてゆく本土とは
異系列の精神性を育んだ背景をなしたと思える。

「離島」の場で「砂糖きび」を営んできたことが、
農維持の原動力になってきたのだ。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)

第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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映画『めがね』の舞台挨拶-与論島の場力

八雲ふみねさんの「yakumoxTV」で、
映画『めがね』完成試写会での舞台挨拶を観ることができる。

観るべし。

ぼくはいままで失礼なことに役者さんを無視して、
背後の与論島ばかりに目を奪われてきたが、
この映像を見ると、役者さんのコメントが響いてくる。

というのも、役者さんたちは、
映画のことより、与論島で感じたことを話しているのだ。

小林聡美曰く。

 島に行ったらもう、ほんとにマイナスイオンとかα波の嵐で、
 もうリラックスしないでそどうするといった環境の中で・・・

もたいまさこ曰く。

 東京ではああでもないこうでもないと考えてたんですけど、
 すっかり、島へ入った途端に、
 無駄だ、すべては無駄なんだ、ていうことが分りましてね。
 ・・・
 みなさんも行ってみるといいですよ、ってそんな感じですね。

荻上直子監督曰く。

 脚本を書く時に一番最初に行った時に、
 ほんとに考えるとか、思考するとかいうことを
 根こそぎ奪われるような場所で・・・。

ぼくは役者さんたちの言葉に、心を動かされた。

たとえば、「考えるとか、思考するとかいうことを
根こそぎ奪われるような場所」という荻上監督の言葉は、
そのまま、ぼくが与論島に行くと感じることだ。

 ○ ○ ○

誤解されたくないので書くけれど、
これは、島の人が何も考えないでいるという意味では全くなく、

与論島の場の力、
とくに、時間が重層する場から与論島に入ると、
強烈に感じる、あの、力のことを言っている。

役者さんの言葉も、そのように、
与論島の魅力の核心を言い当てているのだと受け止めてほしい。

役者さんたちは、役者さんの鋭敏な感受性で、
与論島を感じ取り、舞台挨拶で素直にしゃべってくれている。

これは、映画の舞台挨拶なのだから、
与論島のことを話すのは逸脱だと思われるかもしれない。

でもそうではない。
役者さんのみならず、監督までも与論島のことを口々に話すのは、
与論島の場の力が、作品形成に大きな力を発揮しているからだ。
というより、与論島の場の力が作品を作ったと言わんばかりだ。

これが、舞台挨拶から感じることだ。

ますます、期待は膨らむというものだ。
だって、映画作品から与論島そのものを
感じることができるかもしれないから。



 
 

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2007/07/05

奄美の多層圏域と離島政策 4

『奄美の多層圏域と離島政策』の第4章は、
「奄美振興開発事業と建設業」。
奄美にとって、本格的に切り込まなければならない課題だ。

著者はまず、奄振の功罪に言及している。

功。

1954年から2002年までの49年間の総事業費は、約1兆8千億にのぼる。
これにより、「群島民の産業基盤や生活基盤の整備が行われた」。

罪。

1)地方の負担が伴う。
  「地方の各市町村は事業をやればやるほど財政が苦しくな」る。

2)産業振興にむすびついていない。
  「産業の育成に成功している、とはとても言えない」

3)「島民の依存体質」。
  奄振事業そのものが、依存体質を形成した。

 ○ ○ ○

そもそも奄美振興事業は、「交通基盤整備費」と「産業の振興費」
に大きな比重が割かれてきた。

それは、建設業者増大の歴史だった。

 国勢調査の1955年には、2,316人であったが、
 2000年には7,896人であり、3.4倍に増加した。

 全集業者数に占める建設業就業者の割合は、
 1955年の2.4%から2000年の13.9%にまで
 一貫して上昇してきている。

著者によれば、事業費の増加と建設業者の増加は比例関係にある。

ところで、膨大な事業費のうち、
地元の業者にはどのくらい配分されているのか。

皆村武一の推論を援用する形で、
著者は、公共事業の奄美域内比率を44%としている。

著者はそれ以上を言及していないが、
事業費の半分以上は域外に出ている。
事業費は、奄美のためになっていないのである。

次に著者は、建設業者就業比率の高い集落を分析している。

1.農林水産業などの衰退。
2.大量の若年層が地域外に流出。
3.集落の男性は建設業、女性は大島紬。しかし大島紬も衰退著しい。
4.定年退職者の「転入」。

つまり、建設業が、農林水産業を追い込み、
建設業以外の仕事を奪うので、若年層が出て行く、
という構図だ。

今後、事業費が減少するなかで、どのような道があるのか。
大規模層は多角化の可能性があるが、小・零細規模者層には
残る選択肢がないのではないのか。

またしても、考察はここで終わる。


せっかく、冒頭、奄振の功罪に切り込んだのだから、
この後の、議論こそほしかった。

ただ、奄美に建設業者が異様に多い背景を知ることができた。
にもかかわらず、奄美域内比率は44%。これは覚えておきたい。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)

第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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ラクーターを追い越さない

ゆうべは東京、よろんの里へ二回目なのであった。

パラジ(親戚)のヤカ(兄)が誘ってくれたので、
他でもない「よろんの里」に案内したのです。

「よろんの里」は、料理が美味しい。
ゆうべは、イシューガマ、スク豆腐、ラフティ、
グルクンのから揚げ、海ぶどう、スヌイ、
ゴーヤとたまねぎのポン酢あえ、ソーミヌチャンプルー、
有泉のロック、おにぎりに味噌汁と、
それはそれは堪能しました。

で、話も与論のこと。
ヤカ(兄)曰く。

与論では、ラクター(自動三輪車)でお年寄りが
道の真ん中をゆっくり走っていても、
後に続く車は、それにしたがってゆっくり走る。
誰もクラクション鳴らしたりしない。
でまた、お年よりは、途中で誰かと行き交うと、
ラクーターを止めて、話し出したりする。
それでも、誰も何も言わない。
ラクーターが、車を何台もしたがえて走ってるわけよ。

こんな光景どこにもないよ。
俺だって、東京や他の場所いるときは、
ブ、ブーって鳴らすよ。
でも、与論だとそういう気にならない。
どこでも5分で行けると思うから、急かないのかもね。

飛行機から降りてあの空気を吸うと、
もうモードが変わってるわけよ。
与論モードに。

あれは与論でしか味わえない。
与論の大事な文化だよ。

お年よりが幸せに暮せる。
与論のいいところだよ。

なるほどなぁと思った。

 ラクーターを決して追い越さない。

いい文化ですね。

与論憲法には、「ラクーターを追い越してはいけません」
と書かれている、となっても面白いけれど、
ここは不文律で、みんなで自然にそうしているのが、
いちばん素敵なあり方だ。

ああ、これも与論島クオリアだ。

 ラクーターを決して追い越さない。

いいですねぇ。




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釣りバカとドラえもんと少年とゴルゴがヨロンへ

北見けんいちさんの娘さんの結婚式が
与論島で行われたというニュースは、
その時期飛行機が取れなかったという便りと一緒に耳にしました。

「町民や招待者から温かい祝福を受け」
と、全国郷土紙連合は伝えています。


ちばてつやさんの「ぐずてつ日記」には、
7日間にわたって与論島の短い記事が掲載されています。

ああ、これを見ると、披露宴の場所は、
コーラルホテル前だったんですね。
プールの中も宴席にしています。なるほど。

それにしても、錚々たる漫画家が集結したのでした。

北見けんいちさんはもちろんとして、
他にも藤子不二雄Aさん、さいとうたかをさん、ちばてつやさん、です。

言ってみれば、「釣りバカ日誌」と「ドラえもん」と
「少年ジャイアンツ」と「ゴルゴ13」が
与論島で一同に介したということ。

えらいことです。

漫画家は、与論島に何を感じたでしょう。
与論を描いてほしいものです。


ときに、幸福を演出する場として与論島。
それはヨロンに合ってますね。




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2007/07/04

奄美の多層圏域と離島政策 3

『奄美の多層圏域と離島政策』の第3章は、
「奄美の市町村財政と地方交付税」。

ここのポイントを整理すると、
市町村合併すると地方交付税が増えるという見方があるが、
これは希望的観測に過ぎず、
実際は、変わらないとみたほうがいい。

ただ、規模の小さい行政体は確実に厳しくなっている。
これは規模の経済に対してその逆の、
規模の不経済を認めなくなっていることが大きい。

市町村合併は、交付税を増やすためではなく、
財政効率化のための手段と考えるべきである。

たぶん、こんなことを言っている。

 ○ ○ ○

たとえば、与論町は、合併を拒んだのだから、
合併により交付税が多くなると考えなかったのは賢明だが、
小さな行政体には違いないから、財政は厳しくなる。

こういうことを言っていることになる。
しかし、これは何というか、だからどうしたと言いたくなる。

この考察は、市町村合併に甘い幻想を抱くなという
メッセージにはなっているかもしれないが、
肝心なのは、ではどうするかということだ。

多くの統計資料を引っ張り出して、
ここまで調べたならそれに対する示唆、
あるいは著者の仮説がほしかった。

 ○ ○ ○

でも、これだけではあんまりなので、
ひとつだけでも役に立ちそうな数値を挙げておくと、

与論町の2004年度普通交付税の交付基準額は約18億。
この数字は、

・1992年以来の過去13年間で最低。
・最も多かった2000年に対し約4億円の減少。約8割。

4年間で2割も減少している。
これが、小さな行政体の厳しさの中身だ。

いまここで、では、という議論はできないけれど、
まず、その数値を押さえておきたい。

目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)

第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/03

『めがね』完成記念特別試写会

昨日、『めがね』の完成記念試写会がありました。
ぼくは観れていませんが、
早速、記事で見ることができます。

 もたいまさこ「メルシー体操はビリーよりハード!」。
 それでもゆるーい『めがね』

その映画の一部の画像も公開されています。

これを見てもどうしても、
視線は背景の与論島に向いてしまうのですが、
でも、記事を読むと、

 「ゆるい」、「のんびり」、「リラックス」

これらを、監督が映画のキーワードとして挙げているのに気づきます。

このキーワードは、舞台の与論島そのものだといっていいもの。

与論島こそ舞台にふさわしい、
与論島だからできた。

そういう映画なのかなと期待します。



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奄美の多層圏域と離島政策 2

『奄美の多層圏域と離島政策』の第2章は、
奄美諸島の市町村合併うをテーマにしている。

「平成の大合併」のなかで、地域は混迷の度合いを深めたとして、
著者の平井一臣は、次のことを指摘している。

合併に関する要綱を策定するに当たり、
鹿児島県は、民間調査会社の富士総合研究所に
基礎調査を依頼する。

そこで、2000年3月に、
『広域行政データブック
-鹿児島県における広域行政の推進に関する基礎調査報告書』
がまとめられ、

それをもとに、2000年12月、
県は、『鹿児島市町村合併推進要綱』を策定する。

しかし、両者を検討して、平井は書く。

 このように、合併困難地域と言われる離島の問題や、
 県境合併の選択肢も考えられうる自治体の問題について、
 『データブック』がそれなりにつっこんだ検討を行っているのに対して、
 『要綱』では、こうした地域についても合併を前提として
 問題点の整理が行われているにすぎない。
 
 『データブック』にある程度みられた「キメの細かな」検討が
 『要綱』からはすっぽりと抜け落ちていると言ってもよいだろう。
 そうなったのも、まずは合併ありきという県のスタンスと無関係ではない。

合併に関して民間の調査機関は、
離島問題にある突っ込みをしているのに対し、
それをもとにしたはずの県の要綱からは
その視点がすっぽりと抜け落ちている。

さもありなんと思う。
ただ、今はそのことにとどまるまい。
著者の記述を追ってゆこう。

 ○ ○ ○

著者は、市町村合併の離島地域の例として、
与論町の住民投票を挙げている。
これにはすこぶる関心をそそられる。

 □2002年11月 
  与論町は和泊町、知名町とともに、任意協議会発足
 □2003年6月
  法定協議会に移行
 □2003年11月19日~25日
  住民説明会
  那間校区(129名)、与論校区(172名)、茶花校区(247名)、
  与論高校(292名)
 □2003年11月20日
  与論町長名による「『与論町の合併につていの意思を問う
  住民投票』の実施及び市町村合併に関する参考資料の送付について」
  という文書と、住民説明会で使用された資料が配布される。
 □2003年11月30日
  住民投票実施
  ・住民投票条例は、高校生、永住外国人も。
  ・投票率が50%を満たない場合は、開票作業を行わず無効。

  ・投票者総数4,135名、有権者総数4,954名のうち83%強参加。
   合併賛成535、合併反対6,549.合併反対86%。
 □2003年12月6日
  与論町長、沖永良部・与論地域合併協議会からの離脱を表明。

短期間ながら、与論島の意思が感じられるプロセスだ。
この選択に当っては、「単独でやっていくための方法の検討」
という文書も作成された。

そこには、

 例え貧しく質素な暮らしを強いられても、
 家族全員のお互いが力を合わせ、知恵を絞り、
 未来を信じて心豊かに生きていく『覚悟と努力の気概』
 を持ち続けることができるか否かが、
 自律の道を選ぶ際の最も重要なポイント

と述べられている。

この一節は、島の切実さが胸を打つ。

しかし、感傷に浸らないとすれば、
「例え貧しく」と自己規定する必要はないと思える。
「質素な暮らし」は強いられるものではなく、
むしろ望ましいかもしれない。
単独の道を選択するのであれば、
本土が強いた価値観を転倒する力強さを見たいと思う。

ともかく、与論町は自らのアイデンティティを確認するかのように、
単独の道を選択した。それはとてもクリアな選択だった。

 ○ ○ ○

この研究では、そうはシンプルにいかなかった事例として、
甑島のケースが挙げられている。

甑列島は、「Dr.コトー」の舞台となった場所だ。

甑では、与論島のように単独とはならずに、
本土との「海越え」の想定のもと、
それに至る混乱を記すことになった。

現在、甑は、薩摩川内市の一部になっている。
ここで、著者は、「海越え」合併の是非を問題にしている。

ぼくの視点からは、甑にしても、
島はひとつの世界、宇宙と見なければうまくいくはずがない。

それが、本土との合併を許すためには、
島が単独での共同幻想を解体し、
本土のそれと合流する、
ゆるやかなほどきの時間が必要だ。

今回の合併が、甑の共同幻想の独立性に
傷を与えていないことを願う。

考察はここにとどまる。
物足りなくもないが、
市町村合併をめぐる
与論島の経緯の詳細が知れただけでも
よしとしたい。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)

第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/02

パークホテルの橋

もうまるっきりlagoonさんの画像とタイトルをお借りしての
記事だけれど、このコンクリート橋は、冷や汗なしには見られない。

1970年代、できたばかりの橋を、
小学生のぼくは、1歳にもならない弟をベビーカーに乗せて渡った。
なんてことをしたのだろう。

無事に大きくなった弟を見るたびに、今でもほっとするくらいだ。

パークホテル&コーラルホテルの前、
海岸の珊瑚岩ずたいにコンクリートづくりの遊歩道が
つくられたのだ。

ぼくはあまり記憶にないのだけれど、
たびんちゅや恋人たちはこの遊歩道を楽しんだろうか。
でも、ぼくたちは確実にそのでこぼこ道を遊び、楽しんだ。

ただねぇ、いくらなんでも、
弟の面倒をみるといっても、
ここを渡ったのは無謀だった。
遊歩道の一里程とはいえ。

ぼくは、文字通り、“危ない橋”を渡ったのだった。

lagoonさん、どきっとする画像とぴったりのタイトルを
ありがとうございます。




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奄美の多層圏域と離島政策 1

『奄美の多層圏域と離島政策』の第1章は、
奄美諸島の定住条件について考察している。

これは、定住人口と交流人口が、島嶼発展の基盤になるという
この本の問題意識にもとづくものだ。

まず、奄美の経済を考えるときに避けて通れない奄振について、
次のように総括している。

 巨額の奄振事業費が投入されても、
 その大部分は高度な技術を駆使する本土の建設大資本に還流していく。
 相次ぐ大型の公共事業が大量の農業従事者を、
 不安定な日雇い労働者として建設業に吸収させ、
 結果的には奄美の農業は衰退へと追い込まれる。

 事業が生み出すインフラストラクチャー整備の進展に照応して、
 本土からさまざまな都会型商品が持ち込まれ、
 島内の在来産業の維持を困難にさせる。
 これら一連の作用が浮き彫りにされて、
 対置される対抗戦略は、
 地産地消型のシステムを組み込んだ内発的な発展論である。

奄美の生活水準向上のために復帰後、行われてきた奄振は、
奄美の生活インフラを整備したかもしれないが、
本土の資本の論理に巻き込まれ、地場産業は疲弊した。
そこで、地産地消型の内発発展論が言われるようになった。

この問題意識の延長で、2004年には
民間版「奄振」委員会と通称されるメンバーが独自の改革案を提出。
この改革案は現実的な裏づけが弱くほとんど採用されなかったが、
理念は更新された。

 改正奄振法の理念は、本土との格差是正論から
 多様性原則に基づく自立論に変わった。

この理念更新は大切なものだ。
と同時に、多様性という言葉に幻惑されずに、
多様性を、奄美の大地と海に根ざした確たるものにする課題を
受け取ることになる。

 ○ ○ ○

自立、ということで言えば、
平成の市町村合併は、大きな試金石になったが、
奄美諸島では、与論町と喜界町が単独存続を目指す方向を選択する。
これは、合併とは別の大きな困難を引き受ける道でもある。

では、奄美の島嶼は、定住条件を備えることができるのか。

昭和の市町村制は、
役場と学校を中心に集落間構造を再編成する意味を持った。
役場がなくなるということは町の衰退を意味し、
役場への就職が生活の新しい安定を意味したように。

ところで、現在では、街の構造は、
役場と学校を中心としたものではなく、
完全に市町村レベルを越境する形で成立している。
職場やショッピングセンターという新しい中心が誕生しているためだ。

だから、平成の市町村合併は、昭和のそれとは異なり、
新しい町構造を追認するようなものなのだ。

として、著者は奄美諸島の定住条件に必要な、
中心地財のニーズは、都市部に比べたら支持人口は
比べるべくもないものの、
他の離島に比べたらポテンシャルがあると指摘している。

※中心地財:特定の人しか需要しない、
 あるいは1人の人は年に数回しか消費・利用しないが、
 一定規模の人口集積地だと効果的に提供できるサービス。


さて、ここまでの議論はまだまだ抽象的で、
具体的な考察の接点を見出しにくい。

だから、ぼくも少し抽象的な言い回しで、整理するにとどめよう。
平成の市町村合併が新しい町の構造の追認型であると整理されるが、
たとえば、与論島の場合を採ってみると、
新しい町の中心を沖永良部に見出せなかったのではなく、
与論島のアイデンティティ確認の機会として作用したように思う。

そしてそれとは全く別のところで、市民の交流は進んでいる。
だから、市町村合併問題を機に確認したアイデンティティを根拠に、
島が、行政区域を越えてネットワークを組むことが
課題であり可能性である。

目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)

第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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2007/07/01

奄美の多層圏域と離島政策

奄美の多層圏域と離島政策―島嶼圏市町村分析のフレームワークは、
その名の通り、奄美諸島を研究対象にしている。

そして、その名を見る通り、読みにくそうだ。
現に、わかりにくい。

 本書は、奄美群島を主要な対象として、公共部門の構造改革の進展ぶり、
 および自然地理面で強い制約を被る島内あるいは島嶼の経済社会を
 実証的に考察している。

と、冒頭から、ハードルが高い。

けれど、奄美を正面から扱っている研究書として貴重に違いない。

ひとつ、言葉を確認しておこう。

 島嶼

「とうしょ」と読む。島々、のことだ。

奄美の島々の特徴を分析して、
経済政策を立案するに当たって、
参考となる知見を提出することを
目指したのがこの本だと、受け取ってみる。

読みにくさはつきまとうものの、
この本の分析を追っていこう。

よりよい奄美にアプローチするひとつの道として。

Ritouseisaku_1













ちなみに、表紙の写真は、「民俗村」と「プリシア」で
どちらも与論島にあるものだ。

この本を通過することで、「民俗村」から「プリシア」まで、
言い換えれば、自然・文化から観光までの幅で見識を持てることを期待して。


目次

第1章 岐路に立つ奄美と新しい島嶼研究アプローチ
     (山田誠)
第2章 離島における市町村合併の政治力学
     (平井一臣)
第3章 奄美の市町村財政と地方交付税
     (朴源)
第4章 奄美振興開発事業と建設業
     (田島康弘)
第5章 奄美の農業と農業合併
     (北崎浩嗣)
第6章 奄美の物流と流通コスト
     (山本一哉)
第7章 市町村合併と群島内の経済モデル
     (荻野誠)
第8章 奄美の出産と育児に関する地域・家族研究)
     (片桐資津子)
第9章 持続的・自立的社会の創造に向けて
     (皆村武一)
第10章 奄美の地域振興と文化
     (山田誠)



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「めがね」のキャスト

映画「めがね」のキャストが公式サイトで紹介されています。

それぞれに著名な俳優、女優さんだと思うのですが、
失礼なことに、これを見てもどうしても
人物の後ろに目が行ってしまいます。

他でもない舞台としての与論島です。

明日7月2日には、舞台挨拶付きの完成披露試写会があるそうです。

刻一刻と近づいてきますね。
公開が楽しみです。



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