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2007/06/29

なんくるなく、ない 4

よしもとばななの『なんくるなく、ない』を読んで、
日本と沖縄の関係式が変わったのかもしれないと感じた。

 日本の消滅と彼岸の沖縄。

もし、この感じ方が妥当なら、
これは、近年の沖縄ブームを支えている心的根拠に違いない。

日本で失われたものを見つけるために、
もしくは回復するために、沖縄は要請されている、と。

 ○ ○ ○

このことを自分に引き寄せてみれば、
与論と東京の二重性の引き受け方のことになる。

東京では東京の人となり、
与論のことは封印する。

この二重性を保つことはぼくの宿命であり、
生きる技術だと思ってきた。

 <この執着はなぜ真昼間身すぎ世すぎをはなれないか?
  そしてすべての思想は夕刻とおくとおく飛翔してしまうのか?
  わたしは仕事をおえてかえり
  それからひとつの世界にはいるまでに
  日ごと千里も魂を遊行させなければならない>

         (吉本隆明「この執着はなぜ」)

ぼくはそれに慣れてきた。

慣れてきたといってもラクチンなわけではない。
先の詩が、「きみの嘆きはありふれたことだ」と続くように、
ぼくの悩みも、地方出身者にはありふれたことだとみなそうとしたりした。

それにしてはでも、東京と与論では、
あまりに振幅が大きい。

比喩として言えば、帰省するにしたって、新幹線に乗ってとか、
1時間ちょっと飛行機に乗ってとかいうのとは違う。
費用も海外旅行のほうが安いときている。
海外旅行より安いって、それは宇宙か?
と思うくらいだ。

いや、実際、宇宙にあると思ったほうが納得できる。

という具合いに、折り合いは決してついたことがない。

で、東京の人に流されることもあったし、
与論ひとつに絞りたい誘惑にかられることもある。
けれど、どちらも決してうまくいかない。

東京と与論の二重性は保たなければならないのだ。

 ○ ○ ○

でも、よしもとばななの旅日記を読み、
少し、違う思い方もあるかもしれないと感じた。

東京での与論封印に慣れているので、
ぼくはよしもとばななのように気づかなかったけれど、
実際に、心をなくし魂が抜ける状況に、
いまの東京がなっているのだとしたら、
ぼくはむしろ封印を解くべきなのかもしれない。

封印を解く、というのは、
身近なところに小さな与論を実現させるということだ。

与論に行くと味わえる人と人のつながり、あたたかさ。
それを、小さな宇宙のように持つことができたら、
よりよく生きられるかもしれない、と。

翻っていえば、与論島が失ってはならないものが
何なのかもよく見えてくる。

与論島を与論島であらしめよ。

それが大切だ。

それが、ぼくにとっての『なんくるなく、ない』の受け取りだ。


Nankurunakunai













    つづく


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コメント

 ユンぬは、いまも、昔も、・・・宇宙のはてかも?
つい最近まで、100年まえのことですが、
島を出るなどと、・・・怖かったのです
まず、フトゥバ(言葉)が分らないなどではなく
物理的に、珊瑚環礁の外に出れば、そこは地獄か
海の底か・・・黒潮の流れの極楽か

 島をシマンチュ(島人)は、島のことは忘れる
ことです
「郷に入れば、郷に従え」です
東京に出た人は、江戸っ子になりきって・・・
記憶喪失症になっても、いつかは、きっと
生まれ島を思い出すでしょう

投稿: サッちゃん | 2007/06/30 00:15

サッちゃんさん、コメントありがとうございます。

島を出ることの恐怖でときどき思うのは、
いったいどんな動機で、
ゆんぬにいるようになったのかということ。

ゆんぬに住むことを決めたのは、
どのような人々だったのかということです。

隣にヤンバル、隣にエラブと、
より頼もしそうな大地が控えているのに、
ゆんぬを選ぶのは。

ゆんぬのことを考えると、
そういうことにも突き当たりますね。

投稿: 喜山 | 2007/06/30 17:35

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