« 異議申し立ての根拠 | トップページ | この海は空へ続く »

2007/05/23

負けない論理

『しまぬゆ』は、薩摩と琉球による支配を等価とみなし、
それ以前の奄美に対して、肯定的評価をくだす。

 古代・中世の奄美人達は海洋民族として広範囲にわたって
 交易を展開し、高い文化を持ち、豊かな生活を営み、
 おおらかで勇壮な歴史を持っていた。

しかし、これでは古代・中世に
「おおらかさ」と自由を仮託しすぎである。

ぼくもある意味で、奄美の誇るべきは、
その古代性にあると捉えてきた。

古代の世界観は、いまのぼくたちが未来を展望するときに、
近代が殺ぎ落としてきた大切なものへの手がかりを持っていると
思えるからだ。

『しまぬゆ』の「奄美人の目」は、
古代・中世に「おおらかさ」と自由を見る。

でもそれは、回顧にとどまり、
そこから未来的なビジョンを取り出せない。

 ○ ○ ○

結果、『しまぬゆ』の視点は、
勝者の論理に寄り添ってしまっている。

勝者の論理でしかない歴史を、
「奄美人の目」で記述しなおす。
それが「しまぬゆ」の志であったはずだ。

しかし、奄美をかばう根拠を抽出できない分、
著者たちは、奄美・琉球にダメ出しをするのだけれど、
その論拠が、限りなく勝者の論理になってゆくのである。

あの、「大島代官記」の記述のように。

勝者の論理に擦り寄ることはない。
もとより、そんなことをしては奄美は救われない。
奄美は勝者から見れば敗者である。

しかし、「奄美人の目」は、敗者に目をつぶって
勝者の論理を身につけ欺瞞するのではなく、
かといって敗者の論理に身を委ねるのではない。

何の論理か。
「負けない論理」、である。

「負けない論理」をつくる。
負けない「しまぬゆ」をつくるのである。

それが、『しまぬゆ』から受け取る課題だ。



|

« 異議申し立ての根拠 | トップページ | この海は空へ続く »

コメント

ごぶさたです。
『しまぬゆ』についてのエントリの数々、興味深く拝読しています。『しまぬゆ』そのものは未読なのですが、いろいろと考えさせられます。

どうしても勝者の論理でものごとを見てしまうというのは、なかなかつらいとろですね。やはり与えられたものさしから、なかなか完全に自由にはなれない、自前のものさしをまだ持ち得ていないということなのかなあ、と思います。
ただ、これは必ずしも「負けた」「負けている」とか「勝ちたい」という気持ちからではないだろうとも思うのです(虐げられた、軽んじられたという強い思いがあるとしても)。そこに救いがある、新しいものさしを獲得しつつあるんだとまでいうと言い過ぎになるのかもしれませんが、少なくとも新しいものさしを模索している産みの苦しみのように思えます。
もどかしいですね。自前のものさしを得ることができないと、自分たちの歴史をうまくとらえることが、なかなかできない。実は日本の歴史についても、地球の歴史についても、あるいは「個人」についてもそうした試みがなされているのが現代なのかもしれません。

しかし、一見すると袋小路のようにさえ見える言説も、こうやって言及され、繰り返し人の目に触れることで、新しいものさしの獲得に近づいて行けるのではないか、そのためにも、こうした本の刊行には大きな意味があるんだ、と改めて感じます。これ、半分ぐらいは『しまぬゆ』の話ではなくて、自分たちの舌足らずな本についての自画自賛になっちゃってるんですけどね(^^;;

長々と、とりとめもない話を失礼しました。

投稿: kamezo | 2007/05/24 16:41

kamezoさん、コメントありがとうございます。

モノローグは強弁になればなるほど独り善がりを
滲ませているかもしれないので、コメントありがたいです。

もともと山川さんに教えてもらわなければ、
気付かなかったかもしれない『しまぬゆ』。
これも縁と取り組んでみました。

『奄美の島々の楽しみ方』のように、
軽々と朗らかに越えてゆくのが理想だと思っています。

ぼくもまだまだ情念たっぷりなので、
『しまぬゆ』にぶつかると、
大真面目になってしまうのでした。

しなやかなものさしを目指したいですね。


投稿: 喜山 | 2007/05/24 20:01

唐突におじゃま致します。
『しまぬゆ』関連の記事を「泣く思いで」読ませていただいております。
独善の支配を敢行した「薩摩人」の系譜の一人として、「擦り寄ることのない」認識を求めることについては「立つべき地平」は同じでありたいと思います。
「負けない論理」が可能なら「勝っていない論理」もまた必要かも知れません。
これは「勝者」に立脚した詭弁ではありません。なぜなら「薩摩」にもまた「敗者あり」だからです。ここにこそ「未来のビジョン」は目指せるのではないでしょうか?以上、抽象的になってしまいましたが、「対話の基本スタンス」だと受け止めてください。

投稿: houshin | 2007/05/26 19:33

houshinさん、ブログに不似合いなきつい文章に
付き合っていただき、ありがとうございます。

薩摩と奄美に必要なのは、相互理解だと思っています。
薩摩も、弱者の立場のなかでもがいてきた、
位相の似た地域だと思います。

よい対話をさせてください。
コメントありがとうございます。

投稿: 喜山 | 2007/05/26 20:25

「きつい」からこそ腹蔵ないものとの「一種の信頼感」を持っています。忌憚なく述べ立てることこそが最良の前提だと信じるからですが…。
「薩摩」の「周縁性」、さらに「『薩摩の中の』周縁性」といった位相の方もまた大きい問題と思います。
アウトサイドの人々(として記述されてきた)の歴史を書き換えるための言葉が欲しいのは共通の思いだと思えましたので、今後もブログを読ませていただきたいと思います。

投稿: houshin | 2007/05/26 22:46

houshinさん、コメントありがとうございます。

houshinさんのおっしゃる「アウトサイドの人々
(として記述されてきた)の歴史を書き換えるための言葉」は、
奄美と薩摩の相互理解の地平だと思えました。

こんごもよろしくお願いします。

投稿: 喜山 | 2007/05/27 17:31

「ポストコロニアル」の記事を読んでからというもの、自分自身のアイデンティティに、「バッシング」的なものが入っていないのか、もしくは「そのように受け取られること」を全否定できるのかを考えるようになってしまいました。「奄美と薩摩」を「薩摩インナーサークル」にて定立する事自体がそれを示しかねないと思えたからです。しかし、「歴史」は厳然としているのであり、それを乗り越える「与件」としてある以上、受け止めなけねばならないと理解しました。
今、その方策を模索中です。貴ブログ記事を読み進める中でなんとか見出したいと思います。

投稿: houshin | 2007/06/02 23:26

houshinさん、いつもコメントありがとうございます。

「奄美と薩摩」のお題設定はとても大切だと思います。

よい対話をしたいですね。互いのよき未来に向けて。

投稿: 喜山 | 2007/06/03 08:21

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/15148229

この記事へのトラックバック一覧です: 負けない論理:

« 異議申し立ての根拠 | トップページ | この海は空へ続く »