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2007/05/18

屈服の論理

『しまぬゆ』の著者が、「大島代官記」を読み下して、
要約文も書いてくれている。ありがたい。

 述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。
 殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、
 何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。

 琉球国は元来日本の属国である。御当家島津忠国公の時代、
 永享四年(一四三二)忠勤の褒美として
 尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。
 中山王(琉球国王)はその礼を守り、
 綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨
 誓い通い来ていた。

 ところが琉球国三司官の内の一人蛇名親方が、
 短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、
 当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、
 往来無き事二年に及び、当時の中納言家久公が
 これを将軍家康に言上し、薩隅日三州の軍勢を催し、
 琉球国を成敗するために差し向けた。
 大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉
 両将数千騎の軍士を差し渡し、
 慶長十五年酉四月速やかに退治した。
 
 この時より初めて琉球を治める在番を定め、
 離島には守護代官をおき、
 そして領地を割譲して年貢を納めさせた。

 嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、
 故に天のなせる禍は避けられるが、
 自らなせる災いは避けられない。
 蛇名一人の考えの足りなさから、
 永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
 今では昔を慕うことは無益というものであろう。

みなさん、どんな印象だろうか?

ぼくは、これはてっきり薩摩の代官が書いたものと思った。
でもそれは間違いで、解説を見ると大島の役人が書いたものだという。
何度も確かめてみたのだけれど、
これは薩摩の役人ではなく、大島の役人の手になるものだ。

 ○ ○ ○

『しまぬゆ』ではこう解説されている。

 代官記序文は奄美大島の知識人が
 日本民族として最初に自覚した文章とされている。
 藩政期に薩摩から海外と呼ばれ、
 同質化することを拒絶されながらも、
 先祖を同じくする同報として捉えようとした。
 島津氏の武力による制服支配に必ずしも納得していなかったが、
 「謝名親方が逆心を企てたことにより成敗された」
 と思うことにより、屈辱的な現状を受け入れ、
 勝者の論理に盲目的に服従する
 奴隷の精神とは異質な
 敗者の論理を構築して昇華しようとしたのである。
 (『しまぬゆ』)

ぼくはこの解説に全く頷くことができない。
「代官記序文」が薩摩の役人の文章に見えるのは、
これを書いた大島の役人が、
薩摩の勝者の論理を内面化した結果である。

被支配者なのに、
支配者の論理を受け入れ内面化することによって、
表出された文章である。

これは、「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」
というようなものではなく、
奄美の知識人として微塵の抵抗も感じられない
「屈服の論理」以外の何物でもない。

屈服は薩摩支配による諦念の深さを物語るが、
支配とは、被支配の知識人が
支配者の論理を内面化することによって成り立つとは言えても、
「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」と
言えるような代物ではない。

 ○ ○ ○

しかも、薩摩支配を、
謝名親方個人の責に帰するような言い方をしている。
琉球側は、「謝名親方」の無礼が薩摩を怒らせて侵略を招いたという。
一方の薩摩は、「謝名親方」の無礼を成敗したと異口同音に言う。

事態は逆で、薩摩がそう言うから、
奄美・琉球は、その原因を内面化したかもしれなかった。
「代官記序文」を読むと、そう推測することもできる。
もしそうなら、薩摩は内心馬鹿にしたに違いない。

しかも、薩摩も琉球も、「謝名親方」の文字を、
「邪名」や「蛇名」と、悪口のように貶めた書き方をしている。
こんな個人攻撃で事態を理解するのは幼稚きわまりない。

 ○ ○ ○

事態を避けられないものとして受け入れ、
生きることを優先しながらも、
しかし、奄美の知識人として
抵抗した痕跡は認められない。

 永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
 今では昔を慕うことは無益というものであろう。

文末、このくだりだけが、
書き手が奄美人であることを連想させるが、
抵抗に至る通路があるとしたら、
「昔を慕」い、昔を忘れないことが手がかりになっただろう。

「代官記序文」の書き手は、
仮にも奄美の知識人の任を負うなら、
ここで文章を終えるのではなく、
奄美人としての記憶を記述してほしかった。

どうしてか。
そうすることが、それから長らく逆境で辛酸を舐めることになる
後世の奄美人を大きく励ましたに違いないからである。
いやことによれば、逆境をはねのける力を、
抵抗の記述が差し出すことができたかもしれないのだ。

それは果たされていないとしたら、
そのツケはぼくたちが支払わなければならない。

当時の奄美人を慰撫し、現在の奄美人を励ますために。



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コメント

屈服の論理、私もまったく同感であります。
私は謝名親方(鄭迵)一族の末裔でありますが、
琉球史古本中山世鑑でも謝名親方のことを「邪名」と
書いてあります薩摩の査閲があったことは間違いないのですが、いまだに薩摩との戦をまねいた張本人であると
悪くいう人は少なくありません。
当時の豊臣秀吉の二度の朝鮮出兵、関が原の合戦等から
薩摩の台所事情を考えれば、琉球を我が物にせんとかねがねうかがっていた薩摩がここぞとばかりに琉球進行したことはわかりきった事、むしろ奄美を割譲しろという薩摩に敢然と
断り、小国ながら琉球国の誇りを誇示せんとする謝名親方
を称えるべきであると思います。

投稿: 屋宜 勲 | 2008/09/30 00:33

屋宜さま

コメントありがとうございます。
ちょうど別のところで、「ぼくたちは、謝名に対する筆誅を解かなければならないのではないでしょうか」と書いたばかりだったので、びっくりしました。

今の沖縄ではどういう評価を受けているのか、知らずにいたのですが、未だにそうなのですか。

名誉回復、あってしかるべきですね。

投稿: 喜山 | 2008/09/30 08:46

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