イューガマの謎 4
問い方を変えてみる。
スクのことをイューガマと呼ぶのは、どんな人だろう?
スクのことを「お魚ちゃん」と呼ぶのは。
まず、イューガマと、
小さいものを呼ぶときにつける接尾辞「がま」を付けるのは、
スクに対する愛情だ。
ここからは、スクの群れやスク自体への
優しい眼差しが伝わってくる。
では、「イューガマ」と呼ぶときに、
もっとも問わなくてはならない「イュー」(魚)はどうだろう。
ある魚を見て、名づけられた名前ではなく、
「魚」と呼んでしまうのはどういうことだろう。
繰り返せば、それはスクに対して名づけ忘れたからでも、
固有名にする対象では無かったからでもない。
与論島にとっても礁湖での漁労は、生活の営みそのものであり、
あまたいる魚たちには固有の名がついているからである。
まして、スクは、スクを獲る他の琉球弧の島々と同様、
決まった日に礁湖にやってくる不思議な、
しかし海の恵みとして、歓迎された存在に違いないのである。
それなのに、スクと呼ばずに、イューガマと呼んでしまうのである。
○ ○ ○
こうみなすと、イューガマと呼ぶ人のことを問いたくなってくる。
たとえば、スクをイューガマと言っている人に、
「ウロータルガ」(お前は誰だ)と問えば、どう答えるだろうか。
ぼくは、「ワナ、ミンギヌ」と答えるような気がする。
「ワナ、ミンギヌ」、「わたしは、人だ」という回答である。
スクをイューガマというのは、
それを言う人も、固有名を抜き取った、
ただの人として言っているのではないだろうか。
もちろん彼には名前もあり、それを忘れているということではない。
ただ、どうでもよい存在としてスクを見ているわけでもないのに、
スクをイューガマと呼ぶのは、
そう呼ぶ者も、イューに対応して、
人間(ミンギヌ)として立っているのではないだろうか。
お前は魚ちゃんか。俺は人だよ。
そういう対話が、スクとユンヌンチュ(与論人)の間で交わされている。
そういう気がする。
スクをイュー(魚)と呼ぶには、
言う者の自己意識もミンギヌ(人間)に解消されているのだ。
ここには、自己主張を止めてしまったというより、
自己主張をどこかに置き忘れてきたかのような
島人のあり方が垣間見える気がする。
もしかしたら、すべてがリーフの外の洋上を過ぎてゆくような
歴史的出来事との関わり方のなかに醸成される、
取るに足らない存在という自己意識を
覗くこともできるかもしれない。
スクをイューガマと呼ぶことのなかには、
自己溶解した、ただの人として、
愛らしい魚に向き合う島人の優しい視線があるのだ。
そう考えると、スクをイューガマと言い換えるのは、
いかにもユンヌンチュらしい。
そう、感じられてくる。
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コメント
おはようございます。
イューガナの謎4はらしさがでて、
楽しいでした。
私もイューガマと呼んでいました。
スクよりもシュクとの語感がいいように思います。
東区あたりの漁師はどんな呼び方するのでしょうか?
イューガマの大きめのものをウプンキショーと呼んでいますが、
意味は?
シニグにまつわるイューガマについても聞き取りをする必要があるみたいですね。
又続きを読ませてください。
投稿: awamorikubo | 2007/06/18 05:11
awamorikuboさん、コメントありがとうございます。
「スクよりもシュク」。本当、そうですね。
「ウプンキショー」というのですか。
ありがとうございます、勉強になります。
シニグにまつわるイューガマ。
与論ではどう受け止められているか、ぜひ知りたいです。
投稿: 喜山 | 2007/06/18 08:41