都は鄙の辺境
「南島と大和」の引用から始める。
阿麻彌人は南島の珍しい産物を大宰府に運んだ。
しかし、奄美の人々に大和に服属・追従しているという
感覚はなく、単なる交易のために行ったという認識
だったのかも知れない。
大和人が阿麻彌人の生活に何ら影響を与えることはなかった。
鄙という語がある。都から離れた辺境の地をいう。
地球は丸く、辺境といえども決して行き止まりではない。
辺境は異なる価値観を持った異域が始まる世界である。
遣唐使船の南島航路から考えれば、
南西諸島の方が大和より遥かに中国に近い。
奄美諸島の七~八世紀に位置づけられる遺跡から、
奄美諸島在来の兼久式土器とともに
唐代の開元通宝が出土するなど、
この頃には奄美諸島は大和ばかりでなく
大陸とも交流を行っていた。
東シナ海をめぐる内外の動きは活発化しちたのである。
南島には大勢の人と大量の物産を積むことのできる船舶があり、
遠洋航海のできる航海術と操船術があった。
そこには国家領域に縛られない航海の民として、
自由に東西南北を往来していた奄美の人々の
おおらかな姿だけが浮かんで見える。
(『しまぬゆ1』)
「奄美人の目」はこうでなくていい、と思う。
まず、大和が奄美の生活に何ら影響を与えることはなかった、
と断言する必要はない。
丁寧に言えば、ほとんど影響を与えることはなかったろうが、
「何ら」と絶縁に持ち込むことは要らない。
しかもそれを大宰府に足を運んだ奄美人の内面を
仮定してまで言わなくてもいい。
鄙を異域と言挙げする必要もない。
鄙は都から見た辺境だが、
鄙からみれば、鄙は中心であり、
都は鄙にとっての辺境に位置する。
わざわざ、辺境を「異域」の始まりとして言わなくてもいい。
また、確かに遠洋航海する奄美人におおさかさを認めることは
できるけれど、「おおらかな姿だけ」と、
これまた限定する必要もない。
○ ○ ○
同じ章で似たくだりに出会う。
大和朝廷から夷人雑類に位置づけられた
阿麻彌人は海洋の民である。
交易の品々を積み、ためらうことなく大海原に押し出した。
海に乗り出すことは
天に羽ばたくことと同じだった。
(『しまぬゆ1』)
海に乗り出すことが、
「天に羽ばたく」ことと同じだったはずがない。
当時の奄美人はたしかに、
今のわたしたちには信じられないほど、
自在に海原を巡った人々であるに違いない。
琉球弧が孤島に分断された後に、
島々を渡ってきたことを考えただけでも、
信じられない思いがする。
ただそれと同時に、
柳田國男が『海上の道』で想定しているように、
島から島に渡るのには、潮の流れを一年待って旅立つような、
忍耐を必要とした命がけの行為だったことも確かだと思える。
○ ○ ○
わたしは別に『しまぬゆ』の労をくさしたいわけではない。
ただ、古代奄美に、
「大和との絶縁」と「自由」の根拠を置くのは、
ロマンティシズムだと思える。
ロマンティシズムが悪いわけではないけれど、
ここは、リアリティを欠いている。
そうしなくても、
奄美の独立と自由の根拠を探していくことはできるはずだ。
そんなに窮屈に「奄美人の目」を設定しなくていい。
そう、これを書いた、
うじゃたー(おじさんたち)に声かけたくなるのだ。
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