ゆるやかに奄美、やわらかに奄美
近代の奄美は、二重の疎外を生きてきたと思っています。
自然と文化の親和感から沖縄を向けば、
政治的共同性が異なり、
政治的共同性の同一性から鹿児島を向けば、
自然と文化により差別される。
こんな二重の疎外がありました。
ぼくには、奄美大島の島唄のあの裏声が、
二重の疎外を背負った哀切を湛えているように
聞こえてなりません。
○ ○ ○
ときは流れ、
けれど面白いのは、
近代奄美は、この二重の疎外を突き詰めるほどに、
奄美自体の輪郭をはっきりさせてこなかったのではないでしょうか。
あるいはこれは誤解を与える言い方かもしれません。
確かに、昭和28年の日本復帰の際には、
奄美として運動を起こしたのですから。
しかしそれは、
奄美としての輪郭を明確にするというより、
日本という更に大きな政治的共同性に同一化することで、
二重の疎外を一挙に解消したい希求が
あったのではないかと思えてくるのです。
だから、不思議なことも起こります。
沖縄の復帰運動の際、
わが与論島が日本の象徴になる瞬間がありました。
与論が日本の象徴?
いくらなんでも無理のあるサンプリングと思うのだけれど、
切実にそうだった瞬間があります。
それは復帰前に、沖縄の辺戸岬から与論を見たときです。
「祖国が見える」と言うのですから。
「あの島には憲法がある」と、
この方は当時を思い出して書いています。
ぼくは最初、「与論捧奉」のことかと思いましたが、
さに非ず。
与論は日本であり、そこには日本国憲法があるということです。
二重の疎外の中にあって、
自己確立もままならないのに、
それがいきなり日本の象徴を演じたのです。
ぼくは何とも言えない気持ちになります。
与論島も、いきなり日本に自己同一視する前に、
与論としての与論。
奄美としての与論。
琉球としての与論。
それらをもっと鍛えるべきだと思います。
○ ○ ○
そんなにこだわるものでもない。
そんな声も聞こえてきます。
それはそう。ぼくもそう思います。
父が奄美大島出身で、母は鹿児島出身。
母が奄美大島出身で、父は鹿児島出身。
鹿児島に住む友人たちの顔を思い出します。
友人たちにとっては、
鹿児島弁が話す言葉であり生きる地域です。
人が生きていくというのは大なり小なりそういうこと。
こだわっても仕方ない。
けれどもそれでも、
奄美は奄美、
それ自体の魅力はあるわけで、
二重の疎外を克服したと、
まだ言えないと思いもします。
それだから、
でも、本書がきっかけにはなるんじゃないか、
これがとっかかりになって「眉間にシワを寄
せないで、あっけらかんとシマを考える」こ
とができるようになるといいなあと思ってい
ます。奄美のみなさんであれ、沖縄のみなさ
んであれ、ほかのいろいろな島のみなさんで
あれ、共感していただけるあれこれや、発見
していただけるあれこれが、そこここにある
はずです。
(奄美の島々の楽しみ方)
こんな視線はとても励みになります。
しゃちこばって「二重の疎外」というより、
ゆるやかな奄美の島々のつながりを生かして、
やわらかに奄美の島々を表現していけたらいいですね。
(追記)
ときに、「祖国が見える」の記事の方もこう書いています。
僕のふるさと沖縄には万人を癒す不思議な力があります。
決して宗教ではありません。
文句なく頷けるメッセージです。
奄美と沖縄、つながっていますね。
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