« 日奄同祖論を書き換える | トップページ | アマミンチュ(奄美人)が新鮮 »

2007/05/07

ネガ奄美からポジ奄美へ

与論島が、与論島自身に真正面から向き合ったのは、
2003年、沖永良部との合併問題の時だったと思う。
2003年。そう、つい最近のことである。

同じように、奄美が奄美自身に向き合ったのは、
1952年の復帰運動の時だった。

このとき、奄美・沖縄は占領統治下ではあったが、
琉球政府として統一される。

このことは、薩摩の琉球侵犯以来、
奄美が被ってきた二重の疎外
つまり、文化的共同性と政治的共同性の矛盾が
限定的な形ではあれ消えたことを意味する。

これは奄美にとって待ち望んだ事態ではなかったのか?
三世紀以上続いた困難の解決ではなかったのか?

けれど、このとき奄美は、
そのことを喜ぶのではなかった。

むしろ、

 奄美と沖縄は違う

という方へ顔を向けた。

これは、二重の疎外の出口を、
奄美の人々が、「日本人になる」ことに
求めたからに他ならない。

そしてそれは主体的な選択というより、
やむざる衝迫に押されたものだった。

「日本人になる」ということは、
あらゆる日本人を巻き込んだ近代化のプロセスで、
ひとつ奄美に限ったことではない。

ただ、我をな無くすほどの切実さ、
標準語励行運動の激しさは、特異だと思える。
しゃにむに雪崩れ込んだ島の人の激しさは、
二重の疎外を背景に置いてはじめて、
理解できるのである。

 ○ ○ ○

沖縄による奄美差別の事実もあっただろう。

しかし、仕向けられた側面もあった。
復帰後、琉球政府は、アメリカの指示により、
奄美出身者を公職から追放する。

このことについて、高橋さんは次のように言う。

 奄美の日本復帰が沖縄の復帰運動に影響することを
 懸念したアメリカ側が、奄美と沖縄の住民を分離する意図が
 あったことが窺えるが、それが精神的な分断をも生み出した
 ことは想像に難くない。

これはぼくもそう思う。

奄美と沖縄は向き合う前に訣れていったのである。

 ○ ○ ○

また、奄美の復帰も一筋縄ではなかった。

1952年、北緯27度線を境界とし、
復帰するのは、徳之島以北で、
沖永良部と与論は対象外という記事が、
毎日新聞に掲載される。

そこでできたのが「日本復帰の歌」である。

 一 なぜに返さぬ永良部と与論
   同じはらから奄美島
   友ようたおう復帰の歌を
   我等血をはく この思い
 二 なんで返さぬ永良部と与論
   同じはらから返すのに
   友よ叫ぼう我等の熱を
   我等黙って居られようか
 三 何で捨てよか復帰の希望
   返す返さぬ熱次第
   友よ励まし手に手をとって
   熱い熱意で進むのだ

ぼくは、このときの毎日新聞の記事が
何を根拠になされたものか、関心を持つ。
まるで、復帰に無頓着な永良部と与論の尻に
火を付けるような効果をもたらしている。

このとは宿題として置いておこう。

話を戻して、この詞を読むと、
「同じはらから奄美島」と歌われるけれど、
「はらから」の中身は迫ってこない。

むしろ、奄美としての統一感が損なわれるというより、
置いてきぼりへの危機感が伝わってくる。

復帰運動は、奄美が奄美自身に向き合う契機だったが、
奄美とは何かを突き詰める動きは生まず、
「脱琉入日」と言われたように、
日本人化への契機としてつかまれたのだった。

奄美は、ネガ奄美に止まったのである。
ぼくたちは、この「ネガ奄美」を「ポジ奄美」へ
変換する課題を持っている。

でもそれはきっと楽しいテーマに違いない。
『奄美の島々の楽しみ方』が楽しいように。



|

« 日奄同祖論を書き換える | トップページ | アマミンチュ(奄美人)が新鮮 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/14969861

この記事へのトラックバック一覧です: ネガ奄美からポジ奄美へ:

« 日奄同祖論を書き換える | トップページ | アマミンチュ(奄美人)が新鮮 »