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2007/05/21

沖永良部の抵抗

薩摩は、奄美大島、徳之島の次に、沖永良部島に侵入する。
しかし、沖永良部では戦闘は無かった。
そのことを、『しまゆぬ』の著者は、こう解説している。

 薩摩郡の侵攻以来、「この地を馬鹿島尻と称するようになった」
 という地名由来譚が語られるようになるが、一説には薩摩軍船
 が西海岸沖に現れると、武器を持たない島民達は「熱い粟粥を
 炊いてぶっかけ、火傷を負わせれば、追い払う事ができる」と語
 り合い、大量の粟粥を炊き、もうもうと湯気の立ち上る鍋を渚から
 村口まで並べ、敵軍の上陸を待った。

 薩摩軍船は夕暮れを待って海岸に押し寄せた。
 浜に上がった軍勢は無数に並べられた鍋の中に、
 丁度いい加減に冷めた粟粥が満たされているのを見て
 我先にと鍋に手を突き込んで粟粥をすすり、
 粟粥は薩摩軍を追放させるどころか逆に元気づけ、
 これを見た村人は驚き呆れて降伏した。

 何一つ抵抗せず降伏した村人に薩摩軍は
 「手向かいもせずに降参する馬鹿共」と言ったという。

 この馬鹿島尻村の伝承は現在の正名集落だと言われている。
 明治二十二、三年の頃に
 この差別的な呼称から正名に改称したというが、
 おそらく「バーシマジ」と呼ばれた焼き畑地の総称に、
 馬鹿尻という漢字地名が当てられ、
 地名由来がこじつけられたのではないかという。

この後、この正名集落への船舶での上陸は、
潮と海路から考えるに無理があるとして、
「伝承のような事実はなかったろう」としている。

 (中略)
 最近発表された沖永良部の島唄「アンマメグワ」の歌詞に
 「血を流さずに和睦した」とする下りがあるようだ。
 沖永良部首之主は大和浜や喜界島の大親同様に
 血を流さずに和睦に応じたものと思われる。

 また戦争に粟粥を使ったとする伝承は、
 徳之島でも琉球首里近くの村でも語られている。
 おそらく村に侵入する悪霊や災いを防ぐため、
 粟粥を炊いて神々に祈っていた神人達の儀式が、
 このような伝承を生んだのであろうとされている。

『しまぬゆ』の随所で感じることだけれど、
かばうべきものがかばわれていない気がする。

かばうべきものとは、もちろん、奄美である。
そしてかばう視点が、「奄美人の目」であるはずだ。

しかし、『しまぬゆ』の「奄美人の目」は、
奄美をかばいきれていない。

この、薩摩の沖永良部侵攻にもそれを感じる。

 ○ ○ ○

沖永良部は、抵抗したのである。

それは、雨乞いにも通じる呪力による闘い方だった。
沖縄ではノロが呪詛の言葉を薩摩の軍船に浴びせている。
それと同じことである。

それが自然・世界との関わり方だったということなのだから、
その闘い方を迷信として片付けて済ますのは間違いだ。

それを認めれば、
バーシマジリは伝承ではなく事実と見なしても構わない。
恥ずかしいと思うことでもなく、
言葉で世界を変えることができる
人間と世界の関わり方を保存していることを
誇ってもよいことがらだ。

ぼくには、『しまぬゆ』の著者が、
この伝承を恥ずかしく思い、
それゆえ事実ではなかったろうとかばっているように見えるが、
そうしなくもてよいのに、と感じる。

むしろ、この伝承が生まれる背景にある島の世界観を
指摘すればいいのにと思う。

それが、沖永良部をかばうことではないのか。


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