「沖の島」の流れ
波照間、多良間、慶良間、加計呂麻の島名の由来は、
どれも、「沖の島」ではないでしょうか。
ぼくは、波照間島の語源が「沖の島」なら、
波照間と音韻変化で同等になる加計呂麻も、
同じ、沖の島だと考えてきました。
でも、よく見ると、波照間と加計呂麻だけでなく、
多良間も慶良間も、同じではないでしょうか。
○ ○ ○
1954年、金関丈夫(かねせきたけお)は、
台湾の東海岸のアミ族が、
沖の島のことを「ボトル」「ボトロル」と呼ぶこと、
波照間は、地元で「パトロー」と呼ばれていることに着目して、
波照間島は「沖の島」であるという説を発表します。
この説は、八重山出身の宮良当壮(みやながまさもり)が
出していた「果ての珊瑚礁」(ウルマ=珊瑚礁)という解釈や、
それ以前の明治期に沖縄で出されていた「果ての琉球」という解釈
への反論でもあったのです。
宮良は、これに対して、
売られた喧嘩のように激しく反発します。
ことはその後、論争へと発展したほどで、
いろんな考え方がありますな、
と互いを認め合うでは済まされなかった
仮説同士のぶつかりあいを生んだのでした。
それから約半世紀が経過して、
沖縄の観光ガイドを見ていると、
ほとんど、宮良の「果ての珊瑚礁」説を採用しています。
ぼくは、これは観光向きではあるけれど、
波照間は「果ての珊瑚礁」ではないと思います。
理由は単純で、地名をつけた初期の居住者が、
波照間島を、「果て」と認識するはずがないからです。
「果て」と認識するためには、
琉球の範囲が頭に入っている必要がありますが、
地名が付くのは琉球ができるずっとずっと前のことです。
地勢や地形の特徴を名付けるのが原則ですから、
「沖の島」の方がはるかに理にかなっていると思います。
波照間島は、石垣島の沖の島なのです。
○ ○ ○
それと同じように考えれば、
加計呂麻島は奄美大島の「沖の島」です。
波照間島と加計呂麻島。
両島のあいだは500km以上の距離があるけれど、
「沖の島」の概念と言葉は、
あの間を渡っていきました。
けれど、どうやらただ渡っていったのではありません。
沖の島という名づけは、
波照間と加計呂麻に定着しただけではなく、
他にも、「沖の島」と呼ばれる土地があったのです。
それが、多良間島と慶良間(諸)島です。
たとえば、慶良間の由来は、こんな風に説明されています。
地名「キラマ」は、まさに述べたとおりで、
「キラ(華麗)」と「マ(間)」の複合語から成る地名と考えられる。
すなわちキラマ(慶良間)とは“キラキラ輝く所”の意で、
千変万化のこの多島海の美しい景観を指した
先人たちの遺産であろう。
(久手堅憲夫『地名を歩く』)
ぼくは、これはそう見なしたい気持ちは分かるけれど、
ありえないと思います。
慶良間をキラキラ輝く所と解釈するのは、
波照間を、「果ての琉球」、「果ての珊瑚礁」と解するのと同じく、
ロマンティックではあるけれど、
地名のつけ方として、正解とは言いがたい。
ぼくは、タラマ(タルマ)、ケラマ(キルマ)は、
ハテルマやカケロマ(カキルマ)の、
語頭の音が何らかの理由で抜けたもので、
ハテルマやカケロマと同じ系譜の言葉だと見なします。
同じ、「沖の島」です。
琉球弧を眺めれば、
多良間島は、宮古島の沖の島ですし、
慶良間(諸)島は、沖縄本島の沖の島です。
南から北上していくと、
波照間島 石垣島の沖の島
多良間島 宮古島の沖の島
慶良間(諸)島 沖縄本島の沖の島
加計呂麻島 奄美大島の沖の島
となります。
「沖の島」は、琉球弧全体に広がっているのでした。
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