« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007/04/30

沖縄か鹿児島か

高橋さんは「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」
面白い調査をしている。

 Q.全国高校野球の試合では、沖縄県代表と鹿児島県代表の
   野球チームのどちらを応援しますか?
   
   1.沖縄県代表
   2.鹿児島県代表
   3.両方
   4.どちらでもない

あなたはどう回答しますか?

沖永良部の人たちはこう回答している。

 1.沖縄県代表  29%
 2.鹿児島県代表 27%
 3.両方      41%
 4.どちらでもない 3%

どうだろう。
与論島でやっても近い結果になるような気がする。

ぼくは「3」で、仮に沖縄県と鹿児島県が対戦したら、
沖縄県を応援する、という感じで観てきた。
そんな厳密に決めているわけではないけれど。

 @ @ @

もうひとつ、もっときわどい質問も高橋さんはしている。

 Q.市町村合併問題について、あなたの属する町は
   どこに属するべきだと思いますか?
   
   1.沖縄県に属するべきである
   2.どちらかといえば、沖縄県に属したほうがよい
   3.どちらかといえば、鹿児島県に属したほうがよい
   4.鹿児島県に属するべきである

ぼくは心情的には「1」に心が傾く。
けれど、高校野球のようにはすっきりいかない。

というのも、「すべき」と言うために
やることがあるような気がするからだ。

沖永良部のみなさんはこう回答している。

 1.沖縄県に属するべきである           17%
 2.どちらかといえば、沖縄県に属したほうがよい  36%
 3.どちらかといえば、鹿児島県に属したほうがよい 27%
 4.鹿児島県に属するべきである          20%

この回答も与論島からみて、分かりやすい。

足してみれば、

沖縄県  53%
鹿児島県 47%

やや沖縄県が優勢。
与論島だと、もう少し沖縄県に傾くだろうか。

心情的にはよく分かる感じだ。


けれど、この質問は成り立つのだろうか。
問いとして成立するのだろうか。
そんなことを考えさせる。

というのも、この質問は、もっと大きくみれば、
道州制にいう琉球州か九州かという問いとパラレルになる。
それと一緒に考えてみなければならない気がするのだ。




| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/29

四世紀後の異議申し立て

 永良部世の主に関する文献資料は、
 薩摩藩直轄領時代だった1706年に薩摩藩による
 琉球関係の文書や家系図の取り上げ
 命令によりその多くが焼却処分となったとされ、
 17世紀以前のものは少ない。
 「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」(高橋孝代)

これは、しちゃいけないよ、薩摩さん、と言いたくなる。
焚書は支配者の常套手段と言って済ませたくない。

奄美の困難は、「二重の疎外」にあると思う。

二重の疎外は、
文化的共同性に顔を向ければ政治的共同性が異なると無視され、
政治的共同性に顔を向ければ文化的共同性によって差別される、
という構造をしている。

奄美の二重の疎外は、
薩摩による奄美・沖縄侵犯と、
奄美の琉球王国からの割譲によって完成された。

沖縄でもなく鹿児島でもない奄美の困難は、
そこで構造化されたのだ。

その上に行われたのが、この、焚書であり、
大和風の身なりの禁止だった。

二重の疎外は、空間だけではなく、
時間の上でも行われたことになる。

焚書により過去を断たれ、
身なりの規制により、未来が断たれる。
すると、永遠の「今」しかなくなる。

奄美の失語はここから本格化したのだ。

1609年から四世紀。
現在まで失語が続いていることが、
傷痕の深さを物語る。




| | コメント (0) | トラックバック (1)

祖母の三回忌

今日はカナ祖母(ぱーぱー)の三回忌だ。

あの日、ぼくは急いで便を取り、
長男を連れ立って鹿児島経由で与論に向かった。

なんとか宇和寺に着くと、
叔母が、「このあいだともう違ってしまったね」と
泣きながら教えてくれた。

祖母(ぱーぱー)は、
ふつうに眠ったように、横になっていた。

葬儀では、いとこの電報が読み上げられた。
夏休みに祖母と過ごした夏のあったことを得意げに言う。
ああみんな一緒なんだなと思った。
彼女と過ごした時間のあったことはそれだけで自慢なのだ。
ぼくがそうだから従兄弟の気持ちはよく分かった。

祖母のひつぎは重かった。

あんなに嫌がってたのに、
祖母は火葬に付される。

ぼくも初めて与論の火葬場に行って、
久しぶりにぱらじ(親戚)とひととき過ごした。


祖母のいない世界を
ぼくはまだ受けとめかねている。

祖母に会いたくて仕方ない。
「きちゃんむい」と言ってほしい。

ぱーぱー、ぱーぱー、
わーちゃんちゃー、みーまぶーてぃたばーり。
そう、甘えてしまう。

ぱーぱー、改めて、とおとぅがなし。

安らかに。

これは、ゆんぬ言葉で何て言えばいいんだろう。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/28

アグはブローチ

「アグ(友達)」の語源は、「ブローチ」かもしれない。

高橋さんの論文によると、
沖永良部でも同世代の友人のことをアグと呼ぶという。
思うに、アグが琉球弧にひろがる言葉なら、
アグはブローチ、首飾りの意味かもしれない。

沖縄、奄美の共通地名を研究している牧野哲郎さんは、
鏡味完二の『日本地名学』のなかから、
アグにつながる地名について紹介している。

「日本国内には海岸や河川などの、
水に縁のある場所にアゴやアンゴの地名」があるとして、
それが日本古語やアイヌ語、朝鮮語には適訳がみつからないけど、
マレー語には、アゴは「頸飾」、
アゴックには「ブローチ」「珠数の頸飾」の意味があるという。

 この地名は最初は真珠などの飾玉を採集する海岸に
 命名せらfれたものが、
 そこから真珠のない海岸に移住した漁夫らを呼ぶ名ともなって、
 そこには地名の根が下されたと考えられる。
 青森県の方言に「漁夫仲間」を指して、
 Akoというのがある。
             鏡味完二『日本地名学』

牧野さんは、ここから連想して、
徳之島南端の阿権(アグン)、竜郷の赤尾木(アーギ)、
竜郷、瀬戸内のアンキャバ、糸満の阿波根(アーグン)、
そして、わが与論の赤佐(アガサ)などをつなげている。
これは楽しい連結だ。

そのアグ(ン)が、仲間、友人を意味するアグ
にもなっていったと連想すると、これも楽しい。

青森県の例と変わらず、
漁師仲間をアグと呼んだものが、
仲間・友人の意になっていったと解してみる。

牧野さんに感謝しながら、
アグの広がりを想うゆうべ。

そういえば、アガサの海よわたしらの♪と、
茶花小学校では歌ったけれど、
これは、「貝の採れる海よ」、
「首飾りの海よ」、「漁師仲間の海よ」
という替え歌にもなるってことだ。


「ブローチ」から「友人」へ。
言葉は、地名と関係もつないでゆくんですね。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/27

与論島は甘えん坊?

こんな面白い言い方があるんですね。

 奄美の島々を兄弟になぞらえ、個々の島民性を、奄美大島を
 「しっかりものの長男」、徳之島を「やんちゃ坊主の次男」、
 沖永良部島を「まじめな三男坊」、与論島を「甘えん坊の四男」
 と形容することもあるように、沖永良部島民の性格は、しばしば
 勤勉という言葉で表現されるように、老若男女を問わずよく働く
 といわれている。
 「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」(高橋孝代)
 
これ、知らなかった。知ってましたか?

与論島は甘えん坊。それは知らなかった。(^^;)

与論。やんちゃな末っ子、の感じはある気もする。
そこから連想するとどうなるか。

沖永良部は? 優しいアネキ。
徳之島は? いかついアニキ。
奄美大島は? まじめでおとなしいアニキ。

かなぁ? (苦笑)



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/26

「付録」としての奄美

高橋さんは、奄美研究の困難さをこう言う。

 奄美は、近世に薩摩藩の直轄領地であったことなどから、
 扱いが沖縄よりさらに複雑で、その位置付けには目を向
 けられず曖昧にされがちであった。

そう、その通りだ。

奄美について何か言おうとすると、失語してしまう。
奄美はいまだに失語したままだ。
けれど、それは永遠の沈黙ではない。
発語までの期間が長く必要だったというに過ぎない。
奄美がどんな言葉を発するのか、とても楽しみだ。

それから、高橋さんは山下欣一の「奄美人のアイデンティティ」
につていも紹介している。いわく。「奄美は沖縄というカテゴリー
でも、鹿児島というカテゴリーでも『付録的』位置づけであった。」

これも、その通りだ。

(琉球)-(沖縄)=(奄美)

または、

(鹿児島)-(薩摩)=(奄美)

のように、引き算の残余が「奄美」で、
等式の左辺にいけないできた。
なんとなれば、「奄美」とは何か、
充分に表現できていないからだ。

大状況のなかで、琉球のなかでも、
鹿児島のなかでも、奄美は重視されてこなかった。
それが、「付録」という意味だ。

けれど、もしそうなら、奄美の歴史でも登場すること少なき
わが与論など、奄美のなかの奄美だ。

ここは開き直るのも手だ。

付録作戦。

その心は、グリコのおまけ。
キャラメルを買うとおまけがついてきてトクした気分、
というのではなく、おまけがほしいから、グリコを買う。
そうなればいい。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

あれから2年の「与論島クオリア」

あれから2年経つ。与論のために何かしたいのに、何もしていない。
そんな焦慮を押し隠して過ごす中、百五歳になった祖母がもう長く
ないと言われて慌てて帰島した。

その時、このままでは、祖母(ぱーぱー)に何も報告できないままに
なってしまう。それは嫌だと、2年前の今日、「与論島クオリア」
を書き始めた。眠ったままだったけれど、祖母(ぱーぱー)に
「始めたよ」と伝えたかった。

あれから2年。与論島へのコミットはまだまだ希薄だけれど、
少しだけ、島に近づけた気がしている。

祖母(ぱーぱー)によい報告ができるように。みじらしょー、と
言ってもらえるように、3年目も書きつづけてゆくだろう。

 よろしければ、お付き合いください。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

何が自由か、知っている。

 何が自由か、知っている。

これは映画『めがね』のキャッチコピー。


知っている?と聞かれたらなんて答えるだろうと考えた。
自分を生かすスタイルを持っていること、
と今なら、答える。明日は知らない。

予告編の海は、与論島の海だと思ってとろけそうになる。
波の音がいいですよ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/25

奄美・沖縄、それとも

高橋さんは、「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」
書くに当たり、奄美諸島から宮古・八重山の島嶼群を総称する
言葉がないことに悩み、仮に「奄美・沖縄」と置く。

高橋さんには退けられているけれど、ぼくは、
日本との関係で言う場合は「南島」、
あのゆるやかな島の連なりを込めて言いたいときは「琉球弧」、
それを日本にも広げていいたいときは、「ヤポネシア」と使うだろう。

でも、高橋さんが誤解なく研究対象を指そうとしたときに、
置いた「奄美・沖縄」という言葉は、
ぼくたちに課題を伝えてくれるように思う。

奄美・沖縄。

こう並べると、「薄いものと濃いもの」、
「括りが必要なものと、ほどきが必要なもの」
という二つの印象がやってくる。

薄い「奄美」と濃い「沖縄」。

もともと「奄美」は希薄だということではない。
夥しい言説を持つ沖縄と言及希薄な奄美。
「奄美」を充分に表現しきれていないという意味で。

「括りが必要なものと、ほどきが必要なもの」
「奄美」は奄美自体から浮かび上がるイメージがない。
これに対して、「沖縄」はむしろ、沖縄、宮古、八重山へほどいて
言うことが大切だと思わせる。

奄美・沖縄。

同等なものの並列対置とは受け取りにくい。
ここに、奄美の課題も見えてくるようだ。


追記
せっかくだから、高橋さんの考察で誤解ではないかと
思う点をほどいておきたい。

 また、作家で戦後奄美大島で30年あまりを過ごした
 島尾敏雄(1917-1986)は、1961年に「ヤポネシア」
 構想を始めて用い、70年代の状況を切り開いていく
 発想として展開した。ヤポネシアは、JAPONIA(日本)
 とNESIA(島々)を結びつけた造語で、文化的優位性
 としての大陸に固定されてきた視点を、太平洋へと
 転換し、点在するポリネシア、ミクロネシア、メラネシ
 アなどとの関連で日本列島を位置付け、国家や文化
 について凝り固まった意識を解き放そうという発想で
 あった。しかし、この壮大な発想も、奄美・沖縄を考え
 る枠を太平洋へと中心軸をずらしただけで、結局は
 統一体のなかで奄美・沖縄を捉えようとしているに
 すぎない。

ここは、う~ん、そんなことはない。
統一体という意味がよく分からないけれど、
均質な塊というような含みで受け取ると、
島尾敏雄はそんな発想はしていない。

日本を、ヤポネシアということで、
大陸との位置関係を意識した日本に対して、
太平洋に広がり連なる日本列島に注意を向けるものとして、
ヤポネシアという言葉は、いまでもとても魅力的だ。

この発想は、奄美・沖縄をどう捉えるかということとは、
関わりがないと言っていい。ヤポネシアと呼ぶとき、
日本は均質空間と言っているわけでもないから。

むしろ、ネシア間に明確な境界を引きたいわけではなく、
連続性に着目した言葉遣いだと思う。

注釈でした。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/24

奄美文化は一括りにできない

高橋さんは、研究対象の呼称に悩む。

奄美諸島から宮古・八重山の島嶼群は、
共通の文化をもつまとまった地域なのだけれど、
総称する言葉が見当たらない。

根本的には、それは、

 島々に住む人々のアイデンティティは
 各シマ(集落)や各島にあって、
 これらを総称する用語は日常において
 必要な言葉はないため存在しないからである。

その通りだ。

島はひとつひとつが世界だから、
横につなぐ言葉を必要としなかった。

高橋さんは困る。

「沖縄」というと、
沖縄中心になってしまうし、
奄美が入らない。

また「奄美」を「沖縄」から切り離す必要はないし、
だいたい、「奄美」をひとくくりにするのは難しい。

 奄美と沖縄を切り離し、
 「奄美文化」と一くくりにすることは難しいと考える。

奄美について、正直な見解だ。

でもこのことは、
奄美の島々が疎遠であることを意味しない。

なんというか、行き交い自体は疎遠であっても、
ゆるやかな親近感でつながっている、
と言えばいいだろうか。

高橋さんは結局、
「奄美・沖縄」という言い方に落ち着けるのだが、
苦肉の策だ。

ぼくはひとまず、何と呼称するかに関心はないけれど、

 奄美と沖縄を切り離し、
 「奄美文化」と一くくりにすることは難しいと考える。

この認識がとても大事だと思う。

そして、ひとくくりするのは難しい「奄美」を
語れるものにするには言葉にする順番が大切だ。

1.奄美の島々がそれぞれに自分の島のことを言葉にする。
2.それぞれ持ち寄って、奄美として語れることと、
  それぞれの個性を明らかにする。
3.それをもって、沖縄との共通項と個性を明らかにする。

当り前といえば当り前。
でも、そうして始めて見えてくるものは
とても大きいと思う。

奄美にとっても。沖縄にとっても。


※高橋孝代 「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/23

花と白波

なんというか、なんというか。

あまりTVを観なかったのだけれれど、
つい、先日知った中孝介の「花」が流れていて、
耳を奪われる。

で、そこに流れる映像は、
どこかでみたことのある勇壮な風景。

まさかあれはと思っていると、
やっぱりそれは桜島。

花と桜島?
まさかと思いきや、
なんとまさかの中孝介の「花」と焼酎「白波」の光景。
そのマッチング。

悪くないけど、腑に落ちない。

鹿児島よ、そんなマッチングする前にすることあるんじゃないの。
奄美よ、そんなマッチングする前にすることあるんじゃないの。

そう思ってしまう。

「花」を、元ちとせの歌と同じように、
遠くにとおくに羽ばたいてもらうために、
しなきゃならないことが、
奄美にはあると思う。

元ちとせや中孝介の飛翔は、
かつてない羽きなのだから。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

タビンチュの位相

与論島では、本土の人のことをタビンチュと呼ぶ。
ヤマトゥンチュとは呼ばない。
ヤマトゥンチュという言葉はあるのだが、
日常的に使うのは、タビンチュだ。

高橋さんの論文を読んで、
沖永良部でもヤマトゥンチュと言うことを知り、
ひょっとして琉球弧ひろしと言えども、
タビンチュと言うのは
与論だけではないかと思った。

タビンチュ。

タビ(旅)という言葉を使うからには、
そう古い呼称ではないと思う。

以前は、観光客が増えて、
タビンチュと呼ぶようになったのかと推測したが、
定かではないし、
昔はヤマトゥンチュと言ったという話を聞いたこともない。

だから、観光地になったから、
タビンチュと呼ぶようになったというのでもないだろう。

少なくとも明治期以降の島人は、
タビンチュと呼んできた。

そう仮定してみる。

 ○ ○ ○

沖縄を知る本土の人には、
与論では、ヤマトゥンチュって呼ぶんでしょ、
と言われることもあった。

ぼくは、違うんだけど、と思いながら、
なぜタビンチュというのか、
自分でもよく分からないし、
ヤマトゥンチュに比べて軽い言葉に思えたりして、
そう思うと、ちょっと混乱して説明が面倒になり、
そうだよ、と答えていた。

そう答えると、
相手の沖縄イメージにあわせることになり、
その分だけ、
ぼくも沖縄の人に近しい見なしを受けるのだった。

それは楽だけど、
座りのわるい違和感を残してきた。

 ○ ○ ○

それにしても、「タビンチュ」という呼び方、
いまは、「いとをかし」だと思っている。

ユンヌンチュ(与論の人)は、
なぜ、ヤマトゥンチュ(大和の人)と呼ばずに、
タビンチュ(旅の人)と呼んできたのだろう。

ぼくは、それはユンヌンチュ(与論の人)が、
島を訪れる人との間に、
対立の要素を入れたくなかったからだと思う。

もちろんタビンチュという言葉は厳然としてあり、
それがユンヌンチュとの区別で使われる。

けれど、そこで「タビンチュ」を使うのは、
ヤマトゥンチュと言うのとは少しニュアンスが変わってくる。

要は、タビンチュには、
ヤマトゥンチュが持っている、
ユンヌンチュとの対立という含みはないのだ。

ヤマトゥンチュ、とくると、
ユンヌンチュ「と」ヤマトゥンチュから、
ユンヌンチュ「対」ヤマトゥンチュまで、
意味の広がりを持つのだが、

タビンチュ、と来ると、
ユンヌンチュ「と」タビンチュの意味しかなく、
ユンヌンチュ「対」タビンチュ、
という含みはない。

「タビンチュ」という言葉は、
対立の要素を抜き取られた
「ヤマトゥンチュ」なのだ。

旅の人は、純粋に旅の人として遇したい。
そういう島人の思いが、
タビンチュという言葉を生んだのではないだろうか。

 ○ ○ ○

だから、ユンヌンチュは特別、
と言いたいわけではない。

この言葉を生んだのには、
沖縄ほどに本土と対立する経緯がなく、
また奄美の内部でも、
奄美大島、徳之島、喜界島ほどに、
薩摩に苦しめられたわけでもない、
という歴史が背景にあると思う。

ときの大きな勢力に、
重要視されずに、
無視されてきた距離感が、
この言葉を醸成する余地を生んだのだ。

でも、そんな経緯があれば、
必ず、タビンチュという言葉を生む
というものでもない。

だから、この言葉を生んだユンヌンチュは優しい、
と思うのだ。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/04/22

沖永良部と与論は似ている

高橋さんの「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」
を読むと、沖永良部と与論は似てるなぁと改めて思う。

高橋さんは、「沖永良部島民のアイデンティティ」について、

 沖永良部島という牧歌的で安定した社会の影に潜む
 切実な問題の一つである(後略)。

と言う。

ぼくは、与論が「牧歌的で安定した社会」かどうかを知らない。
でも、「おだやかな社会」だと思う。
だから、高橋さんと同じように言えば、
与論島民のアイデンティティは、
与論島というおだやかな社会の影に潜む
切実な問題の一つである。

高橋さんは続ける。

 日本本土と沖縄島の間にあり、琉球弧のほぼ中央に位置する。
 中央政治から離れた周縁に位置し、これまで日本史や沖縄史
 の表舞台に華々しく登場したことはない。

これなど、与論もそうだ。いやもっとかもしれない。
歴史に華々しく登場したことがないどころじゃなく、
単に、登場したことはない、と。

 この島の個性の一つは、政治の中心ではないが、歴史の変動
 による影響力をまともに受けてきた、「境界」の島であると
 いうことである。

これも、与論に置き換えて言うことができるだろう。

 ∽ ∽ ∽

もう少し繊細な言い方もしている。

 沖永良部島民は、ウチナンチュ(沖縄の人)と自らを差異化
 する傾向にあるが、文化に関しては「沖永良部島は沖縄文化
 圏にある」と考えている人が多い。また、鹿児島県民意識は
 強いが、ヤマトンチュ(日本本土の人)である鹿児島の人に
 対し違和感も覚えている。

ここも似てるなぁと思う。

与論を舞台に同じことを考えようとしたら、
同じように、日本、沖縄、鹿児島への感じ方を抜きにできない。
 
 「日本/沖縄」、「鹿児島/沖縄」、「奄美/沖縄」の重層
 的な「境界」に位置する沖永良部島の「境界性」に注目し、
 そこに住む人々のアイデンティティの考察を試みるものである。

境界に位置する与論島の境界性。
これも全く同様に考えられることだ。

高橋さんは沖永良部を「重層的な境界」
と整理するのだけれど、
与論もまさに「重層的な境界」を抱えている。

もっと言えば、沖永良部の持つ境界性は、
与論島ではさらに純化・強化されて、
境界そのものを担っている、と思うのだ。

ぼくは少し甘えさせてもらって、
高橋さんの論文を伴走しながら、
与論固有のことを考えていこう。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

いちご畑の秘密基地

与論島の野いちごが懐かしい。

ぼくも小さい頃は、よく摘んで食べたもんです。

近所に、ソテツとガジュマルの木々を抜けると、
大人のやってこない原っぱがあって、
そこが秘密基地だった。

野いちごが手つかずのまま実っていて、
見つけてちぎっては口に入れた。美味しかった。

ひとりきりの特別な時間だった。

与論のいちご畑よ、永遠に。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/21

血がさわぐ

高橋さんは、
「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」研究の動機を、
「血がさわぐ」と書いている。

 沖縄県出身者ではない筆者には、
 「ウチナンチュ(沖縄の人)」というアイデンティティはなかったが、
 祭りを通して流れてくる沖縄の民謡に
 「血がさわぐ」ような強い懐かしさを感じた。

サンフランシスコの日本人町で行われたお祭りで。
それがきっかけだったと、高橋さんは言う。

ぼくも思い当たる。
ぼくの場合は、80年代の後半、
池袋の西武百貨店の屋上で、
りんけんバンドのライブコンサートを聞いたとき、
まさに、「血がさわぐ」のを感じた。

どうしてこんなに響くのだろう。
どうしてこんなに懐かしいのだろう。
それは切ないくらいだった。

それから、90年代初頭に、
那覇に行った時、
街筋に飛び交うおばさんたちの話す言葉が
ある程度、分かったのに驚いた。

つながっているのを感じた。

それが、沖縄とのつながりのなかで、
与論島を見つめる原動力になったのだ。

こういう体験、ありますか?



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/20

沖永良部学との対話

高橋孝代さんの、
「沖永良部島民のアイデンティティと境界性」を読む。

高橋さんが2004年に提出した博士論文で、
それがなんとインターネットに公開されていて、
読むことができた。感謝。

高橋さんの論文は、
ぼくが与論についてやりたいと思っていることに
とても近く、刺激を受ける。

それはなんといっても、
「境界性」に着目している点だ。

 ★ ★ ★

ぼくは、与論のことを考えるのに、
やはり、与論のもつ境界性がテーマになると思ってきた。

それどころか、もっと強く、
与論島の力とは「境界を消す力」のことだとすら
考えてきた。

そしてそのシンボルを、
礁湖の蒼(イノー・ブルー)に求めて、
与論らしさを追究したいと思っているのだ。

 ★ ★ ★

高橋さんの論文は、
そんな関心のすぐ傍を走っている。

なんてありがたい。
エラブはやっぱりユンヌのお隣さんだ。

ぼくはしばし、
高橋さんの論文と対話をしながら、
自分のイノーブルー・ノートを作っていこうと思う。

沖永良部を通じて、
与論がよく見えてくるはずだから。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/04/19

浜下りの日の「花」と「タンポポの詩」

 もしもあなたが雨に濡れ
 言い訳さえもできなほどに
 何かに深く傷ついたなら

この出だしに耳を奪われて、
中孝介の「花」を聞く。

元ちとせが登場したとき、
奄美の表現が、
世界性をもったと思えて、
とても嬉しかった。

中孝介の歌声は、
これまで知らなかったのだけれど、
間違いなく奄美の声で、
でも、辛さに傾斜せずに、
切なさへ流れて心に響いてきた。

このよき曲も、
奄美がせりあがってくるように思えることも、
ともに嬉しい。

 ♪ ♪ ♪

父が坂村真民の詩を教えてくれた。
小学校の教員の頃、
子どもたちにもよく聞かせたという。

 「タンポポ魂」

 踏みにじられても
 食いちぎられても
 死にもしない
 枯れもしない
 その根強さ
 そしてつねに
 太陽に向かって咲く
 その明るさ
 わたしはそれを
 わたしの魂とする

 ♪ ♪ ♪

今日は、浜下り。

琉球弧の島々からはそれぞれに、
浜下りの便りが聞こえてくる。

つながってる、と思う。


琉球弧が浜下りで和む日。
ぼくは遠くで、「花」と「タンポポの詩」に慰撫された。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

沖縄は、沖のナファ

前に、沖縄を「大きなナハ」、
つまり、「大きな、水のある所」と解しました。

このとき、「おき」を「大きい」と解して、
すっきりしないと保留しましたが、
あれ以降も、亜熱帯魚の小骨のように、ひっかかってきました。

違うんじゃないかなぁと。
「大きな」と解するより、
「沖の」と解したほうがやはり素直だと思えるのです。

ウチナーは、「沖にある水のある所」です。

この解釈は、「沖の島」が、琉球弧全体に広がっている
という理解を背景にしています。

そしてそうとするなら、
こんどは、「沖にある水のある所」と解するのはともかく、
「沖」を言うのに、ハテルマ系列の言葉を使うのではなく、
現代に通じる、「沖」を使っているのがひっかかります。

ウチナーというのは、
実はとても新しい言い方なのではないでしょうか?
昔は、「ナファ」、「ナファンチュ」と言っていたのではないでしょうか?

「水のある所」である「ナファ」が、
もともとあった言葉で、
本土を含んだ範図が意識化されるに及んで、
「沖のナハ」を言うようになったのではないか。

この段階では、「沖」を言うのに、
ハテルマ系列の言葉は、
語源が分からなくなっており、
現代に通じる「沖」を使ったことになります。

というわけで、ウチナーを
「沖にある水ののある所」と解します。

もし「ウチナー」という言葉の起源を
ご存知の方がいらしたら、
ぜひ、教えてください。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/18

「沖の島」の流れ

波照間、多良間、慶良間、加計呂麻の島名の由来は、
どれも、「沖の島」ではないでしょうか。

ぼくは、波照間島の語源が「沖の島」なら、
波照間と音韻変化で同等になる加計呂麻も、
同じ、沖の島だと考えてきました。

でも、よく見ると、波照間と加計呂麻だけでなく、
多良間も慶良間も、同じではないでしょうか。

 ○ ○ ○

1954年、金関丈夫(かねせきたけお)は、
台湾の東海岸のアミ族が、
沖の島のことを「ボトル」「ボトロル」と呼ぶこと、
波照間は、地元で「パトロー」と呼ばれていることに着目して、
波照間島は「沖の島」であるという説を発表します。

この説は、八重山出身の宮良当壮(みやながまさもり)が
出していた「果ての珊瑚礁」(ウルマ=珊瑚礁)という解釈や、
それ以前の明治期に沖縄で出されていた「果ての琉球」という解釈
への反論でもあったのです。

宮良は、これに対して、
売られた喧嘩のように激しく反発します。

ことはその後、論争へと発展したほどで、
いろんな考え方がありますな、
と互いを認め合うでは済まされなかった
仮説同士のぶつかりあいを生んだのでした。

それから約半世紀が経過して、
沖縄の観光ガイドを見ていると、
ほとんど、宮良の「果ての珊瑚礁」説を採用しています。

ぼくは、これは観光向きではあるけれど、
波照間は「果ての珊瑚礁」ではないと思います。

理由は単純で、地名をつけた初期の居住者が、
波照間島を、「果て」と認識するはずがないからです。

「果て」と認識するためには、
琉球の範囲が頭に入っている必要がありますが、
地名が付くのは琉球ができるずっとずっと前のことです。

地勢や地形の特徴を名付けるのが原則ですから、
「沖の島」の方がはるかに理にかなっていると思います。
波照間島は、石垣島の沖の島なのです。

 ○ ○ ○

それと同じように考えれば、
加計呂麻島は奄美大島の「沖の島」です。

波照間島と加計呂麻島。
両島のあいだは500km以上の距離があるけれど、
「沖の島」の概念と言葉は、
あの間を渡っていきました。

けれど、どうやらただ渡っていったのではありません。
沖の島という名づけは、
波照間と加計呂麻に定着しただけではなく、
他にも、「沖の島」と呼ばれる土地があったのです。

それが、多良間島と慶良間(諸)島です。

たとえば、慶良間の由来は、こんな風に説明されています。

 地名「キラマ」は、まさに述べたとおりで、
 「キラ(華麗)」と「マ(間)」の複合語から成る地名と考えられる。
 すなわちキラマ(慶良間)とは“キラキラ輝く所”の意で、
 千変万化のこの多島海の美しい景観を指した
 先人たちの遺産であろう。
            (久手堅憲夫『地名を歩く』)

ぼくは、これはそう見なしたい気持ちは分かるけれど、
ありえないと思います。

慶良間をキラキラ輝く所と解釈するのは、
波照間を、「果ての琉球」、「果ての珊瑚礁」と解するのと同じく、
ロマンティックではあるけれど、
地名のつけ方として、正解とは言いがたい。

ぼくは、タラマ(タルマ)、ケラマ(キルマ)は、
ハテルマやカケロマ(カキルマ)の、
語頭の音が何らかの理由で抜けたもので、
ハテルマやカケロマと同じ系譜の言葉だと見なします。

同じ、「沖の島」です。

琉球弧を眺めれば、
多良間島は、宮古島の沖の島ですし、
慶良間(諸)島は、沖縄本島の沖の島です。

南から北上していくと、

 波照間島    石垣島の沖の島
 多良間島    宮古島の沖の島
 慶良間(諸)島 沖縄本島の沖の島
 加計呂麻島   奄美大島の沖の島

となります。

「沖の島」は、琉球弧全体に広がっているのでした。



Photo_71

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/17

大隈・奄美、八重山の地名相似説

崎山毅さんは、加計呂麻が波照間に変化したと考えています。
カケロマ、カキルマ、カチルマ、ハチルマ、という流れです。

ぼくも加計呂麻=波照間と仮説しているので、
同じことを考えた方がいるのは、とても嬉しい。

ただ、ぼくはこの流れは逆、
語源は、波照間のほうが近く、
その名づけ方は北上し、
加計呂麻になったと考えています。

でも、南へくだった地名というのは、
崎山さんの考え方の背景になっています。

 八重山群島を発見した人は
 -少なくとも現在の島名の命名者はー
 北方の隣人である。
 特に大隈群島の屋久人一味の南島人であったと考えられる。
 島の名も、あるいは団長名か、または部族名に因み、
 あるいは団員たちにゆかりのある
 島名・地名・部落名等をつけて、
 彼等の冒険や功績を子々孫々に
 伝えようと意企したものと考えられる。

これを読むと、本土から南島に人が渡ったという
前提に立って発想しているように見えます。

ぼくはそう決め付ける必要はまるでないと思います。
現に、波照間と加計呂麻は、波照間の方が、
インドネシアの語源に近い音を保存しているのですから。

ただ、相似する地名に対する気づきは
とても面白いと思えます。

ここには、奄美と八重山の共通性から、
片方に倣って片方をつけたという側面と、
ある位置関係におかれれば、
誰しもそう名づけるという普遍性の
両方の側面があると思います。

石垣島から波照間島をみて、
沖の島と名づける仕方は、
奄美大島から加計呂麻島を見たとき、
波照間島のことを知らなくても、
沖の島、という言い方をするだろうからです。

それにしても楽しい意見交換ができました。

 ∽ ∽ ∽

崎山さんと呼んできましたが、
実は、崎山毅さんは1969年に他界しています。
相似説の日付は、1958年とあるので、
いまから49年も前に出されたものです。

崎山さんの生まれ年をみれば、1900年(明治33年)。
おととし他界したぼくの祖母と近いのでした。

ぼくは、祖母と年齢の近い崎山さんが考えを出されてから
約半世紀経った後に、意見交換をさせてもらっているのです。

ああ、崎山さんに会いたかったなぁ。
加計呂麻と波照間のこと、
与論と与那国のこと、
語り合ってみたかったです。

竹富島出身の崎山毅さん。
大隈・奄美、八重山の地名相似説を出し、
残しておいてくださってありがとうざいます。


また、この資料を快く開示してくださった、
竹富島のIさんにも深く感謝いたします。
おかげで、楽しい対話ができました。

 ∽ ∽ ∽

※この記事は、昨日の「与那国は与論から!?」の続きです。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/16

与那国は与論から!?

竹富島出身の崎山毅さんが、
八重山の地名は、大隈群島、奄美諸島の地名に似ている
として、すごく面白い説を提示しています。

 地図を開いて大隈群島の種子島、屋久島と、
 八重山群島の石垣島、西表島を見較べると、
 島の形、両島の位置的関係並びに地勢がよく似ている。
 種子島は北から南へ細く延びた島で
 割に耕地に恵まれており、
 島の北部を御岬といい、
 西海岸には西ノ表の良港がある。

こういう出だしです。

ぼくは、そう、そうと思い起こします。
種子島の西ノ表、石垣島の向こうの西表島、
似てるなぁって思ったことがあります。

地名の相似形に気づいて、
崎山さんは考察していくのでした。
結論を見てみましょう。

 1.西表島は、大隈群島の種子島の西ノ表から
 2.竹どん島の御岬は、同じく種子島の御岬から
 3.マギ島は、同じく馬毛島から
 4.竹どんは、同じく竹島から
 5.黒島は、同じく黒島から
 6.西表島の八重岳は、同じく屋久島の八重岳から
 7.石垣島のヤラブ岬は、同じくの口ノ永良部から
 8.波照間島は、奄美群島の加計呂麻島から
 9.与那国島(ユノン)は、同じく与論(ユンヌ)から
 10.西表島の古見は、沖縄諸島の玖美(久米島)から
 由来した名前であると考えた方がより合理的である。

面白いでしょう? とても刺激的です。

与那国島は与論からというのも興味を引きます。
ぼくは、ある流れの終わりにある位置と、
名前の親近性から、
与那国島に近しいものを感じてきましたが、
そう感じる人は八重山にもいるんですね。

崎山さんは、与論が与那国になる理由を説明しています。
ヨロンのロのr音は、n音に近く、相通が起こるので、
ヨロンがヨノンとなる。

さらに、oとuも相通するので、
ヨノンはユノンとなる、
としています。

面白いです。

ただ、ぼくの考えは少し違って、
ヨロンとユノンは関係ないとみなします。

与論は、ユンヌに比べてずいぶん新しい名前です。
だから、ヨロンとユノンは、ユノンが古くヨロンは新しい。
ユノンと言ったとき、
まだヨロンという言葉はなかったはずです。

そう見なすので、
ぼくは、ヨロンとユノンではなく、
ユンヌとユノン(ドゥナン)のつながり
見出そうとしてきました。


とはいえ、大隅・奄美と八重山の地名のポジションに
相似形をみつける崎山さんの考察は、とても面白い。

明日、また他の地名についても、吟味してみます。
わくわく。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「めがね」の与論

このところ、与論関連のブログで、
ちらほらと「めがね」の文字を見かけるようになりました。
映画『めがね』の撮影の舞台が与論島だからです。

 人生を1回休むつもりで、宿を訪れたタエコ(小林)に、
 宿の主人ユージ(光石研)、島の生物教師ハルナ(市川
 実日子)、タエコを捜しにきたヨモギ(加瀬亮)、そし
 てかき氷作りの名人サクラ(もたいまさこ)。めがねを
 かけた5人が「たそがれる様」を「かもめ―」よりもさ
 らに力の抜けたタッチで描く。

クランクアップを伝える記事を読むだけでも、
与論向きだなぁと思えてきます。
「力の抜けた」というところが。(^^)

 高まる周囲の期待をよそに、3月中旬から与論島で合宿
 状態のキャスト陣は、のんびりした雰囲気で撮影に臨んだ。
 「きょうが何曜日か、何日かとかも分からなくなりますね。
 本も読む気にならないし、テレビも見ないし」と小林が言
 うと、もたいは「欲がなくなるのかしら」とニヤリ。加瀬
 も「いい芝居しようっていう気さえもなくなりますよね」
 と話した。

この気分はよく分かる。

ぼくも、島に行くと、時間の感覚は薄れるし、
メールは文字化けに見えてくるし、
たしかに、欲は減っていく、
というか、自分がおだやかになっているのに気づきます。
都市では、欲望に釣り下げられているのがよく分かってくるのです。

もちろん、これは自分がオフに行くからだけれど。

でも、いい芝居はしてほしい。
いい映画であってほしいです。

与論島を舞台にしたことが、
作品にいい影響を与えていますように。

ところで、監督は、
ここは何もないからたそがれるしかない、
と言っています。

たそがれる場としての与論島。
それもあり、ですね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/15

アロウ島としての加計呂麻島

 奄美大島ではアロウ島は、瀬戸内と呼ばれる
 入海をへだてカケロマ島のことであると、昔、
 古老たちは言っていたという話を、
 金久正から聞いたことがある。
 また登山修もカケロマ島の住人は、
 自分たちのことをアロッチュと呼んでいると
 報告している。

 チュは南島語で人のことであるから、
 「アロウびと」ということになる。
 奄美諸島の用路島の人びとは対岸の
 枝手久島に死者を運んで捨てる風習のあったことが
 伝承されているが、
 奄美本島の人びとが死者を舟で運び、
 カケロマ島に葬った時代があったのではないか。

 八重山の新城島もアラスクと発音されているが、
 アロウスクに関連すると思われる。
 アロウスクはニールスクに対応する語であるが、
 ニールスクから現世に来訪するニールピトは、
 荒ぶる神であった。
 ということからして、アロウスクも祖霊とも妖怪とも
 神ともつかぬ荒ぶる霊の住む島であったことが
 うかがわれる。
 つまり「アロウ」は「荒び」という語と関連があると
 考えられるのである。

 さきに、カケロマ島の住人が自分たちのことを
 アロッチュと呼んでいたことを紹介したが、
 このことはアロウ島のもう一つの側面を伝えている。
 おそらく岩石の多い不毛な島である、
 という自卑の語感がそこにこめられている。
 アロウ島が荒びの島という場合に、
 死者の世界が荒涼とした不毛な風景として
 描かれていたことが推定される。

 そこに住む荒ぶる霊は現世の人びとにとっては
 畏怖に満ちたものであったが、
 後世には祝福を与える来訪神に
 変貌を遂げていったのではあるまいか。

長い引用でごめんなさい。

谷川健一の『南島文学発生論』にある一節です。

鳥瞰する眼差しでみるからなのか、
加計呂麻島の、奄美に寄り添うようにいる佇まいに、
心惹かれます。

奄美と加計呂麻の向き合っている海岸をみると、
きっと遠い昔には、
地続きだった土地が、
離ればなれになったものだろうと見えることも、
惹かれる理由なのかもしれません。

ぼくは加計呂麻島を「沖の島」と解しますが、
その「沖の島」という名づけそのものが、
副次的なニュアンスを持ちます。
加計呂麻という不思議な字面と音とは裏腹に、
どこかさびしげな響きを、
ぼくたちはそこに感じるのでしょうか。

さびしげなということでいえば、
島を出るまで、島名を知らなかったという記事を
読んだこともあったのでした。

だから、このアロウ島という呼称があったということも、
頷ける気がします。
そこに自卑のニュアンスが含まれたかもしれないことも。

地勢と地形に与える名称が、
島の人びとの間で、
充分に熟することなく時間は流れたので、
アロウ島という陰を思わせる名称になったり、
名もないままに過ぎたりして、
いつしか奄美大島に対する沖の島という
副次的な名称が残ったのでしょうか。

いやいや。
ここまで書いて、我に帰るように思いました。
そんなことはない。

「沖の島」という表現。
それは確かに、多くの人のいる場所があり、
そこからみて、「沖の島」という言い方をするから、
多くの人がいる方からみて、
副次的な場所というニュアンスは持つけれど、
地名のつけ方としても手を抜いたような、愛着薄いような、
そんなニュアンスはなく、
地勢・地形を言う地名の初期形に素直に合致している
と理解すべきですね。

いちばん素直な名称が残った、と。
地名を考えるとき、我知らずロマンティックに考えがちになるのは
厳に注意しなけらならないと思いました。


もとい。

アロウ島。
加計呂麻島の地名の背景に、
含んでおきたい認識です。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/14

ダジャレ好きのわけ

「奄美の島々の楽しみ方」でも紹介されていましたが、
盛窪さんの記事で、
ドゥ・ダンミン・ミスター竹下が出ているのを知って
慌てて「島へ。」、買ってきました。

竹下先生、いい顔をされてます。
いいなぁ。こういう顔になりたいものです。

最近、洗骨のことを思い出す機会に恵まれたこともあって、

 亡くなった人にやさしい島は、
 生きている人にもやさしいのです。

という小見出しが、とても腑に落ちてきます。

ヨロンの島のヒミツを、
この記事はちょっと、教えてくれます。

ぼくが特に面白かったのはこの一節。

 なぜなのかはわからないが、
 島の人はダジャレが好きだ。
 おそらく、もてなしの気持ちや会話のクッションの変化形
 でもあるのだろうが、
 南の島はとくにその傾向が強いように感じる。

はい。これをぼくなりに紐解けば、
ダジャレはきっと、極度の人見知りの、ゆるい緩和剤なのです。
強力な緩和剤は、あの、与論献捧です。(^^;)

この記事を書いた方は、いいところに気づいてくれました。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

奄美の島々、地名の由来

いままで考えてきた奄美の島々の地名の由来を整理します。

―――――――――――――――――――――
■島名     ■呼び名 ■由来・語源

喜界島     ききゃ  段の島
奄美大島    うぅしま 大きな島
加計呂麻島   かきるま 沖の島
請島      うき   浮く島
与路島     ゆる   寄る島
徳之島     とぅく  突き出たところのある島
沖永良部島   えらぶ  エラブの島
与論島     ゆんぬ  砂の島
―――――――――――――――――――――

加計呂麻島を「沖の島」と理解できたのは嬉しかった。
故郷与論島について、「砂の島」と仮説できたのも楽しかった。
どちらもまだ確定的には言えないにしても。

徳之島や沖永良部島は、
島の方々に失礼なほど直感的なレベルを出ません。

ですが、こうして島名を由来に戻して、
並べてみると、いままでよりもっと、
奄美が身近に感じられてきます。

それがいちばん嬉しい。

たとえばぼくたちは、意味を知らないうちは、
加計呂麻島を、どこかエキゾチックな響きすら感じながら、
かけろまじまと音を辿るのですが、
それが、「沖の島」の意味だと分かって、
そう思いながら、「かきるま」と声に出してみると、
大昔の島人の気持ちになれたり、
彼らと話をしたりできるような気がしてきます。
(まだまだ、仮説だという保留はありますが)

島の呼び名の意味を知ると、
名づけた時代に立ち会うみたいに、
与論島の兄弟親戚のような奄美の島々のことを
理解したような気になれるのが
きっと嬉しいのだと思います。

考察を深めて、
語源の精度をもっと高くしていきたいですね。


これから目指すは、
奄美だけでなく、
琉球弧全体の島々を、
その由来に還元して、
語源として琉球弧の島々を理解することです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/13

尚巴志は、小按司

尚巴志は、小按司。

「しょうはし」は、「くあじ」。

これも、『甦る海上の道・日本と琉球』に
教わったことです。

琉球王朝を統一した人は、
なんで尚巴志と、
中国のような名前なんだろう。

いやいや、当時は文明は中国からやってきているから、
名前も倣っているのだろう。

でもそれなら、
なぜ、尚巴志なんだろう。

ちょっと疑問に思ってきたことでしたが、
嘉手納宗徳さんが、
こんな転訛を説明しています。

 くあじ

 これを漢字にすると、

 小按司

 これを音読みすると、

 しょうあんじ

 中国音では、

 シャオアンズ

 これに漢字に当てはめると、

 尚巴志

 これを日本語読みすると、

 しょうはし

なるほど、です。

尚巴志というと、よそよそしいですが、
くあじ(小按司)と言われると、
急に身近になるじゃないですか。

知ってよかった。面白いですね。


※関連記事です。『蘇る海上の道』



| | コメント (0) | トラックバック (0)

イチョーキ未来が懐かしい

盛窪さんが、与論島をデザインするとして書いています。

 又、人工の浜ではあるが消え行く自然を再生させるための
 長期計画として町民の心を結集させたいプロジェクトを
 立ち上げる機会だと思っている。

ぼくも賛成です。

ただの自然破壊の開発は、旅の人だって望んでないと思います。
自然創造の開発、しかも、できるなら、
昔あった以上の自然創造の開発ができたら、
旅の人も嬉しいはずです。

島の人にとっても、
イチョーキ長浜は、昔のイチョーキ長浜ではないけれど、
どういうわけか、ひどく懐かしい。
こう感じられたら最高だと思います。


与論島デザイン。
与論だけじゃなく、琉球弧全体にとっても
大切なテーマではないでしょうか。

リゾートのさきがけの地として、
未来を感じさせていきたいですね。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/12

洗骨-あたたかい空気で包み込む

tssune3さんが、
島尾ミホの「洗骨」の文章に触れて書いています。

 この光景に違和感はない。私だけだろうか?
 「死」をこんなに温かい空気で包み込む世界にあこがれをもつのは?

この記事を読んで、洗骨のことが、
「『死』をこんなにあたたかい空気で包み込む世界」とあるのが、
とても嬉しかったです。

直接的にはこの習俗の内側にいないのに、
理解と共感のメッセージを送るのは
大変なことだと思うのです。

tssune3さんの眼差しこそ、あたたかい。
お礼を言いたくなります。


洗骨は、優しい風習だと思います。
そして、かつて生と死は地続きで
とても近しいものだったことを教えてくれます。




| | コメント (2) | トラックバック (0)

スルル小とキビナゴ

スルル小(グヮ)とキビナゴは同じなんですね。

恥かしいことにぼくは知らなかったのでびっくりしました。
この二つを結びつけることがなかったんです。

谷川健一の甦る海上の道・日本と琉球
載っていました。

 § § §

『琉球国由来紀』にこんな話があるそうです。

むかし聞得大君が久高島に渡ろうとしたら、
逆風にあって日本本土に漂着して、
そこで長年過ごすことになった。

ところが琉球で旱魃があったとき、
聞得大君の境遇が原因と言われ始め、
そこで海の神が、日本(やまと)にいるからと
託宣をくだした。

そこで、バテン祝女(のろ)が船頭になって
日本に行くとはたして聞得大君がそこにいた。
で、聞得大君を連れて帰り、
船はバテン潟原に着いた。

ところでバテン祝女は、
日本(やまと)から帰るとき、
タジョク魚を土産に持ち帰ったので、
それからタジョク魚が
バテン潟原に近寄ってくるようになった。

こんな話です。

谷川は、沖縄でタジョク魚は何かとたずねて
スルル小ですと教えてもらって驚いています。
これは、折口信夫も知らなかったこと、として。

谷川は、読者に向かって、
スルル小はキビナゴと説明しているのですが、
ぼくはそっちのほうに驚いたのでした。

 こうしてキビナゴ、つまりタジョク魚は九州と沖縄本島南海岸
 をつなぐ使者の役目をする魚とみなされるのである。

いまさらながらに、あの、美味しい
スルル小とキビナゴが結びついたので、
この谷川の解説がとっても説得的なのでした。

魚が、琉球と日本(やまと)を結ぶ。
面白いですね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/11

甦る海上の道

谷川健一の『甦る海上の道・日本と琉球』を読みました。
柳田国男の『海上の道』を思い起こさせて、
その谷川版だと期待したのです。

でも、谷川版「海上の道」は意外なところに焦点が当たっていました。

甦る海上の道・日本と琉球

Photo_68








この本の主張は、末尾に集約されています。

 また琉球に統一王朝が誕生するきっかけとなったのは、
 私見によれば、九州から南下した武装勢力であった。
 折口信夫は名和氏の残党としているが、
 その公算はきわめて大きい。
 いずれにしても、琉球社会は、
 みずからの内発的発展によって三山統一にいたり、
 琉球王国を開花させた、
 という従来からある説に組することはできない。
 日本からの影響の大きさを痛感せざるをえない。

 しかし、その根底には縄文時代以来の自然の
 「海上の道」があった。
 この海の道は、日本列島と琉球弧のあいだの
 往来の道であった。
 その道を「物への欲望」を担い、
 「心の渇望」を抱いた人々が
 南北にとだえることなく往き来した。
 そこにはまぎれもなく相互の親和力があった。
 ここにして思うのは、
 幾千年このかたの「海上の道」をかけ橋としてつづいてきた
 日本本土と琉球の縁のふかさ、
 血の濃さである。
 その歴史的意義をあらためて甦らせることを
 ささやかな使命として
 仕事に区切りをつけることにする。

柳田国男の「海上の道」が、
宝貝を求めて琉球を南から北へ渡った人々を、
日本人の起源として構想したものだとすれば、

谷川健一の「海上の道」は、
黒潮に逆らって南下する船舶技術をもった勢力が、
琉球王朝を建国したと構想するものです。

この仮説自体は、折口信夫のものですが、
南島から出土する土器や遺跡、
そして谷川自身の見聞の総合から、
改めてそれを取り上げています。

題名からして、
日本人の起源をテーマにしたものを期待したのですが、
それよりはるか新しい時代に焦点が当たっているのでした。

ぼくは少し期待はずれに思いながら読み始めましたが、
次第に惹きこまれ、
琉球の歴史観を変える仮説の迫力を感じました。


沖縄の人はこの本をどう読むだろう。
ぼくはそのことが気になります。

1993年、NHKで「琉球の風」が放送された時、
日本もやっと琉球の歴史の独自性を
取り上げることができるほどに、
成熟できたのかと思ったのを覚えています。

ただその後、沖縄のなかには、
独自性とアイデンティティの根拠を、
琉球王国の存在に求める人もいて、
そうなると、ぼくなど、
次第に気持ちは醒めていった気がします。

ぼくは、琉球は内発的には、
統一国家を形成する必然性を持たなかったとしても、
それこそが琉球弧の特徴ではないかと思えます。

ここには、離島苦と亜熱帯の豊かな自然の
両方の条件が大きな意味を持ってくるでしょう。

この本を読んで、ぼくは、
統一国家を形成する前に
琉球弧が大事に育んできたものをこそ掘り下げる、
という自分自身の南島論のテーマを
より鮮明に確認する思いでした。


ところで、奄美大島、喜界島、徳之島と、
奄美の役割を重要なものとして取り上げているのですが、
見落としがなければ、
この本のなかに与論島は一度も登場しません。

与論の歴史へのかかわりが
改めて見えてくるようで印象的でした。


追記
本の帯には、「九州の倭寇が、沖縄の王に?」とありました。
ぼくはアマゾンで買ったので、帯を見ていなかった。
見ていれば、誤解はなかったでしょう。
帯のメッセージ、大事ですね。



| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007/04/10

徳之島は突き出たところ

奄美の島々の地名の由来を考えています。

沖永良部島の次は、徳之島を考えたいのですが、
どんな由来が語られているのか、
ぼくの探索が不十分で、知らないままでいます。

「おもろそうし」には、「かねのしま」とあるそうですが、
ここは、「徳之島」で考えます。

与論をユンヌというようにいえば、
徳之島はきっと、トゥク、です。

トゥク。

台地とかそういう意味があるといいなと想像したりしますが、
分からないので、アイヌ語に頼ってみます。

すると、

tok とク 1.突起物、突出物 2.トンという音
       (『地名アイヌ語小辞典』知里真志保)

で、「突き出たところ」という意味があります。

これはあるんじゃないかと思えます。

先日のあの、ヘリコプター事故の映像をみたとき、
与論島に比べて、なんて山々が立派なんだろうと思いました。
あれは、天城岳の映像でしたね。

徳之島は、標高645mの井之川岳が主峰ですが、
それが突き出たところとして、
島の地勢を雄弁に物語っているんではないでしょうか。

根拠薄弱ですが、
徳之島を、「突き出たところ」と解釈してみます。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/04/09

沖永良部は、イラブから?

与論のお隣の沖永良部島。
ここも、その地名の由来は確かではないんですね。

沖永良部を地名として考えると、
伊良部島、口永良部島を同系列とみなして、
同時に説明できることが条件になるように思います。

最近、おなじみ。牧野哲郎さんの
「『おもろそうし』にみる沖縄奄美の共通地名」には、
イラブも取り上げられています。

 伊良部
 沖永良部
 伊良皆
 伊羅良

これらの共通項に「イラ」を取り上げ、

 (1)洞穴
 (2)低湿地と傾斜地に多い地名

この2点を挙げています。

ここでいえば、「洞穴」にまず、関心そそられます。
なんといっても、沖永良部島には、
大きな鍾乳洞があります。
総延長10キロにも及ぶ長大なもの。

最初の居住地だった洞穴が巨大なら、
それが地名に選ばれても不思議ではないでしょう。

では、と他2島をみると、
伊良部島には、「大竹中洞窟」があります。
手応えありかと思いきや、口永良部島にはどうやらなさそうです。

残念。

エラブ洞穴説は、ひとまず成り立たないとします。

 § § §

こうなると、誰もがなんとなく一度は思いそうな、
イラブチャー(魚)やイラブー(海蛇)とのつながりです。

ぼくはこの中では、
エラブウミヘビとのつながりを考えてしまいます。

沖永良部島では、
食用にもよく使われ日常的ですが、
地名として思うのは、
エラブウミヘビが自然神として擬人化され、
それが地名になっているのではないかという可能性です。

愛媛など、擬人化された自然が神名となり、
それが地名になるというのは、
古代の名づけ法です。

沖永良部島は、(擬人化された自然神としての)蛇の名。

という解釈です。

あるいは、エラブウミヘビを祖先とみなし、
その祖先の島としてのイラブという意味です。

南島のどこかで、
アマン(やどかり)が自分たちの祖先だとする認識を
読んだことがあるので、これもありうると思います。


このアイデアはいまのところ思いつきのレベル。
他の考え方にも出会って鍛えていきましょう。



| | コメント (4) | トラックバック (1)

2007/04/08

沖縄は、水のある大きな地!?

首里、那覇、ときたら、沖縄です。(^^;)?

沖縄の語源、必ずしも定説あるわけではないんですね。

沖にあざなえる縄のごとし、
という解釈は、いくらなんでも、
当て字の漢字からの推測と退けられているようです。

ごもっともです。

伊波普猷は、たしか「沖合いの漁場」という説を出しています。
「地名由来辞典」もこれを採用しています。

ぼくはこれは違う、と思います。
単純な理由で、地名は、地勢・地形に対してつけるのが、
初期の在り方だとしたら、
「漁場」という人の営みの場につけるのは、
時代が後段になってしまうと思うからです。

「沖にある場」、「遠い場」という考えもあります。
「地名由来辞典」は退けている説です。

外間守善は、「大きな那覇」という言い方を確かしていました。
牧野哲郎さんの、
「那覇は水のある場所」という理解を踏まえると、
ぼくは、これ、あるんじゃないかという気がします。

「水のある大きな地」という解釈です。
那覇に水があり生活の場と見なす。
沖縄島をその拡大版とみなすのは自然な感じがするからです。

ただ、「大きい」という単語に、
どうして「うふ」が使われていないのかという違和感は残るので、
どうも確信までいきません。

外間守善は、「おもろそうし」では、
「大きい」は、「オキ」、「ウキ」と表現されていると、
解説しています。

ただ、そうなると16世紀に編纂された
「おもろそうし」の言葉ですから、
「オキ」、「ウキ」を、古代の言葉として
受け止めていいか、分かりません。

それから、沖縄を「ウチナー」と呼んでいるので、
もともと「オキ」ではなくて、
「ウチ」だったのではないか。

すると、「オキ」は「大きい」を意味する、ではなく、
「ウチ」は「大きい」を意味する、
という説明が要ると思えてくるのです。

ここ、解けるでしょうか。


とはいえ、落ち着きがいいので、
「沖縄は、水のある大きな地」と、
いまは受け止めておこうと、思ってます。

もっといい理解があったら、
ぜひ、教えてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/07

那覇は水場

牧野哲郎さんの
「『おもろそうし』にみる沖縄奄美の共通地名」に
触発されてシリーズです。(^^)

牧野さんは、琉球には、
ナハ音の地名が多いことに着目しています。
那覇だったり名波だったり。

で、ナハは必ずしも海岸に限るわけではなく、
内陸にもあると指摘しています。

当っていくと、
久茂地川周辺の標高は2~4メートル、
安里川周辺は、4~8メートル。
こんな考察から、
8月の満潮時には汐入の可能性があると推測します。

また、那覇市は、

 地質的には川が運んだ泥砂礫によってできた
 潟原堆積地である。

文献をみても、那覇の深いところまで
入江になっていることを確認。

そこから、

 「那」は水(ミナ)→ニャ→ナで、
 「覇」は場所を意味する接尾語と解される。

としているのです。

この、「那覇は水のある場所」という理解、
いいですね。


ナハは与論にも散見されます。
品覇や幸名波です。
これらも、「水のある場所」を含んだ地名なんですね、きっと。

ただ、「な」は「水のあるところのそば」
というアイヌ語の理解を踏まえると、
「水→ニャ→ナ」という変遷を想定しなくても、
「ナ」を「水」と関連づけることはできそうと感じます。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/06

首里は汐入(しゅーり)

牧野哲郎さんの
「『おもろそうし』にみる沖縄奄美の共通地名」に、
触発されてます。

牧野さんは奄美の「汐入原」の地名に着目して、
昔は、満潮時に汐入池、汐留場だったろうと推論しています。

で、シュリといえば、沖縄の古都首里を思い出しますが、
標高50メートル前後の首里城周辺を、
汐入(シュリ)と結びつけるのは難しい。

牧野さんはいったんはそう言いますが、
文献にあたって、
首里台地西南周辺の低地が、
湊、船着場だったことを確かめます。

そして、

 従って首里周辺の川の下流には
 満潮時には汐が入っていた

と推論しています。

牧野さんによれば、首里は汐入なのです。

「首里=汐入」説、面白いですね。
昔の地形に戻って発想する。
地名を探索するときには、
忘れてはいけないですね。


ときに与論には、シュリ関連の地名はなさそうですね。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/05

「珊瑚礁の島」説

牧野哲郎さんが『南島の地名』に寄稿している、
「『おもろそうし』にみる沖縄奄美の共通地名」には、
気になる地名がいっぱい載っています。

なかでも、これ。見逃せません。

沖縄の読谷村にある、「読谷山」。
ユンタンザ、について、
牧野さんは、同系としてなんと、
ユンヌを挙げています。

 ユンヌ
 与ン原(下平川)
 ユン兼久(亀徳)
 ユンメ(浦原)
 ユン川(阿室)
 ユン田(与路)

「読谷山」の同系としてこれだけの地名を挙げて、
その意味はというと、

ユ(珊瑚礁)ン(の)タン(低地)

としています。

これはぼくは知らなかった。
「ユ」に珊瑚礁の意味があるとなると、
とても興味深いことになります。

ユンヌの地名を探ると、
この「N」音の由来が鍵になってくるので、
格助詞にあたるとするのもありえる理解です。
ユン川、ユン田などの地名との類縁も面白い。

与論は珊瑚礁の島ということになるので、
それはそう、ぴったりです。


ただ、ぼくはといえば、今の所、「砂の島」説のほうに惹かれます。

「ユ」が「珊瑚礁」を意味するのか、
これからも気をつけて探してみようと思います。

もしご存知の方いたら教えてください。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/04

コースタルリゾートの可能性

南日本新聞に、
コースタルリゾート完成の記事がありました。

「茶花の海岸に人工砂浜完成/与論」。

いまひとつ分からなかったので、
ここからpdfのパンフレットも見ました。

コースタル・リゾート。
海岸の保養地、といえばいいでしょうか。
なんだかそれだと当り前すぎるような。

島の人の記憶に刻まれたもともとの
「イチョーキ長浜」の名前は使ってほしいですね。

イチョーキ・ビーチ、
イチョーキ・マリーナ、とか。
イチョーキ・ロングとか。
イチョーキ新鮮、とか。

全体の愛称もほしくなります。
イチョーキを使って、
ここが提供する最大の価値をそれとなく伝えるような。

 ★ ★ ★

つくっちゃったものは仕方がない。
という観点に立てば、
ぼくはここの可能性は、
「人工海浜」だということにあると思います。

圧倒的な海の自然に溶け入るように、
昔のイチョーキ長浜よりも、
もっと自然が感じられる長浜にすること。

遠くにいる目には、
まだビーチとマリーナの二つのゾーニングが
はっきり分かる以上には、
ここがどうなっていくのは分かりません。

けれど、島の人も旅の人も、
ここを訪れたとき、
与論が新しくなった、
そんな感じを抱ければ、
成功なんだと思います。

その「新しい風」を伝える
声が生まれるのが楽しみです。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

徳之島に、ヨンニ!

おとついの続きですが、
国会図書館は、オンライン化が進んで、
使いやすくなっていました。

以前は、インデックスで本を探して、
用紙に書籍情報を記入して、
本を出してもらっていましたが、
パソコン端末で検索して、
本を選べば、もう申し込みは完了でした。

複写請求もそう。
利用者カードを端末に置くと、
現在、借りている書籍が一覧で出るので、
そこから選べば、
複写請求書を印刷して出してくれます。

頁を記入してしおりをはさんで、
すぐに複写依頼を出せました。

一度に借りられる数が三冊までなのが、
たしか以前と同じなので、
関連資料をバンと広げて
調べものをすることができないのが、
ちょっと不便でしたが、
それでも前に較べれば、
スピーディに調べものができました。

 ○ ○ ○

またしても前置き長くなりましたが、
『南島の地名』を借りたのです。

そこに、牧野哲郎さんの論文、
「再び沖縄←→奄美の共通地名を求めて」
があります。

それを眺めていたら、
今帰仁村の「与那嶺」と共通だろうと
牧野さんが考えた奄美の地名に、
なんと、「ヨンニ」というのが出てくるんです。

ヨンニ。

ユンヌと似てるじゃないですか。
というより、これはもう、
「ユンヌ」と同じだと見なしていいでしょう。

ヨンニはどこの地名かといえば、
阿権、とあります。

で、阿権はどこ?と見ると、徳之島、でした。

ヨンニは、浜辺なのかそうでないのか、
分かりませんが、ユナ系だから浜辺だと思うのです。

嬉しい発見。

徳之島のなかに、
与論(ユンヌ)と同じ地名があるということですから。
徳之島の中の与論、です。

与那国島のダンヌ浜に続いて、
ユンヌつながりの地名が増えました。

 ◆ ヨンニ 徳之島にある地名
 ◆ ユンヌ 与論島の地名
 ◆ ダンヌ 与那国島にある地名

ダンヌ-ユンヌ-ヨンニ、という連鎖。

与論を仲立ちして奄美と琉球がつながるのが
なんだか、嬉しいです。

※関連記事 「ドゥナンとユンヌ」



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/02

ウドゥヌスー=布団の洲?

久しぶりに国会図書館に行きました。
横に国会議事堂を見ながら、
入り口に向かうなだらかな下り坂は
いまが盛りの桜並木。

雲の白に花の淡紅が映えて、きれいでした。


国会図書館の目的は、
与論島・琉球弧の地名に関する資料を漁ること。

 ○ ○ ○

で、そこではじめて、菊千代さん、高橋俊三さんの
『与論方言辞典』にお目にかかることができました。
与論だと、きっと図書館に行けばあるんでしょうね。

Photo_67










前置き長くなりました。

どうしても語源を知りたい地名はいっぱいあるのですが、
ウドゥヌスーもそのひとつです。
茶花のホテルの前にある、あの大きな浜です。
よく、「ウドノス」と表記したりしてますね。

あそこ、ぼくにとっては近所であるにもかかわらず、
なんでウドゥヌスーというのか、
さっぱり分からないのです。

『与論方言辞典』には、「スー」が載っていました。

 スー su:[名]洲。1.窪地。盆地。低地の湿地帯。
           2.内海の中央部。

2は知っていましたが、1の意味もあるんですね。

これはありがたい。

「ヌ」は格助詞の「の」だとすると、
「ウドゥ」は何だろう。

布団のこと、ウドゥって言いますね。

もしや、ウドゥヌスーとは、布団の洲?
そういえば、観光華やかなりし頃、
ウドゥヌスーには、
旅人がいっぱい寝そべっていたような・・・。

まさか? でもひょっとして・・?

 ウドゥヌスーは、布団のように大きな洲。

これはまぁ笑ってやってください。(^^)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/01

「洗骨」の話

1960年代生まれの、与論島出身という立場からみると、
島尾ミホの『海辺の生と死』は、
異世界のお伽噺のように読める以外に、
まるで親戚の語る話のようにも読めます。

「洗骨」の話もそのひとつです。

 小川の中に着物の裾をからげてつかり、
 白くふくよかなふくらはぎをみせてうつむきながら
 骨を洗っていたひとりの若い娘が、
 「おばさんが生きていた頃私はまだ小さくて
 よく覚えてないけど、
 ずいぶん背の高い人だったらしいのね」
 と言いつつ足の骨を自分の脛にあてて
 くらべてみせました。
 私はそのお骨の人もかつてはこのようにして
 先祖の骨を洗ったことでしょうと思うと、
 「ユヤティギティギ(世は次ぎ次ぎ)」という言葉が
 実感となって胸にひびき、
 私もまたいつかはこのようにして小川の水で
 骨を洗ってもらうことになるのだと、
 子供心にもしみじみと思いました。
  (『海辺の生と死』島尾ミホ

身内を土葬した後、
身体の面影を止めなくなる月日を経て、
掘り起こし、骨を洗い清めて改葬します。

このときの洗骨を、
民俗や好奇としてではなく、
生活のひとこまとして、
その様子や気持ちを深く深く描写してくれたことが、
「洗骨」の章の価値だと思います。

それはもし、
この話がなくて、
南島以外の人に「洗骨」のことを伝えようとしたら、
どんな難しさがあるか考えれば、
よく分かります。

「洗骨」の章では、その日、
改葬した島人は宴を催し、踊ります。

 踊りの輪の内側に踊っている
 おおぜいの亡き人々の霊魂に向かって、
 なお生前の姿を見るかのように、
 現し身の人々は親しかったその名を呼びかわし、
 話しかけました。
 そして「それ、後生の人たちと踊り競べだ、
 負けるな、負けるな」と歌い、
 暁の明星が輝きだすまで踊り続けるのでした。
 もはや生も死もなく。
  (『海辺の生と死』島尾ミホ

生者と死者はずいぶん近くにいたんですね。


たしか今年、わたしの祖父が改葬を迎えます。

やりくりする親戚の苦労を棚上げして言えば、
おととし亡くなった祖母も、
土葬でいずれ洗骨してあげたかった気がします。

「うらちょー、わぬんちゃーやくのうや。
かみちきゅんどーや
(お前たち私を焼かないでおくれよ。噛みつくよ)」

と、生前、冗談のように話していたそうです。


島尾ミホの表現のあとには、
こうしてこわばらずに、改葬のことを書けます。

Photo_66











| | コメント (3) | トラックバック (1)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »