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2007/05/24

母なる奄美

母なる奄美。

ぼくが考えたコピーではない。
『鹿児島県の歴史』(1999年)にある言葉だ。

Kagoshima













 母なる奄美

ぼくはびっくりした。引いてみよう。

 琉球王国は国際的には独立国家の体裁を保ち、
 中国との朝貢貿易を行っていたが、
 国内的にはその土地と人民を薩摩藩が支配している。
 琉球王国領であった奄美諸島は、
 薩摩藩の直轄地として分離され、
 琉球王国と薩摩藩のあいだの「道之島」と称されるようになった。

 この奄美産の黒砂糖が薩摩藩の財政直しの大黒柱となるのである。
 亜熱帯性の産物の豊富な奄美は、
 薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった。
 (『鹿児島県の歴史』1999年)

鹿児島の奄美に対する認識が、
「母なる奄美」というまで進んだのか。
そのことが、驚きだった。

 ○ ○ ○

20年近く前、同名の『鹿児島県の歴史』(1973年)を読んで、
ぼくは、「死んだ感受性がとぼけている」と書いたことがある。

そこにはこう記されていた。

 強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、
 日本国中に弱肉強食がおこなわれて、
 結局徳川将軍による幕藩体制に
 組みいれられることになったのである。
 これまで同じ日本民族でありながら、
 南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、
 慶長十四年の征琉の役以後、
 日本の統一政権下にはいったといえる。
 隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に
 併合されたということは、
 琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、
 もし征琉の役がなかったら、
 琉球は中国の領土として、
 その後の世界史の進展のなかでは、
 大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。
 (原口虎雄『鹿児島県の歴史』1973年)

いま読んでも、すさまじい開き直りと思考停止と脅迫の論理である。

・薩摩は日本の他の場所と同じ強者の論理を行使したまで。
・同じ日本民族なのに琉球だけ別になっていた。
・薩摩の侵略が無かったら、琉球は中国になっていただろう。

これは、薩摩藩の代官の文章ではない。
近代の、しかも戦後の、1973年の文章なのだ。

原口はこれに飽き足らず、続ける。

 せいぜい封土的支配の欲求は薩摩に近い
 奄美諸島の割譲ぐらいと考える。
 黒糖の生産が慶長末年におこって島津藩のドル箱になったから、
 結果的に、琉球の封土的支配のもたらした利益は大きかったが、
 それは征琉の役時点では、まだ予想されないものであった。
 (同前掲)

原口の開き直りがこう言うに及んで、
ぼくは、「死んだ感受性がとぼけている」と考えたのだ。

以来、高を括り、
ぼくは鹿児島人による歴史書を読まなくなった。

この強者の論理を解体させることこそは
やらなければならないことだった。

それだからなおさら、
この本の「母なる奄美」という表現には、
隔世の感を覚える。

時代は進んでいたのだ。


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