« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007/05/31

「琉球民族」は存在するか

『琉球弧・重なりあう歴史認識』に、
高橋さんは、「『琉球民族』は存在するか」と題して
論考を寄せている。

問い:琉球民族は存在するか。
解答:存在しない。日本民族が存在しないのと同じように。

ぼくは思わず、そう答えて、
高橋さんもそう説いているのだろうと思いながら、
読んでみると、必ずしもそうではなかった。

 さらに、国連の先住民作業部会に<琉球民族>は
 先住民族であると主張し代表を送っている奄美、沖縄の
 若い世代の主張を無視してはならない展開である。

 なぜなら、たとえ「民族」は、
 (国家が「想像の共同体」であるように)
 「想像上の旗印」にすぎないにしても、
 <琉球民族>の主張が、
 国家という外部からの「名付け」ではなく、
 新たな内部からの民族の「名乗り」だからである。

「『琉球民族』は存在するか」は、こう結ばれていて、
ぼくは好ましく思った。

概念の正否でことを判断しない、
しなやかな視線を感じた。

 ○ ○ ○

高橋さんはエスニシティの視点と呼んでいる。

エスニシティ。

耳慣れないので、辞書を見ると、新語として登場している。

 エスニシティー【ethnicity】
 共通の出自・慣習・言語・地域・宗教・身体特徴などによって
 個人が特定の集団に帰属していること。

ということは、ぼくが与論島の出身者として
「与論」に属していると感じていること、
また、それを拡大すると、「奄美」に属していると感じること、
さらに、地域の自然・文化の親和性から拡張すると、
「琉球弧」に属していると感じること。

これらは、エスニシティと理解していいということだろうか。
そう、受け止めてみる。

高橋さんは書いている。

 エスニシティは国民国家の枠組みの中で、
 ドミナント集団に対し、少数派のエスニック・グループが
 自集団に対して示す帰属性の総体であり、
 「日本人」と「沖縄人」の民族的起源の同一性を強調する
 日琉同祖論とは相容れない考え方である。

高橋さんの解説を受けとめると、
エスニシティは、民族論に回収されず、
その手前に止まるための概念であり、
また、民族の解体表現であるように見える。

高橋さんは、エスニシティという概念を手にすることによって、
沖永良部を単体で取り上げる論拠を得たのかもしれない。


ぼくは長いこと、与論島のことを書きたいと思ってきた。
けれど、何をどう語ればよいのか分からなかった。
与論島は歴史には登場しないことをもって旨とし、
島人も自己主張しなことを旨とすると言わんばかりで、
取るに足らない存在と自己規定しているように思えてくるのだった。

ただ、与論島に感じる、
あの得も言われないとろける感じは無類で、
他に代わるものがないことは、
何にも増して確かだった。
ぼくはその実感に固執してきた。

沖永良部の隣島に出自を持つ者として、
高橋さんの論考は、ぼくのやりたいことの先行に見えた。

それは嬉しい出会いだ。

『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)

幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/30

ゆんぬ・与論・ヨロン2

『琉球弧・重なりあう歴史認識』で、
与那覇さんは、近代糸満人の表象史を扱っている。

近代沖縄で「糸満人は異人種である」とする説が登場する。
この説は糸満人が西洋人であると含意したものだった。
来沖して物議をかもした河上肇の
「琉球糸満ノ個人主義的家族」という論文は
それに拍車をかけてしまう。

そもそもポジティブだった糸満人のイメージは、
ネガティブなものに転じ、揺れるが、
やがて門中の研究を通じて、
家族主義的であることが言われるようになり、
そして戦争という機会が、日本人化の契機を与え、
「糸満人は異人種である」であるとする表象が消えてゆく。

与那覇さんはその流れを追っている。

 ○ ○ ○

この表象史は、近代において、
「日本人ではない」という本土からの表象に悩む沖縄・琉球が、
その内部に、「沖縄人ではない」という表象を
生み出した背景を連想させる。

「日本人ではない」という表象は、
戦争を契機に、戦争のさなかにおいては、
「日本人」という表象に解消され、
沖縄・琉球が、その内部に外部を持つ必然性が
無くなった過程とみることもできる。

 ○ ○ ○

表象史というテーマを、
ぼくは自分にとって切実な
「与論」の表象史として受け取ってみよう。

与論を、島の人は「ゆんぬ」と呼ぶ。
「ゆんぬ」は口承のなかで生きてきた。
「ゆんぬ」は、琉球・薩摩の島外からの政治的共同性が
かぶさったときに「与論」になり、文字としても表記される。

近代与論において、
「与論」の公的な意味は、本土化を意味するようになる。

そこで、島の表象は、
標準語としての「与論」と、
与論言葉としての「ゆんぬ」に分裂する。

与論島の内部においては、
生活空間としての「ゆんぬ」と、
公的空間における「与論」の二重性が存在した。

「与論」は、標準語世界という意味では、
日本人を表象するものだから、
島人にとっての活路だったが、
本土からみれば、ネガティブな表象のなかにあったので、
本土のなかでは、隠したいものでもあった。

「与論」は、そういう島人のきつさを表してもいた。
そして、糸満人と同じく「与論人」も、
戦争期、その表象は「日本人」のなかに解消されたかにみえた。

しかし、戦後もこの二重性は生きる。
与論言葉と標準語の盛衰と同様に、
そこでは、衰退する「ゆんぬ」と、強化される「与論」としてあった。

ただ、「ゆんぬ」はもともと与論言葉の
長い時間の蓄積を持った世界なのだから、
その衰退はきついものだった。

その表象に変化が現れる契機になったのは、観光である。

ここで、与論には、三つ目の表象が加わる。
それは、カタカナの「ヨロン」である。
ヨロンの表象には幅があった。

ひとつは、沖縄復帰前の日本最南端の地としてのヨロン。
ついで、復帰後は、沖縄とセットのヨロン・オキナワのなかのヨロン。
そしてそれだけでなく、海外旅行が大衆化されて以降、
プーケットなどの海外のリゾート地と並んであるヨロン。

この三つのヨロン表象の幅は、
ぼくも体験したものだ。

日本最南端の地としてのヨロンは、
全学連委員長、唐牛健太郎が一時期、
潜伏したこともあったように、隠れ家的な意味を持った。

それが、オキナワ・ヨロンになると、
途端に明るい海と空の観光地イメージに取って代わる。
浜辺に行けば、東京弁や大阪弁の若者たちと触れ合うことができた。
彼らはきれいな珊瑚をみかけるとお土産に取っていったりと、
おおらかに自然を壊してもくれたが、親切で優しかった。

少年期に味わった浜辺でのヨロン表象は明るく朗らかなもので、
それが鹿児島のなかで味わう与論表象の暗くきついものとは
対象的だった。

ヨロンはそれに止まらず、オキナワとセットの位置から遊離し、
南の島として浮遊しはじめる。
それは、プーケットの隣にあるかもしれない島としてあった。
当時、ぼくは、ヨロンはどこの国?と聞かれることもあった。

しかし、この場合、近代初期の島人が、
どこの人?と聞かれるのとは違い、むしろ楽だった。

沖縄に近い、沖縄ではない、鹿児島県に属する。
などの正確だけれど、言うほうも不満が残る散文的な説明より、
どこか分からない日本か外国かも分からない
南の島という表象は、投身しやすかった。

「ヨロン」として軽さ、明るさを知り、
「与論」の重さ、暗さはやわらいだ。

与論表象史でいえば、
「与論」と「ヨロン」のイメージの対照性と、
(与論)>(ヨロン)から(与論)<(ヨロン)への逆転劇は、
最大の転換点だった。

この転換は、おそらく、
瀕死にあった「ゆんぬ」に
再び視線を向ける契機にもなったのだ。

関連記事:「ゆんぬ・与論・ヨロン」


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)

「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/29

隆起せよ「島の身体」

『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
琉球弧の民俗学が立ち会っている困難を教えてくれる。
吉成さんは解説している。

比嘉政夫によって1996年、「琉球民俗学」が提唱される。
けれど、現在までのところ本格化していない。

比嘉によれば琉球民俗学は、
具体例を見ていくと一般化は困難である。

一方、民俗学は他地域との比較によって成り立つとする。
琉球民俗学は本土の民俗学と比較されなければならない。
では、比較というけれど、比較するときに、
琉球とはこういうものであるという同質性は
何によって担保されるのか?

その回答は比嘉にない。

それはきっと日琉同祖論によって、
本土との奥底での同質性を担保することでなしている。

沖縄の具体例をみると一般化はとても無理と思っているのに、
本土とは比較できると言うし、
比較するときは琉球はまるで一般化されたようにイメージしている。
それは、本土とも同質だし、
琉球内部も同質であるという前提があるからだ。
その前提を用意しているのが、日琉同祖論である。

日琉同祖論では、
琉球は本土から分化したものと見なされる。
だから、琉球に古代日本をみる見方を定着させてしまった。
過剰に古代本土的に言われてきたきらいがないわけではない。
それは本土研究者の責任もあるが、
やっかいなのは、日琉同祖論を推進したのは、
伊波普猷はじめ沖縄の人々だった。

 したがって、「琉球民俗学」の構想のなかには、
 従来の「日琉同祖論」による成果を一旦破棄し、
 破棄されることによって生じる空白部分を埋める作業
 から行う必要があるのではないか。
 「日琉同祖論」からの訣別という過程を踏んで、
 はじめて「琉球民俗学」の道が拓かれるのではないかと思う。

 「琉球民俗学」を構想する前に、
 少なくとも「奄美民俗学」「沖縄民俗学」「宮古民俗学」
 「八重山民俗学」のあり方が考慮されてしかるべきである。

こうみてくれば、琉球民俗学が、
その名称の魅力にもかかわらず深化していない理由は、
門外漢のぼくにもおぼろげながら見えてくる気がする。

きっと、琉球弧を構成する島々にとって、
切実で魅力的な枠組みに映らないのだ。

 ○ ○ ○

ぼくはこのアポリアを突破する鍵は、
地図の視点を解体することだと思う。

この一帯は自分たちのものにしようという支配者の論理から、
こことここは近いから一括りにするという、
行政区分や文化の論理まで、
地図の視点を止めることだ。

言い換えれば、
ひとつひとつの島がクニであるという視点にするのである。

島は、ひとつでクニである。
島は、ひとつでクニであり、世界であり宇宙である。
そのことが踏まえられなければならない。

個々の島の民俗が、まず語られなければならない。
奄美民俗学でも広すぎる、のである。

檻だったら外から開けることができる。
でも、島の民俗学は、内側からしか開けることができない。
内側からというのは、出自を意味しない。
島の出身者でなければ資格はないことではない。
また、他の島との比較が第一義なのでもない。
誰であろうが、井の中をどこまでも掘り下げて、
共感と洞察で島の民俗を取り出したら、そのとき扉は開くだろう。

だから、関係性を担う島の主体をつくる、というより、
「島の身体」を浮かび上がらせることがテーマになる。

近年の奄美考古学の成果も
この視点が寄与したものではないだろうか。

ひとつひとつの島の身体を明らかにすること。
それが民俗学の政治性を解体する方途でもあると思う。


『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)

「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/28

奄美の胎動

「奄美諸島史の憂鬱」で、高梨さんが、
「言語」か「方言」か、と問いかけている。

与論島では、自分たちの言葉を「与論言葉」と呼んでいる。
「ゆんぬふとぅば」で、それを標準語にすれば、
「与論言葉」になるわけだ。

菊秀史さんが『与論の言葉で話そう』と、
「与論の言葉」を書名に選び、
「与論語」とも「与論方言」ともしなかったのは、
日常、「ゆんぬふとぅば」(与論言葉)と言っているからだと思う。

ぼくは、身びいきを込めていえば、
「与論方言」と、本体の存在を前提にした言い方でもなく、
「与論語」と気負うでもなく、
ただ、その存在を指摘しただけのような
「与論言葉」という表現の、
いかにも与論落ちのつつましい佇まいが好きだ。

与論だよなぁと思う。

 ○ ○ ○

もとい。「言語」か、「方言」か。
ぼくの感じ方は、「方言」、だ。

といっても、標準語を前提にした「方言」ではなく、
"汎方言観”とでも言えばいいだろうか。

この世には方言しかないから、
当然、琉球方言になる、とでもいうような感じ。

標準語は、江戸を中心とした関東方言、
いま世界は、イギリスの方言を採用している。
そんな見方だ。

「民族」は確定できないと考えるのと同じように、
他から全く独立した「民族語」も確定できない。
全て連続性のなかにあるという仮説から思っていることだ。

ぼくは英語は中途半端にしか喋れない。
与論言葉は、英語ほどではないが、やはり中途半端にしか喋れない。
世相はグローバルを謳い、
英語を標準語として指定しつつあるようにみえる。

けれど、ぼくの汎方言観から言うと、
菊さんに弟子入りして、しっかり与論言葉を覚えたら、
英語に取りかかってみてもいい。

呑気な言い草かもしれないが、
どうしてもそんな順番になる。

 ○ ○ ○

それにしても、

 これまで沖縄考古学の研究成果では、琉球王国成立以前における
 「外来者」の問題は認められないとされてきました。発掘調査結果
 という「実証的」「事実」から帰納された考古学的「歴史」こそが、
 沖縄本島における自立的発展の結果、国家形成に至るという
 沖縄中心の歴史理解を生み出し、支えてきたのです。

というのはびっくりする。

外来者がないわけはないし、
交流がないわけがない。

それは、ごくごくふつうに考えてそうだろう。

高梨さんの言う「沖縄中心の歴史理解」は、
「日琉同祖論」の反作用にみえる。

「日琉同祖論」系譜の記述を見てびっくりするのは、
琉球弧には、本土から南下する以前には、
まるで人っ子一人いなかったような書き方をすることだ。
「沖縄中心の歴史理解」は、まるでその反動だ。

 ○ ○ ○

80年代から90年代にかけて、
沖縄の表現が、沖縄を越えて届くようになったとき、
ぼくは心底、嬉しかった。

当時の表現の水準は、
沖縄というローカリズムに頼らなくても
心を打つ普遍性を獲得していると思えた。

奄美はそうなれるだろうか。
奄美がそうなるにはもっと時間がかかるだろうな、と思った。

NHKが大河ドラマで『琉球の風』を組んだときもそうだ。

どうも男性というのは、
ある一定年齢以上になると時代物に夢中になるらしい。
ぼくの身内もそうだ。
やれ、秀吉がどう、齊藤道三がどう、とやたら詳しいのである。

しかし、こと与論島や琉球のことになるとどうだろう。
何か質問すると、日本歴史に対する豊富な知識はどこへやら、
「さあどうしてだろうね。昔からそうだったんじゃないかね」
止まりなのである。

そこへ『琉球の風』、である。
ああこれで、うじゃたー(おじさんたち)が繰り広げる
歴史の饒舌な語りに、
自分たちのことも加わると期待したのだ。

しかし、当然といえば当然のこと、
与論島が出てくるわけでもなく。

そしてそれは当り前にしても、
時を同じくして発せられる沖縄からのメッセージが、
琉球王国をアイデンティティの根拠にしているのを感じるにつけ、
鼻白んでいくのをどうしようもなかった。

誤解を怖れずに言えば、ずいぶんシンプルだなと思った。

日本が国民的規模で沖縄へ理解の触手を伸ばした時に、
沖縄から差し出される沖縄像が、
琉球王国至上に傾斜するのが残念だった。

沖縄自身による沖縄理解が、
琉球王国止まりになりませんようにと願った。

 ○ ○ ○

けれど、沖縄自身による沖縄理解の限界が見えても、
ぼくは、それを相対化するものを対置できたわけではない。

だから、高梨さんが、
「外来者」の証拠が奄美から出た考古学の成果をもとに、

 この数年で奄美諸島史を含みこんだ琉球史の枠組は、
 相当に変化してくると思います。

こう言及してくれるのは、頼もしい。

奄美の時代の胎動を感じるではないか。




| | コメント (2) | トラックバック (1)

ふるさと与論へのギフト

「ふるさと納税」が、
「ふるさと支援構想」など、別名を検討しているという。

別名検討の根拠は、
記事だけからは分からないのだけれど、
自分の気持ちに引き寄せると、
この構想の意味は、
ふるさとへのギフトにあると思う。

もう20年近く前、
県庁勤めの公務員が、
鹿児島は人材を東京に多く出しているのだから、
東京からお金をもらいたい、
と言うのを聞いて唖然としたことがある。

県庁勤めの公務員は、
県の中で水準の高い給与を享受していながら、
県外へ人材を流出させている責任を
棚に上げているのではないかと残念に思ったのだ。


ただ一方で、産業の高次化とともに、
第一次産業よりは第二次産業、第三次産業のほうが、
富が集まりやすい資本主義の傾向はある。

第三次産業が集積している地域のほうが、
第一次産業を担う地域より富が集中しやすい。

そのアンバランスを是正するには、
富の集中する場所からの贈与が必要だと思う。

今回の、「ふるさと納税」構想は、
富のバランス解決としての贈与を、
個人のギフトの感覚に添うように実行できるのがいいと思った。

今後も行方を追っていきたい。


「ふるさと納税を与論へ」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/27

奄美諸島史の主体化

『琉球弧・重なりあう歴史認識』は、
高梨修さんの論文から始まる。

高梨さんは、奄美・沖縄に共通してある考古資料として、
グスクを取り上げている。

そして、「名瀬市グスク詳細分布調査」を担当し、
四五個所に及んだグスクについて、
その地形、構築物の形態、年代を実証的にたどり報告している。

その成果は、文書の希少な奄美諸島において、
歴史をひもとく意義を持つものだ。

ぼくには、グスク名称の有無、形態の相違、地形の相違を
明らかにしたことが、
グスクの概念と実態の幅の広さが迫ってくるようで、
ひときわ関心を引いた。

事実は、ゆるぎない。
そんな力がある。

 ○ ○ ○

ぼくなど、グスク(城)は、
与論の言葉で言えば、
ウガン(御願)との対比で考えてきた。

宗教的共同性の中心地であるウガンが、
その胎内から政治的共同性を分離するにいたったとき
グスクと呼ばれるようになる。

だから、グスクの起源は、
宗教的共同性の場、聖地に求められる。

言い換えれば、ウガンは聖地そのものであり、
聖地の境界から集落の広がりを生んだ地域をグスクと呼ぶ。

だから、グスクは聖地周辺を指すこともあれば、
首長の城郭を表すこともあれば、
政治的中心地にある集落を指すこともある。

空間としても時間としても、
ウガンの終わるところからグスクが始まるのである。

でもこれは、ぼくの乱暴な仮説に過ぎない。

高梨さんの調査結果は、
こうした勝手な仮説に、
勝手を許さない事実を突きつけて心地いい。

 ○ ○ ○

高梨さんは、奄美諸島のグスク調査を通じて、
沖縄のグスク考が、本島の研究に基づき奄美を理解するものであり、
また、鹿児島の奄美グスク理解も、
沖縄のグスク考を援用しているものが多いとして、
奄美主体の研究の意義を指摘している。

そして、言うのだ。

 まず、沖縄県側からみるならば、一六〇九年以前の奄美諸島史は、
 琉球王国が奄美諸島を統治しているので、
 「沖縄県と共通する歴史(鹿児島県と相違する歴史)」として
 認識されるのである。
 しかし、一六〇九年以後の奄美諸島史は、
 薩摩藩が奄美諸島を統治しているので、
 逆に「沖縄県と相違する歴史(鹿児島県と共通する歴史)」
 と認識されるわけである。

 次に鹿児島県側からみるならば、一六〇九年以前の奄美諸島史は、
 琉球王国が奄美諸島を統治しているので、
 「鹿児島県と相違する歴史(沖縄県と共通する歴史)」として
 認識意されるのである。
 しかし、一六〇九年以後の奄美諸島史は、
 薩摩藩が奄美諸島を統治しているので、
 逆に「鹿児島県から離別される歴史(沖縄県と相違する歴史)」と
 認識されるわけである。

 それから鹿児島県側における奄美諸島史について、
 琉球王国統治時代以前の
 「鹿児島県と相違する歴史(沖縄県と共通する歴史)」とは
 琉球文化地域の歴史であり、
 「鹿児島県から離別される歴史」なのである。
 また薩摩藩統治時代以後の
 「鹿児島県と共通する歴史(沖縄県と相違する歴史)」とは
 植民地支配の歴史であり、
 「鹿児島県から封印される歴史」なのである。
 
 さらに奄美諸島側からみるならば、
 琉球王国統治時代以前の段階とは、
 文字史料がほとんど残されていない
 考古学研究が中心となる段階である。
 当該段階は、すでにグスク研究の事例にみてきたように、
 沖縄県側の考古学研究が中心で、
 奄美諸島は補助的立場に置かれている。
 「沖縄県と共通する歴史」ではあるが、
 その周縁の歴史に位置づけられているわけであり、
 沖縄県側からの接近は弱いのである。
 また「鹿児島県から離別される歴史」であるから、
 鹿児島県側からの接近も弱いのである。
 結局、奄美諸島史における考古学的成果については、
 研究姿勢がきわめて虚弱であるといえる。

奄美諸島史を、
沖縄県と共通する歴史から鹿児島県と共通する歴史と、
単純線型に捉えるのではなく、
沖縄県と共通するが周縁である歴史から、
鹿児島県から封印される歴史であるとして構造化している。
そこにはねじれがある。

ぼくたちは、奄美は、
かつて、こんな風に、奄美の二重の疎外に届く言葉を
投げかけてもらえたことがあっただろうか。

高梨さんの言葉は、
二重の疎外でまちぶった(もつれた)糸を
ほぐそうとしている。

ぼくたちは、こわばりがほどけて、
心が開くのを感じる。

 奄美諸島史の現代社会は、
 「鹿児島県」に帰属した奄美諸島において、
 その植民地的社会構造は完全に解体されたわけではない。
 形骸化しながらも、そうした社会構造は生き延びている。
 そして「鹿児島県」における植民地主義的意識も
 解消されたわけではない。
 無意識の植民地主義的意識は、
 「鹿児島県」に確実に生き延びている。

 本稿は、沖縄県側の考古学研究を中心に、
 奄美諸島史をめぐる歴史認識について考察してきたが、
 「鹿児島県」を基盤に営まれてきた考古学研究についても、
 「植民地主義以後」の課題から考察しなければならないと考えている。
 いくつかの意味で、筆者自身にも過酷な作業となるが、
 別稿で考察を果たしたいと決意している。

その通りだと思う。
二重の疎外は、まだ解けきれていない。
それは解かれなければならないと、ぼくは考える。

高梨さんが過酷を承知で、決意を語るとき、
それを支援しない理由がないのである。

こういう人を持つにいたった奄美の幸運、
いや幸運と言いたくなければ魅力を、喜ぼう。

奄美は高梨さんから励ましを受け取る。

こんどは、奄美が高梨さんを励ます番だと思う。



『琉球弧・重なりあう歴史認識』

【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)

関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/26

琉球弧・重なりあう歴史認識

高橋孝代さんの論文はインターネットで読むことができたし、
遠慮しとこうかなぁ、なにしろ高いしと、
一度は書棚に戻したのだけれど、
ややあって、やっぱり読まなきゃと
手にしたのがこの本だった。

  琉球弧・重なりあう歴史認識
Photo_75












この本には、「沖縄研究のアポリア-歴史認識の多元化を求めて」
というタイトル案もあったそうだ。

でも最終的には、
 『琉球弧・重なりあう歴史認識』に落ち着いてよかった。

こちらのほうが、広がりや前向きなトーンが出るというものだ。

そしてその名の通り、
この本からは、従来の沖縄本には無かった響きを聞くことができた。

そのことをこれから少しでも紹介できたらと思う。

「琉球弧」認識は、ようやく内実を持ちつつあるのかもしれない。


【目次】

琉球弧をめぐる歴史認識と考古学研究
-「奄美諸島史」の位相を中心に
(髙梨修)
関係性の中の琉球・琉球の中の関係性
(吉成直樹)
「糸満人」の近代
─もしくは「門中」発見前史
(與那覇潤)
「琉球民族」は存在するか
─奄美と沖縄の狭間・沖永良部島をめぐる研究史から
(高橋孝代)
幻の島─琉球の海上信仰
(酒井卯作)
大城立裕文学におけるポストコロニアル
─ハイブリッドとしてのユタ/ノロ
(リース・モートン)
在関西のウチナーンチュ
─本土社会における歴史と差別・偏見体験
(スティーブ・ラブソン)
多元的歴史認識とその行方
─アイヌ研究からの沖縄研究の眺め
(坂田美奈子)




| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/05/25

明治維新を越えること

ところでぼくは、『鹿児島県の歴史』(1999年)
「あとがき」に、

 旧版『鹿児島県の歴史』を父原口虎雄が一人で執筆したのは、
 私が学生時代の昭和四十八(一九七三)年であった。

とあるのを見て、もう一度、驚いた。

ぼくは、この本をAmazonで買ったので、
「あとがき」は手元に届いてはじめて目にしたのだ。

隔世の感を覚えた認識の進み行きは、
父と息子の世代を渡ることで遂げられていたのだ。

 ○ ○ ○

「奄美人の目」から見た薩摩の思想の課題は、
明治維新を越えることである。

いつまで経っても西郷隆盛。
薩摩の思想は、明治維新止まりだからである。

「奄美人の目」から言えば、
薩摩の思想が明治維新を越えるには、
薩摩は、南島を喰らうことによって、
明治維新で何事をなしたということを認めることだ。

「母なる奄美」の文章は、こう続く。

 外様大名ながら、近世島津氏は石高でいえば
 加賀前田氏につぐ天下第二の大藩であり、
 しかも初代島津氏忠久を源頼朝の庶長子と称して
 守護、守護大名、戦国大将と続く系譜をほこる
 名門であった。琉球王国という「異国」支配は
 さらに島津氏の権威を高めるものであった。

 稲作生産では劣位であっても、薩摩藩は
 「琉球口」という徳川幕府公認の中国との
 貿易口を利用して、経済的に活路をみいだし、
 天保改革に成功じ、幕末には雄藩として
 登場するのである。

「母なる奄美」という認識は、
南島を喰らうという本質を、
美名のもとに隠していないだろうか。

「母なる奄美」と述べる次には、
雄藩としての薩摩藩という誇らしげな口吻に移るに際して、
すり替えを感じないではいない。

でも今、「母なる奄美」と口にした
原口泉の見識をすぼめるまい。

ここから先は、「奄美人の目」からの働きかけが
必要なのだと思う。対話の働きかけが。

原口泉の『鹿児島県の歴史』は1999年に上梓されている。
前世紀の出来事だ。

今世紀の対話はこれからである。

※記事:「母なる奄美」


追記
『鹿児島県の歴史』(1999年)は、
「奄美諸島史の憂鬱」のおすすめがあって、読む気になった。
感謝したい。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/24

母なる奄美

母なる奄美。

ぼくが考えたコピーではない。
『鹿児島県の歴史』(1999年)にある言葉だ。

Kagoshima













 母なる奄美

ぼくはびっくりした。引いてみよう。

 琉球王国は国際的には独立国家の体裁を保ち、
 中国との朝貢貿易を行っていたが、
 国内的にはその土地と人民を薩摩藩が支配している。
 琉球王国領であった奄美諸島は、
 薩摩藩の直轄地として分離され、
 琉球王国と薩摩藩のあいだの「道之島」と称されるようになった。

 この奄美産の黒砂糖が薩摩藩の財政直しの大黒柱となるのである。
 亜熱帯性の産物の豊富な奄美は、
 薩摩にとってまさに「母なる奄美」であった。
 (『鹿児島県の歴史』1999年)

鹿児島の奄美に対する認識が、
「母なる奄美」というまで進んだのか。
そのことが、驚きだった。

 ○ ○ ○

20年近く前、同名の『鹿児島県の歴史』(1973年)を読んで、
ぼくは、「死んだ感受性がとぼけている」と書いたことがある。

そこにはこう記されていた。

 強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、
 日本国中に弱肉強食がおこなわれて、
 結局徳川将軍による幕藩体制に
 組みいれられることになったのである。
 これまで同じ日本民族でありながら、
 南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、
 慶長十四年の征琉の役以後、
 日本の統一政権下にはいったといえる。
 隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に
 併合されたということは、
 琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、
 もし征琉の役がなかったら、
 琉球は中国の領土として、
 その後の世界史の進展のなかでは、
 大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。
 (原口虎雄『鹿児島県の歴史』1973年)

いま読んでも、すさまじい開き直りと思考停止と脅迫の論理である。

・薩摩は日本の他の場所と同じ強者の論理を行使したまで。
・同じ日本民族なのに琉球だけ別になっていた。
・薩摩の侵略が無かったら、琉球は中国になっていただろう。

これは、薩摩藩の代官の文章ではない。
近代の、しかも戦後の、1973年の文章なのだ。

原口はこれに飽き足らず、続ける。

 せいぜい封土的支配の欲求は薩摩に近い
 奄美諸島の割譲ぐらいと考える。
 黒糖の生産が慶長末年におこって島津藩のドル箱になったから、
 結果的に、琉球の封土的支配のもたらした利益は大きかったが、
 それは征琉の役時点では、まだ予想されないものであった。
 (同前掲)

原口の開き直りがこう言うに及んで、
ぼくは、「死んだ感受性がとぼけている」と考えたのだ。

以来、高を括り、
ぼくは鹿児島人による歴史書を読まなくなった。

この強者の論理を解体させることこそは
やらなければならないことだった。

それだからなおさら、
この本の「母なる奄美」という表現には、
隔世の感を覚える。

時代は進んでいたのだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

この海は空へ続く

ちゃくれさんの写真を見て、
与論島の海はなんといってもわが泣き所。
ちゃくれさんと同じく言葉を失う。時間が止まる。

この海は空へと続く。
そう感じられるときは、
島は小さくはなく、
どこまでも広がるようだ。


思えば、島は包まれている。

リーフに弾ける潮が、
シーブリーズになって、島を包み込む。

そして、海が空へと連なって、
大きな蒼が島を包み込む。

この感覚は、ニライカナイに通じるのかもしれない。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/23

負けない論理

『しまぬゆ』は、薩摩と琉球による支配を等価とみなし、
それ以前の奄美に対して、肯定的評価をくだす。

 古代・中世の奄美人達は海洋民族として広範囲にわたって
 交易を展開し、高い文化を持ち、豊かな生活を営み、
 おおらかで勇壮な歴史を持っていた。

しかし、これでは古代・中世に
「おおらかさ」と自由を仮託しすぎである。

ぼくもある意味で、奄美の誇るべきは、
その古代性にあると捉えてきた。

古代の世界観は、いまのぼくたちが未来を展望するときに、
近代が殺ぎ落としてきた大切なものへの手がかりを持っていると
思えるからだ。

『しまぬゆ』の「奄美人の目」は、
古代・中世に「おおらかさ」と自由を見る。

でもそれは、回顧にとどまり、
そこから未来的なビジョンを取り出せない。

 ○ ○ ○

結果、『しまぬゆ』の視点は、
勝者の論理に寄り添ってしまっている。

勝者の論理でしかない歴史を、
「奄美人の目」で記述しなおす。
それが「しまぬゆ」の志であったはずだ。

しかし、奄美をかばう根拠を抽出できない分、
著者たちは、奄美・琉球にダメ出しをするのだけれど、
その論拠が、限りなく勝者の論理になってゆくのである。

あの、「大島代官記」の記述のように。

勝者の論理に擦り寄ることはない。
もとより、そんなことをしては奄美は救われない。
奄美は勝者から見れば敗者である。

しかし、「奄美人の目」は、敗者に目をつぶって
勝者の論理を身につけ欺瞞するのではなく、
かといって敗者の論理に身を委ねるのではない。

何の論理か。
「負けない論理」、である。

「負けない論理」をつくる。
負けない「しまぬゆ」をつくるのである。

それが、『しまぬゆ』から受け取る課題だ。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007/05/22

異議申し立ての根拠

『しまぬゆ』の著者の視点は、「あとがき」に明瞭だ。

 奄美の古代・中世は一国民族史観や単一民族史観では
 語れないものがある。人々は国家の境界意識などまった
 く持っていなかった。奄美大島の「アマ」は「水平線の彼方」
 の意を表すものと考えられているが、その名に違わず、
 古代・中世の奄美人達は海洋民族として広範囲にわたって
 交易を展開し、高い文化を持ち、豊かな生活を営み、
 おおらかで勇壮な歴史を持っていた。
 奄美社会からそのおおらかさが消えたのは
 琉球王府による再三の大島諸島遠征であり、
 島津氏の琉球侵攻だった。

 琉球服属時代を「楽土の世」と喧伝する人々がいるが、
 奄美の人々が呻吟し虐げられたのは何も薩摩時代ばかりではない。
 琉球史で忠臣とされる護佐丸は
 与論島や沖永良部では鬼より怖い存在だった。
 泣きじゃくる子供の居る家には必ず働き盛りの壮士がいるとして、
 子供の泣き声を聞いて築城人夫を狩り出していったという。

 竜郷町の瀬留には琉球軍が攻めてきた時、村人が山奥
 に隠れていると、カチャマタ(鍛冶屋又)で白い鶏が鳴いた、
 こんなところに鶏がいるのはきっと人が隠れているに違い
 ないと、琉球軍は探索の手を緩めることなく探し回り、
 村人を引き出して皆殺しにした。人々はあの鶏さえ鳴か
 なかったらと恨みながら死に、それ以来この村では白い
 鶏が育たなくなったとの伝承がある。

ぼくは、著者の「奄美人の目」では、奄美をかばいきれないと思う。
著者は、薩摩と琉球による奄美支配を同等に扱っている。
しかし、そもそも薩摩による奄美支配と、
琉球による奄美支配とではその意味が異なる。

琉球による奄美支配は、
地勢と自然と文化の同一性を根拠に、
その内部から起きた国家形成の造山運動と見なせる。

しかし、薩摩による琉球支配は、
地勢と自然と文化の同一性からは遠い、
外部からの支配を意味していた。

それゆえ、奄美には二重の疎外が生まれる。
薩摩と琉球の支配に差異を見出さなければ、
奄美を長らく患わせてきたことの本質を
つかむことはできないのである。

 ○ ○ ○

 焚書坑儒は支配者の常套手段である。琉球軍の大島侵攻
 によりそれまでの歴史は塗り替えられ、薩摩藩時代には
 元禄六年(一六九九)を皮切りに、琉球辞令書や諸家計図・
 古文書類の差し出しが再三命ぜられ、その古文書類を収蔵
 した保管庫が火事により消滅、あるいは記録奉行が焼却
 したと言われ、現在残っている史料はその写しや収集を
 免れたものだけだとされている。

ぼくは、一六〇九年を扱った『しまぬゆ』が、
原始・古代から書き起こしているにも関わらず、
終わりは、薩摩による戦後処理で止めていることに
不徹底を感じる。

焚書坑儒を「あとがき」で触れるに止めているけれど、
奄美の二重の疎外が完成していくのは、
薩摩による奄美支配の過程においてである。

その過程を俎上にのせなければ、
二重の疎外の構造が浮かび上がってこない。
それはつまり、薩摩に対して、
何を異議申し立てするのかという根拠が
抽出できないということである。

琉球王国による奄美支配も薩摩藩による奄美支配も、
外から余計な勢力がやってきて
余計な支配をしてくれたという点では、
日本のどこの地域とも似たり寄ったりと言えるかもしれない。

異議申し立ての根拠はそこにはない。

奄美による薩摩への異議申し立ての根拠は、
近世国家による領土拡張以上の薩摩の欲望にある。

・対奄美の収奪の強度
・歴史的記述の没収による過去の断絶
・大和風服装の禁止による未来の断絶
 (大和風を着たかったという意味ではない)

この三つの強制により、奄美は、過去とのつながりを断たれ、
未来の像も断たれ、永遠の「今」のなかで、
困難のみを背負わされたのである。

これが、二重の疎外を確たるものにした要因である。

四世紀を経て、それがなぜ問題なのか。
それは、二重の疎外が、
いまだに解けていないからである。

解けないものは解かなければならない。
四世紀経とうが、時間は関係ない。
解かなければ、
奄美が真に前向きに生きてゆくことは難しいではないか。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

与論島をBMRする

『10年商品をつくるBMR』という本を書きました。

マーケティングの本ですが、
与論のことを考える上でもとても役に立ちます。
BMRでは、マーケティングを、

 消費者のウォンツ(欲求)と
 製品のベネフィット(価値)を結びつけること

と定義しますが、

タビンチュ(旅人)のウォンツと与論島のベネフィットを結びつける。

と考えれば、まさに与論島のテーマです。

 10年商品をつくるBMR

Bmr












たとえば、BMRを使って地域ブランドとしての与論島を仮説してみます。

----------------

■E(Environment) :環境

・休暇を使って、農村や自然環境を「体験」するだけでなく
 「滞在」する旅行者が増えている。
・グリーンツーリズムが提唱されている。

■T(Target) :ターゲット

・ここ10年間の沖縄本島移住者

■O(Occasion) :オケージョン

・お盆と正月

■W(Wants) :ウォンツ(欲求)

・本島の近場で静かに過ごしたい。

■B(Benefit) :ベネフィット(価値)

・那覇、本部からすぐに行けて、珊瑚礁の海を堪能しながら、
 止まったような時間を味わえます。

■A(Attribute) :製品属性

・本部から船で3時間、那覇から5時間。
・那覇から飛行機で40分。

・島のどこからでも珊瑚礁の海が眺められる。

■P(Product) :製品

・与論島
   
■R(R&D) :技術

・珊瑚礁からの潮風が島を包み、時間をゆるやかにします。


■C(Competitor) :競合製品

・沖縄の離島

■D(Distributer) :流通チャネル

・船、飛行機

----------------

となって、この場合の、与論島のコンセプトは、

「与論島」は、「本部から船で3時間、那覇から5時間。
那覇から飛行機で40分で行けて、
島のどこからでも珊瑚礁の海が眺められる」ので、
「那覇、本部からすぐに行けて、珊瑚礁の海を堪能しながら、
止まったような時間を」を提供します。

と、なります。

上の整理が正解だというわけではなく、
こう整理することで、こうしようああしようの議論がしやすくなる、
という意味です。

よかったら、使ってみてください。
「与論をどうしよう」のテーマが考えやすくなります。

目下、アマゾンから発売しています。
『10年商品をつくるBMR』



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/21

沖永良部の抵抗

薩摩は、奄美大島、徳之島の次に、沖永良部島に侵入する。
しかし、沖永良部では戦闘は無かった。
そのことを、『しまゆぬ』の著者は、こう解説している。

 薩摩郡の侵攻以来、「この地を馬鹿島尻と称するようになった」
 という地名由来譚が語られるようになるが、一説には薩摩軍船
 が西海岸沖に現れると、武器を持たない島民達は「熱い粟粥を
 炊いてぶっかけ、火傷を負わせれば、追い払う事ができる」と語
 り合い、大量の粟粥を炊き、もうもうと湯気の立ち上る鍋を渚から
 村口まで並べ、敵軍の上陸を待った。

 薩摩軍船は夕暮れを待って海岸に押し寄せた。
 浜に上がった軍勢は無数に並べられた鍋の中に、
 丁度いい加減に冷めた粟粥が満たされているのを見て
 我先にと鍋に手を突き込んで粟粥をすすり、
 粟粥は薩摩軍を追放させるどころか逆に元気づけ、
 これを見た村人は驚き呆れて降伏した。

 何一つ抵抗せず降伏した村人に薩摩軍は
 「手向かいもせずに降参する馬鹿共」と言ったという。

 この馬鹿島尻村の伝承は現在の正名集落だと言われている。
 明治二十二、三年の頃に
 この差別的な呼称から正名に改称したというが、
 おそらく「バーシマジ」と呼ばれた焼き畑地の総称に、
 馬鹿尻という漢字地名が当てられ、
 地名由来がこじつけられたのではないかという。

この後、この正名集落への船舶での上陸は、
潮と海路から考えるに無理があるとして、
「伝承のような事実はなかったろう」としている。

 (中略)
 最近発表された沖永良部の島唄「アンマメグワ」の歌詞に
 「血を流さずに和睦した」とする下りがあるようだ。
 沖永良部首之主は大和浜や喜界島の大親同様に
 血を流さずに和睦に応じたものと思われる。

 また戦争に粟粥を使ったとする伝承は、
 徳之島でも琉球首里近くの村でも語られている。
 おそらく村に侵入する悪霊や災いを防ぐため、
 粟粥を炊いて神々に祈っていた神人達の儀式が、
 このような伝承を生んだのであろうとされている。

『しまぬゆ』の随所で感じることだけれど、
かばうべきものがかばわれていない気がする。

かばうべきものとは、もちろん、奄美である。
そしてかばう視点が、「奄美人の目」であるはずだ。

しかし、『しまぬゆ』の「奄美人の目」は、
奄美をかばいきれていない。

この、薩摩の沖永良部侵攻にもそれを感じる。

 ○ ○ ○

沖永良部は、抵抗したのである。

それは、雨乞いにも通じる呪力による闘い方だった。
沖縄ではノロが呪詛の言葉を薩摩の軍船に浴びせている。
それと同じことである。

それが自然・世界との関わり方だったということなのだから、
その闘い方を迷信として片付けて済ますのは間違いだ。

それを認めれば、
バーシマジリは伝承ではなく事実と見なしても構わない。
恥ずかしいと思うことでもなく、
言葉で世界を変えることができる
人間と世界の関わり方を保存していることを
誇ってもよいことがらだ。

ぼくには、『しまぬゆ』の著者が、
この伝承を恥ずかしく思い、
それゆえ事実ではなかったろうとかばっているように見えるが、
そうしなくもてよいのに、と感じる。

むしろ、この伝承が生まれる背景にある島の世界観を
指摘すればいいのにと思う。

それが、沖永良部をかばうことではないのか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/20

琉球の盾としての奄美

一六〇九年三月四日、樺山久高を大将とする薩摩軍は、
三〇〇〇人の将兵を一〇〇艘の軍船で率い、山川港を出発する。

そして四月四日、尚寧王が首里城を下城。
この間、わずか一ヶ月。

薩摩軍は、奄美大島、徳之島、沖永良部島を順次攻略。
沖縄島に至り、今帰仁、読谷を落とし、那覇・首里を攻める。

奄美大島で最初の戦闘があり、
徳之島では、二〇〇人から三〇〇人の犠牲者を出す。
奄美、最大の戦闘になったという。

ちなみに、ここでも与論島は記述にすら登場しない。

 ○ ○ ○

ぼくは、『しまぬゆ』の薩摩侵攻の過程を読んで、
奄美の果たした役割に思い至る。

奄美は琉球の盾となって薩摩(大和)に対したのだ、と。

薩摩は琉球侵攻の際、まず奄美に侵攻する。
それはものの道理で、大和から琉球に行こうとすれば、
まず、奄美に出くわすからである。

それは地理的条件に過ぎないのだが、
しかし、結果として奄美は沖縄より先に薩摩と戦闘に入る。
奄美大島の人、徳之島の人はそれを意識したわけではないが、
琉球の盾となって、闘ったのである。

盾としての意味は、
侵略後の過程がさらに雄弁に物語る。

奄美割譲と黒砂糖の収奪。
これは琉球からの視点でみると、
奄美は琉球のなかで、
琉球の盾となって薩摩の収奪を、
沖縄以上に一身に受けていた。

そう言えることに、気づく。

 ○ ○ ○

同じ言い方をすれば、
それ以降、世界は沖縄からやってくる。
ペリー提督がそうであったように。
米軍がそうであったように。

そこでは、沖縄は日本の盾となって、
ある犠牲を一身に受けてきた。

そのことは広く知られているし、
現在の問題でもある。

ぼくたちは、そのことに思いを馳せたことはあるけれど、
奄美の果たしたことに思い及んだことは残念ながら無かった。

でも奄美の役割を知ることは大切だ。
奄美は、まず奄美が自分自身を評価することが
何より大切なことであり、
かつ、それが沖縄との対話のなかで、
沖縄に向ける言葉にもなるからだ。

そのことを恩着せとして言うのではない。

奄美は、沖縄と三度の訣れを経験したきた。
しかし、実はそれだけではなく、
図らずも、沖縄の盾になったこともあった。
知らぬ顔を決め込んできただけではないと
言えるのではないかと思うのだ。

このことを相互に知ることは、
再会の対話をするうえで、必要なことだと思える。
それが奄美と沖縄の、
お互いの関係を知ることにつながるに違いない。

 ○ ○ ○

追記
それにしても、歴史的大事件に登場しなことのうちに、
与論島の心性も形成されてきたに違いない。

沖永良部を出発した薩摩軍が、洋上を通過するのを
恐怖と安堵で眺めたであろう時。

沖縄島に米軍が上陸して戦闘状態になっているのを
恐怖とともに島から見つめた時。

大きな権力にとって、
取るに足らぬ存在というあり方のなかで、
正直で、極端にはにかみ屋で、喧嘩は苦手で、
自己主張はどこかに置いてきてしまったような、
あの優しい心性は培われてきた。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/05/19

侵略の根拠

薩摩の琉球侵略について、著者は分析している。

 琉球首脳部の神頼みはこれに始まった事ではない。
 同様の記述は陳侃以来明代の使録のいずれにも記載されている。
 『球陽』の遺老伝にも「海寇の来侵すること有れば、
 即ち神たちまち其の米を化して砂と為し、其の水を塩と為す。
 あるいは、寇賊をして盲唖たらしめ、
 忽然として颶風にわかに起こり、
 舟みな沈覆崩裂せしむ」とある。
 神国日本を口にした第二次大戦前の日本同様、
 琉球首脳部は本気でそれを信じていたのであろうが、
 これで国家の経営ができるはずがなかった。
 (『しまぬゆ』)

著者はないものねだりをしていると思う。

琉球は内発的には国家を形成する必然性を持たなかったと思える。
その地域に、「国家の経営」を問うこと自体が
空振りした問いではないだろうか。

著者も言うとおり、日本の「神国日本」の認識と同様に、
琉球弧は日本の縮図と言える側面がある。
それならなおさら、琉球首脳部の認識の欠如を問うのは、
自己嫌悪が増すばかりではないか。

むしろこの苛立ちの影に、
薩摩の琉球侵略の根拠が掘り下げられていない。
ぼくにはそのほうがいらだたしく思える。

『しまぬゆ』の記述を手がかりにすれば、
薩摩の琉球侵略は、

・逼迫した藩財政の建て直し
・対明貿易の利益確保

の二重の政治意図を根拠にしていた。

このうち、藩財政の建て直しを、
奄美諸島の割譲によってなそうとするのである。

しかし、薩摩の侵略にはそれ以上の欲望を感じる。
薩摩は、藩の窮状を経済的に解決すること自体を目指したのではなく、
琉球侵略によって、「藩」ではなく、「国家」になることで、
藩の窮状を超克せんと企図したのである。

薩摩は、「藩」としての国家意思以上に、
「国家」としての国家意思を潜伏させていた。
その意思のもと、
琉球弧のおだやかでゆるやかなあり方に
つけ込んだのだ。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

「沖の島」の流れ2

ひょっとして、鳩間島も「沖の島」ですね。
はとま。ぱとぅま、です。

以前、加計呂麻島が、波照間島と、
地名として同一であると仮説してから、
地名の由来である「沖の島」は、
他にもあるのに気づいて、
以下のように、「沖の島」の系譜を仮説しました。

 波照間島    石垣島の沖の島
 多良間島    宮古島の沖の島
 慶良間(諸)島 沖縄本島の沖の島
 加計呂麻島   奄美大島の沖の島

これに、鳩間島も加わります。

 波照間島    石垣島/西表島の沖の島
 鳩間島     西表島の沖の島
 多良間島    宮古島の沖の島
 慶良間(諸)島 沖縄本島の沖の島
 加計呂麻島   奄美大島の沖の島

まことに琉球弧は、「沖の島」の流れなのでした。

Okinoshima2





















※関連記事

「沖の島」の流れ
波照間=加計呂麻
加計呂麻は波照間?


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/18

屈服の論理

『しまぬゆ』の著者が、「大島代官記」を読み下して、
要約文も書いてくれている。ありがたい。

 述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。
 殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、
 何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。

 琉球国は元来日本の属国である。御当家島津忠国公の時代、
 永享四年(一四三二)忠勤の褒美として
 尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。
 中山王(琉球国王)はその礼を守り、
 綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨
 誓い通い来ていた。

 ところが琉球国三司官の内の一人蛇名親方が、
 短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、
 当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、
 往来無き事二年に及び、当時の中納言家久公が
 これを将軍家康に言上し、薩隅日三州の軍勢を催し、
 琉球国を成敗するために差し向けた。
 大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉
 両将数千騎の軍士を差し渡し、
 慶長十五年酉四月速やかに退治した。
 
 この時より初めて琉球を治める在番を定め、
 離島には守護代官をおき、
 そして領地を割譲して年貢を納めさせた。

 嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、
 故に天のなせる禍は避けられるが、
 自らなせる災いは避けられない。
 蛇名一人の考えの足りなさから、
 永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
 今では昔を慕うことは無益というものであろう。

みなさん、どんな印象だろうか?

ぼくは、これはてっきり薩摩の代官が書いたものと思った。
でもそれは間違いで、解説を見ると大島の役人が書いたものだという。
何度も確かめてみたのだけれど、
これは薩摩の役人ではなく、大島の役人の手になるものだ。

 ○ ○ ○

『しまぬゆ』ではこう解説されている。

 代官記序文は奄美大島の知識人が
 日本民族として最初に自覚した文章とされている。
 藩政期に薩摩から海外と呼ばれ、
 同質化することを拒絶されながらも、
 先祖を同じくする同報として捉えようとした。
 島津氏の武力による制服支配に必ずしも納得していなかったが、
 「謝名親方が逆心を企てたことにより成敗された」
 と思うことにより、屈辱的な現状を受け入れ、
 勝者の論理に盲目的に服従する
 奴隷の精神とは異質な
 敗者の論理を構築して昇華しようとしたのである。
 (『しまぬゆ』)

ぼくはこの解説に全く頷くことができない。
「代官記序文」が薩摩の役人の文章に見えるのは、
これを書いた大島の役人が、
薩摩の勝者の論理を内面化した結果である。

被支配者なのに、
支配者の論理を受け入れ内面化することによって、
表出された文章である。

これは、「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」
というようなものではなく、
奄美の知識人として微塵の抵抗も感じられない
「屈服の論理」以外の何物でもない。

屈服は薩摩支配による諦念の深さを物語るが、
支配とは、被支配の知識人が
支配者の論理を内面化することによって成り立つとは言えても、
「奴隷の精神とは異質な敗者の論理」と
言えるような代物ではない。

 ○ ○ ○

しかも、薩摩支配を、
謝名親方個人の責に帰するような言い方をしている。
琉球側は、「謝名親方」の無礼が薩摩を怒らせて侵略を招いたという。
一方の薩摩は、「謝名親方」の無礼を成敗したと異口同音に言う。

事態は逆で、薩摩がそう言うから、
奄美・琉球は、その原因を内面化したかもしれなかった。
「代官記序文」を読むと、そう推測することもできる。
もしそうなら、薩摩は内心馬鹿にしたに違いない。

しかも、薩摩も琉球も、「謝名親方」の文字を、
「邪名」や「蛇名」と、悪口のように貶めた書き方をしている。
こんな個人攻撃で事態を理解するのは幼稚きわまりない。

 ○ ○ ○

事態を避けられないものとして受け入れ、
生きることを優先しながらも、
しかし、奄美の知識人として
抵抗した痕跡は認められない。

 永く王国の支配下にあった島までも侵略され、
 今では昔を慕うことは無益というものであろう。

文末、このくだりだけが、
書き手が奄美人であることを連想させるが、
抵抗に至る通路があるとしたら、
「昔を慕」い、昔を忘れないことが手がかりになっただろう。

「代官記序文」の書き手は、
仮にも奄美の知識人の任を負うなら、
ここで文章を終えるのではなく、
奄美人としての記憶を記述してほしかった。

どうしてか。
そうすることが、それから長らく逆境で辛酸を舐めることになる
後世の奄美人を大きく励ましたに違いないからである。
いやことによれば、逆境をはねのける力を、
抵抗の記述が差し出すことができたかもしれないのだ。

それは果たされていないとしたら、
そのツケはぼくたちが支払わなければならない。

当時の奄美人を慰撫し、現在の奄美人を励ますために。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/17

「民族」信仰

『しまぬゆ』は、琉球が薩摩による侵略を招いた事態について、
こう解説している。

 日琉同祖論を最初に唱えたのは
 清朝暦広熙五年(一六六六年)に摂政となった
 羽地按司向象賢であるが、
 当時の琉球首脳部にそのような認識はなかった。
 進貢貿易という密の味に浸りきり、
 中国との関係ばかりを重視して、
 民族統一のバスに乗り遅れ、
 九州僻南の一地方太守に支配されるという事態を招いた。
 (『しまぬゆ1』)

著者は、民族統一のバスに乗ればよかったと言っているのだろうか?
バスに乗るとは、具体的にどう行動することを指しているのだろうか?
それはありえた話だろうか?

ぼくには謎に思える。

琉球は内発的には国家を形成する必然性を
持たなかったように見える。

そんな地域が、
「日琉同祖論」をいちはやく念頭に置くとは思えないし、
それこそ「道の島」を経由しながら、
日本人と呼ばれる人々が島と本土に住むことになったように、
近世の国家意思をもった勢力が、
「道の島」を経由して、国家勢力の拡張を図るのは、
歴史の無意識の流れとしては必然的な側面がある。

琉球の首脳部への苛立ちは、余計ではないだろうか。

当時、民族統一原理としての「日琉同祖論」に
そうやすやすと乗らないのは、
それがふつうの奄美人のあり方というものだ。

「民族」すらひとつの信仰である。
日本人も琉球人も同じ日本人という意味で、
「日琉同祖論」はその通りに違いないのだが、
日本民族がその根拠になるわけではない。

また、現在の「奄美人の目」がそれをしてはいけないと思う。

「民族統一」という信仰は、
「日本人になる」という強迫として、
長く奄美人を患わせてきたのだから。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/16

母系制の島々

がんち、むぁんばん、なゆんやあらじげーら。
(そんな風に思わなくていいのではないでしょうか。)

『しまぬゆ』を読んでいると、随所でそう言いたくなってくる。

 琉球王国の政治は祭政一致と言われ、
 聞得大君を通して受けた神託にもとづき国王が政治を執り、
 聞得大君の祭祀権が国王の政治権を越えるほどの力があったと
 考えられているが、それは表向きのことである。
 聞得大君を始め君々もノロも全て任命権は国王にあり、
 尚真王は人々が神の権威に弱く迷信深いことをよく知っていた。
 ウナリ神の権威を政治の上にかぶせ神の託宣だとして
 納得させたのである。
 (『しまぬゆ1』)

政治的共同体の首長は、
古代共同体に紛れ込んだ近代人ではない。
首長とて同じ信仰の共同性の内部にいる。
信仰の共同性の象徴たりえることで、
首長を任じているわけだ。

表向きも裏向きもヘチマもない。
琉球弧は姉が宗教、弟が政治を司る母権的な共同性を
長く保っていたと言えば済むことだ。

首長のみ近代人に擬し人々を愚民と蔑視するのではなく、
人々に視点を置き、ウナリ神信仰の生活の共同性の
実像を浮かび上がらせるのが、
「奄美人の目」による歴史というものではないだろうか。
そのほうが奄美人が生き生きと見えてくるに違いない。

日本自体が、もともと母系的な流れを持つ列島である。
奄美・琉球はその母系的な生活の実相を日本に対しても、
豊かに描いて見せられるということなのだから。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

島を育てる-がんばれ石垣島

与論にとっても他人事ではない記事が日経ビジネスに出ている。

 もはや「団塊様、お断り」
 “移住景気”を喜べない石垣島の苦悩

移住ブームによる人口の急増。
移住した団塊の世代が、地元の共同体に馴染もうとしない。
そしてそれ以上に、マンション開発で景観、自然が損なわれる。
で、移住を喜べない、という内容だ。

与論は石垣島の悩みが容易に想像できるだろう。

移住者数が、ある一定数を越えるようになったということは、
共同性が、島民主体の構成から、
島民と移住者の共同性へと変化することを意味する。

出身者共同体から、
島を「好き」という選好の共同体になるのだ。
ここでは、島を共に育てるという合意が必要だ。

そのために、移住者を受け入れるルールが要る。

個人の自由を拘束しない範囲で、
島の育成に協力するという合意である。

ディズニーランドに行けば、
ディズニーランド内のルールがある。
それと同じようなものだ。

1)島育成(開発と自然)のグランドデザインを個人も企業も守る。
2)移住者は、島育成のため共同性に参加する。
3)島人は、移住者の個人の自由を守る。

そのための合意形成の努力が要るのだ。

 がんばれ石垣島、である。

 ○ ○ ○

島を育てる視点で与論島もがんばりたいものです。

イチョーキ長浜を育て、
ガジュマルを育て、
与論言葉を育て。

そういえば、盛窪さんの努力で、
オオゴマダラが再び島で舞うようになったと聞きます。

とても嬉しい。
オオゴマダラのいない与論なんて、と思いましたから。

ひとつひとつの努力が、
島を育てることにつながる。
オオゴマダラ復活はその模範の例だと思う。

島の人たちの営為は尊いです。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

『めがね』の向こうは与論島

先日、映画『恋しくて』を観にいった時、
映画『めがね』のフライヤーが置いてありました。

Maganeflier














 何が自由か、知っている。

という例のコピーとともに、

 一瞬のようで永遠のような、
 たそがれどきの物語。

と、あります。


映画ももちろん楽しみなのですが、
この「めがね」の登場人物たちの向こうの背景は、
与論島だと思うと、
もうそれだけで食い入るように見つめてしまいます。

舞台としての与論島の活躍が楽しみです。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/15

都は鄙の辺境

「南島と大和」の引用から始める。

 阿麻彌人は南島の珍しい産物を大宰府に運んだ。
 しかし、奄美の人々に大和に服属・追従しているという
 感覚はなく、単なる交易のために行ったという認識
 だったのかも知れない。
 大和人が阿麻彌人の生活に何ら影響を与えることはなかった。

 鄙という語がある。都から離れた辺境の地をいう。
 地球は丸く、辺境といえども決して行き止まりではない。
 辺境は異なる価値観を持った異域が始まる世界である。
 遣唐使船の南島航路から考えれば、
 南西諸島の方が大和より遥かに中国に近い。

 奄美諸島の七~八世紀に位置づけられる遺跡から、
 奄美諸島在来の兼久式土器とともに
 唐代の開元通宝が出土するなど、
 この頃には奄美諸島は大和ばかりでなく
 大陸とも交流を行っていた。
 東シナ海をめぐる内外の動きは活発化しちたのである。

 南島には大勢の人と大量の物産を積むことのできる船舶があり、
 遠洋航海のできる航海術と操船術があった。
 そこには国家領域に縛られない航海の民として、
 自由に東西南北を往来していた奄美の人々の
 おおらかな姿だけが浮かんで見える。
 (『しまぬゆ1』

「奄美人の目」はこうでなくていい、と思う。

まず、大和が奄美の生活に何ら影響を与えることはなかった、
と断言する必要はない。

丁寧に言えば、ほとんど影響を与えることはなかったろうが、
「何ら」と絶縁に持ち込むことは要らない。
しかもそれを大宰府に足を運んだ奄美人の内面を
仮定してまで言わなくてもいい。

鄙を異域と言挙げする必要もない。
鄙は都から見た辺境だが、
鄙からみれば、鄙は中心であり、
都は鄙にとっての辺境に位置する。

わざわざ、辺境を「異域」の始まりとして言わなくてもいい。

また、確かに遠洋航海する奄美人におおさかさを認めることは
できるけれど、「おおらかな姿だけ」と、
これまた限定する必要もない。

 ○ ○ ○

同じ章で似たくだりに出会う。

 大和朝廷から夷人雑類に位置づけられた
 阿麻彌人は海洋の民である。
 交易の品々を積み、ためらうことなく大海原に押し出した。
 海に乗り出すことは
 天に羽ばたくことと同じだった。
 (『しまぬゆ1』

海に乗り出すことが、
「天に羽ばたく」ことと同じだったはずがない。

当時の奄美人はたしかに、
今のわたしたちには信じられないほど、
自在に海原を巡った人々であるに違いない。

琉球弧が孤島に分断された後に、
島々を渡ってきたことを考えただけでも、
信じられない思いがする。

ただそれと同時に、
柳田國男が『海上の道』で想定しているように、
島から島に渡るのには、潮の流れを一年待って旅立つような、
忍耐を必要とした命がけの行為だったことも確かだと思える。

 ○ ○ ○

わたしは別に『しまぬゆ』の労をくさしたいわけではない。

ただ、古代奄美に、
「大和との絶縁」と「自由」の根拠を置くのは、
ロマンティシズムだと思える。

ロマンティシズムが悪いわけではないけれど、
ここは、リアリティを欠いている。

そうしなくても、
奄美の独立と自由の根拠を探していくことはできるはずだ。

そんなに窮屈に「奄美人の目」を設定しなくていい。
そう、これを書いた、
うじゃたー(おじさんたち)に声かけたくなるのだ。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/14

誇るべきこと

『しまぬゆ』を追ってゆこう。

 九州・弥生人との交易を通して
 稲作についての知識も入っていたであろうが、
 当時の奄美・沖縄の遺跡から
 稲作を示す証拠は未だ発見されていない。
 この島々の人々は
 豊かな自然の恵みに依存して農耕を行わず、
 珊瑚礁を基盤にした漁労や猪猟・椎の実などの
 自然物の採取だけで
 食糧事情は安定していたのである。
 (『しまぬゆ1』

「食糧事情が安定していた」かどうかは分からない。

けれど、

 豊かな自然の恵みに依存して農耕を行わず、
 珊瑚礁を基盤にした漁労や猪猟・椎の実などの
 自然物の採取だけで

生活していたのは確かである。

「しまぬゆ」は、1609年に向き合うのに、
原始、古代の南島から書き始めているのがいい。

ただ、残念なのは、約200ページに及ぶ本文のなかで、
原始、古代に触れたのはたった3ページに過ぎないことだ。
引用したくだりはその結びに当っている。

原始、古代から書き起こすなら、
もう少し、厚く描いてほしい。

なぜなら、稲作以前の生産様式の時代を長く持ったことのなかに、
奄美の誇るべきこともあると思うから。

そこで、「遅れた」地域であるという言われ方を
恐れる必要はもはやない。

「遅れる」ことは、「進む」必然が無かったことと同じだ。
「遅れる」ことが「劣る」ことではないことは、
言うまでもないことだけれど、
あえて言えば、歴史が証明していることだ。

未開の部族も、文明に接した途端、
数十年も経たないうちに、
たちまち文明化されてしまうことを
ぼくたちはテレビ番組などで目撃している。

そこまで言わずとも、
奄美人もあっという間に「日本人」になり、
奄美もあっという間に現在の社会のなかに溶け込んでしまった。
身をもって証明してきたことなのだ。

だからもう、臆さなくていい。

 ○ ○ ○

奄美が誇るべきなのは、
長く、自然採取の段階に止まった、
その「とどまる力」のことだと言っていい。

それがなぜ誇るべきことなのか。

自然採取の段階の世界は、
稲作を知らないとか、文明の度合いが低いという言い方もある。
けれど、別の言い方をすれば、
この段階の世界では、
人間は自然や他の存在に対して優位な存在ではなく、
等価な存在だった。

人間が、自然や動物、無機物と等価の存在だということは、
そこに暮らす人々が、人間以外の存在とも、
コミュニケーションをとることが可能だったことを意味する。

動物や植物と対話をすることができた。
動物や植物の気持ちに感応することができたのだ。

現在、近代化をひた走った結果、
ぼくたちはその能力を著しく損なっている。
そして、その力を回復したいと、むしろ切望し始めている。

そのこからみたら、「遅れた」地域の世界は、
これから回復すべき関係性を持った
「進んだ」地域の世界になるのである。

奄美は、その獲得すべき世界のあり方を、
長く保存してきたのである。
ということは、その世界の手がかりを持っているということだ。

人間と他の存在とが等価である世界を長く保存してきたことが、
奄美をはじめ琉球弧の誇るべきことだと、ぼくは思う。

だからこそ、「しまぬゆ」を語るなら、
そのことを誇るべき基底として触れてほしいと思うのだ。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/13

奄美人の目

 歴史は勝者が自己を正当化し、
 未来を支配するために書かれたものである。
 そこに敗者の論理はない。
 奄美の人々は大和世の時代には
 鹿児島に対して極端に劣等感を抱き、
 奄美における事象の是非善悪すべてを薩摩が握り、
 明治維新後は皇国史観によって奄美史が捉えられてきた。

 奄美社会の歴史的転換点になった一六〇九年に至るまでの
 歴史を見つめ直し、琉球側の対応や戦闘の状況、戦後処理など、
 これまで明らかになっている史料をもとに奄美人の目で述べてみたい。
 (『しまぬゆ1』

「奄美人の目」という視点がいい。
それが、「しまぬゆ」の書かれた意義だ。

けれど、ぼく自身は躓くことの多い本だった。
奄美と1609年にまつわる史実は学ぶことが多く教えられた。
けれど、その史実に向けられる視点に躓くのだ。

「奄美人の目」はそうでなくていいのに、と。

だから、「しまぬゆ」との対話は、
ありうべき「奄美人の目」について、
提案していくことだと思っている。

「奄美人の目」という視座の設定を生かすために。

 ○ ○ ○

たとえば、

 歴史は勝者が自己を正当化し、
 未来を支配するために書かれたものである。
 そこに敗者の論理はない。

これは、いまも続いている歴史観かもしれない。
けれど、「奄美人の目」は歴史をこう捉える必要はない。

歴史は、ふつうの人の行いや感情の事実の総和だと思う。
ふつうの人が主役、である。

奄美人が主役になる語りが、奄美の歴史である。
勝者の支配の書にする必要などない。
そうではないだろうか。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

『恋しくて』-憧れの逆転

「いいですよぉ。最後、泣けますよぉ」と
ほたかさんに勧められて、
中江裕司監督の映画『恋しくて』を観た。

Chumuchasanu











これは、石垣島を舞台にした青春映画だ。
石垣島を舞台にした、というのは、
石垣島でなければきっと出来なかったという意味だ。

まず、登場する少年少女の、少年少女らしさが、
もう天然南島ものだった。
これはある年代以上の者には郷愁に映るかもしれない。
かつて、子どもはこうだったという。

上京して、電車の乗り方が分からないのも、
いまや舞台を南島に採らなければ、
リアリティを持ち得ないかもしれない。

そしてなんといっても石垣島でなければ、
と思わせるのは、
歌に対する素養や層の厚さだった。

俳優ではないふつうの沖縄の若者を
オーディションで選んで撮った映画というけれど、
あのはまりっぷりは、
音楽を歌うことも演奏することも、
日常的な場所でなければなしえなかったろう。

そして、上京するということが、
別離を意味するという、
辛さ切なさも、
西の南島の八重山ゆえのリアルさがあった。

 ○ ○ ○

けれど、この映画は、
日本の郷愁にも、
上京が別離に終わるかつての青春映画にも
回収されない懐かしい新しさがあった。

この映画では、牛や山羊がしゃべったりする。
それがこの映画を破綻させないのは、
抑制的にほんの駒運びに使われるからというばかりではない。

あのユーモラスなシーンのなかに、
どこか南島的なリアリティがあるからだ。

それは、動物や植物が人間と変わらない存在だということだ。
変わらないという意味は、
互いに話ができると言えばいいだろうか。

動物と話ができる、というよりは、
動物と話せるような関わり方ができるというような。
そんなほのかなリアリティが、
この映画の背景にはあり、
それがおいそれと郷愁には終わらせない
懐かしい新しさを生んでいる。

もうひとつ、上京は別離を生むかに見せるけれど、
それでも、いまでは石垣島には東京から直行便で行ける。
上京は別離となるかにみえるけれど、
主人公たちはほどなく再会する。

南島は、琉球弧は、なんと東京と近くなったことか。

終わり近く、東京と石垣島が交互に現れる場面では、
ぼくも、出自を説明するのに、
どう言っても通じないだろうという昔から、
既に持っている知識を詳しくしてあげればいいという現在までの
変遷がまざまざと身体に迫ってくるようだった。

するとどうだろう。

『恋しくて』は、
映画のなかでも使われる「木綿のハンカチーフ」よろしく
上京することが別離であるような郷愁誘う青春映画をつくるなら、
石垣島を舞台にするしかなかったという作品ではない。

そうではなく、
こんなに率直で純粋な青春を過ごしてみたい
という憧れを生むように映画はあった。

こんな風に青春を突っ走ってみたい。
そういう憧れの地として石垣島があるのだ。

 ○ ○ ○

与論島出身者から観て嬉しい場面もあった。

栄順が加那子に恋心を打ち明けたくて、
連発する「あのね」の意味の「あぬよー」。

バンドが曲をやる時のかけ声、
「ばんみかすよー(どー、ぞー)」。

奄美のじいさんが、
「これはきみのものだ」と父の形見を渡す時の、
「ふりゃーうらしどー」。

それらの言葉が同じで、
つながっているのを実感できた。

『恋しくて』は、与論言葉でいえば、
たぶん「ちゅむちゃさぬ」。
ぼくも何かの形で、
「ちゅむちゃさぬ」という作品をつくりたくなった。
そんな触発もあった。


でも、誰でも思い当たるのではないかと思うことでいえば、
加那子が、からかわれたときに繰り出す、
廻し蹴りがなんといってもよかった。

蹴りが少女らしさと可愛らしさに矛盾しない。
あの年代だけの特権の輝きが発散していた。

  (それにしても。広いねぇ、石垣島は。)



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/12

「しまぬゆ」との対話

今年、2007年4月に、
『しまぬゆ1 一六〇九年、奄美・琉球侵略』が、
南方新社から上梓された。

Shimanuyu_1










装丁からして骨太な本だ。

いや中身だって開いてみると、
ひらがな、カタカナの多いいまどきの書物のなかで、
目見当だが、文中の文字に占める漢字の比率が5割にも
のぼるのではないかと思われる“黒い”本である。

いや、装丁の前に中味の前に、
「一六〇九年、奄美・琉球侵略」というテーマ自体が骨太だ。
というか、重たい。

これは読まれにくい本だと思う。
特に、琉球弧の若い世代には縁遠い作品かもしれない。

けれど、琉球弧の歴史を紐解こうとすれば、
避けられないテーマだ。

ぼくはこの本を上梓した執筆者、編者の方々の労に、
まず、敬意を表したい。

そして、この本を手がかりに、
1609年をどう受け止めていけばいいか、
考えてみたい。

できれば、

琉球弧の島々はかつて薩摩に侵略されたことがあることを知らない
(そんな人はいないか?)
琉球弧の若い世代にも受け取ってもらえるように、

奄美と沖縄は、かつて琉球として
同じ政治的共同体にあった歴史を知らない
(そんな人はいないか?)
琉球弧の若い世代にも受け取ってもらえるように、

書ければと思う。


いきおい、ブログに向かない重たいことを
書くことにもなるだろう。

でもよろしければ、お付き合いください。
琉球弧の歴史づくりをしたいのです。


■目次 ----------------------------------------------------------------

<巻頭言> 奄美・琉球侵略、四百周年に寄せて 山下欣一
特別企画 一六〇九年、奄美・琉球侵略 義 富弘

はじめに
第一章 南島と大和
第ニ章 琉球王国
第三章 奄美・琉球侵略の背景
第四章 奄美・琉球侵略経過
第五章 戦後処理
あとがき
編集後記

編集委員
親里清孝、薗 博明、新元博文、森本眞一郎、
義 富弘、故藤井勇夫




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/11

「十九の春」-ユンヌが育んだヤマトうた

「『十九の春』を探して」(川井龍介)で楽しかったのは、
「十九の春」の元歌と言われる「与論小唄」が、
替え歌のように、
同曲異詞で琉球弧に広がっているのを知ったことだった。

 ♪ 木の葉またいなわが与論
   何の楽しみないところ
   好きなお方がおればこそ
   嫌な与論も好きとなる

与論では馴染み深い「与論小唄」のフレーズだ。

それが、八重山では、「木の葉みたいな八重山で」となり、
与那国では「木の葉みたいな与那国は 決して好きではないけれど」と、
歌われているという。

まことにまことに、琉球弧とは、
お互いの共通性を知らないままに共有している地域のこと、
と定義したくなるほどだ。

琉球弧らしい、とぼくは思う。

また、著者は、「十九の春」と同じメロディの
「嘉義丸のうた」という曲が、
加計呂麻島の唄者、朝崎郁恵の父、朝崎辰恕によって、
1943年につくられたという事実を見つけて、
ここに、もうひとつの「十九の春」の発祥を記した。

「『十九の春』を探して」を通じてぼくが感じるのは、

 「十九の春」とは、琉球弧が育んだヤマトうた

ということだ。

「十九の春」を探して ~うたに刻まれたもう一つの戦後史~

Photo_74










 ♪ ♪ ♪

ただ、この本の読後感はよいものではなかった。
なんというか、座りの悪さが残るのだ。

ここから先、書くことは、
与論島の出身者感情によるものと見なして
割り引いてもらっても構わない。
けれど、書かないわけにいかない気がしている。

この本で、著者は、「ラッパ節」が「与論小唄」となり、
それが「十九の春」の元歌になっているという、
作者不詳の伝承について、
「ラッパ節」から「与論小唄」へという流れには
「無理がある」としている。

しかし、そのことは三百ページに近い本文で、
じっくり論証されているのではなく、
「エピローグ」でやっと主張されるのだ。

そう言われてみれば、本文中にそう言いたいのだろう
伏線を随所に感じるものの、
この、「ラッパ節」と「与論小唄」への断絶の持ち込みは、
唐突な印象を否めない。

そして、「十九の春」の原型として著者は、

「与論小唄」
「ジュリグァー小唄」
「失恋歌・悲恋歌」
「嘉義丸のうた」

の四つを挙げる。

その上で、このうち作られた時期がはっきりしているのは、
「嘉義丸のうた」だけ、と指摘するのである。

わざわざ「ラッパ節」と「与論小唄」を断絶させた上で、
原型はあるはず、として四つの歌を挙げる手つきからは、

 「十九の春」とは、琉球弧が育んだヤマトうた

であるという伝承の牧歌性は失われて、
近代的な窮屈さを感じてしまう。

それならこの本は、
これまでの伝承とは異なり、
真実は、作者ある「嘉義丸のうた」が元歌であると
主張しているのかといえば、そういうわけでもない。


与論島出身者として感じることもある。
与論での取材で、島の人たちは、
「十九の春」の元歌は「与論小唄」であると主張するわけでもなく、
実に正直におおらかに、
「与論小唄」を戦後に聞いたとして、
観光ブームとともに作られたという
著者の仮説に引用されている。

ことの真偽以上にぼくは、
与論島の人の、過去や実績にこだわらない、
島民性のあらわれを否応なく感じてしまう。
ぼくが身近に感じてきたこととしても、
健忘は生活の知恵に昇華されている風なのだ。
いかにも与論島の身体性らしい。

でもぼくは、

 「十九の春」とは、琉球弧が育んだヤマトうた

という伝承の牧歌を残しておきたいと思う者だ。
また、与論の人が、

 「十九の春」とは、ユンヌが育んだヤマトうた

と素直に言って済ませられる牧歌も損ないたくない。

少なくとも、この本によってそれが失われてはいけないと思う。

ぼくは、この本からは、
「十九の春」の起源を探る切実さを感じることができなかった。
著者はなぜ、何を求めて、
「十九の春」の原型を追究したのだろう。

これでは、哀しい史実も作者不詳の伝承もうかばれない。
取材された人々の労も報われないのではないか。
中途半端に投げ出された仮説を前に、そう感じる。

著者は、この本で誰に、何を、伝えたかったのだろう。
「十九の春」の作者不詳の謎の前に、
そのことが小さな謎として胸につかえる。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007/05/10

沖永良部学から与論論へ

高橋孝代さんは、
論文「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」の終わり近くで、
主張している。

 本研究を通じて認識されたことは、
 このようなアイデンティティの混淆性は、
 もともと島民にそなわっていたわけではなく、
 それぞれ原因があって構築された結果、
 表象されたものであるということである。

 そして、この状況は変化のプロセスにあり
 現在も構築の途中にある。
 明治以降の近代化に続き、1953年の日本復帰後、
 激化をみせた本土化は、今その意義が問い直され、
 奄美の島々ではアイデンティティを取り戻そうとする
 動きがみられる。

 その方向性は、すでに袂を分かち修復の困難な
 古琉球時代の枠に戻ることはできず、
 完全に沖縄に向かうものではない。
 奄美の島々に住む人々は、今年(2003年)
 日本復帰50周年を向かえ、
 独自のアイデンティティを模索している。
 2003年9月5、6日には奄美の日本復帰50周年を記念して
 第一回「世界の奄美人大会」が奄美大島の
 名瀬市奄美文化センターで開催された。

 これは、沖縄が独自性を主張し、連帯を高めようと
 「世界のウチナーンチュ大会」を開催していることを参考にした
 ネーミングであることは明らかであるが、
 奄美の人々は「本土でも沖縄でもない」ところに
 奄美を見出そうとしている。
 「アマミンチュ」という言葉は、そのような意味を含む主張である。

 だが、「奄美」という場合にも奄美大島が中心であり、
 奄美という枠内でさえ沖永良部島は周縁化される。
 奄美大島主導である今回の「世界のアマミンチュ大会」で、
 沖永良部島民からは、島独特の芸能「やっこ」を
 披露することで個性をアピールした。
 沖永良部島民は今後、奄美の一員として
 アマミンチュのアイデンティティを求めると同時に、
 本土でも沖縄でも奄美でもないエラブンチュとしての
 アイデンティティを求めていくであろう。
 筆者もその一人である。
 (「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」)

自分は何者かという自己認識が、
島人のなかで幾重にも重ねたようにあるのは、
もともとそういうものだからではなく、
歴史的な原因があってのことだ。

それは、いまも状況の変化に応じて作られつつある。
たとえば、現在では、島人としての自己認識を
取り戻そうとしているところだ。

そこで、高橋さんは、

 その方向性は、すでに袂を分かち修復の困難な
 古琉球時代の枠に戻ることはできず、
 完全に沖縄に向かうものではない。

と言うのだけれど、ぼくはここは必ずしもそう思わない。
というか、沖縄に限らず、対話をする必要があると考える。

 ○ ○ ○

与論島では、釣り糸がもつれると、
たしか、まちぶる、と言う。

琉球弧の島人の自己認識は、まちぶっている。
まちぶっているから、必要なのは、ほぐすことだ。
その、ほぐす術が、対話である。

子どもの頃、まちぶって絡み合った釣り糸を
ほぐすのに夢中になった。

まちぶった糸を、ほぐすには、
最初の糸口をつかむのがポイントだ。
そして、そこからひとつひとつ丁寧にほぐしていく。

糸口を見つけるのは時間がかかるけど、
まちぶった糸をほぐして元に戻していくのは気持ちいい。

高橋さんの論文に刺激を受けて、
与論をほぐすには、

1.与論
2.奄美
3.沖縄
4.薩摩
5.日本

という対話の順番を辿るといいと考えた。

こうすることで、ユンヌンチュを純化することが
目指されるのではない。
ユンヌンチュを豊かにすることを目指すのだ。

日本でもあれば奄美でもあれば沖縄でもあることを
可能にしているユンヌンチュという基底を見つけるのである。

高橋さんは、
「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」を通じて、
沖永良部学の創設を目指す。

ところで、ぼくは学問をしたいわけではないから、
与論学とは言わない。

与論島と与論人(ユンヌンチュ)を元気づける
いわば与論・論を展開したいと考えている。

ぼくは高橋さんの沖永良部学との対話で、
与論論の手がかりを掴めた気がしている。

奄美の内側から、わたしは何者かを問うた
この論文の意義はとても大きい。
高橋さんの労に敬意を払い、感謝したいと思うのだ。


| | コメント (4) | トラックバック (1)

「ふるさと納税」を与論へ

個人住民税の一部を故郷の自治体などに収めることができる
「ふるさと納税」を創設するという政府の方針が発表されました。

これ、いいですね。

故郷か好きな場所に対して、
住民税の一割を割り当てられるのは嬉しい。

与論島へのコミットを思っても、
日常的にできることを見つけるのは
なかなか難しいからです。

ぼくは、「住んでいる人」と「島外の出身者や与論好き」をむすぶ、
ゆるやかなコミュニティが、
与論島の自立、活性に重要と思ってきましたが、
このコミュニティは、ふるさと納税を島の力にする上でも
大きな役割を果たしますね。

あとは、「ふるさと納税」が現実のものになったときに、
資金を島(の人)のためにどのように使うか、考えていきたいですね。

嬉しいニュースでした。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/05/09

エイサーがなかったのが不思議

いまでは、エイサーは永良部の芸能の代表になっているという。
高橋さんは、

 これまでエイサーがなかったのが不思議

と書いている。

全く同感。

与論島のエイサーもあまりに馴染んでいて、
昔からあったように感じられるほどなのだ。

 ○ ○ ○

ときに、永良部のエイサーのはじまりは、
喜納昌吉がきっかけだったという。

1993年、フリージアフェスティバルで喜納は、
与論のユンヌエイサーを披露する。

それを観た永良部の人はそのダイナミックさに感動し、
喜納に教えを請うことになる。

 喜納昌吉の、「沖縄と奄美は一つ」という考え方から
 奄美にも普及されたエイサーは、沖永良部島では
 本土化による反動から見つめなおされている三山時代、
 琉球王国時代の沖縄と関係の深かった「過去の時代」
 への伝統回帰によるルネサンスの象徴でもある。

ぼくも与論のエイサーにはびっくりした。
サンゴ祭りでみて、あまりにも決まっていたからだ。
ぼくも教わりたかったと思うほどだった。
エイサーは、いまや南島を越えて演じられている。
ぼくも、子どもの運動会で観てびっくりしたものだ。

琉球の身体性にあうエイサーの普及について、
知らなかった者として喜納昌吉に感謝したい。

「沖縄と奄美は一つ」。

たしかにこの確信あってできたことかもしれない。

 ○ ○ ○

ただ、もう少し耳を澄ますと、
喜納は『すべでの武器を楽器に』でこう言っている。
(この書名はいいですね)

 (前略)もともと奄美と沖縄は一つだった。それが
 1609年の侵攻で奄美諸島は島津の直轄領となり、
 のちに鹿児島県に併合されることになった。
 奄美と沖縄は人為的に切り離されてしまったのだ。
 ・・・真の歴史を取り戻すためには、奄美と沖縄は
 一つに戻らなくてはならない。この問題が解決すれば
 島津のトゲは解消する。

これについては言わなくてはならない。
そんなことでは島津のトゲは解消されない。
解消する必要条件かもしれないが、
十分条件にはなりえない。

島津のトゲが解消するには、
薩摩の思想が、明治維新を越えること、
言い換えれば、彼らが琉球侵犯を相対化しえることが必要だ。

そのためには、奄美・沖縄と薩摩の
思想上の対話が必要だと思える。

 ○ ○ ○

もとに戻ろう。
与論や永良部でエイサーは、
与論人(ユンヌンチュ)や永良部人(エラブンチュ)の
身体性に響いたので、あっという間に土着化した。

琉球弧の身体性は枯れていない、ということだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/08

アマミンチュ(奄美人)が新鮮

高橋さんは、沖永良部の人たちに突っ込んだ問いかけをしている。

Q.あなたには次のような意識がそれぞれどれだけおありですか?

 ・日本国民
 ・日本人
 ・ヤマトンチュ
 ・ウチナンチュ
 ・エラブンチュ
 ・アマミンチュ

 1.非常にある
 2.ある程度ある
 3.あまりない
 4.全くない

とても刺激的な投げかけだ。

永良部のみなさんはこう答えている。
「非常にある」と「ある程度ある」を
足した数が多いものから並べてみよう。

1.日本人    92.8% *******************
2.日本国民   88.1% ******************
3.エラブンチュ 88.0% ******************
4.アマミンチュ 56.8% ***********
5.ウチナンチュ 34.4% *******
6.ヤマトンチュ 28.1% ******

どうだろう。
「日本国民」の選択肢がちょっと異質だが、
回答結果の順番は、
とても素直に沖永良部の人たちの
アイデンティティの多層性と順位を示しているようにみえる。

たとえば、ぼくはヤマトゥンチュの意識は全くないが、
ウチナンチュという意識も親近感はあれどなかった。
また、アマミンチュは、言葉自体が新鮮で、
そういう言い方があるのに驚いた。

ぼくには、日本人とユンヌンチュがリアルで、
アマミンチュはそんな感じ方を育てていけたらいいなと思った。

 ○ ○ ○

まぁぼくの感じ方はともかく、
沖永良部のみなさんの結果は何を教えるだろう。
それは、大きく二つある。

1)日本人意識が定着している。
2)共同性に対する親近感の順位がある。

「日本人」意識が、約93%になるのは、
近代奄美の市民社会の成熟を語っていると思う。
この意識を背景に、ぼくたちは、
南島における共同性の親和の順位を理解することができる。

それはこんな順番だ。

1.沖永良部
2.奄美
3.沖縄
4.大和

この結果は、島は宇宙という世界観に照らして、
至極まっとうな順位だ。

これは、共同性の小さいものから大きいものへの順番なのではない。
世界としての島の大きいものから小さいものへの順番を示しているのだ。
沖永良部の人にとって、エラブの方がヤマトより大きいということだ。

このことは、こう捉えることもできる。
奄美の人々は、二重の疎外に対して、
なりふり構わず「日本人」になろうとしてきた。

それは奄美人であることの否定、
つまり、他者になることを意味していた。

ところで、そうやっていざ「日本人」になってみると、
それと反比例するように、
エラブンチュ意識は消滅しているかといえば、
そんなことはない。

島の強さ・大きさを物語っている。
言い換えてもいい。
島は、待っていてくれたのだ。

そして、エラブンチュのアイデンティティの多層性に、
ある割り切りにくさがあるとしたら、
それは、日本人になることは、
二重の疎外に出口を用意してくれたけれど、
二重の疎外の解決にはならなかったことを意味している。

 ○ ○ ○

この結果に、ぼくは与論島、ユンヌンチュとしてしていくべき
対話の順番を想定する。

与論に置き換えれば、
与論、奄美、沖縄、大和という順番だが、これは、

与論島と対話し、
ついで奄美と対話し、
沖縄と対話し、
大和(薩摩)と対話する、
というステップだ。

それはこの順番を辿ることで、
対話の通路も拓けることを教えていると思う。


それにしてもアマミンチュは新鮮に響いてきた。
この言葉をどれだけ豊かにできるか、
ぼくたちのテーマだと思う。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/07

ネガ奄美からポジ奄美へ

与論島が、与論島自身に真正面から向き合ったのは、
2003年、沖永良部との合併問題の時だったと思う。
2003年。そう、つい最近のことである。

同じように、奄美が奄美自身に向き合ったのは、
1952年の復帰運動の時だった。

このとき、奄美・沖縄は占領統治下ではあったが、
琉球政府として統一される。

このことは、薩摩の琉球侵犯以来、
奄美が被ってきた二重の疎外
つまり、文化的共同性と政治的共同性の矛盾が
限定的な形ではあれ消えたことを意味する。

これは奄美にとって待ち望んだ事態ではなかったのか?
三世紀以上続いた困難の解決ではなかったのか?

けれど、このとき奄美は、
そのことを喜ぶのではなかった。

むしろ、

 奄美と沖縄は違う

という方へ顔を向けた。

これは、二重の疎外の出口を、
奄美の人々が、「日本人になる」ことに
求めたからに他ならない。

そしてそれは主体的な選択というより、
やむざる衝迫に押されたものだった。

「日本人になる」ということは、
あらゆる日本人を巻き込んだ近代化のプロセスで、
ひとつ奄美に限ったことではない。

ただ、我をな無くすほどの切実さ、
標準語励行運動の激しさは、特異だと思える。
しゃにむに雪崩れ込んだ島の人の激しさは、
二重の疎外を背景に置いてはじめて、
理解できるのである。

 ○ ○ ○

沖縄による奄美差別の事実もあっただろう。

しかし、仕向けられた側面もあった。
復帰後、琉球政府は、アメリカの指示により、
奄美出身者を公職から追放する。

このことについて、高橋さんは次のように言う。

 奄美の日本復帰が沖縄の復帰運動に影響することを
 懸念したアメリカ側が、奄美と沖縄の住民を分離する意図が
 あったことが窺えるが、それが精神的な分断をも生み出した
 ことは想像に難くない。

これはぼくもそう思う。

奄美と沖縄は向き合う前に訣れていったのである。

 ○ ○ ○

また、奄美の復帰も一筋縄ではなかった。

1952年、北緯27度線を境界とし、
復帰するのは、徳之島以北で、
沖永良部と与論は対象外という記事が、
毎日新聞に掲載される。

そこでできたのが「日本復帰の歌」である。

 一 なぜに返さぬ永良部と与論
   同じはらから奄美島
   友ようたおう復帰の歌を
   我等血をはく この思い
 二 なんで返さぬ永良部と与論
   同じはらから返すのに
   友よ叫ぼう我等の熱を
   我等黙って居られようか
 三 何で捨てよか復帰の希望
   返す返さぬ熱次第
   友よ励まし手に手をとって
   熱い熱意で進むのだ

ぼくは、このときの毎日新聞の記事が
何を根拠になされたものか、関心を持つ。
まるで、復帰に無頓着な永良部と与論の尻に
火を付けるような効果をもたらしている。

このとは宿題として置いておこう。

話を戻して、この詞を読むと、
「同じはらから奄美島」と歌われるけれど、
「はらから」の中身は迫ってこない。

むしろ、奄美としての統一感が損なわれるというより、
置いてきぼりへの危機感が伝わってくる。

復帰運動は、奄美が奄美自身に向き合う契機だったが、
奄美とは何かを突き詰める動きは生まず、
「脱琉入日」と言われたように、
日本人化への契機としてつかまれたのだった。

奄美は、ネガ奄美に止まったのである。
ぼくたちは、この「ネガ奄美」を「ポジ奄美」へ
変換する課題を持っている。

でもそれはきっと楽しいテーマに違いない。
『奄美の島々の楽しみ方』が楽しいように。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/06

日奄同祖論を書き換える

1951年、奄美連合全国総本部委員長昇直隆は、
奄美の復帰問題で、参議院外務委員会公聴会に
参考人として呼ばれ、「日奄同祖論」を展開する。

昇直隆のペンネームは昇曙夢(のぼりしょむ)
ロシア文学者にして『大奄美史』を記した、あの昇曙夢だ。

 わたくしは奄美大島出身の者であります。
 今回の奄美大島の帰属問題について、
 歴史上からの私の知っている範囲において純然たる日本人であり、
 また日本国の一部であることを立証 いたしまして、
 皆さんの御参考に供えて、そうしてこの帰属問題
 について皆さんのご協力を仰ぐ次第であります。
 もうすでに御承知の通り、奄美大島は、
 沖縄と共にずいぶんと古い、
 開びゃく以来古い紀元を持っておる島であります。

 人種の上からいっても大和民族の一つの支流であります。
 大和民族の、もっとも移動についてはたびたび行われて
 おりますが、一番最後の第三回目に大陸から朝鮮海峡を経て
 日向に落ち着いたのが、一番武力においても知能においても
 最も優秀な民族で、これを固有日本人という学名で
 呼んでおりますが、その一派が日向、大隅、薩摩
 ここから南の島々に殖民して、それがわれわれのつまり
 祖先になっているわけであります。

 もちろんそれ以前に先住民族がありました。
 アイヌのごときはその一つでありますが、
 しかしどこまでもやはり奄美人の主体というのは固有日本人で、
 これは学術上明らかに証明されておるので、
 わずかにアイヌの血が混っておるというに過ぎません。
 その点においては、日本全土挙ってアイヌの血を多少とも
 受けておるわけでありますから、
 ひとり奄美大島ばかりには限りません。
 どこまでも主体としては固有日本人になっておるのであります。
 (東京奄美会八十年史編纂委員会 1984年)

 ○ ○ ○

この、昇の「日奄同祖論」は、痛ましい。
この痛ましさは、波照間島の地名をめぐる
金関丈夫の説への宮良当壮の反論に感じる痛ましさに似ている。

昇は復帰運動の理論的リーダーであったというから、
この痛ましさの背後には、
奄美の人々の切実さがあったというべきだ。

奄美復帰後に生を受け、
日本人にならなければならないという強迫を、
当時の奄美の人ほどに感じずに済んだぼくは、
この「日奄同祖論」は書き換えられなければならないと考える。

批判したいからではない。
当時の奄美の人々をかばいたいからだ。

ありえなかったけれど、
ありえてもよかった言論として、
架空の「日奄同祖論」を展開してみよう。

 ○ ○ ○

わたくしは奄美大島出身の者であります。
今回の奄美大島の帰属問題について、
歴史上からの私の知っている範囲において
純然たる日本人であることをお伝えして、
皆さんの御参考に供えて、そうしてこの帰属問題について
皆さんのご協力を仰ぐ次第であります。

もうすでに御承知の通り、奄美大島は、
沖縄と共にずいぶんと古い、
開びゃく以来古い紀元を持っておる島であります。

人種の上からいっても日本人の一つのタイプ、
もっと言えば、日本人の源流に近いタイプであります。
日本人の、もっとも移動についてはたびたび行われて
おりますが、歴史上比較的新しいところでは、
大陸から朝鮮海峡を経て日向に落ち着いたのが、
国家としての日本を形成したと考えられていますが、
この人々が新しい日本人の層を作りました。

その一派は日向、大隅、薩摩ここから南の島々に殖民して、
それもわれわれのつまり祖先の一部になっているわけであります。

もちろんそれ以前に先住の日本人がいたわけです。
アイヌもその一つであります。
奄美人もアイヌにつながる源流を持ち、
日本人としては古型のタイプを濃く保存しています。

古型を温存している点においては、
日本全土挙ってアイヌの血を多少とも
受けておるわけでありますから、
ひとり奄美大島ばかりには限りません。

しかし、その濃度について、
日本人として高いのが特徴であります。

 ○ ○ ○

こうした上で、ぼくは書き足さなければならない。

もし、日本人がどこまでも原型を遡り、
自分の来し方を知りたくば、奄美を訪ねよ、と。
その効用は来し方を知るというばかりではない。
来し方を知ることにより、
行く末の洞察に手がかりを持つことができる。

それは人間が乳幼児の自分を遡って知ることができたなら、
これからの生き方にずいぶんと参考を与えてくれるのに似ている。

「日奄同祖論」とは、
日本人と奄美人は同祖であることを言うだけではない。
日本人の源流に奄美人を展望する。
日本人の上流のひとつに奄美人を置くのである。

いまや復帰とは、
奄美・沖縄が日本に復帰するのではなく、
奄美・沖縄に日本が復帰するのである。

 ○ ○ ○

ここで終えてもよいのだけれど、
もう少し加えておく。

「日奄同祖論」というけれど、
日本民族は決められない。
奄美民族も決められない。
それは厳密には確定できるわけではないと思う。

だから、日本民族という独立した枠組みがあり、
その中に奄美民族があるという言説自体、
本当は成り立たない。

だから、奄美人に日本人の源流を濃く見るというとき、
そこにいう奄美人は、アイヌやポリネシアや他の人々との
連続性のなかに位置づけられる。
いま、確定的に、それが何人だと言えないにしても。

ぼくたちが起源に遡行しようとするのは、
奄美人の祖型を心から知りたいからだが、
それは日本人を純化して捉えたいからではなく、
他の人種との連続性のなかに日本人を想定するからだ。




| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/05

日本人になる-二重の疎外の出口

沖縄と分離した奄美の日本復帰運動は、
奄美の意思には違いないが、なんというか、
奄美人が奄美人として自律的に行ったものとは言いがたいと思う。

奄美は、1609年の薩摩藩による侵略を契機に、
二重の疎外を受ける。

 文化的共同性に顔を向ければ政治的共同性が異なると無視され、
 政治的共同性に顔を向ければ文化的共同性によって差別される。

この、二重の疎外に対して、
奄美人は出口を切望した。

そしてすがるように見出したのは、
「日本人になる」という出口だった。

近代以降、奄美人の本土や満州への移住は、
日本人として平等な存在という価値があればこそ可能になったのだ。

二重の疎外の解消への希求は痛切で、
文化的共同性への参加は当時その出口には見えなかった。
奄美の人々は、「日本人になる」ことに出口を見出したのだ。
それは、命がけで飛躍と言っていいものだったと思う。

奄美・沖縄の標準語励行運動の激しさは
そのことを雄弁に物語っている。

こうして奄美は、三度、沖縄との訣れとを経験してきたのだ。

 ○ ○ ○

しかし、この三度の訣れは、いずれも他律的なものだ。
近世のはじまりは支配勢力の登場として、
近代の始まりはその延長として、
そして、戦後は二重の疎外の解消として。

だから、三度の訣れを経た上で、
改めて沖縄に向き合い、
対話をしていくのはこれからの課題だと思える。

それは、奄美とは何か。
そのことに回答することと別のことではない。


補記
もちろんこの間、まるっきり没交渉であったわけではない。
沖縄復帰運動の際には、
与論島の沖、北緯27度線の洋上からのサーチライトと、
辺戸岬のかがり火は、呼応しあうように対話をした。

しかしこのとき対話の主体は、
沖縄と与論というよりは、
沖縄と日本だった。
与論は日本の象徴を担ったのだった。

奄美と沖縄は、他者ではなく日本でもなく、
奄美と沖縄として対話を必要としている。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/04

沖縄との訣れ

奄美はこれまで、三度、沖縄との訣れを経験している。

 ○ ○ ○

ぼくは、奄美の二重の疎外のひとつを、
「文化的共同性に顔を向ければ政治的共同性が異なると無視される」
と捉えたけれど、
琉球が奄美に無関心であったわけではないと、
高橋さんは書いている。

たとえば、1872年、明治政府により琉球王国が琉球藩とされた時、
琉球の伊江王子は外務卿副島種臣と会見し訴える。

 薩摩の支配下にあったときは、
 住民はその苛剣にたえきれないで、ひどく疲弊した。
 現在は天皇の直接支配におかれたのであるから
 特旨を垂れて負担を軽減され、その上、
 大島・喜界が島・徳之島・永良部島・与論島は
 もと琉球の管轄であったものが、
 慶長の役で薩摩に押領されたもので
 風俗習慣はいまも沖縄と同じであるから、
 復帰させてもらいたい。

外務卿は「事重大であるから閣議を経た上で処置する」と答える。
彼は暗に断ったのだが、伊江王子らは
願いが聞き入れられたものと歓喜したという。

その後、1879年に琉球藩から沖縄県とされた時も、
琉球は奄美の返還を求めたが、意に解されなかった。
これが二度目の沖縄との訣れだ。

一度目はもちろん1609年の薩摩藩による琉球侵犯の時である。

近世のはじまりと近代のはじまりに、
奄美は沖縄との訣れを経験する。
一度目は、文化的共同性との訣れとして
奄美にその経験の意味を知らせたはずだが、
二度目の訣れはひょっとしたら、
奄美は無自覚なまま訪れ過ぎたことかもしれなかった。

ぼくは、外務卿副島とのやりとりで、
明治政府の断りを、聞き入れられたものと歓喜する琉球側の
受け入れ方に関心をそそられる。

いかにも、琉球的だと思う。
つまり、素朴な人の良さを政治的共同性にも温存している
うぶさが、である。

 ○ ○ ○

三度目は、言うまでもなく日本復帰運動の時だ。
このとき、奄美には独立や沖縄との同時復帰の議論もあったという。
けれど、奄美の人々は圧倒的に、
奄美の単独復帰で動いていった。

復帰は、三度目の沖縄との訣れだった。

 ○ ○ ○

さて、この三度の訣れを経た上でどうするのか。
ぼくはまだ、奄美は沖縄との対話を必要としていると思う。
どうしてか。明日も考えてみる。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/05/03

ボーダー・アイデンティティ

高橋さんの論文は次第に核心に迫る。

 沖永良部で生まれ育った人々にとって、
 文化化の過程で培われた文化的なアイデンティティは
 出自によるアイデンティティとは必ずしも同質ではない。
 政治と歴史とは別に、
 沖永良部島にはその地域における文化の歴史がある。
 薩摩藩直轄領になった後も、
 そして鹿児島県に行政的に組み込まれた後も、
 沖永良部島は沖縄島から文化的影響を受け続けていた。
 特に芸能文化は沖縄の影響が強く、
 沖永良部島の人々が沖縄に文化的アイデンティティを
 もたせる大きな要因となっている。

アイデンティティは多層である。
それは、沖縄、鹿児島など、どちらかに「峻別し難い」。

こんな境界の場所では、
どちらかを選ぶというより、
「状況によって境界を行き来する」という。

それを、高橋さんは「ボーダー・アイデンティティ」と呼んでいる。

この分析は説得力がある。
ぼくも、ある時は沖縄に愛着を寄せるし、
あるときはただの日本人だ。
でも、いざとなればユンヌンチュが強く顔を出す。
高橋さんはそれをボーダー・アイデンティティと言っていると思う。

これは、沖永良部だけでなく、与論や奄美の、
心のありようを説明してくれていると思う。

 ○ ○ ○

ただ、もうちょっと言えば、
ぼくは、その奥がまだあって、
どれかのアイデンティティに頼る向こうに、
それさえも、どうでもいいじゃないかという
おおらかさがあるような気がする。

島の人はアイデンティティとは誰も言わない。
それはアイデンティティという概念を知らないからではない。
もちろん、知っていてもどうということはないのだけれど、
ふつうの日常生活のなかで、
アイデンティティを糧に生きているわけではないからだ。

考えを詰めて息を凝らして、
煮詰めていくと、たしかにアイデンティティを云々するときはある。
けれど、考え詰めた極点で、
どうってことないじゃんというような、
ただの人のような場所に、いるのではないだろうか。

ユンヌンチュとて。

そこに、アイデンティティという言葉は、
ちょっとしゃちこばった、
外ゆきの言葉に思えてくる。

そんなところで、沖永良部のぴちゅ(人)も
与論のぴちゅ(人)も生きてきたのではなだろうか。


でも、高橋さんの突き詰めはとてもありがたい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/05/02

ここが違う!与論と永良部

高橋さんの論文で、
教えてもらわないと分からなかったのは、
「世の主伝説」と「西郷伝説」だ。

 ○ ○ ○

言われて思い出す。
沖永良部島でかすかに覚える違和感は、
そこに、「西郷隆盛」の文字を見ることだった。

止めてくれよ、薩摩じゃあるまいし。
ぼくはただの偏見でそう思ってきた。

けれど、考えてみれば、西郷は遠島で
沖永良部に滞在したことがあったのだった。

その間、約一年半。
このとき西郷は近世の政治経済の知識を伝える。
この島への寄与が西郷への敬愛を生んでいることを、
高橋さんの論文から教わった。

ここは与論とはまるで違うところだ。
奄美のなかでも与論は、
薩摩の影響の及ぶことの少なかった地域なのだろう。

ぼくは、西郷が奄美の島々から受けた影響に関心を持つ。
沖永良部が西郷に与えたもの、だ。

 ○ ○ ○

もうひとつ、与論と違うんだなぁと教えてもらったのは、
世の主伝説だ。

与論も琉球王国から、
支配者である世の主、北山王の王舅は来ている。
でも、伝説化されるほどではない。

世の主に対する島の人の親和感は、
沖縄への親和感と地続きになっているのだろう。

与論も沖縄への親近感はあるけれど、
それは、琉球王国を媒介にしていないということだろうか。

すると与論は、琉球王国としての沖縄からの影響も薄いのかもしれない。

 ○ ○ ○

沖永良部は、薩摩、琉球に対して、
政治的共同性に属する人物を介した
親和感を持っている。

対して与論は、薩摩に対しても琉球に対しても、
親和感は、政治的共同性に属する人物を介していない。
これも、与論島の特徴だと分かった。


 与論と沖永良部との違い、勉強になりました。


| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007/05/01

沖縄州か九州か

「沖縄か鹿児島か」という問いは、
道州制にいう「沖縄州か九州か」という問いを引き寄せる。

実のところ、ぼくは道州制の議論がどこまで進んでいるか、
沖縄はどういう意思表明をしているか、
当の奄美はどう考えているかをよく知らない。

けれど、そう遠くない将来に直面する課題として、
考えたいテーマだ。

たとえば、沖縄タイムスは、
奄美自身の考え方への尊重を言っている。

ウィキペディアでも奄美の去就が注目されている。

また、喜納昌吉は、当然、沖縄州と発言している。

 ○ ○ ○

沖縄州か九州か。

どちらにしても大切なのは、
奄美が奄美として意思表示をすることだと思う。
しかも、復帰運動のように、
日本人になるという切迫した思いからではなく、
奄美人としてどうするかを考えなければならない。

昨日、沖縄か鹿児島かを問う質問を前に、
すぐには答えかねると感じた。

道州制でいっても、沖縄州にせよ九州にせよ、
現状の奄美は、彼らにとっては
お荷物に違いないと思うからだ。

もしそうなら、付録としての奄美から、
お荷物としての奄美になる他ないことになる。

でも、奄美の意思表示がなければ、
沖縄州にいこうが九州にいこうが、
お荷物扱いは目に見えていると思う。

 ○ ○ ○

意思表示するには二つの道がある。

1)経済的な自立の道筋をつけること

経済的に自立せよということではない。
経済活性化の方途を奄美としてみつけることだ。

2)奄美の基層性・世界性を明示すること

奄美の文化が、琉球弧の文化と同様に、
日本の文化の基層を構成し、それが、
人類的な基盤に届くものであることを明らかにすること。
あるいは、奄美の文化が世界性を持っていることを示すこと。

この二つが大切だと思う。

 ○ ○ ○

要は、沖縄、九州に拾ってもらうのではなく、
どちらからも、来てほしいと言われるのが理想だし、
そこへ向けて動くべきだと思う。

ぼく自身は、沖縄への愛着が深いけれど、
上記のステップを経た後であれば、
どちらの選択も意味あるものになると思う。

沖縄州であれば、沖縄に奄美が加わることで、
琉球弧の広がりが確認しやすくなるし、
琉球弧としての経済活動も可能になる。

また、九州であれば、九州を多層性へ解放する役割と、
沖縄州との交流の担い手になる。

この書き方では、まだまだ抽象的だけれど、
奄美が奄美自身の自信を持つ機会でなければならない。

 ○ ○ ○

与論でいえば、
与論島は沖永良部との合併問題のときに初めて、
与論とは何かという問いに直面し、
与論は与論でしかありえないという結論に達した。

同様の問いなのだと思う。

 ○ ○ ○

と、ここまではぼくのドゥダンミンだけれど、
昨日、盛窪さんにコメントをいただいた。

 沖縄県に属すべきであり、道州制はもちろん沖縄と考え、意識的に
 沖縄を基点に世界への発信を考えています。
 そうなると、与論の地球上での位置は可也有利になるであろう。
 まずは沖縄北部圏の交流が大切だと思う。

こうした声が何より大切だと感じる。
ぼくのように島外で考えるより、
島の地に足をつけた方のはっきりした意思表示は、
何にも変え難いから。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

今、吉永小百合は奄美大島

吉永小百合主演の映画『母べえ』は、
川口市での撮影を終えて、
いまは、奄美大島に移っているんですってね。

大島で見かけた人もいるんでしょうか。

与論島舞台の映画『めがね』と同じように、
楽しみが増えました。


ところで、『母べえ』といい、『めがね』といい、中孝介といい、
奄美もだんだん注目を集めてきているのかな。
田中一村をテーマにした映画もあると聞きます。

そろそろ、いよいよ、やっと、奄美の時代なんだろうか。

そうだといいですね。(^^)



| | コメント (2) | トラックバック (1)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »