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2007/06/30

ちょっとだけ奄美

実は、よしもとばななの『なんくるなく、ない』の書名は、
サブタイトルがついていて、
「沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか」と続く。

 沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか

この、ちょっとだけ奄美の個所は、
がっかり、から、なるほど、へと印象が変わる。

まず、コピー自体にがっかりくる。
「ちょっとだけ奄美」。
これは、山下欣一の指摘した「付録としての奄美」そのまんまじゃないか。
その表現が、あまりにあまみで、
よしもとにあってもそうかと、がっかりしてしまう。

次に、奄美についての旅日記「奄美、鶏飯の日々」のはじまりにがっかりくる。

 奄美・・・知っているのはアマミノクロウサギと朝崎郁恵さん
 (ハブ屋にまでサインがあった・・・島中が彼女のサインでいっぱいだ!)
 と元ちとせさんくらいの奄美。
 ああ! 大切なことを忘れていました。
 この夏「死の棘」を読み返したのに。
 そう、島尾先生がトップにくるのでした。
 うちのお父さんと島尾さんはお友達だったので、
 よく家にいらしてましたっけ。
 懐かしい気持ちだ。

そんなに奄美を知らないのか、と。
そしてこのくだりが続くにあたって、がっかりは、最大幅に振れる。

 奄美に着いてまず驚いたことは、
 沖縄よりもずっと鹿児島みたいだったこと・・・。
 あたりまえなんだけど。

それを言うな、と思わず思う。

最初に、島尾ミホの話題が出るが、奄美の旅日記自体も、
島尾ミホ、田中一村、喫茶店、宿泊施設と点景が綴られていくような感じだ。
沖縄を書くのとは明らかに何かが足りない。

それは、地霊的なオーラを、よしもとが奄美では感じていなくて、
魔法が解けたように、しらふで書いているところから
やってくるように思う。

これはもっとも考えさせられる、がっかりだ。

 ○ ○ ○

でも、気を取り直して再度、読んでみる。
すると、第一印象が、自分の既成概念、偏見に
引っ張られているのに気づくのだった。

 奄美に着いてまず驚いたことは、
 沖縄よりもずっと鹿児島みたいだったこと・・・。
 あたりまえなんだけど。

ぼくはこの個所に、もっともがっかりしたわけだけれど、
このくだりは、次のように続く。

 緑がこんもりしていて、そてつがいっぱいあって、
 海がゆったりと広がっていて。

これを素直に読む限り、よしもとが「沖縄よりもずっと鹿児島みたい」
と言っているのは、緑、そてつ、海のありようのことだ。

つまり、自然の実態を指している。

作家の感性は、南から北へと移動する中で、
本土との連続性のなかに、奄美の自然を位置づけたのだ。

そんな素直さは、次のくだりにも現れていると思う。

 奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので、
 なんとなくこの本に入れた。
 (中略)
 ソテツが大きくて、全体に少しさびれていた愛すべき奄美大島よ。

「奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので」。
「奄美は沖縄ではない」ということを、
奄美は沖縄県ではない、という行政区分の意味で言っているだろうか?

ぼくには、単純に、沖縄県ではないという意味もあれば、
島から感受される空気の意味でもある気分の幅で書いている気がした。

面白いのは、

 奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので

と、「奄美は沖縄ではない」が、を、でも、「南の島なので」と受けることだ。

思想的な視点が入って、ぼくなどが書けば、

 奄美は沖縄ではないが、琉球弧なので、

と、書いてしまうところだろう。

「琉球弧」ではなく、「南の島」。
ここでは、思想的な意味は脱色される代わりに、
肩に力の入らない、自然で素直なくくりが見えてくる。

そう、南の島として、奄美と沖縄は同位相なのだ。

この意味では、「ちょっとだけ奄美」という括弧書きのなかの言葉も、
奄美の存在を無視しなかった、よしもとの誠実さに見えてくる。

 奄美は沖縄ではないが、とにかく南の島なので、
 なんとなくこの本に入れた。
 (中略)
 ソテツが大きくて、全体に少しさびれていた愛すべき奄美大島よ。

この文章は、次のように続く。

 ある日ドライブして行った国直海岸で「喫茶・工房てるぼーず」
 のかき氷を食べて、そこ出身の奥さんに集落の福木の道を
 案内していただき、私はその思い出を「海のふた」という小説に書いた。
 睦稔さんがそこにすばらしい絵をつけてくれた。
 自分が産まれたところを愛する気持ち・・・・
 それがいかに気高いものなんか、
 私は彼から学んだのだと思う。

奄美からは地霊的なオーラを感じていないと、
ぼくは書いたけれど、「気高さ」として生きているようにも見える。

ぼくは、それが奄美から途絶えているというのではなく、
「少しさびれていた」とあるように、
奄美が自分をネガとして表現していることの現れであると、
課題として受け取ろうと思った。

 ○ ○ ○

 ただ、沖縄への(ちょっとだけ奄美への)、
 どうしようもない片想いを描いたラブレターとしては、
 読めるかもしれないと思います。

よしもとばななは、旅日記の締めくくりには、
作品が読者向きではなく、
旅の同行の士向きであることの反省の弁として、
こう書くのだけれど、
ぼくには、それが返って、奄美・沖縄が、
よしもとをほぐしていく過程が素直に現していて好もしく感じた。


愛すべき奄美よ。
奄美の新しい表情は、
奄美の人々による奄美の捉え方にかかっていると、
ぼくはこの本を受け止める。


Nankurunakunai

















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2007/06/29

なんくるなく、ない 4

よしもとばななの『なんくるなく、ない』を読んで、
日本と沖縄の関係式が変わったのかもしれないと感じた。

 日本の消滅と彼岸の沖縄。

もし、この感じ方が妥当なら、
これは、近年の沖縄ブームを支えている心的根拠に違いない。

日本で失われたものを見つけるために、
もしくは回復するために、沖縄は要請されている、と。

 ○ ○ ○

このことを自分に引き寄せてみれば、
与論と東京の二重性の引き受け方のことになる。

東京では東京の人となり、
与論のことは封印する。

この二重性を保つことはぼくの宿命であり、
生きる技術だと思ってきた。

 <この執着はなぜ真昼間身すぎ世すぎをはなれないか?
  そしてすべての思想は夕刻とおくとおく飛翔してしまうのか?
  わたしは仕事をおえてかえり
  それからひとつの世界にはいるまでに
  日ごと千里も魂を遊行させなければならない>

         (吉本隆明「この執着はなぜ」)

ぼくはそれに慣れてきた。

慣れてきたといってもラクチンなわけではない。
先の詩が、「きみの嘆きはありふれたことだ」と続くように、
ぼくの悩みも、地方出身者にはありふれたことだとみなそうとしたりした。

それにしてはでも、東京と与論では、
あまりに振幅が大きい。

比喩として言えば、帰省するにしたって、新幹線に乗ってとか、
1時間ちょっと飛行機に乗ってとかいうのとは違う。
費用も海外旅行のほうが安いときている。
海外旅行より安いって、それは宇宙か?
と思うくらいだ。

いや、実際、宇宙にあると思ったほうが納得できる。

という具合いに、折り合いは決してついたことがない。

で、東京の人に流されることもあったし、
与論ひとつに絞りたい誘惑にかられることもある。
けれど、どちらも決してうまくいかない。

東京と与論の二重性は保たなければならないのだ。

 ○ ○ ○

でも、よしもとばななの旅日記を読み、
少し、違う思い方もあるかもしれないと感じた。

東京での与論封印に慣れているので、
ぼくはよしもとばななのように気づかなかったけれど、
実際に、心をなくし魂が抜ける状況に、
いまの東京がなっているのだとしたら、
ぼくはむしろ封印を解くべきなのかもしれない。

封印を解く、というのは、
身近なところに小さな与論を実現させるということだ。

与論に行くと味わえる人と人のつながり、あたたかさ。
それを、小さな宇宙のように持つことができたら、
よりよく生きられるかもしれない、と。

翻っていえば、与論島が失ってはならないものが
何なのかもよく見えてくる。

与論島を与論島であらしめよ。

それが大切だ。

それが、ぼくにとっての『なんくるなく、ない』の受け取りだ。


Nankurunakunai













    つづく


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2007/06/28

やっとぅかっとぅ

この日曜に、父が他界した。突然の旅立ちだった。

囲碁狂の父が、囲碁を楽しむその最中に、
隣の人にもたれかかるように倒れ、
そのまま消え入るように去ってしまった。

新聞広告には「急逝」という言葉を提案されたけれど、
「永眠」にしてもらった。

闘病生活があったわけではないから「急逝」には違いないのだけれど、
ぼくにはどこか、寿命を全うしたと言ってもよいような気がした。

七十三歳という年齢は、寿命というには早すぎるかもしれない。
けれど、父はどこかはかなさを漂わせていて、
ぼくは小さい頃から、いたわるべき人という想いがあった。
ぼくはいわゆる反抗期にも父に口答えしたことがない。
そういう気持ちになったことがない。
そうするのは、父には酷いことをするように感じていたのだと思う。

もちろん、ぼくが反抗期不要のできた人であったわけでない。
教師への反抗は激しく、いまでも折り合いがついていないほどだ。
おまけに毒舌が得意ときている。

反抗しなかったのは、ひとえに、父の人柄のなせる業だ。

父は身を削るように、子どもたちを育て、
退職後を楽しみ、命、尽きた。

どの親にしても子育ては身を削るようにあるには違いないけれど、
もてる生命力からすれば、父は人一倍だったと思う。

やっとぅかっとぅ。
これは、父の口癖、というより、決め台詞だった。
「やっとかっと」の与論方言で、
「やっとかっと」を三母音言語世界に引き込んだ発音だ。

父が挨拶するとき、

 How are you? I'm fine.

の定型は成り立たず、
「元気?」と聞かれれば、「やっとかっと」と答えるのだった。

お袋は、「そんな言い方しないで」とよく言っていたが、
親父にすれば、率直なぎりぎりの言葉だったと思う。


ぼくは実のところ、まだ実感できていないのだけれど、
父の他界は、無条件の理解者の喪失なのだと思う。


 父よ、安らかにあれ。



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2007/06/27

なんくるなく、ない 3

よしもとばななは『なんくるなく、ない』の「最後に」でこう書いている。

 もしかして、もう自分がババ~でおかしいの?
 時代遅れなの?
 今はもう女はがりがりの骨みたいに痩せてなくちゃいけないし、
 レアなものを買おうとしたら店の人に頭を下げなくちゃいけないし、
 妊娠出産なんてもっての他、
 社会のすみっこでこそこそやらなくちゃいけないことで、
 それでも女は早く結婚しないと負けで、
 うるさい子供は社会に迷惑なじゃまもので、
 子連れでお店に行って外食しようなんて百年早くて、
 お金が神様で、大した預金がなかったら
 銀行に冷たくされても当然なの?
 いい車に乗ってなければメンテナンスも受けられないの?
 運が悪かったら、
 弱者だったら殺されたり犯されても文句言えないの?

 などと思ってしまいそうになる(もちろんいい人もまともな人も
 通じ合える人もたくさん、たくさんいるけれど)のだが、
 沖縄に行くと、

 「ああ、よかった。自分がまともだった。
 人は自然が好きで、おいしいものが大好き。
 戦争はしたくないし、
 巻き込まれるのはどうせ市民だから反対していたい。
 平和は尊く、若者は思い切り働きたいし、
 それで稼いだお金で安くても楽しく遊びたい。
 いい友達がほしいし、
 男も女も強く優しく生きたい。
 そしてできれば生涯をなるべく楽しく暮らし、
 楽でなくてもいいから人のためになって充実したいし、
 家族にも周囲にも受け入れられたい、
 愛されたい生き物なんだ」と思える。

 沖縄が日本なんだ・・・小林よしのり先生もそうおっしゃっていたが、
 私も心からそう思う、そうでなくてはいけないと思う。

『なんくるなく、ない』は、2004年の小説作品『なんくるない』の、
取材の旅だったと思えるが、
それは1999年に始まっている。

1999年に、沖縄にはじめましてをして、
それから2005年まで、足かけ7年の、
沖縄との交流が描かれている。

この間、よしもとばななは、沖縄が好きになり惹き込まれていくのだけれど、
逆に、嫌いになっていくものが併走している。

それは、日本だ。

沖縄が好きになったから日本を嫌いになったわけではない。
やしもとばななは、みてきたように、
「大和vs沖縄」の構図からは自由な場所で声を発している。

ぼくは、この期間こそが何かを物語っていると思う。
ちょうど、1999年から2005年まで。
よしもとも引用している素材を使えば、
ノストラダムスの予言から21世紀にかけて。

ぼくたちは確かに、日本の消滅、魂の抜けを経験したのかもしれなかった。
そして、それを今も生きているのかもしれない。

よしもとはそうであればこそ、
その日本を東京でひしひしと感じればこそ、
沖縄に「本来」という言葉を当てたのだった。


Nankurunakunai













たとえば、ぼくも沖縄の人を見て、よしもとがこう書くとのを読むとはっとする。

 ものを作るということは、結果の見た目だけじゃないし、
 味は、素材を取り寄せることだけじゃない。
 本物はいつも全然深刻ではなし、いばったりしない。
 いかにもそっとしておいてほしそうにもくもくと毎日のことをする人たち。
 そういうのが文化とか誇りだとかいうことだとしたら、
 そういうのをひっくるめた人生だとしたら、
 私はいつかおばあさんになった時に
 誇りが顔に出ているような人になれるだろうか?
 なるようにしたい。

自分がこれまで、どれだけ、誇りを言えるものを作ってこれたか。
そう思えば、まだ、何もしていないという思いもよぎる。

 ○ ○ ○

そんな内省を呼び起こされながら、
与論島にとってもヒントだなと思う言葉にも出会う。

 波照間は観光客はいるのだが、観光地ではない。
 そのことを何回も思った。
 住んでいる人たちの生活の営みに、
 ちょっとだけおじゃまする、そういう場所だった。
 
観光客はいるが観光地ではない。
波照間島を観光地にしていないのは、
観光の生活化である。

生活の圏外に観光を出さない、ということだ。

与論島もかつはそうだった。
民宿のよさとはそういうものだったに違いない。

ぼくは、与論島もすべて民宿になればよいと言うのではない。
民宿にあったよさは大切だと思うということだ。

特に、魂の抜け殻として、もし人があるなら、
魂の抜け殻を生きることを強いられているなら、
その魂を呼び戻す力を、
与論島もまた提供できるだろうからである。

また、違う風にも受け取れる。

自分に何ができるのか。

そう考えると、身近なところからはじめるしかない。
身近なところから、小さく実現していけばいい。

そう、かもしれない、と。

身近なところに、「沖縄」を実現していけばいい。
それが自分のできることだ、と。


    つづく


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2007/06/26

なんくるなく、ない 2

2004年発行の、よしもとばななの『なんくるなく、ない』という旅日記から、
日本の消滅と彼岸の沖縄ということを、ぼくは感じた。

何が、消滅したのだろう。

Nankurunakunai













波照間島の砂糖きびを見て、よしもとばななは書いている。

 この島の人たちの作る砂糖きびはとても評判がよくて、
 自然食の店などが直接取り引きしたいと言ってくるが、
 みんな数を決めてきびしくやるのはいやだから、
 できた分だけ買ってほしい、と言うそうだ。
 そのかわり、売り物には愛情をもって心をこめる。

 失われた日本人の心を感じて「そうだそうだ」と思う。
 その、自分と製品を大切にして愛を注ぐもともとの気持ちが
 もうちょっとでも残っていたら、
 きっと日本は今みたいにお金が神様になってしまって
 道に迷うこともなかったのに・・・。

失われたのは「心」だろうか。
よしもとは「心をなくす」ことを「お金が神様」と表現している。
ここで、沖縄を指す「本来」は、
「お金が神様ではない」ことを知っている意味を帯びる。

お金が神様。言葉自体は、守銭奴、拝金主義などのように、
以前からあったものだ。

ただ、よしもとが指す「お金が神様」は身も蓋もない、
もうただそれだけしかない「お金が神様」を指しているようにみえる。

つくるモノが売れることは誰もが願っている。
で、つくるモノが売れることばかり考えていると、
守銭奴、拝金主義なんていう揶揄を受けてきた。

でも、いまはそれがもっと徹底して、
つくるモノへの愛情が枯渇して消滅した。
それが、「お金が神様」の意味になっていると思う。

コンビニエンスストアが象徴しちるように、
新製品にあらずば製品にあらず、という商品の状況では、
消費者は商品に愛着をもてなくなる。

それは作り手も同じことで、
矢継ぎ早に新製品を出さなければならない状況では、
愛情をこめた製品づくりはできなくなる。

早死にするのが分かっているのに、
愛情をこめていたら、やりきれなくなるからだ。

 ○ ○ ○

よしもとは、もっと突っ込んだことも書いている。

 大学時代を東京で過ごした学さんがなにげなく
 「大和にはまぶいの抜けたままの人がいっぱいいて驚いた」と言った。
 その表現は私の心をノックアウトした。
 その後彼に風邪をうつされて二週間苦しんだことも
 帳消しになるほどの感動だった。

 そうか、この表現がまさに私の求めていた感覚だ、
 と思い、はっとした。

 私がお台場で、渋谷で、新宿で、電車の中で感じ、
 お店の店員さんにもよく感じるあの感じ、
 人間と向き合っているのに、
 誰もいないような感じは、
 大勢の人がいるのに、
 みんな薄く見える感じは、
 それなんだ、と思った。

心をなくしただけではない。
魂が抜けているのだ、と。

東京の街中で感じることと、少し似ている。
東京はおしゃれさんが多い。
おしゃれさんの意味は、
東京の都市空間にあわせたファッションに心を配っているということだ。
それだから、無機的な印象を与える。

それは悪いことではなく、
都市のファッションは大なり小なり、
無機化することで、都市空間に溶け込み、
調和することだから、
それが美的に感じられるのである。

ただ、このことろは、
無機的ではなく、無機物を感じる。
人が無機的を装って歩いている、のではなく、
無機物が歩いている、そういう感じなのだ。

それを「魂」が抜けているからといえば、
たしかにそうなのかもしれない。
そう思うリアリティがある。

日本の消滅とは、この魂の抜けのことだ。


   つづく



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2007/06/25

なんくるなく、ない 1

札幌の道中は、よしもとばななの『なんくるなく、ない』という旅日記に同行願った。

なんくるなく、ない―沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか

Nankurunakunai













ぼくはこの本を読んで、日本の消滅と彼岸の沖縄という言葉がやってきた。

 日本の消滅と彼岸の沖縄。

与論にしても奄美にしても同じだけれど、
これまで本土から沖縄のことが語られる場合、
沖縄(琉球弧)には、古い日本が残っている、
という言い方がよくされてきた。

手つかずの自然や純朴を生きている島人のあり方に、
昔の自分の田舎の記憶を呼び起こされて、懐かしさを感じるのだ。

しかし、『なんくるなく、ない』からやってくるのは、
沖縄に「古い日本」を見るのではなく、「本来の日本」を見る
眼差しなのだ。

たとえば、こう作家は書く。

 沖縄の景色は、なんと大和の本来の景色に似ていることだろう。
 小さい中にぎっしりと滋養にあふれた豊かな自然のあらゆる側面が
 つめこまれている。
 そこに人間は小さく間借りして、いっしょに生きている。

よしもとは、大和の「古い」景色と書くのではない。
大和の「本来」の景色と書くのだ。

「古い」というのには、
自分の田舎などにわずかでも残っている参照先があった。
人は、それを手がかりに、沖縄にそれが豊かにあることを見出す。

「本来」というのは、その参照先が無くなったことを指している。

「古い」日本は、沖縄にはいけば豊かに味わえる。
そういうのではない。それは、もう日本にはない。
「本来」という言葉は、
「古い」日本の消滅という場所から発せられているのだ。

 ○ ○ ○

しかも、よしもとばななは、「本来の景色」を、
「大和の本来の景色」と書いている。

よしもとは、「大和」という言葉を、
「沖縄」と対立するものとして捉えていない。

既成概念のなかにある「大和」として、
この言葉は使われていない。

既成の「大和」よりもっとのびのびしている。
それで、大和の彼岸として沖縄は掴まれているのだ。

ぼくは、ここで描かれている沖縄像は、
大和と対立のなかにある沖縄から離れて、
のびのびしている気がした。

大和との関係のなかでの沖縄のよさではなく、
普遍的な価値としての沖縄のよさ、とでも言うような。

それは何だろう。
そのことを見るために、翻って、
日本の消滅とは何か、見てみたい。


    つづく


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2007/06/23

アイヌ文化交流センターへ

札幌へ、出張で行ってきた。
10年ぶり、そして前と同じく仕事で。

今回、オフは迷わず、アイヌ文化交流センターへ足を延ばした。
札幌からバスで40分、緑多い山あいにそれはひっそりとたたずんでいた。

Ainu1

Ainu2














5年前にできたという展示室はとてもきれいだった。

Ainu3













でも、単にきれいというだけではない。
展示してあるアイヌの生活道具は自由に触ることができた。
聞けば、アイヌの人たちが複製を作ったので、
それができるのだという。

でも、その説明を聞く前に、ぼくは触っていた。
樹皮でできている布も、木彫りの皿も。
展示には、「どうぞ触れてください」という説明なしに、
観るものに、それを促していたのだった。

それは展示室全体に流れる空気のなせるわざだろう。
アイヌの文化を知ってほしい。そういう想い伝わってきた。

ぼくは思わず、与論のサザンクロスセンター、
がんばれとつぶやかずにいられなった。

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ぼくはなかでも、ニマと呼ばれる木彫りの鉢が好きだ。
作ってみたくなるし、ここにサラダやチャンプルーを入れて食べたいと思った。

宇和寺の家でバーベキューをするときは、
石垣に放ってある貝の殻を洗って、
そこに肉や野菜を盛って食べるのが格別だった。
それを思い出した。

センターの愛称は、ピリカコタン、美しい村という意味だ。
でもたとえば、パピプペポのような半濁音符「°」が、
「ト」にも付けられているのをみかける。

センターの方に伺うと、
それは、「トゥ」と発音するのだそうだ。
なるほど、そうだったのか。

それから声に出して読みながら展示物を眺めてみた。

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Ainu6












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Ainu8






















セチ(家)では、囲炉裏のある家屋に、
ほんとうにおばさんが店構えしていらしてびっくりした。
樹皮で作った一輪挿しを買った。
ふくろうと鹿の角は、
ふくろうが福を呼び、鹿の角が魔よけと教えてもらったので、
ふくろうのキーホルダーにした。

札幌の山あいでも気温は25度くらいあるというのに、
途中で別のおばさんが入ってきて、
「当たらせて」といって、囲炉裏の火に手を差し伸べるのだった。

あれは何でだったのだろう。
しばれる気候でもないというのに。
ああ。こんなに気になるのなら聞けばよかった。

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Ainu11












Ainu12























緑は雄大で空気も美味しかった。
何か、とても魂の落ち着く気分を味わいながら、ふたたび札幌中心部へ。
空港に行く前に、「ピリカ民芸品店」へ行きたかった。

南三条の狸小路にあると聞いていた。
まあそう言っても、ぼくの天性の方向音痴ではたどり着くのはおぼつかない。
今回はタイムアウトでもやむなしと思いながら、走った。
走ったせいか、中島みゆきの「南三条」を思い出した。

 ♪ 南三条泣きながら走った
   胸の中のあの雨はやまない
   南三条よみがえる夏の日
   あの街並はあとかたもないのに


でも、ありがたいことに店はあった。

Ainu13






















お店のおばさんは、ぼくを見るなり、
これは何?と聞いてきた。

アイヌ文化交流センターの帰り、
ぼくはバッグも何も持ってなかったので、
手持ちのものを少なくしようと、
一輪挿しをベルトにはさんで腰につけた。
まるで、「お腰につけたきびだんご」だった。

いやこれは、と説明すると、
「いくらだったの?」と聞くので、
正直に「千円」と答えると、
「安すぎないー?」とびっくりしていた
「ええ、ぼくもそう思います」

「このシャツの柄は何?」
「これは、ええと、アフガニスタンの織物のデザインだそうです」
「へぇ」

「あんたところで、アイヌとどこかで血がつながってんじゃないの」
「ええ、ぼくもそんな気がするんです」

と、話しながら、アイヌ文様のバッグとお土産を買った。

シャツはアフガニスタン、腰に一輪挿し、バッグはアイヌ文様で、
あっという間に、雰囲気ができあがってしまった。

Ainu15











「また来ます」
「そのバッグしてきてね」

その声を背中に、空港へ急ぎ、
札幌の旅は早くも終わろうとしていた。

おばさんは、お土産を一個、プラスでプレゼントしてくれた。
ありがとうございます。
前回が10年前なので、次は何年後に行けるか分からないけれど、
きっと、このバッグを持って行きますと思った。

行きたい場所に行けたので、とても充実した気分だ。
身体の奥深くに、浅からぬ縁と思っている
アイヌのことがらに触れることができたから。




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キューとシュー

『ドルチェ - 優しく』には、島尾ミホの作品、
「柴挿祭り」が収められている。

ぼくは先日、方言を引用したのだけれど、
本当はそこには標準語も添えられている。

 キューヌホコラシャヤ
 イツムユリ マサリ
 イツム キューヌゴトニ
 アラチタボレ

 今日のうれしさは
 いつもより 優っている
 いつも 今日の如くに
 在らせてください

たとえば島尾ミホの奄美大島の方言は、
ぼくは標準語がなくても意味はわかる。
与論の島人はそうだと思う。

わかるという感じは、
同じ琉球方言だから、まったく同じでなくても
与論方言を頼りに理解できるということだ。

そして、同じ琉球方言だけれど、
与論方言とは違うという面については、
ある印象がやってくる。

それは、与論方言に比べて標準語に近いという感じだ。

 ○ ○ ○

この違いの感じは、
与論方言に比べて、奄美大島の方言が
より五母音化されていることからやってくる。

そして、それだけではなく、もうひとつ理由がある。

ちなみに、上の詩を与論方言にしてみる。

 シューヌイショーシャヤ
 イッチエークマン マサティ
 イチン シューヌグトゥ
 アラチタバーリ

実のところ、ぼくの貧弱な語彙では、
「優っている」の個所はわからない。

「マサティ」では、
「美味しい」系の意味になるのではなるのかもしれない。

ここは教えていただくとして、
後の個所について比べてみる。

まずぼくには、奄美大島の「ホコラシャ(嬉しさ)」が、
標準語の「誇らしい」からきた言葉なのかと想像するが、
これは与論方言にはない(と思う)。

次に、末尾の文、「アラチタボレ」は、
与論方言では、「アラチタバーリ」になる。

「ボ」は「バ」であり、「レ」は「リ」である。
五母音(aiueo)が三母音(aiuiu)になる法則からいえば、
「ボ」は「ブ」になるはずだが、
「バ」になるのは訛りの範囲なのだろう。

「レ」が「リ」になるのは、
五母音-三母音の対応にぴったり合っている。

与論の「グトゥ」が、「ゴトニ」となるのも、
五母音化と標準語化として理解できる。

 ○ ○ ○

標準語に近いと感じるもうひとつの理由は、
「今日」の「キュー」が、与論では「シュー」という点にある。

ここで、もっと厳密に、三母音と五(八)母音のl対応を見てみる。

吉本隆明が、加治工眞市に依拠しながら提示したものだ。
カ行について、挙げる。

   甲乙      甲乙 甲乙
 カ キキ    ク ケケ ココ   【五母音(八母音)】

   ti     ku su,ki (ku)ku
 カ チキ    ク スキ クク   【三母音】
 ga ti n,si giz gu gi gu
 ガ チ   ギ  グ ギ グ

これでみると、現代日本語である標準語の「キ」は、
三母音の世界では、「キ」の他に、「チ」、「ギ」、そして、
カタカナで表記されていないが、「シ」の音をとりうることがわかる。

ぼくは、奄美でいう「キョラ」(清ら)が、
与論では「チュラ」と、「キ」が「チ」になるのを思い出す。

そして、この詩でいえば、
「今日」の「キュー」が、与論では「シュー」と言うのも、
この対応に合っているのが分かるのである。

もうひとつ、標準語に近いと感じるのは、
この「キュー」と「シュー」のことだった。

カ行は、めりはりの利いた、
口を大きく開けて出す音である。

三母音の世界ではカ行音はあまり登場しない。
めりはりを出しにくいから、濁音や摩擦音として表音している。
そう理解することができると思う。

与論方言からすれば、奄美大島の方言はハイカラに見える。
そういう言い方もできるかもしれない。

この言語の比較からも、
与論島に比べて、奄美大島は
南下する大和の文化と多く交流を持ったことが分かるのだ。

これは逆に言ってもいい。
大和の文化との交流にもかかわらず、
奄美大島は、依然として、与論方言との親近性の高い、
琉球方言を保っている、と。

キューとシューは、三母音の世界にある言葉だが、
キューはより五母音の世界になりつつある言葉とみなせる。
いわば、キューとシューは、奄美の幅である。




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2007/06/22

沖縄のブログ発信力

一昨日と同じ指標を使って、
こんどは、沖縄の「ブログ発信力」を見てみたい。

好みもあるけど、いくつか島をピックアップしてみる。

 宮古島   2.2
 石垣島   3.5
 与那国島  7.8
 波照間島 15.3
 竹富島  62.6
 久高島  13.8

  ※(ブログ発信力)=(ブログ記事数)/(人口)

加計呂麻島(6.4)を除いて、
0~2の範囲に収まっていた奄美各島とは違い、
強い発信力だ。

波照間島、竹富島、久高島に至っては桁違いだ。

ここには、観光地としての沖縄ブームが背景にある。
つまり、島外からの発信も多いということだ。
この意味では、発信力とは、言ってもらう力である。
言ってもらう力とは、他でもないクチコミだ。

ぼくは、奄美も沖縄のような観光地になればいいと
手離しに思うわけではない。

ただ、この指標は、島の元気を代弁している面がある。
それからすれば、奄美も「言ってもらう力」をもっと養いたい。

それには、言ってもらう資産を厚くすること。
それこそ、いいとこ探し、価値発見の作業が力になる。

 ○ ○ ○

ちなみに、「沖縄」と「奄美」で見てみる。

 沖縄 3.4
 奄美 1.2

「沖縄」は「奄美」の約3倍の発信力を持つ。
3倍というのは現実的な差だ。

がんばり甲斐があるではないか。

やることは多い、ではなく、
やれることは多い、のだ。


 

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2007/06/21

ホワイトシンドローム

石西礁湖の珊瑚の子どもが急減し、
親は毎年10%ずつ減っている。

白化現象にとどまらず、
ホワイトシンドロームという謎の病気も発生している。

白化現象を調査している野島哲准教授によれば、
度重なる白化で珊瑚が弱っていることが、
関係しているのではないかという。

ホワイトシンドロームは、
完全に白化する前に死んでしまう病気だ。

沖縄は海の開発を続けている。
病として映し出される海中の映像が、
与論で見るそれとそっくりで、つらかった。

珊瑚を殺してはいけない。
再生への道をつくらなければならない。
人の責任として。
と、思う。

TBSのニュース23の特集で観たものだ。


追記
6月の1日に石西礁湖を埋めたピンクの珊瑚卵ベルトの映像がニュースになった。
あれは、珊瑚が危機感からやったことではないかと、
特集はコメントしていたけれど、ぼくもそうに違いないと思う。

竜宮城をもう一度、だ。



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もっと想いを-「ヨロン島サンゴ礁基金」に寄せて

与論町のホームページで、
「ヨロン島サンゴ礁基金」の案内が載っている。

6月20日付けの「与論町ヨロン島サンゴ礁条例」
に基づくものだという。

「サンゴ礁基金」とあるが、目的は珊瑚礁に限ったものではない。

 1)サンゴ礁と共生する環境の保全に関する事業
 2)ヨロンマラソン大会の運営に関する事業
 3)与論十五夜踊りの保存に関する事業
 4)離島の振興に関する事業

この4つの事業への寄付を求めるものだ。

 ○ ○ ○

ぼくは、4つの事業も、寄付という方法も
どれも切実で賛成だ。応援したい。

ただ、このリリースでは、
コミットしたくてもコミットしにくい。

何に、どう使われるのかが、よく分らない。

「サンゴ」礁については、

 ・珊瑚の移植
 ・酸素繊維魚礁
 ・藻場造成
 ・貝類放流
 ・情報配信・発信
 ・植栽事業

という項目はあるが、
珊瑚礁再生へ向けたプロセスについての解説と、
事業規模に占める期待寄付の程度を教えてほしい。

そうでないと、事業の重みと寄付の寄与度がつかみにくい。

 ○ ○ ○

いや、ぼくは難癖をつけたいわけではない。
ただ、寄付を募る手前で、もっと述べてほしいと思う。

冒頭、町長のメッセージには、
「ヨロン島への熱い想い」と呼びかけている。

与論への熱い想いを期待するのだから、
その前に、与論町の熱い想いを教えてほしい。
この事業に関して、どのくらい真剣に取り組んでいるか、
知らせてほしい。

まさか、寄付の多寡が偉さに比例すると思い込みたい
大勘違い輩を再生産したいわけではあるまい。

今回の案内は、寄付の一口と目標額が生々しく迫ってくるが、
ここにかける町の想い・考えは、
はにかむようにしか届いてこない。

自分の想いをどのように、かければいいのか、戸惑う。

「ヨロン島サンゴ礁基金」の主旨、想いをもっと伝えてほしい。
寄付は、島にとって有効な手段と考えるだけに、そう思うのです。



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2007/06/20

奄美諸島のブログ発信力

試みに、奄美諸島の各島の「ブログ発信力」を見てみる。

まず、奄美諸島の各島名をキーワードにしたブログの記事数を出す。
(Googleによる)

 喜界島    14117
 奄美大島   66931
 加計呂麻島   9833
 与路島      386
 請島       323
 徳之島    17245
 沖永良部島   7726
 与論島     9426

これは、たとえば、「与論島」のキーワードを含むブログの数が、
9426あるという意味だ。

これを島の人口で割った値を、「ブログ発信力」としてみる。

 (ブログ発信力)=(ブログ記事数)/(人口)

人口1人当たりブログ記事数、という意味になる。

ブログを書く人は、島の居住者に限らないけれど、
仮に島外の人もブログを書いているとしたら、
それも島の発信力とみなしたものだ。

すると、「ブログ発信力」はこうなる。

 喜界島     1.6
 奄美大島    1.0
 加計呂麻島   6.4
 与路島     2.4
 請島      2.4
 徳之島     0.6
 沖永良部島   0.5
 与論島     1.6

こうしてみると、奄美諸島のなかでは、
加計呂麻島のブログ発信力が抜きん出ている。

がんばっているのだ。

ただ、与論の場合だと、「与論島」の他に、
「与論」「ヨロン」「与論町」「ゆんぬ」はカウントしていない。
だから、トータルの発信力を表しているわけではなく厳密ではない。
でも、目安としてみるには充分だ。

加計呂麻島は他の島々に比べて、
ブログの記事が多い。
「蔭の島」と自称することもある加計呂麻島だけれど、
いまや、表舞台へ踊り出ようとしている。

これは2007年6月時点の発信力だ。
今後も推移を追って奄美の発信力を追ってゆこう。



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2007/06/19

ドルチェ - 優しく

詩人と作家と監督の対話。
それが、『ドルチェ - 優しく』の骨格だ。

奄美・沖縄を理解する詩人が、
ロシアの映画監督との縁を感じ、
それを頼りに奄美の作家と引き合わせ、
そこに、作品が生まれた。

ドルチェ-優しく―映像と言語、新たな出会い

Photo_85













 出逢いは予感と潜在的なもののなかに織り込まれていました。
 ソクーロフ作品へ導いてくれた
 言語哲学の前田英樹氏の思考と同伴するようにして、
 『オリエンタル・エレジー』の雲間に光る月の印象的なシーンを見たとき、
 アレクサンドル・ネフスキーの『月と不死』の一場面と頁が浮上していた。
 ネフスキーは柳田國男との親交もあり、
 初期の日本民俗研究に足跡を残したロシアの言語学者だが
 「おしらさま」研究とは別に、
 宮古が彼のフィールドワークの拠点でした。
 ネフスキーはソ連時代に粛清にあって
 銃殺されてしまう悲劇の天才肌の学者ですが、
 彼の残したテクスト『月と不死』は宮古島の神話を自らの
 言葉によって丁寧に丁寧に綴って残してくれた、
 稀有の書物です。

 そのネフスキーはソクローフさんと同じくペテルブルクの出身で、
 ロシア-日本の南というこれまで考えられたことのない
 道筋が辿れるという確認が私の中に生じていました。
 それが機縁となり昨年友らとともに宮古島におつれして、
 その過程で、日本の南島文化に本質的にかかわった
 島尾敏雄・ミホさんの世界とソクローフさんの世界との
 更なる出会いが生まれていたのでした。

 ミホさんは島尾敏雄夫人であったとともに、
 名作『海辺の生と死』、『祭り裏』に代表される南の地の宇宙は、
 これからさらに深く理解されることになるでしょう重要な作家です。
 ソクーロフさんとミホさんはまったく違う世界の住人ですが、
 おそらく「文学」をとおして、
 回転扉が回るように両者はつながる筈です。
 不思議な結びつきのように見えて、
 本質的にどこかで相通じるものがあるのではないかと、
 介添えでありメディアでもある私は考えていました。
 こうして織りなされた複数の予感から、
 この映画『ドルチェ』の制作ははじまりました。

この、詩人の丁寧な紹介が作品の入口に導いてくれる。

 ○ ○ ○

監督ソクーロフは、作家島尾ミホに、
他でもない本人の、島尾ミホを「演じる」ことを要請する。
それが、「フィクションとノンフィクションをこえる」
方法として採られたものだ。

島尾ミホはこの難題によく応えただろうか。
その結果は、「採録台本」として読むことができるが、
本当のところ、映画を観ないと分らない。

けれど、よく応えたのだろうと、ぼくは思う。
島尾ミホは、島尾ミホを演じるというか、再現することなら、
小説世界で見事に実現しているからだ。

ここには、「柴挿祭り」、「短歌との縁由」、「日日の移ろいの中で」
という島尾ミホの作品が収められている。

 部屋の中は聞えるともないさわやかな賑わいに満ち、
 えもいえぬ薫香の薫りがかすかに漂っています。
 それは母が父と私の着物も丹念に染みこませた木の実の
 それかもしれませんが、
 私にはコーソガナシの衣装から匂い立つ
 ネリヤの国からのもののように思えました。
 心が浮き立ってきた私は、
 急に踊りだしたくなりました。

  キューヌホコラシャヤ
  イツムユリ マサリ
  イツム キューヌゴトニ
  アラチタボレ

 父が驚いて振り向く程大きな声で私は八月踊りの歌を歌い、
 からだを前後にゆすって手を叩きました。
 ウヤフジガナシ(先祖さま)と共にいるよろこびを、
 黙っていては通じないから、
 どうにかして自分の気持ちを
 その人たちに伝えたいと思ったからでした。
 父はやさしいまなざしで黙って見ていました。

 幼い私にはむずかしいことはわかりませんでしたが、
 心の中では、神も人も、太陽も月も、海も山も、
 虫も花も、天地万物すべてが近所隣の人々と
 区別つかぬ同じ世界に溶け合っていて、
 太陽はティダガナシ(太陽の神)、
 月はティッキョガナシ(月の神)、
 火はヒニャハンガナシ(火の神)、
 ハベラ(蝶)は未だあの世へ行かずに
 此の世も留まっている死んだ人のマブリ(霊魂)、
 モーレ(海の亡霊)は舟こぼれした人のマブリ、
 などとみんな私と日常を共にしている
 ごく身近なものばかりでした。
 (「柴挿祭り」)

ぼくは作品の圧倒的な現前力の前に、
これは島尾敏雄生前の時期に書かれたものと思ったけれど、
ほぼ十年前の作品と知って驚いた。

島尾ミホの手にかかれば、
戦争期のことも、
まだありありと再現できる現実なのだ。

ぼくは、島尾ミホのノロの家系を感じるとともに、
その母体にある奄美の力を改めて確認する思いだった。

 ○ ○ ○

詩人、吉増剛造は、奄美について、

 奄美大島という島は、古くは道の島といいます。
 ここに住んでいる人の心の中にも、
 常にどこかへ動いていて揺れている大きな島
 という意識が潜在的にあるはずなのです。

と、近代以降の奄美の心性を紹介する。

応えて監督のソクーロフは言う。

 奄美大島は、自然が本当に美しいと思う一方で、
 私は日本の地方だとは考えなかったのです。
 奄美大島の生活というのは、
 日本の現代生活そのものです。
 現代生活のあらゆる特徴と外見を持っている。
 村でさえもそうした大きな都市の生活が持っている
 危機感というものがある。
 それからいわゆる通信手段というか、
 コミュニケーションとか、
 そういうものすべてが現代的です。
 奄美大島では、何か離島であるということを
 少し誇張して語られているように思います。

ソクーロフが目撃したのは、
都市化された日本の部分としての奄美だった。

作家と詩人と監督の描く奄美はどれも奄美だ。

島尾ミホは、奄美の大深度を、
吉増剛造は、奄美の意識を、
ソクーロフは、奄美の都市化を。

それがどのように織り成されているかは、
作品を読めばいい。

ただし、その文体とともに、ゆっくり読むのがいい。
ときに本を閉じて、濱田康作の美しい装丁写真を味わいながら。
都市で読むなら、外界の時間の流れを絶って。



 

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2007/06/18

聴く奄美

「奄美諸島史の憂鬱」を皮切りに、
「奄美の島々の楽しみ方」「あまみ便りBlog」
紹介されてとても気になった本。

『聴き歩きフィールドガイド奄美』だ。

Kikiaruki_amami













これは図鑑ぽいけれど、ただの図鑑ではない。
なんとQRコードを使って、動物や鳥たちの鳴き声を
ダウンロードして聴くことができる。

カテゴリー別にみると、

 森 30
 里 21
 海  6
 静 18
 暮  6

と、「静」に属する17の動物たちを除けば、
64の鳴き声に耳を傾けられる。
「聴き歩きフィールド」と題するゆえんだ。

アマミノクロウサギがトップを飾り、
ハト、コノハズク、ルリカケス、ヤモリ、クイナ、
クジラ、イソヒヨドリなど、島の主役たちの声を聴ける。

ちなみに「静」とある「静かな生物」にはハブも登場する。
もちろん鳴き声は無いのだけれど。

「暮」とあるのは気になるところだけれど、
「暮らし」のことで、なんと「大島紬」の音も聴ける。

思い起こせば、島は自然の音にあふれていた。
目覚めるころ、静寂のなか、いつも鳩の声が聞えていた。
夜は、ヤモリの鳴き声を聞くと、
島の世界に引き込まれるようで安心した。
後年、島に帰ったと実感するひとつがヤモリの鳴き声だった。

夜も窓は開け放しで寝て、
いつでも、動物たちの鳴き声を耳にしていたのは、
贅沢な経験だったと、いまさらのように知らされる。

昔の島人は、ただ単に聞いていたのではないと思う。
晴れを喜んだり、台風の到来を知らせあったりというような、
動物や鳥たちの声を察知していたに違いない。

この本は、そんな奄美の贅沢を教えてくれる。

「聴き歩きフィールドガイド与論」も欲しい。
で、豚や牛の鳴き声も聴きたい。(^^)

飛び出す絵本というつくりがあるけれど、
これは、「飛び出す音本」だ。


ちなみに、ぼくはリュウキュウアカショービンの声を
携帯でときどき聴いている。

キュロロロロ、と、昔、聴いていただろうに、
気に留めたことのなかった声が、
島の世界への通行手形の呪文のようなのだ。
目覚ましの音にしたいなと思う。

奄美の豊かさを伝えてくれる一冊だ。




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2007/06/17

がんばれ!ヤンバルクイナ

偶然、テレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号」を観た。
やんばるに棲む絶滅寸前のヤンバルクイナがテーマだった。

ぼくは、ヤンバルクイナが他人に思えない。

ヤンバルクイナは、
与論島から指呼の間にある沖縄のヤンバルに棲む。

鳥のくせに飛べなくて、
人知れず森のなかに棲んできたそのいずまいに親近感がある。

ぼくは、与論島と似ていると思うとともに、
個人的にも親近感を持ってきた。
自分はヤンバルクイナの生まれ変わりと
冗談まじりに思ってきたりしたくらいだ。

「素敵な宇宙船地球号」では、
ヤンバルクイナを絶滅に追い込みかねないのが、
あの、マングースであるとして、
その探索犬にフォーカスしていた。

外来種探索犬の活躍が絶滅を防ぐのは、
ニュージーランドではすでに実績があるという。

沖縄ではマングース探索犬だ。

緑深い森のなかを、
探索犬が挑んでいく映像で番組は終わった。

絶滅しないでほしい。
ヤンバルクイナ。

がんばれ。


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イューガマの謎 4

問い方を変えてみる。

スクのことをイューガマと呼ぶのは、どんな人だろう?
スクのことを「お魚ちゃん」と呼ぶのは。

まず、イューガマと、
小さいものを呼ぶときにつける接尾辞「がま」を付けるのは、
スクに対する愛情だ。
ここからは、スクの群れやスク自体への
優しい眼差しが伝わってくる。

では、「イューガマ」と呼ぶときに、
もっとも問わなくてはならない「イュー」(魚)はどうだろう。
ある魚を見て、名づけられた名前ではなく、
「魚」と呼んでしまうのはどういうことだろう。

繰り返せば、それはスクに対して名づけ忘れたからでも、
固有名にする対象では無かったからでもない。

与論島にとっても礁湖での漁労は、生活の営みそのものであり、
あまたいる魚たちには固有の名がついているからである。
まして、スクは、スクを獲る他の琉球弧の島々と同様、
決まった日に礁湖にやってくる不思議な、
しかし海の恵みとして、歓迎された存在に違いないのである。

それなのに、スクと呼ばずに、イューガマと呼んでしまうのである。

 ○ ○ ○

こうみなすと、イューガマと呼ぶ人のことを問いたくなってくる。

たとえば、スクをイューガマと言っている人に、
「ウロータルガ」(お前は誰だ)と問えば、どう答えるだろうか。

ぼくは、「ワナ、ミンギヌ」と答えるような気がする。
「ワナ、ミンギヌ」、「わたしは、人だ」という回答である。

スクをイューガマというのは、
それを言う人も、固有名を抜き取った、
ただの人として言っているのではないだろうか。

もちろん彼には名前もあり、それを忘れているということではない。

ただ、どうでもよい存在としてスクを見ているわけでもないのに、
スクをイューガマと呼ぶのは、
そう呼ぶ者も、イューに対応して、
人間(ミンギヌ)として立っているのではないだろうか。

お前は魚ちゃんか。俺は人だよ。
そういう対話が、スクとユンヌンチュ(与論人)の間で交わされている。
そういう気がする。

スクをイュー(魚)と呼ぶには、
言う者の自己意識もミンギヌ(人間)に解消されているのだ。

ここには、自己主張を止めてしまったというより、
自己主張をどこかに置き忘れてきたかのような
島人のあり方が垣間見える気がする。

もしかしたら、すべてがリーフの外の洋上を過ぎてゆくような
歴史的出来事との関わり方のなかに醸成される、
取るに足らない存在という自己意識を
覗くこともできるかもしれない。

スクをイューガマと呼ぶことのなかには、
自己溶解した、ただの人として、
愛らしい魚に向き合う島人の優しい視線があるのだ。

そう考えると、スクをイューガマと言い換えるのは、
いかにもユンヌンチュらしい。

そう、感じられてくる。


 ※イューガマの謎イューガマの謎2イューガマの謎3


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2007/06/16

イューガマの謎 3

与論島では、なぜ、スクをイューガマと言うのか。

こう問い続けていくと、不思議さの他にも、
もうひとつの実感のあることに気づく。

それは、スクをイューガマと呼ぶことが、
どこか“与論らしい”と感じられることだ。

たとえば、与論では、方言のことを、
大和口や沖縄口、島口という琉球弧の表現に従って
与論口と言わずに、与論言葉という。

沖縄口や奄美大島の島口という言い方を知らないわけではなく、
知った上で、「与論言葉」という言い方を選んでいると思える。

しかも、口を指す「フチ」は、もともと呪言を意味するように、
「島口」の「口」は、起源を内包した歴史を宿している。
そこで、「言葉」という言い方を採用するのは、
歴史として新しい気がするとともに、
あの、スクをイューガマと言い換えるように、
固有にあるものの、固有性を抜くような同じ手つきを感じる。

本土の人を、大和人(ヤマトゥンチュ)と呼ばずに、
旅人(タビンチュ)と呼ぶのも、
大和の人から、大和という固有性を抜いて、
外国人でも当てはまる旅人に戻されているのにも、
同じ仕草を感じる。

 ○ ○ ○

この、事物から固有性を抜いて一般性に解消するかのような、
振る舞いのなかに、ぼくたちは何をみるだろうか。

こうするには、島人が島の内部だけで、
事物(この場合は、魚)に向き合い、
そこにある固有なものをほどいてゆく
長いながい時間が要るように思える。

これは外側からみれば、内閉性に見えるが、
島の内部からみれば、島自体がひとつの世界として
あったことの証左のようにも思える。

与論人(ユンヌンチュ)は、
この世の事物にどんな風に向き合ってきたのだろうか。

 つづく。

 ※イューガマの謎イューガマの謎2



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地名資料室から南島接近

やっと行けました、「地名資料室」

いつしか琉球弧の地名オタクになってしまい、
調べものをしていくうちに、
地名の重要性に対する谷川健一の問題意識に触れ、共感しました。

そうなると、谷川が研究所長を務める
日本地名研究所に付属する「地名資料室」には
行ってみたくなるというものです。

しかし、なかなか問屋は卸してくれず、
この週末にやっと機会を得ました。

所は川崎、溝の口駅の近く。

土日もやってくれて、
室員の方々は親切で、
コピーも1舞10円と良心的で、
とても助かりました。

 ○ ○ ○

今回の目的は、このところ勝手に言っている、
琉球弧の「沖の島」という地名由来の理解について、
既存にはどんな説があるのかを調べるためでした。

なにしろ、直観頼みで大半はやってしまっているので、
現状の解釈を知りたかったのでした。

成果を出していけるといいなと思います。

きっとまた行くことでしょう。


1_2










2









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2007/06/15

イューガマの謎 2

なぜ、与論島では、スクをイューガマと呼ぶのだろう。

スクという固有名を剥奪するかのように、
イューガマ、お魚ちゃんと、呼ぶのだろう。

スクの名前を知らなかったのだろうか?

それは、考えにくい。
イュー(魚)を知っていて、スクを知らないというのは不自然だ。
たくさんの与論言葉のなかで、
そこだけが盲点のように抜け落ちるのは、ありえないだろう。

しかも、何といっても、スクという重要な魚なのに。

それなら、祭儀としてのシヌグがウンジャミと分離し、
やがてシヌグだけが残った経緯のなかで、
根拠となったスクの存在が次第に希薄になり、
それとともに固有名も忘れられていったのだろうか。

これも、考えにくい。
逆なら、あると思う。

祭りとのつながりは忘れられたけれど、
その名だけは残った、と。

そのほうが自然だろう。

『ドゥダンミン2』でも、

 旧暦六月の大潮になると、
 イュウガマが寄ってくるのではないかと血が騒ぐ。

と、この魚の持つ不思議な習性と、
それが島にもたらす大きな恩恵は、
忘れられたことがなかった。

それなら、なおさら、
なぜ、スクとよばないのか、
いや、スクと呼ばないまでも、
なぜ、固有名が与えられていないのか、
不思議なのだ。

 つづく。

 ※イューガマの謎


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クイーンコーラル走れ

 船は行く 船は行く 青い海を

と、読んで、すでに口ずさんでいる人はいますか?
そう、曲「クイーンコーラル走れ」です。

ところで、鹿児島と沖縄を結ぶ客船クイーンコーラルで流れる
「クイーンコーラル走れ」を歌ってるのは南沙織なんですって?

恥かしながら、チヌマンダイの記事コメントで、
初めて知りました。

で、それから頭の中を曲がずっとかけめぐるので、
書いて放電することにしました。(^^;)

 ♪ 船は行く 船は行く 青い海を
   恋乗せて 恋乗せて 南の島へ
   デッキの上で たたずむ(肩組む?)二人
   太陽は空で 見てる 妬いてる カッカッカッカッ
   クイーンコーラル走れ クイーンコーラル走れ
   クイーンコーラル 南の海へ 明日の海へ

これ、いい曲ですよね。いまも生きてる感じ。

 ○ ○ ○

学生の頃、鹿児島から19時間かけて与論島へ船旅するとき、
クイーンコーラルにお世話になりました。

たしか午前3~4時頃、名瀬に着き、
到着のアナウンスを半睡状態で聞くと、
もうすぐ与論だ、と昂ぶる気持ちを抑えて
もう一眠りしたのでした。

昼ごろ、沖永良部が小さくなったなと思ったら、
もう与論島はすぐそこです。

それだけで胸が締め付けられましたが、
それに拍車をかけたのが、
「クイーンコーラル走れ」、でした。

歌はあくまで明るく、
恋と南の島を結びつけて船内に響き渡ります。

接岸間近になると、乗降口前は、
観光客でごった返しました。
学生たちの異様な熱気が充満していました。
帰省なので、ぼくの方がそこにいる理由がありそうなのに、
あの熱気と明るさのなかでは、
ぼくが場違いのようにすら思えました。

彼らはこう叫ぶのです。
「ヨロンに帰ってきたぞぉ」。

そう聞くと、嬉しいやら、
素直に言えて羨ましいやら、
放って置いてくれと思わないでもなかったり、
でも、現地の人の立場で歓迎したい気分でした。

ぼくにとって、「クイーンコーラル走れ」は、
与論接岸の切ない想いとセットです。
それ以外の思い出し方はできそうにありません。

「与論島慕情」とともに、特別な曲です。

もう20年くらい聞いてないでしょうか。
もう一回、船内で聞いてみたい。

与論島接岸を、
「クイーンコーラル走れ」、「与論島慕情」と一緒に、
味わってみたいです。

 ○ ○ ○

クイーンコーラルに乗る方は、
ぜひ「クイーンコーラル走れ」を聞いてください。



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2007/06/14

イューガマの謎

なぜ、与論島ではアイゴの稚魚をスクと呼ばずに、
イューガマと呼ぶのだろう。

沖縄でも奄美でも、つまり、与論島の北も南も、
スク(シュク)と呼んでいるというのに。

しかも、沖縄本島の東海岸の宮城島では、
テダスク、ウンジャミ、スク、
西海岸の前兼久では、
ティダハニ、ウンジャニ、シルシュクなどのバリエーションがあり、
それらはスクの種類を区別したものだけれど、
与論では一緒くたに、イューガマと言って済ませているのである。

なぜ、イューガマ、なのだろう。
こう思うのには、竹下徹先生の『ドゥダンミン2』で、

 なぜか与論だけ固有の名前がない。
 ドゥダンミン男には遠い昔、夢の中か、
 おぼろか、「シュク」と聞いたようなもやもやとしたものがある。
 どなたかご教示願えればと思う。

と、島の知識人でも知らないことで、
ぼくの無知ゆえのことではないんだと知ったのがきっかけだった。

そしてそれは、スクがひょっとしたら、
シヌグの根拠であるという仮説に出会って、いよいよ謎になった。

なぜなら、与論島で大事な祭儀は何かと聞かれれば、
多くの人がシヌグを挙げるに違いないからだ。
最重要な祭儀の核にある魚について、
スクという名称にこだわっていないのである。

というのも、「イューガマ」は、
「スク」とは別の名づけをしたという意味にならない。

実はそれは、「お魚ちゃん」という意味なのだ。
スクという固有名詞の代わりに、
別の固有名詞を当てているのではない。

スクという固有名詞を、
イュー(魚)という普通名詞に差し戻してしまっているのだ。

どうして、そうしたのだろう。
どうして、イューガマ(お魚ちゃん)と呼ぶのだろう。

謎、である。


 つづく。

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2007/06/13

「南のふるさと島」構想

奄美は世界遺産登録を目指していると聞く。

Casa6月号は、「世界遺産。」を特集していて、
見ると、さすがに世界遺産は迫力あるラインアップだ。

福永さんは、その先を指摘している。

 もし、奄美が提言通りに世界遺産になれたとしても、
 やっとイーブンです。
 屋久島とイーブンであり、沖縄とイーブンなのです。
 三つの世界遺産が並んでいるだけです。
 これだけじゃまだだめなのです。

これはその通りなのだろう。

屋久島と沖縄。ともに魅力的な地域だ。
沖縄はもとより、ぼくの身近なところでも、
屋久島に行きたい、行ってきたと耳にする。

そこで福永さんは、
「奄美世(あまんゆ)ミュージアム構想」を提言する。

 もう1歩進んで、
 更に奄美大島の魅力をプレイアップする方法は何か。
 奄美の誇るべきものをいろいろ集めて、
 島全体で一つのミュージアム、地域まるごとミュージアム、
 群島まるごとミュージアムという構想であります。

黒糖焼酎、大島紬、島豚復活等々の資源を、
NPOの力を借りながらやっていこう、というものだ。

この提言は魅力的だ。

ぼくも与論島のことを思うとき、
島全体をひとつの公園とみなした別世界をつくる、
とイメージすることがある。

 ○ ○ ○

福永さんの提言に刺激を受けて、ぼくも考えてみる。

屋久島は縄文杉で原始のイメージが強く、
沖縄はリゾートと移住地としてのイメージが強い。
そして奄美はその両方のイメージを持っているとしたら、
それとは別の価値を打ち出すべきなのだろう。

たとえば、「南のふるさと島」はどうだろう?
奄美の人々の、優しさと包容力を最大限に生かすのだ。

奄美を故郷にする人だけでなく、
本土に住む人の“南のふるさと島”として位置づける。
もはや自然は、居住地域だけでなく、
旅先、滞在先で味わうものも、
その人にとっての自然環境の一部とみなさなければ、
十分に享受できないものになっている。

奄美はそれを提供する。

それは、「いつか見た気がする懐かしさ」と、
「初めて見るのに懐かしい」と、
その二重の懐かしさを喚起するに違いない。

そんな新しいふるさとを本土の都市部の人々に向け、
提供するというアイデアだ。


「21世紀 奄美へ期待するもの」から


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2007/06/12

黄金の道

このところ、与論島の夕陽の写真を続けて見せてもらった。


ちゃくれさんの「当たり前の夕景」

lagoonさんの「夕日」

喜山修三さんの「東シナ海に沈む夕日」

どれも言葉を失う。美しい。


Agasanoumi01_1















ぼくはうまく撮れていないけれど、
フバマから眺めた夕陽の光景はありありと覚えている。

沈む夕陽が、まわりの空と海を黄金に輝かせる。
その黄金は、夕陽から海を伝ってまっすぐに
浜辺に立つぼくたちの足元まで届いていた。

きらめく波が夕陽まで続く道に見えた。
黄金の道だ。

そのまま、夕陽まで歩いていけそうだった。

どこかの民話や神話は、
こんな実感をもとに作られたのに違いない。
そう思えた。

この世ならざる場所への通路は、
いつでも開けているように思えた。


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黒糖焼酎と大島紬

奄美独自の産業は何か?と問うて、
福永さんは、確実に言えるものとして二つ、挙げている。

「黒糖焼酎」と「奄美大島紬」だ。

そうなのか、と思う。

子どもにとっては、焼酎というより、黒糖そのものだったけれど、
両方とも、ぼくたちの生活の奥深くまで浸透していた。

海で遊んだ後は、お茶に、
ピル(にんにくの砂糖醤油漬け)か。
パパイヤ漬けか、
サタ(黒砂糖)だった。
それはそれは、美味しかった。

大島紬は、母の内職仕事だった。
母だけでなかったと思う。
多くの与論の女性が手に職としたことだった。

家庭ごとにきっとバリエーションがあると思うのだけれど、
家(うち)は、「ドンタララッタ、サッサー」と擬音化していた。
大島紬を織るあの音は、馴染み深い生活音だった。

この二つが奄美の重要な産業だと指摘されると、
ああ、我が家も"奄美”だったんだなぁと思う。

福永さんのレポートは、そんな気づきを与えてくれた。

 ○ ○ ○

奄美人が、奄美のつながりを言葉にすることが大切なんだと思う。

「21世紀 奄美へ期待するもの」から



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2007/06/11

真珠とガラパゴス

福永さんは、奄美の特性としていくつかのキーワードを挙げている。

 1.東洋のガラパゴス
 2.ヤポネシア
 3.ハブに守られた原初の山々
 4.海洋、海浜、サンゴの海

これらは、奄美の誇る自然資本だ。

 ※「21世紀 奄美へ期待するもの」


なるほどと思いつつ、
ふと、あれこれは、奄美の自然資本だっけ?
奄美大島の自然資本だっけ?と、混乱してきた。

あくまで、奄美の自然資本と受け取ってみよう。

それなら、「ハブに守られた原初の山々」は、
与論島では何と言えばいいだろう。

昨日の「樹木水準」でいえば、ガジュマルと言ってもいい。
でも、今日は、ヤドゥマーブイを挙げてみたい。
何といっても、ヤモリ(家守)、である。

もうひとつ。東洋のガラパゴス。
これは固有種の動植物が多いということ。
こう言われて思い出すのは、
与論島は、東洋に浮かぶ一個の真珠
という異名を持っていることだ。

東洋のガラパゴスが奄美大島なら、
東洋の真珠は与論島なのだ。

奄美は、「高い島」と「低い島」、
「見える島」と「見えない島」という形容があると、
高梨さんに教えてもらった。

同様にいえば、
奄美とは、真珠とガラパゴス、なのだ。

もちろんこの場合、高い島を“ガラパゴス”で象徴し、
低い島を“真珠”で象徴することになる。

奄美とは何か?

いま、ひと言でその本質を言い表せないにしても、
「真珠とガラパゴス」の幅のなかにあると言うことはできる。

振幅の大きい、広いエリアなのだ。


追記
ところで、「真珠とガラパゴス」というフレーズには、
心惹かれるものがある。

物語が始まりそうなフレーズだ。



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2007/06/10

樹木水準

福永さんは、21世紀の奄美の望ましい姿を考える上で、
二つのことを示唆している。

それは、「自然資本」と「農林水産業を基幹とする
地域複合産業システム」だ。

社会資本は、道路、港湾、学校などの他にも、
医療、年金、介護などの制度資本と、自然資本がある。

 これまで公共工事、いろいろな工事をすると自然破壊されるとか、
 そういうふうに言っていました。それは、多分に情緒的なところが
 ありました。いわゆる自然そのものがどれくらい価値があるか
 という位置付けがはっきり出来てないまま、人間も動物の一つだ
 というような情緒的な考え方で、自然破壊反対だとか言っていた
 のですが、これをちゃんと位置付けようじゃないか。

これについて、福永さんが挙げる例は、

 道路の下に獣道を通す。
 道路の上に覆いをかけて獣の通る道を確保する(覆道)。

ぼくは両方とも知らなかったので、面白かった。
なるほどそうすれば、自然との共存が可能になる。

 ○ ○ ○

福永さんの文脈の助けを借りると、
格差があるという言い方には、
所得からみてその通りという面と、
自然資本を考慮していない物足りなさとがある。

たとえば、地域にある樹木の数をカウントして、
1人当たり樹木数を指標にしてみたら、
違った世界が見えてくるかもしれない。

樹木水準だ。

マングローブ水準なんて作ったら、
奄美大島や西表島は圧倒的だし、
逆に、最近の与論島のガジュマル水準の低下は、
気になるところだ。

ガジュマル水準が高いほど、与論島の精神的安定度は高い、
というのは、ひそかに思う指標だ。

樹木は、初期人類の聖地をl決める時にも
鍵になった大切な存在である。

自然資本をみる指標として見ても面白いと思う。

 ○ ○ ○

もうひとつの示唆は、
「農林水産業を基幹とする地域複合産業システム」。
国土審議会は、「多自然居住地域の創造」が必要という。

ところで奄美は、
多自然居住地域をわざわざ作らなくても豊富にある。
足りないのが、
この「農林水産業を基幹とする地域複合産業システム」だ。

サトウキビ、黒糖焼酎などがその対象になる、
と福永さんは言う。


その話は、つづきで。

「21世紀 奄美へ期待するもの」から



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2007/06/09

奄美人の目からみた格差社会

平成14年時点で、奄振法が50年になることを踏まえ、
福永さんはこの法の目的である格差是正の進展を辿っている。

数値は、1人当たりの所得に関するものだ。

             【対県】  【対国】 
 1963年(昭和38年) 8割弱  5割弱
 1978年(昭和53年) 9割   7割
 1998年(平成10年) 9割   7割

この経緯が教えるのは、奄振法は28年をかけて、
1人当たり所得において、県の9割、国の7割まで、
格差を是正させてきた。

しかし、その後、この格差は縮まることなく、
その後20年経った時点でも、
県の9割、国の7割の格差は変わってない。

しかも、

 島別の格差は、残念ながら縮まるどころか広がる姿になっています。

 ○ ○ ○

所得水準が低いのに、消費者物価指数は高く、航空運賃も高い。
しかも、と福永さんは付け加える。

奄美-沖縄は250km離れていて、東京など本土からより遠いのに、
片道5000円も東京-那覇が安い。

これは、平成8年の「沖縄における米軍等の施設の特別措置云々」
という閣議決定に依るところが大きい。

ちなみに現在、5000円の差がどうなっているだろう。

 東京-那覇 37500円(JAL)
 東京-奄美 42500円(JAL)

ということで、変わっていない。

奄美は、格差ある状況にあり、
しかも格差縮小の条件を持っていない。
ということのようだ。

 ○ ○ ○

さて、一度、格差是正の話を、福永さんの文脈から離してみる。

それというとも、いままで「格差」は、
奄美や沖縄やその他特定の地域の台詞だったのに、
気がつけば、日本全体を説明する言葉になっている。

いわく。格差社会、と。

奄美人の目は、格差社会の議論に対して思わないだろうか。

なにをいまさら。
奄美は、もとより格差をこそ生きてきたし、
これからも格差を生きるだろう。
何を騒ぐことがあるだろう。

でも、ぼくは格差、結構じゃないかと言いたいわけではない。

経済的条件をよりよくすること。
それが課題であることに変わりはないし、
ぼくも与論島・琉球弧が豊かになることを願う者だ。

ただ、いたずらにこの言葉に振り回されることなく、
別の価値を表現することも大切だと思う。

それは、「癒し歌」で見たように、
「持てる者」としての奄美という側面があるからだ。
それはまだ十分に、量的な表現を得ていない。

国の5割弱と言われた頃に、
与論島で生まれたぼくの実感からしても、
言われるように経済的には貧しかったかもしれないが、
指標から見えないところで、
信じられない豊かさを享受もしていた。

 ○ ○ ○

南日本新聞は、この5月、奄振法の
「延長には必要性の理論武装が不可欠」と社説を掲載している。

その背景も思惑も知らない。

奄振法がどうあれ、奄美人が、自分たちでがんばろう、と言うこと。
それが必要なことは言うまでもないと思う。


「哭き歌と癒し歌」



 

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よろんの里、初

そのお店は忽然と現れました。
どこだと思いますか?

Yoronnosato1_2

















ここは目白通り、椎名町近く。

「よろんの里」です。

Yoronnosato2
















Yoronnosato4

















東京が長い割に、
ここに来たことはありませんでした。

「よろんの里」ですもんね。
ゆんぬんちゅだったら来たくなります。

有泉を飲みながら、
マーミナチャンプルー、
ラフティ、
島らっきょう、
もずく、
そして、もうただの魚には見えないスク
いただきました。

先日、四十を越えて、
初めて沖縄に行ってきたという
同行の士も、
鮮度のいい料理に満足していました。

また行きたいです。

お酒と料理で与論気分でした。



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2007/06/08

哭き歌と癒し歌

福永さんの21世紀 奄美へ期待するもの
学ぶところの多いレポートだった。

福永さんは自身で、長州者と自己紹介しているけれど、
実際的武断の薩摩に対して、
理論的智謀の長州と言われた、
血筋を思わせる読み応えがあった。

 ○ ○ ○

福永さんはまず、奄美を取り巻く環境について、
「哭き歌」から「癒し系」への変化として捉えて、
書いている。

1975年の学生運動時に、
竹中労が、奄美の唄者、里国隆の唄声を、
「奄美の哭き歌」として紹介したという。

けれど当時、学生運動、労働運動の関心は、
奄美ではなく沖縄の海洋博粉砕闘争に向いていて、
「そういう歌もあるんだね」という程度に済ませていた。

ところで、最近、元ちとせなどが登場してきて、
その神秘的な歌声がブームになっているけれど、
自分には、「奄美の哭き歌」が頭に残っている。

そこで、どうしてこの20数年で、
「哭き歌」が「癒し系」に変わったのだろう。

そう、福永さんは問う。
そして、答える。

1975年、オイルショックがあったとはいえ、
日本経済は成長していた。

 おそらく「哭き歌」という表現は、
 そういうふうに日本全体が
 どんどん輝きを増していく状況の中で、
 光の当たらない影の部分に取り残された
 「一部の同情すべき人たちの哭き歌」
 であったのではないかと思います。

では、「癒し系」とは何か?

それは、「哭き歌」は同情すべき対象だったのに、
「癒し系」は、それが自分たち自身へと変わったのだ。

つまり、「哭き歌」と「癒し系」は変わらないのに、
時代にのる人が大多数だったときは、
同情すべき対象として「哭き歌」が見えたのに、
いまや取り残される人が増えて、
「癒し系」には共感するようになった。

「癒し系」は、わがこととなった「哭き歌」なのである。

 ○ ○ ○

ぼくは福永さんのレポートに敬意を払うものではあるけれど、
この見解には、奄美人して、少し違う理解を対置させたい。

ぼくは、「哭き歌」と「癒し歌」は、
表現したい奄美の想いということでいえば、
(哭き歌)=(癒し歌)だけれど、
「癒し歌」は、「哭き歌」の奄美の身体性を、
ポップの普遍性へスタイル変換させたものであり、
そこには歌の変化がある。

その意味では、(哭き歌)≠(癒し歌)なのである。

そしてこの間、福永さんとは別の意味で、
奄美のポジションは変わったと思う。

それは、かつて「持たざる者」だったのに、
「癒し歌」が、ブームになるに及んで気づかされるのは、
奄美が「持てる者」へ変わっているということだった。

合いも変わらず、経済においては、
奄美が「より持たざる者」であることに変わりはない。
けれど、「癒し」に焦点を当てるなら、
奄美は、持たざる者では全くなく、
むしろ「癒し」をギフトする「持てる者」だったのだ。

それを、奄美は、「癒し歌」のブームによって気づくのである。

奄美の歌は、共感の幅を広げようと、
「哭き歌」から「癒し歌」へと表現水準を転移させてきた。
一方、「癒し」と呼ばれるものを人々が必要としてきた。
そこで、「癒し歌」は時代と出会ったのである。

それが、「哭き歌」と「癒し歌」の違いだ。




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2007/06/07

奄美が奄美であるために

「奄美便りblog」の、
「奄美の黒糖、増産が続いているらしいです、が」
という記事で、
「21世紀 奄美へ期待するもの」と題した講演が
紹介されていた。

この講演録はインターネット上に公開されているので、
誰でも読むことができる。

    奄美群島振興開発シンポジウム
 基調講演 日本政策投資銀行南九州支店
      支店長 福永法弘
  21世紀 奄美へ期待するもの
   ~奄美が奄美であるために~


これは、平成14年、いまから5年前の講演だけれど、
学ぶことが多かったので、ご紹介したい。

 ○ ○ ○

サブタイトルは、「奄美が奄美であるために」。
必要なことを言い当てた、いいコピーだと思う。

ぼくは思わず、尾崎豊の「僕が僕であるために」を連想してしまった。

 ♪ 僕が僕であるために
   勝ち続けなきゃならない
   正しいものは何なのか
   それがこの胸に解るまで
   僕は街にのまれて
   少し心許しながら
   この冷たい街の風に
   歌い続けてる

尾崎豊が、何に勝ち続けなきゃならないと思ったのか、
そのことが気にかかるけど、
いまは置いといて、これを奄美の替え歌にしてみたい。

 ♪ 奄美が奄美であるために
   奄美を見つけなきゃならない
   奄美自身が何なのか
   それがこの胸に解るまで
   僕は道の島をめぐって
   全て心開きながら
   この熱い島の風に
   耳を澄ましてる

こんな感じ?


奄美は奄美を発見しなくてはならない。
それが、奄美が奄美であるために必要なことだと思う。

奄美にアプローチするために、
福永さんの講演録を手がかりにしてみよう。

(つづく)


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2007/06/06

シヌグを内側から開く

『奄美諸島史の憂鬱』の高梨さんが、
「今年はシュク(アイゴ稚魚)が接岸しますように!」
と題して、とても大切な考察を紹介してくれている。

魚のスクが、祭りのシヌグの根拠であるという仮説を、
ぼくは谷川健一の『南島文学発生論』で初めて知った。

というより、谷川自身の仮説として、
『南島文学発生論』では提示されていた。

それが、高梨さんの
「今年はシュク(アイゴ稚魚)が接岸しますように!」
を読むと、徳之島の松山光秀さんが、
その根拠にになる事実を豊かに提出しているのを知った。

これは、ものすごく面白い。

 ○ ○ ○

ぼくは、スクのもとに、
祭儀としてのシヌグとウンジャミが同一化する像を
谷川健一から受け取った。

しかし、松山さんの考察を読むと、
より深くその像を受け取ることができる気がした。
高梨さんが引用してくれたその個所には、
ひと言もシヌグ、ウンジャミへの言及はないのに、である。

シヌグ、ウンジャミの存在を知る人が、
松山さんの考察を読めば、
ひとりでに、シヌグとウンジャミが同一の地点に像を結ぶ。
そのように、この考察は存在している。

ぼくには、スクを基点に、シヌグとウンジャミへの
民俗学の扉をその内側から開いているのは、
松山さんだと思えた。

 ○ ○ ○

稲作とスク漁のつながりに、松山さんはこんな風にアプローチする。

 ここでフウゴモイ(潮溜り-引用者注)の
 付近一帯の状況も説明しておきたい。
 すぐ隣にはネィラの神が祭りの浜にやってくるときの
 目印にしたというタンギヤ(立石)が聾え立っておりイマ、
 そのまた隣には祭りのときに神々に供えものをしたという岩陰があり、
 さらにその隣にはユウムチゴモイ
 (砂の入り具合によって次の年の豊凶を占うところ)があって、
 シマ一番の、水稲の収穫感謝を捧げる夏の折目の祭りの
 ときに心臓部を演じたところである。

 このような重要な祭祀場の一角に
 シュクの捕り始めの儀礼の行なわれるフウゴモイが
 セットされる形で設定されていたことに注目したい。
 水稲文化は人々の目に見えるシュクの寄りという
 自然現象の媒介によって、
 はるか彼方のネィラと結ばれていたと言えよう。

 人々の夢がふくらんでいったのも無理からぬことだと考えられる。

重要な場所について、いつでもありありと思い浮かべることができる。
そんな立ち位置からの語りがここにはある。
夢を膨らませたのは、もちろん松山さん本人でもある。
そんな共有をここに感じる。

 二度目のシュクの寄りをアキヌックヮという。
 日柄は六月二十八日。
 アキとは水稲の収穫のことであるから、
 ここでははっきりとアキの祝いのために
 寄って釆たことが読んでとれる。

 このときはめでたいアキを祝うためか、
 それはそれは大量の、シュクが、
 干瀬の海の入り江やイノナを目がけて押し寄せてきた。
 イノナは一面がピンク色に染まり、
 それが右へ左へと揺れ動いた。
 まことにすばらしい光景であった。

「水稲の収穫」のためにスクが、やってくる。
ここではスクは擬人化されているけれど、
重要なのは、スクの到来と稲の収穫の同期を契機に、
両者が連結されることだ。

 ○ ○ ○

谷川健一は、シヌグの語源について、次のように書いていた。

 シヌグという言葉は「しのくる」(踊る)という
 おもろ語と関係があるとされる。
 その踊りも「うちはれ」の祭りのように奔放な踊りであって、
 十八世紀前半の女流歌人恩納なべに
 シヌグ遊びの禁止されたことを
 恨む琉歌があることから分かるように、
 それは男女の性的昂奮を爆発させるものであった。
 シヌグ祭の放埓な踊りの背景には
 旧の六月二十八日から寄ってくるスクの大群があった。
 それを待望して喚起するのがシヌグであり、
 ウンジャミであったと私は考える。

ぼくは、シヌグとウンジャミが、
スクを基点に発祥する谷川の仮説を魅力的に感じた。

ただ、シヌグの語源については、
かすかに引用したくない気持ちを起こさせる違和を感じた。

それは、ここにいう男女の性的な祭りであるという解釈だった。
もちろん、祭りにはその性格があり、
わが与論島にも歌垣の祭りがあったのを知っている。
ただ、シヌグをそれにダイレクトに結びつけることに
違和感を覚えたのだ。

このことに関わることを、松山さんは、こう、書いている。

 人々の喜びが爆発するのは旧六月中旬のカノエの日柄に
 執り行なわれる稔りの稲穂の刈取り始めの儀礼、シキュマの日だ。
 ワクサイ(物忌み-引用者注)からの解放感も手伝って、
 人々の喜びは最高潮に達したという。

 この日の前夜、
 人々は集落内の祭りの広場で夜を徹して踊り狂った。
 このような喜びいっばいの旧六月二十八日、
 二度日のシュクの寄りアキヌックヮを迎えることになる。
 ネィラがことさらに身近に感じられたことであろう。
 厳粛な稲作儀礼とのタイアップにネィラは
 生活のすぐそばに実感されていたのである。

なんと説得的だろう。

物忌み明けに漁の祭りを行なう。
歓喜あふれて、「夜を徹して踊り狂った」。

それなら分かる、というものだ。

これこそは、島の民俗を内側から開くということだ。
ここには、すごくて、うらやましい眼差しがある。

奄美にはこういう人がいる。
なんて嬉しいことだろう。

 ○ ○ ○

ところで、谷川健一は、宮城島の老漁夫から聞いた話として、
三種類のスクを挙げている。

 1.テダハニスク 太陽・羽
 2.ウンジャミ  海神
 3.スク 

つまり、スクの種類のなかに、ウンジャミもあるのだ。
もちろん、ウンジャミ(海神)の言葉を、
ある種のスクに当てたということだろう。

それなら、シルシュクという呼称もあるというスクのなかに、
もうひとつの祭りの名称、
シヌグの由来を見ることもできるかもしれないと、思った。

スク=ウンジャミ、であるように、
スク=シヌグ、が成り立つかもしれない、
という仮説にも至らない、これはただのアイデアだけれど。

さて、改めて図にしておこう。

     スク(イューガマ-与論)
        /    \
    ウンジャミ    シヌグ
    (女性)     (男性)


最後に、こんな魅力的な考察を紹介してくれた高梨さんに、
深く、ふかく感謝したい。

   とおとぅがなし。



 

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2007/06/05

目からウロコの琉球・沖縄史

いま、沖縄で人気の、
『目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム』を読んだ。

Ryukyu_okinawa

















ぼくは、この本から、「沖縄の自己像」が更新されるのを感じた。

ここ数十年来の、沖縄の自己像をひとことで言えば、それは、

 本土日本人とは違うし、独立国家もつくった。

という形をしていた。

今回の『目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム』では、それが、

 本土日本人と同じかもしれないけど、独立国家をつくった。

に更新されている。

これは、何が変わったということだろう?

 ○ ○ ○

まず、従来、「沖縄人=アイヌ人=縄文人」と言われてきたが、
最近の形質人類学や遺伝学の成果によれば、
グスク時代と言われる中世以降の沖縄人は、
本土の日本人とあまり変わらない。

この知見が、先の自己像文の、

 本土日本人と同じかもしれないけど、独立国家をつくった。

のうち、「本土日本人と同じかもしれないけど」の部分の、
後押しになっている。

しかし、これは単に認識の変化というに止まらない。

沖縄の人にとってこの知見は、
「日本人にならなければならない」あるいは、
「日本人ではないのかもしれない」という
という脅迫からの自由をこそ意味している。

この自由さは、この本で大切にされているものだ。

 ○ ○ ○

ただ、その結果、沖縄の自己像はより一層、
琉球王国にアイデンティティの根拠を求める結果になっていると思える。

 本土日本人と同じかもしれないけど、独立国家をつくった。

のうち、「独立国家をつくった」が、より強調されているのだ。

 かつて、南西諸島には「琉球王国」という独立国家が
 存在していました。

 沖縄が日本本土(ヤマト)とちがった文化や伝統を持ち、
 また自分たちを「ウチナーンチュ(沖縄人)」だと
 強く意識する背景には、
 歴史的に独自の道を歩んできたことがあります。
 日本とは別個の国家をつくりあげたことが
 「琉球・沖縄」のアイデンティティの形式に決定的な
 意味を持っているのです。
 言ってみれば、近代以前の沖縄の歴史は
 「琉球王国」の歴史だったわけです。

沖縄人は本土日本人と変わらないかもしれない。
けれど、沖縄人は、日本とは別の独立国家を持ったのである。
それが、根拠になっている。

さて、それでは『目からウロコの琉球・沖縄史』は、
琉球王国が脚光を浴びた90年代よりも、
もっとごりごりの国家論を展開するのかといえば、
必ずしも、そうではない。それが面白いところだ。

むしろ、これまでの二つの“絶対”が相対化されているのだ。

ひとつは、薩摩に対し隷属一辺倒だったわけではない、
という対薩摩関係の相対化である。

もうひとつは、奄美の発見による、
沖縄本島中心史観の相対化である。

対日本人との区別を取り払うことで、日本人との緊張を解く。
そして対薩摩関係も緊張を少し解き、
奄美の発見による内省で、
本土と沖縄の寸分たがわぬ組み込みの間に隙間が生まれる。

この隙間に風が吹き込み、自由な感じが生まれる。
この自由さは、遊びを生み、本の帯に見られるような
「昔むかし、琉球の人々は、ターバンを巻いていた?!」
という雑学さながらのコラムを産み出した。

この自由と遊戯が、この本が支持を受けている理由だと思う。

 ○ ○ ○

ところでぼく自身は、歴史の時間を新しくとれば、
沖縄人が日本人と変わらなくなるのは、
交流はあるのだから、そうなっても不思議はないと思う。

その一方、

 南西諸島がひとつの「琉球文化圏」として形作られはじめるのは
 10~12世紀頃から、日本でいえば平安時代に当たります。
 それまでの南西諸島は「奄美・沖縄文化圏」「先島文化圏」
 に分かれて両者の交流は全くなく、長く漁労採集の時代が
 続いていました(貝塚時代)。

として、交流の断絶を言うのは、
歴史の固定化ではないかと思ったりする。

そして、琉球王国も、アイデンティティの根拠には
ならないのではないかと思える。
沖縄のアイデンティティにはなるのかもしれないけれど、
少なくとも琉球弧のアイデンティティにはなれないのではないか。

琉球王国に根拠を求めれば、
それは、それこそ本土日本と代わり映えのしない歴史であり、
対抗の論理にしかならないのではないかと思える。

しかし、いまそのことを声を大にして言いたくない。

 ○ ○ ○

この本の楽しさ、そして何より、
「奄美人の目」からいえば、
奄美諸島史の成果を素直に受け止めるやわらかさを大切にしたい。

それは今までなかなか聞けなかった声ではないだろうか。

ぼくは、本の終盤、いつもの沖縄中心の自己像に終わるのかと思いきや、

 これまで沖縄は”ヤマト中心史観”に対して異議を申し立て、
 自らの「琉球」の歴史を復権させる試みを続けてきました。
 しかし、当の批判者である沖縄自身が実は”沖縄島中心史観”
 におちいっていた面があったのではないでしょうか。
 奄美諸島の歴史はこのような考えを見直す、
 ひとつのキッカケを与えてくれるように思います。

と、結ばれていて、ほっとしたのだった。

たとえば、沖永良部学の高橋孝代さんが、
自身の研究対象を「奄美・沖縄」というとき、
学的な正確性への真摯さを感じる。

また、『しまぬゆ』の著者が、「奄美・琉球」というとき、
「琉球」から「奄美」を無理やり引き剥がす窮屈さを感じる。

そして、この本の上里さんが「琉球・沖縄」というとき、
「琉球」のなかでも「沖縄」を中心に扱うという
限定の断り書きのように感じられた。

この率直さが、この本を風通しよくしていると思う。
楽しい本だ。



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2007/06/04

察する力-琉球弧の場力

『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
口承文芸研究の坂田さんの論考で幕を閉じる。

これはいい幕引きだと思った。

坂田さんは、アイヌの口承文芸は、
記述中心の従来の歴史学では敬して遠ざけられる存在だが、
それこそが近代日本国家のレトリックに回収されない価値があると言う。

沖縄の歴史も、アイヌの口承文芸のように、
既存の枠組みに絡め取られない多元性が必要だ。

割愛のし過ぎだけれど、
そうして、坂田さんは、「おわりに」として書く。

 多元性を確保すること、その上で再び関係性を構築すること、
 そのために私たちは、生きた人間の感情や思いを察することのできる
 能力を模索しなければならない。
 多元的な歴史を叙述するための努力とは、
 身勝手な自意識に立てこもることやめ、他者を察し、
 より良い関係を築くために必要とされる前提作業なのである。

ぼくは、この、「おわりに」の終わりが好きだ。

それというのも、坂田さんの言う「察することのできる能力」こそは、
琉球弧の場の力ではないかと思えるからだ。

触れることがそのまま優しさであるような他者との関係。
それは日本のどこでも、ちょっと前までは、
隣近所の生活実態をよく知っていたから、
当たり前のように存在していた。
相互扶助と、いまは概念化された言葉として呼ぶものだ。

琉球弧の場は、そんな相互扶助はもちろんあった。
だが、琉球弧の場の力は、人間関係の察知に止まらない。
それは、近代が優位においた人間以外の存在、
動物や植物、そして無機物、他界にまで及んだ。

人以外の存在のことばを察することができること。
それこそは、アイヌに通じる琉球弧の場の力だと思う。

坂田さんは、沖縄の歴史が過去に価値を求めることに否定的だけれど、
琉球弧の魅力は、その原始・古代からの場の力を、
保ち続けることにあると思う。それこそ桁違いの過去に。

それは回顧の価値ではない。
ぼくたちが失いかけているものを、
ぜひとも未来に獲得したいものとしてある価値だ。

坂田さんが「多元的歴史認識」のために必要としているものは、
その価値に通じる。

琉球弧の場力とは、人と人以外の存在への察知の力である。



  琉球弧・重なりあう歴史認識
Photo_75














【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



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2007/06/03

「里帰り」から「方言」へ

米国ブラウン大学のスティーブ・ラブソンは、
「在関西のウチナーンチュ」
(『琉球弧・重なりあう歴史認識』)で、
関西へ移住した沖縄人の本土体験を明らかにしている。

移住の動機、本土での体験、集落の始まりと発展、
県人会の組織化、同化への圧力と抵抗などを取り扱う。

職を求めた本土への移住、そこでの差別・偏見と、
それゆえアジールとなった県人会など、
記述が物語るのは、近代琉球弧の島人の困難そのものだ。

ところでぼくは論考の中身以上に、
その語り口が印象に残った。

それは、外国人の立場から取り組んでいることに関わる。

これを読んでいると、何というか、
いつもはどの書き手からもやってくる、
あの、感じがない。

それは、言ってみれば、語りの情念である。
差別に対する憤りや諦念といった、
琉球弧論につきまとう、あの感じがない。
情念の抜き取られた差別論なのだ。

議論の補助線として出される例もそうだ。

その一方、いつしか沖縄は「かっこいい」という
イメージを持つようになったがそれには裏面もある。
たとえば、アメリカでは
スペイン系人の「情熱」には「暴力的」があり、
イタリア系人の「ロマンティック」には「不倫だらけ」、
ユダヤ系人の「賢さ」には「ずるさ」が、というように、
ほめ言葉の裏面にネガティブな意味は付着しがちだ。

という具合いで、例の内容が、
ぼくたちが情念を込めにくい遠い世界の話なのだ。
それは、のっぴきならない自身の問題から、
共感をもとにした他者理解の話になる。

 ○ ○ ○

この情念を抜き取られた琉球弧論は、
情念から自由な分、それに引きずられな自由を持っている。
その成果は、アンケート結果にあると思う。

「現在あなたが持っている沖縄とのつながりは何ですか」

たとえば、この問いへの回答。

                【出身者】  【子孫】
□(出身者)>(子孫)
島唄などの娯楽          78(41.1%)  37(33.6%)
県人会参加、活動         73(38.4%)  27(25.5%)
郷土同胞の親戚や友人       97(51.5%)  51(46.4%)
政治的な支援           13 (6.8%)  5 (4.5%)
『タイムス』『新報』などの読書  19(10.0%)  7 (6.4%)
里帰り              134(70.5%)  32(29.1%)

□(出身者)<(子孫)
仕事あるいは実業関係       18 (9.5%)  11(10.0%)
沖縄滞在の親戚や友人      158(83.3%)  93(84.5%)
方言、料理などの文化や習慣    85(44.7%)  67(60.9%)
儀式や祭り            72(37.9%)  47(42.7%)
三線、流舞などの勉強       37(19.5%)  27(25.5%)
高校野球の応援         99(52.1%)  65(59.1%)
その他              4(2.1%)   9(8.2%)

複数回答した選択肢を、(出身者)>(子孫)のものと、
(出身者)<(子孫)のものに分けてみた。

(出身者)>(子孫)は、
「子孫」に比べて「出身者」の比率が高いもの。
(出身者)<(子孫)は、
逆に「子孫」に比べて「出身者」の比率が低いものだ。

これを見ると、「出身者」が「子孫」を上回る最たるものは、
「里帰り」だ。

ぼくも渦中の者だからよく分かるけど、
琉球弧への里帰りは高くつく。
経済的に問題なしとするのは決して楽なことではない。
でもそれが「つながり」の確認のトップに来るのは、
それこそが里帰りだとも言えれば、
琉球弧の魅力だとも言えよう。

当然、「子孫」になれば、
里帰りする場の有無と経済から、比率は落ちてくる。
「出身者」からみれば寂しい現象だろうだがやむを得ない。

他には、「島唄」、「県人会」など、直接的なものが
つながりの特徴だ。

しかし、「子孫」が「出身者」を上回るものに、
「方言、料理」が筆頭に上がってくるのは面白い。
これは二つとも、「里帰り」を代替するものだと言っていいからだ。

他には、「祭り」などのイベント、
「三線」などの芸能の勉強、
「高校野球の応援」など、「出身者」に比べて、
関係は間接的になるけれど、
固有の文化は大事なつなぎ手になっている。

つながりを維持するものは、
言葉や料理、イベントなど、共有できる「形」なのだ。


※与論でも、「ゆんぬふとぅば講座」の案内が出ている。
応援したい。


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)

多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)

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「奄美フェスタ」の軒先で

「奄美の島々の楽しみ方」の山川さんに
声をかけてもらっていたのだけれど、
まとまった時間がとれなくて、
唄者の公演を聴けそうになかった。

でも、近くで買い物したので、
せっかくだからと寄ってみた。
「奄美フェスタ」だ。

中に入ると、公園は奄美一色だった。
物産も人の顔も。
アマミンチュ(奄美人)がうようよいて、
ぼくはちょっとした帰省気分に浸った。

 ♪ あんが よーさと なぁ いちゃ しゅんがしゅんが

歌声も懐かしく。

で、砂糖きびは、買っちゃいました。
それと、田中一村のアカショウビンをデザインした便箋。


「奄美フェスタ」でも、大島、徳之島は目に付いても、
与論、沖永良部のモノは見つけられなかった。

でもこの際、今日はいいじゃないか。
東京の真ん中で奄美を感じることができて、
嬉しい昼下がりでした。

 
 ※山川さん。ご一緒できずにごめんなさい。


Amamifesta














Amamiconcert












Misesaki
















Kibi














Amamikaze















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六月の空に

六月の晴れた空のもと、
少年は駆けた。

コーナーを腕を大きく振って友と競い、

みんなで百足を演じて、

バトンを受け取り、コーナーを駆ける孤独なランナー。

ピラミッドも決めた。

小学校のときとは違うたくましさを身につけて、
けれどまだまだ少年の子は、
学習院の森の終わりでがんばった。

おつかれさま。格好よかったよ。


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Mukade



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Runner




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2007/06/02

ポストコロニアル

ポストコロニアル。

植民地以後、ということだろうか。

『琉球弧・重なりあう歴史認識』には、
「大城立裕文学におけるポストコロニアル」という論考がある。

書き手は、執筆者紹介を見ると、
日本の大学で日本文学などを専攻する教授で、
リース・モートンという方だ。

これを見て、「ポストコロニアル」というテーマ設定は、
西洋系の外国人の内省から生まれたものだろうか、
という予断が一瞬、過ぎったが、そういうことではない。

高橋さんは、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」で、
ポストコロニアルに関連するパッシング行為を紹介していた。

 パッシング行為 
 社会的に不利な個人の出自を隠し、
 ドミナント社会の構成員になりすますこと。

高梨さんも「琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究」で、

 奄美諸島史の現代社会は、
 「鹿児島県」に帰属した奄美諸島において、
 その植民地的社会構造は完全に解体されたわけではない。
 形骸化しながらも、そうした社会構造は生き延びている。
 そして「鹿児島県」における植民地主義的意識も
 解消されたわけではない。
 無意識の植民地主義的意識は、
 「鹿児島県」に確実に生き延びている。

と指摘していた。

我ながら可笑しいのだが、
奄美や琉球弧が、「ポストコロニアル」や「植民地主義」の
概念のもとに説明されていることが、実は、ショックだった。

ぼくは薩摩の思想に対し、
「薩摩を南島を喰らって明治維新をなしたと認めよ」と主張し、
日本は南島を喰らって近代化を果たし、
いままた南島(沖縄)を喰らって現在を凌いでいると考えるものだ。

「ポストコロニアル」や「植民地主義」より、
毒々しい言葉を使っているとも言える。

それなのに、与論島を取り巻く大きな環境を、
「ポストコロニアル」や「植民地主義」という言葉で
考えたことがなかった。

でも確かに、パッシング行為など、
「ポストコロニアル」や「植民地主義」の文脈を通すと、
すんなり理解できることが多い。

ぼくは実のところ、現実を直視してこなかったのだろうか。

 ○ ○ ○

ここはひとつ、大城立裕文学には悪いが、
論考は脇に置いて、自分の切実さに引き寄せてみる。

7年前、初めて本を書いた時、
プロフィール欄で、自分の名前の次に、
「与論島生まれ」と書いた。

「与論島生まれ」とだけは書きたかった。
というより、ビジネス書のプロフィールに
お門違いだとは承知しているけれど、
それ以外にアピールすることはないような気すらしていた。

こうするのは実のところ、
プロフィールに県名を記したくない思いとセットになっている。
強がっていえば、「わが名に鹿児島県と冠するな」と、
ずっと思い続けてきて、和らぐことはなかった。

それは、自分の駄目さ加減でしかないのだが、
これがぼくのポストコロニアルに対する身体反応なのかもしれない。

 ○ ○ ○

生前の祖父は、本のプロフィールを見て不思議そうだった。
ぴゅーましょーと、
「与論島生まれ」をアピールすることを不思議がった。

祖父の世代だけでなく、
近代以降、本土で出身地を聞かれたくないパッシング的心情は、
多くの島人の心を捉えたものだったに違いない。

その心情の普遍性を知る祖父にとって、
「与論島生まれ」のアピールは考えにくいことだったのだ。

けれど、祖父の感じ方は不思議さが全てだったわけではない。
言葉や表情に表さなかったけれど、
嬉しい気持ちも半分あったろうと、信じる。

ぼくはもちろん、祖父や島の人に喜んでほしかったのだ。

これからもそうだ。

書くこと行うことについて、
泉下の祖父や祖先の島人も喜んでくれるか、
問いつづけるだろう。

だから、ぼくにとってポストコロニアルとは、
ほぐすべき認識の問題であるとともに、
過去と現在の島人が喜んでくれることを通じて、
ぼく自身や与論、琉球弧のこわばりをほどく、
身体的な問題なのだ。



『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)

在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)


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32年ぶりの再会

隣の、同姓の、パラジ(親戚)の、ヤカ(兄)に、会った。
数えてみると、32年ぶりだった。

さすがに分かるだろうかと、
ほんの少し不安だったけれど、
顔を見た瞬間、もう名前で呼び合っていた。
そして、会った瞬間、32年前の小学生の自分たちに戻っていた。

新橋の烏森神社の奥の、
いかにも新橋らしい小料理屋さん。
「有泉」があるという理由で選んだ店だった。

ぼくたちはしこたま食べ、
しこたま有泉を飲み、語った。

ぼくはびっくりした。

与論への想い。
フバマへの想い。
ホテルができたときに爆破したかったこと。
かつての宇和寺を再現したいこと。
戦後奄美で教員になった父を持つ長男であること。
方言が中途半端であること。
与論への溶け込み方、離れ方。

そんなひとつひとつが、嘘みたいに似ていた。
こんなことがあるのだろうか、
と不思議で仕方なかった。

ヤカ(兄)は、与論島だけでなく、
奄美大島にも沖縄にも鹿児島にも住んだことがあるから、
話題は勢い、琉球弧論だった。

ヤカ(兄)は、沖縄と鹿児島からの二重の差別にまっとうに向き合い、
経験から得たものをよきものとして血肉化されていた。

そんな話を聞きながらふと顔をみると、
与論の教育長を務めた富三先生にそっくりで、
ぼくはまるで先生と話しているかのような錯覚を覚えた。

先生と話してみたかったなと思った。

ヤカ(兄)は、自分たちは、
ゆんぬんちゅ(与論人)になりたいと思ってきたけれど、
そんなこと与論の方は当たり前だと
言ってるんだじゃないかとゆっくり口にした。

遠い与論じゃなく、近い与論。
そう思っていていいじゃないか、と。

誰に言ってもらえるわけではない言葉に、
ぼくもただただ頷くだけだった。

誰に言うわけにもいかない、
言っても仕方がないと思ってきた、
取るに足らない自分の孤独が、
何の言葉の努力もなく分かち合えることに、
ただただ信じられない思いだった。

こんなことなら、
親づたいに消息を聞いて済ますだけじゃなく、
さっさと会って語り合えばよかったと思わなくもない。

けれど、機が熟すには時間が必要だったと思うことにしよう。
そして与論島も、変わらず待っていてくれた。
32年間。でも、そんな時間は瞬くほどの間でもない、
と与論は微笑むだろうか。

ぼくたちは親父や祖母同士が親しかった
パラジ(親戚)というだけでなく、与論島という、
あまりに魅力的な出自を持つことの宿命を背負った
アグ(同志)のように思えて、嬉しかった。

オジサンの街の片隅で、小学生に戻れたひととき。
新橋の夜は気持ちよく更けていった。




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2007/06/01

幻の島─琉球の海上信仰

『琉球弧・重なりあう歴史認識』の、
「幻の島」は、とてもいい。

 島に住む人たちは、海の向うの水平線に、
 もうひとつの世界を想像した。
 その世界は、
 ある場合は人間が求めてやまない楽土であり、
 またある場合は恐怖の漂う世界でもあった。

こう、酒井卯作さんは書き起こす。
酒井さんは、琉球弧に流布されているニライ・カナイの表象が、
紋切り型されてしまっているのではないかと危惧している。

 近年、琉球列島で好んで使われるニライ・カナイという
 海上聖地を指す言葉は、こうした島の深い歴史の跡を
 ふり返ってみれば、かなり短絡的で安易に使われて
 いるような気がする。

 島の信仰の歴史も、それを保ってきた人たちの感情も、
 そんな簡単なものではなかったと私は考えているからである。

この問題意識が、「幻の島」には底に流れている。

しかし、酒井さんはそのことを概念の整理によって行うのではない。

実のところ、「幻の島」は、詩情あふれる紀行文だ。
それは実際に、酒井さんが訪れた地の出来事であったり、
伝聞や既存の紀行文を元にしたものもある。

それらは琉球弧のみを舞台に選ばず、
本土にも触手を伸ばしている。

読むにつれ、ひととき延びやかな世界に
引き込まれて、海の向うに抱く思いを
振り返りながら、酒井さんとともに旅をするかのようだ。

それは最後の、老婆の言葉まで続く。

 -悲しかったり苦しかったりすると、
 浜に出て、座って、いつまでも海を見て過ごします。
 そうして広い海を見ていると、自然に心がなごみます-。

 島に住む人にとって、これは目新しい言葉ではない。
 しかし、こうした平凡な言葉の中に、
 海の哲学のすべてが語られているように思う。
 海上信仰の研究もここから出発するのである。

ぼくたちはまるで、柳田国男の『海南小記』や『海上の道』を
読むような愉楽を味わうことができるだろう。


酒井さんは、概念による正否ではなく、
紋切り型からはみ出る海上への想いののびやぎによって、
ニライ・カナイのイメージが紋切り型に堕していることを、
それとなく、けれどしっかりと伝えている。

そして、本質的なところでは、
ともすると「日琉同祖論」や「南島イデオロギー」の議論に
とらわれがちな琉球弧論に対して
問題提起をしているのだと思う。

琉球弧の島の連なりのように、
もっと伸びやかに、もっと自在に、
思考や想いを羽ばたかせていい。

そう、酒井さんの文章は言っているのだ。


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)

大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)




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珊瑚卵ベルトが美しい

石垣島で大量の珊瑚の卵が漂流しているそうです。

昨晩、報道ステーションでもニュースしていましたね。

古館さんは確か、
珊瑚礁にのしかかる危機に対する
珊瑚の抵抗のようにコメントしていましたが、
実際、サンゴのピンク・ベルトの画像をみると、
そんな迫力があります。

それにしても、珊瑚卵漂流の画像、美しいですね。
砂浜の白、珊瑚の海の緑と、珊瑚卵の桃と、
シャーベットを連想するからか、
美味しそうと思ってしまいます。


これが珊瑚の元気の証でありますように。
与論島の珊瑚礁も復活しますように。



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