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2007/03/08

カウンター・カルチャーの行方2

 しかし、逃走劇も終わりを迎える時が来る。1980年だった。
 その年の一月、ポールは、公演のために来日した成田空港で、大
麻保持のため逮捕されてしまう。公演は否応なくキャンセルされる
が、それだけでなく、この事件を契機にポールは、ビートルズ解散
以降、活動の拠点としてきたバンド、ウィングスを解散するのだ。
 この逮捕のことを、ポールは、「僕の人生のなかで最悪の出来事」
と振り返っている。本人の弁を聞いてみよう。

 今になっても、なぜあんなことをしたのか自分でもわからないん
 だ。ただの傲慢だったのかさえね。税関でスーツケースを開けら
 れるとは思っていなかったのかもしれない・・・。今、当時の気
 持ちに戻ることはできないよ。
 (中略)
 あれは僕の人生のなかで最悪の出来事だった。麻薬不法所持の刑
 罰が懲役7年という厳しい日本へ、あんなに気楽に行ったなんて。
 僕は、ブツの入ったすごく大きな袋をスーツケースのいちばん上
 に置いてたんだよ。どうして、せめてセーターのなかに隠さなか
 ったんだろう? 今あのニュースを見ると、「あれは僕じゃなか
 った」としか思えない。

 もうひとつ不思議なことがあるんだ。僕らは、ほとんどリハーサ
 ルをやっていなかった。それまでのウイングスのツアーでは、僕
 らはかなりのリハーサルをしていた。まるで僕は、すべてを台無
 しにしてしまいたかったようだ―そんなつもりはまったくなかっ
 たんだけど。
          (『ウイングスパン 日本語版』2002年)

 ポールの逮捕劇は何だったのか。
 ポールはウィングスというバンドに対して、この時モチーフを喪
っていたのだ。何のためにバンド・ライフを続けるのか、その根拠
を無くしていたのだ。
 そこでぼくたちに言えるのは、ポールにとってこの逮捕劇は、バ
ンドとしての無意識の自殺ではなかったのか、ということだ。「不
思議なこと」として彼が挙げているウィングスがリハーサルをして
いなかったことは、その傍証になる。彼自身も、「まるで僕は、す
べてを台無しにしてしまいたかったようだ」というように。
 ポールの内燃機関は、ことウィングスに関する限り、燃焼を止め
てしまったのだ。ポールは続ける。

 僕は、ウイングスに望んでいたことがある。いいプレイヤーたち
 と安定した関係を維持し、もう十分だと思えるまで一緒にやって
 いくことだ。でも、そうはならなかった。人生、そううまくはい
 かないよね。夢を見ることはできるけど、ものごとが計画どおり
 に運ぶことはめったにない。最終的に、僕は度重なるメンバー・
 チェンジにうんざりしてしまったんだと思う。そして、最初に証
 明してみせると思ったことを証明してみせたという事実も大きい。
 つまり、ビートルズのあとにも人生はあるんだってことをね。

 僕はウイングスでやってきたことをまったく後悔していない。そ
 れなりに常にいいメンバーがそろっていたし、その誰ともいい音
 楽を作ってきた。今、その成功、ツアー、チャート成績を振り返
 ってみると、そして―特に事実上、不可能だと言われていたビー
 トルズのあとを追ってきたことを考えると―本当によくやったと
 思うんだ。

 ウイングスが解散するときには、「翼をたたもう!」ってジョー
 クを使おうと思ってた。でも、実際にはウイングスは翼をたたん
 だんじゃなくて、次第に消滅していったんだ。紅茶に入れた砂糖
 のようにね・・・。
         (『ウイングスパン 日本語版』2002年)
 
 ウィングスというバンドが、バンド・ライフを楽しむという以上
に、アフター・ザ・ビートルズの有無をその原動力にしていたこと
がよく分かる。
 ウィングスをアフター・ザ・ビートルズの土俵に乗せたことで、
ポールの内燃機関は燃焼を止める。ろうをなくしたろうそくの炎の
ように。あるいは「紅茶に入れた砂糖のように」、それは溶けてい
ったのだ。

 ポールは、1973年の「バンド・オン・ザ・ラン」の「バンド
は逃走中」というコンセプトで、カウンター・カルチャーの共同性
は不可視の領域に移行した、あるいはサブ・カルチャーの領域で生
き永らえていると回答していた。
 ところでポールは、別のルートから日常性の視点を推し進め、そ
れは美事に時代と共鳴してきたが、不可視の領域に仮の住まいを見
出したカウンター・カルチャーの共同性の行方について、その後、
明示してきたわけではなかった。

 実は、ポールはこのとき個人として逮捕されたというより、バン
ドとして逮捕されたのだ。捕まったのは逃走中のバンドだった。
「バンド・オン・ザ・ラン」の終点。この逮捕劇は、カウンター・
カルチャーの共同性はその根拠を喪失し、不可視の領域ですら生き
る場所を無くしたことを象徴している。
 カウンター・カルチャーとは、世界への「否」、世界への否定か
ら始める思想や理念と言える。その思考法が行き詰まったのは、高
度経済成長を経て育まれた日常性が、圧倒的に社会を覆いつくし否
定性の根拠を消していったからだ。ポールはカウンター・カルチャー
の共同性について、その根拠の消滅を担ったのである。ロックンロー
ル・バンドは、もはやそのままではカウンター性を意味しない。だ
から、ポールは逮捕劇をロックンロール・バンドの必然として言及
せずに深刻に受け止めた。逃走は終ったのだ。

 思えば1980年は不思議な年だ。ポールの逮捕劇に続いて、今
度はジョン・レノンが、このテーマについて身をもって担うことに
なる。
 ジョン・レノンの死は、カウンター・カルチャーの消滅を象徴し
ていた。そう言うのがいちばん正鵠を射ている気がする。
 ジョンの死により、世界を否定することから始める思考方法は、
ひとたびは終焉したのだ。ここから89年のベルリンの壁崩壊はす
ぐのところにあったと言ってもいい。もちろんこう言ったからとい
って、ジョンが社会主義者だったと言いたいわけでも、ソ連邦がカ
ウンター・カルチャーの正当性を担っていたと言うわけでもない。
ただ、世界史の展開において、ソ連邦の成立と存在がカウンター・
カルチャーの拠点たりえていた限りにおいて、その崩壊は、ひとつ
の運動の終焉を物語っていた。

 ビートルズの解散は、カウンター・カルチャーの共同性の消滅を
象徴していたが、その十年後、こんどはジョンが単独で身をもって、
カウンター・カルチャーそのものの消滅を担ったのである。
 1980年の年のはじめ、ポールの逮捕により、カウンター・カ
ルチャーの共同性の可能性が潰え、ついでその年の暮れ、ジョンの
他界により、カウンター・カルチャーそのものが消滅するという、
不思議な、そして生きた形としては最後のレノン―マッカートニー
の共演が生まれたのだ。

 ジョンは身体的には折り返し地点を迎えたに過ぎないのに他界し
てしまった。四十才という年齢だけれど、現在の生命曲線の長さを
考えると、早すぎると言っていい。むしろジョン・レノンの死は、
超高齢化社会における夭折なのではないだろうか。ひょっとしたら
彼の死はその先駆けであったかもしれない。
 そして多くの夭折者がそうであるように、彼の生も生ききった完
結感を湛えている。嬰児の叫びをその音楽の本質として抱え、飢え
た嬰児から孤独な狼へと成長した彼が、その後の道行きで他者と自
己を治癒するまでの大団円を描けたことを思うとき、やり残したこ
ととして零れ落ちるものは何もないと思える。

 あとはぼくたちが、ジョンからバトンをきちんと受け取るかどう
かだ。彼が時代と社会に対して問いかけたことの意味を、ぼくたち
がどのように自分のものにしていくか。その問いが、ここに残る。

(超自然哲学37 「6.『LOVE』はビートルズを編みかえる」)


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