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2007/06/06

シヌグを内側から開く

『奄美諸島史の憂鬱』の高梨さんが、
「今年はシュク(アイゴ稚魚)が接岸しますように!」
と題して、とても大切な考察を紹介してくれている。

魚のスクが、祭りのシヌグの根拠であるという仮説を、
ぼくは谷川健一の『南島文学発生論』で初めて知った。

というより、谷川自身の仮説として、
『南島文学発生論』では提示されていた。

それが、高梨さんの
「今年はシュク(アイゴ稚魚)が接岸しますように!」
を読むと、徳之島の松山光秀さんが、
その根拠にになる事実を豊かに提出しているのを知った。

これは、ものすごく面白い。

 ○ ○ ○

ぼくは、スクのもとに、
祭儀としてのシヌグとウンジャミが同一化する像を
谷川健一から受け取った。

しかし、松山さんの考察を読むと、
より深くその像を受け取ることができる気がした。
高梨さんが引用してくれたその個所には、
ひと言もシヌグ、ウンジャミへの言及はないのに、である。

シヌグ、ウンジャミの存在を知る人が、
松山さんの考察を読めば、
ひとりでに、シヌグとウンジャミが同一の地点に像を結ぶ。
そのように、この考察は存在している。

ぼくには、スクを基点に、シヌグとウンジャミへの
民俗学の扉をその内側から開いているのは、
松山さんだと思えた。

 ○ ○ ○

稲作とスク漁のつながりに、松山さんはこんな風にアプローチする。

 ここでフウゴモイ(潮溜り-引用者注)の
 付近一帯の状況も説明しておきたい。
 すぐ隣にはネィラの神が祭りの浜にやってくるときの
 目印にしたというタンギヤ(立石)が聾え立っておりイマ、
 そのまた隣には祭りのときに神々に供えものをしたという岩陰があり、
 さらにその隣にはユウムチゴモイ
 (砂の入り具合によって次の年の豊凶を占うところ)があって、
 シマ一番の、水稲の収穫感謝を捧げる夏の折目の祭りの
 ときに心臓部を演じたところである。

 このような重要な祭祀場の一角に
 シュクの捕り始めの儀礼の行なわれるフウゴモイが
 セットされる形で設定されていたことに注目したい。
 水稲文化は人々の目に見えるシュクの寄りという
 自然現象の媒介によって、
 はるか彼方のネィラと結ばれていたと言えよう。

 人々の夢がふくらんでいったのも無理からぬことだと考えられる。

重要な場所について、いつでもありありと思い浮かべることができる。
そんな立ち位置からの語りがここにはある。
夢を膨らませたのは、もちろん松山さん本人でもある。
そんな共有をここに感じる。

 二度目のシュクの寄りをアキヌックヮという。
 日柄は六月二十八日。
 アキとは水稲の収穫のことであるから、
 ここでははっきりとアキの祝いのために
 寄って釆たことが読んでとれる。

 このときはめでたいアキを祝うためか、
 それはそれは大量の、シュクが、
 干瀬の海の入り江やイノナを目がけて押し寄せてきた。
 イノナは一面がピンク色に染まり、
 それが右へ左へと揺れ動いた。
 まことにすばらしい光景であった。

「水稲の収穫」のためにスクが、やってくる。
ここではスクは擬人化されているけれど、
重要なのは、スクの到来と稲の収穫の同期を契機に、
両者が連結されることだ。

 ○ ○ ○

谷川健一は、シヌグの語源について、次のように書いていた。

 シヌグという言葉は「しのくる」(踊る)という
 おもろ語と関係があるとされる。
 その踊りも「うちはれ」の祭りのように奔放な踊りであって、
 十八世紀前半の女流歌人恩納なべに
 シヌグ遊びの禁止されたことを
 恨む琉歌があることから分かるように、
 それは男女の性的昂奮を爆発させるものであった。
 シヌグ祭の放埓な踊りの背景には
 旧の六月二十八日から寄ってくるスクの大群があった。
 それを待望して喚起するのがシヌグであり、
 ウンジャミであったと私は考える。

ぼくは、シヌグとウンジャミが、
スクを基点に発祥する谷川の仮説を魅力的に感じた。

ただ、シヌグの語源については、
かすかに引用したくない気持ちを起こさせる違和を感じた。

それは、ここにいう男女の性的な祭りであるという解釈だった。
もちろん、祭りにはその性格があり、
わが与論島にも歌垣の祭りがあったのを知っている。
ただ、シヌグをそれにダイレクトに結びつけることに
違和感を覚えたのだ。

このことに関わることを、松山さんは、こう、書いている。

 人々の喜びが爆発するのは旧六月中旬のカノエの日柄に
 執り行なわれる稔りの稲穂の刈取り始めの儀礼、シキュマの日だ。
 ワクサイ(物忌み-引用者注)からの解放感も手伝って、
 人々の喜びは最高潮に達したという。

 この日の前夜、
 人々は集落内の祭りの広場で夜を徹して踊り狂った。
 このような喜びいっばいの旧六月二十八日、
 二度日のシュクの寄りアキヌックヮを迎えることになる。
 ネィラがことさらに身近に感じられたことであろう。
 厳粛な稲作儀礼とのタイアップにネィラは
 生活のすぐそばに実感されていたのである。

なんと説得的だろう。

物忌み明けに漁の祭りを行なう。
歓喜あふれて、「夜を徹して踊り狂った」。

それなら分かる、というものだ。

これこそは、島の民俗を内側から開くということだ。
ここには、すごくて、うらやましい眼差しがある。

奄美にはこういう人がいる。
なんて嬉しいことだろう。

 ○ ○ ○

ところで、谷川健一は、宮城島の老漁夫から聞いた話として、
三種類のスクを挙げている。

 1.テダハニスク 太陽・羽
 2.ウンジャミ  海神
 3.スク 

つまり、スクの種類のなかに、ウンジャミもあるのだ。
もちろん、ウンジャミ(海神)の言葉を、
ある種のスクに当てたということだろう。

それなら、シルシュクという呼称もあるというスクのなかに、
もうひとつの祭りの名称、
シヌグの由来を見ることもできるかもしれないと、思った。

スク=ウンジャミ、であるように、
スク=シヌグ、が成り立つかもしれない、
という仮説にも至らない、これはただのアイデアだけれど。

さて、改めて図にしておこう。

     スク(イューガマ-与論)
        /    \
    ウンジャミ    シヌグ
    (女性)     (男性)


最後に、こんな魅力的な考察を紹介してくれた高梨さんに、
深く、ふかく感謝したい。

   とおとぅがなし。



 

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コメント

なんか凄い展開になってしまって驚いています。
そうなんですか、そうなんですね~、という感じです。
 
松山光秀先生の研究成果には、凄い魅力を感じています。
それは、喜山さんのいわれる内側から民俗文化を解読していく作業、大和人の僕には絶対不可能な調査研究を行われているからです。
だから「内」の松山光秀×「外」の谷川健一の研究成果は、お互いに凄い影響を与えてきたのでしょうね。

フェリーで徳之島に行く時は、
港からそのまま松山先生のお宅にうかがい、
先生のお話をうかがいながら数時間を過ごすのが、
僕の勉強の時間であり、大きな楽しみのひとときでもあります。

投稿: NASHI | 2007/06/09 20:20

NASHIさん、コメントありがとうございます。

フェリーから師の話を聞きに行く。
うらやましい限りです。

NASHIさんの研究は、
内側の眼差しで奄美を紐解くものだと思っています。
だから、ありがたいです。

投稿: 喜山 | 2007/06/09 20:49

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