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2007/06/25

なんくるなく、ない 1

札幌の道中は、よしもとばななの『なんくるなく、ない』という旅日記に同行願った。

なんくるなく、ない―沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか

Nankurunakunai













ぼくはこの本を読んで、日本の消滅と彼岸の沖縄という言葉がやってきた。

 日本の消滅と彼岸の沖縄。

与論にしても奄美にしても同じだけれど、
これまで本土から沖縄のことが語られる場合、
沖縄(琉球弧)には、古い日本が残っている、
という言い方がよくされてきた。

手つかずの自然や純朴を生きている島人のあり方に、
昔の自分の田舎の記憶を呼び起こされて、懐かしさを感じるのだ。

しかし、『なんくるなく、ない』からやってくるのは、
沖縄に「古い日本」を見るのではなく、「本来の日本」を見る
眼差しなのだ。

たとえば、こう作家は書く。

 沖縄の景色は、なんと大和の本来の景色に似ていることだろう。
 小さい中にぎっしりと滋養にあふれた豊かな自然のあらゆる側面が
 つめこまれている。
 そこに人間は小さく間借りして、いっしょに生きている。

よしもとは、大和の「古い」景色と書くのではない。
大和の「本来」の景色と書くのだ。

「古い」というのには、
自分の田舎などにわずかでも残っている参照先があった。
人は、それを手がかりに、沖縄にそれが豊かにあることを見出す。

「本来」というのは、その参照先が無くなったことを指している。

「古い」日本は、沖縄にはいけば豊かに味わえる。
そういうのではない。それは、もう日本にはない。
「本来」という言葉は、
「古い」日本の消滅という場所から発せられているのだ。

 ○ ○ ○

しかも、よしもとばななは、「本来の景色」を、
「大和の本来の景色」と書いている。

よしもとは、「大和」という言葉を、
「沖縄」と対立するものとして捉えていない。

既成概念のなかにある「大和」として、
この言葉は使われていない。

既成の「大和」よりもっとのびのびしている。
それで、大和の彼岸として沖縄は掴まれているのだ。

ぼくは、ここで描かれている沖縄像は、
大和と対立のなかにある沖縄から離れて、
のびのびしている気がした。

大和との関係のなかでの沖縄のよさではなく、
普遍的な価値としての沖縄のよさ、とでも言うような。

それは何だろう。
そのことを見るために、翻って、
日本の消滅とは何か、見てみたい。


    つづく


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コメント

吉本隆明の娘さんでしたよね,ばななさん。
こういうの書かれるんですね。
知りませんでした。
僕も読んでみます。

僕は,夏石弓車『「裏」の沖縄 「表」の沖縄』という本を見つけて,
先日の『奄美の島々の楽しみ方』の延長で読んでみようかと思ったところなので,一緒に注文してみます。

内容に関係ないコメントで恐縮です。

投稿: NASHI | 2007/06/26 12:33

NASHIさん、コメントありがとうございます。

私事で東京とインターネット環境を離れていました。
お返事遅くなりごめんなさい。

『「裏」の沖縄 「表」の沖縄』は知りませんでした。
ぼくも読んでみます。ありがとうございます。

投稿: 喜山 | 2007/06/28 21:16

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