大隈・奄美、八重山の地名相似説
崎山毅さんは、加計呂麻が波照間に変化したと考えています。
カケロマ、カキルマ、カチルマ、ハチルマ、という流れです。
ぼくも加計呂麻=波照間と仮説しているので、
同じことを考えた方がいるのは、とても嬉しい。
ただ、ぼくはこの流れは逆、
語源は、波照間のほうが近く、
その名づけ方は北上し、
加計呂麻になったと考えています。
でも、南へくだった地名というのは、
崎山さんの考え方の背景になっています。
八重山群島を発見した人は
-少なくとも現在の島名の命名者はー
北方の隣人である。
特に大隈群島の屋久人一味の南島人であったと考えられる。
島の名も、あるいは団長名か、または部族名に因み、
あるいは団員たちにゆかりのある
島名・地名・部落名等をつけて、
彼等の冒険や功績を子々孫々に
伝えようと意企したものと考えられる。
これを読むと、本土から南島に人が渡ったという
前提に立って発想しているように見えます。
ぼくはそう決め付ける必要はまるでないと思います。
現に、波照間と加計呂麻は、波照間の方が、
インドネシアの語源に近い音を保存しているのですから。
ただ、相似する地名に対する気づきは
とても面白いと思えます。
ここには、奄美と八重山の共通性から、
片方に倣って片方をつけたという側面と、
ある位置関係におかれれば、
誰しもそう名づけるという普遍性の
両方の側面があると思います。
石垣島から波照間島をみて、
沖の島と名づける仕方は、
奄美大島から加計呂麻島を見たとき、
波照間島のことを知らなくても、
沖の島、という言い方をするだろうからです。
それにしても楽しい意見交換ができました。
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崎山さんと呼んできましたが、
実は、崎山毅さんは1969年に他界しています。
相似説の日付は、1958年とあるので、
いまから49年も前に出されたものです。
崎山さんの生まれ年をみれば、1900年(明治33年)。
おととし他界したぼくの祖母と近いのでした。
ぼくは、祖母と年齢の近い崎山さんが考えを出されてから
約半世紀経った後に、意見交換をさせてもらっているのです。
ああ、崎山さんに会いたかったなぁ。
加計呂麻と波照間のこと、
与論と与那国のこと、
語り合ってみたかったです。
竹富島出身の崎山毅さん。
大隈・奄美、八重山の地名相似説を出し、
残しておいてくださってありがとうざいます。
また、この資料を快く開示してくださった、
竹富島のIさんにも深く感謝いたします。
おかげで、楽しい対話ができました。
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※この記事は、昨日の「与那国は与論から!?」の続きです。
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