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2007/03/13

リアルへの出口

 二つ目の生活技術は、リアルへの出口を持つことだ。これは、デ
ジタル・イン、アナログ・アウトの、「アナログ・アウト」にアク
セントを打っている。
 まず、何より第三次のインターネットの世界は、イメージ的身体
の世界であり、自分をインターネットのイメージ的自然にして、つ
まり、観念の分身にして参加している。このとき捨象されるのは、
他でもないぼくたちの生身の身体だ。生身の身体を捨象して参加で
きるのが、インターネットであると言ってもいい。この、生身の身
体に戻ることを忘れてはいけない。

 インターネット外の世界でも、たとえば、本を読むこと物を書く
ことに夢中になると、夢中になっている世界がリアルで、現実の世
界は後景に退くものだ。そして夢中になった後、現実世界に戻ると、
自分の反応が鈍くなっていたり、周囲からは無表情に見えたりする
ことが起きていた。インターネットもその延長にあると言えるが、
夢中になれる道具が、文章と想像以外にもふんだんに用意されてい
るので、やれることも多いけれど、浸りこむ毒も多く持っているよ
うに思える。

 生身の身体を忘れてはいけない。インターネットの後は、頬をつ
ねったり、足を叩いたり、自分が生身の身体を持つ人間であること
を思い出そう。身体を動かすのだ。
 また、eメールに象徴されるように、インターネットは、知り合
うことがそれのない世界とは比較にならない規模で起きやすいし、
親しくなるのも速いだろう。けれど、インターネットだけでは、関
係はリアルにはならない。会うという出口を持つ必要がある。少な
くとも、会うという契機が必要なのだ。このことはポジティブな関
係の場合、まだいい。つまり、会わなくても、関心の共通性が関係
の下地になってくれるから、コミュニケーションを持続させること
ができる。しかし、重たい話題などのネガティブなテーマの場合は、
会うことを前提にしないと、ことをまっとうに終らせることができ
なくなる。eメールの鉄則だが、面と向かって言えないネガティブ
なことは書いてはいけない。これと同じで、会う契機のないネガテ
ィブなコミュニケーションは不要な精神の殺傷を生み、かつ出口が
見出せなくなる。だからリアルへの出口が必要なのである。

 ここには匿名という現象も関わってくる。インターネットは匿名
で遊ぶことを可能にした。徹頭徹尾、匿名で遊ぶ場と見なす観点も
あるだろう。それは、ある意味でぼくたちにとって光明だった。直
接民主主義に言う無記名投票に技術的な道を拓くものだし、また、
繊細なテーマで面と向かっては相談しにくいことに、コミュニケー
ションの糸口を提示してくれたのだ。
 あるいは、インターネットへの匿名参加は、無名の誰でもない者
でいたいという欲求の受け皿になっているのかもしれない。この欲
求にとってインターネットは、社会的、個人的な拘束を解かれた誰
でもないただの人として振る舞える空間である。ここには、無名の
一介の市民として生きたいという生活心情や、シモーヌ・ヴェイユ
のいう「無名性の領域」も顔を出しているように思える。

 しかしだからこそ、匿名でも、現実世界と切断してはいけない。
匿名のネガティブ・コミュニケーションは、人間を壊す作用を持っ
ている。批判する場合は名乗る。あるいは匿名であっても、考え方
の背景を伝えたり、eメールで話せるようにしたり、最終的には会
う用意のあることを見せるのだ。

 現実世界への契機を欠いた「分身」間コミュニケーションには出
口がない。迷宮化すれば、分身は糸の切れた凧のように制御が効か
なくなり、リアルとの緊張関係を欠いた自己増殖を開始して、果て
は身体を喰らってしまう。宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』では、
顔なしが欲にくらんだ人を喰らうけれど、あのように、分身に喰わ
れてしまうのだ。けれど、ぼくたちは分身に喰われてはいけないの
である。人間の力として。
 リアルへの出口を確保することが、生活技術として必要なのだ。

(超自然哲学42 「7.インターネット時代の生活技術」)


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