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2007/05/15

都は鄙の辺境

「南島と大和」の引用から始める。

 阿麻彌人は南島の珍しい産物を大宰府に運んだ。
 しかし、奄美の人々に大和に服属・追従しているという
 感覚はなく、単なる交易のために行ったという認識
 だったのかも知れない。
 大和人が阿麻彌人の生活に何ら影響を与えることはなかった。

 鄙という語がある。都から離れた辺境の地をいう。
 地球は丸く、辺境といえども決して行き止まりではない。
 辺境は異なる価値観を持った異域が始まる世界である。
 遣唐使船の南島航路から考えれば、
 南西諸島の方が大和より遥かに中国に近い。

 奄美諸島の七~八世紀に位置づけられる遺跡から、
 奄美諸島在来の兼久式土器とともに
 唐代の開元通宝が出土するなど、
 この頃には奄美諸島は大和ばかりでなく
 大陸とも交流を行っていた。
 東シナ海をめぐる内外の動きは活発化しちたのである。

 南島には大勢の人と大量の物産を積むことのできる船舶があり、
 遠洋航海のできる航海術と操船術があった。
 そこには国家領域に縛られない航海の民として、
 自由に東西南北を往来していた奄美の人々の
 おおらかな姿だけが浮かんで見える。
 (『しまぬゆ1』

「奄美人の目」はこうでなくていい、と思う。

まず、大和が奄美の生活に何ら影響を与えることはなかった、
と断言する必要はない。

丁寧に言えば、ほとんど影響を与えることはなかったろうが、
「何ら」と絶縁に持ち込むことは要らない。
しかもそれを大宰府に足を運んだ奄美人の内面を
仮定してまで言わなくてもいい。

鄙を異域と言挙げする必要もない。
鄙は都から見た辺境だが、
鄙からみれば、鄙は中心であり、
都は鄙にとっての辺境に位置する。

わざわざ、辺境を「異域」の始まりとして言わなくてもいい。

また、確かに遠洋航海する奄美人におおさかさを認めることは
できるけれど、「おおらかな姿だけ」と、
これまた限定する必要もない。

 ○ ○ ○

同じ章で似たくだりに出会う。

 大和朝廷から夷人雑類に位置づけられた
 阿麻彌人は海洋の民である。
 交易の品々を積み、ためらうことなく大海原に押し出した。
 海に乗り出すことは
 天に羽ばたくことと同じだった。
 (『しまぬゆ1』

海に乗り出すことが、
「天に羽ばたく」ことと同じだったはずがない。

当時の奄美人はたしかに、
今のわたしたちには信じられないほど、
自在に海原を巡った人々であるに違いない。

琉球弧が孤島に分断された後に、
島々を渡ってきたことを考えただけでも、
信じられない思いがする。

ただそれと同時に、
柳田國男が『海上の道』で想定しているように、
島から島に渡るのには、潮の流れを一年待って旅立つような、
忍耐を必要とした命がけの行為だったことも確かだと思える。

 ○ ○ ○

わたしは別に『しまぬゆ』の労をくさしたいわけではない。

ただ、古代奄美に、
「大和との絶縁」と「自由」の根拠を置くのは、
ロマンティシズムだと思える。

ロマンティシズムが悪いわけではないけれど、
ここは、リアリティを欠いている。

そうしなくても、
奄美の独立と自由の根拠を探していくことはできるはずだ。

そんなに窮屈に「奄美人の目」を設定しなくていい。
そう、これを書いた、
うじゃたー(おじさんたち)に声かけたくなるのだ。



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