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2007/02/26

都市感性とウェブ感性

 ぼくたちの生活環境が人工的自然で普遍化され、都市が映像化さ
れると、都市感性ともいうべきものを実感できるようになった。こ
こで都市感性と呼びたいものは、都市という条件を共通項に、国家、
人種を越えて共有される感性のことだ。ファッションがそうであり、
都市に交響する音楽がそうだ。

 都市感性は、はじめあらゆる事物が等価として見える事態として
やってきた。100円ショップみたいに、ワゴンに積んだ上着や下
着の日用の衣類を、「シェンエンナー(千円均一)」と声あげなが
ら那覇の市場をめぐるおじさんの光景は、商品が均一であると同時
に、那覇の都市化が普遍化したことを気づかせる声だった。その均
質にならされた実感は、那覇市にモノレールが走った時、はっきり
意識にのぼっただろう。市街地をモノレールで走る時、街並みが等
しい価値として見えることが、実感として迫ってくるのだ。

 そこから言葉を見た時、標準語と方言が等しい価値で見えてくる。
それまでは、(標準語)>(方言)と価値の序列が決まっていたの
だから、等価に見える視線はとても新鮮だったに違いない。

 これが都市化の内実にある感性のありようなのだ。
 ぼくが経験したことでいえば、ポール・マッカートニーは、二十
一世紀の初頭に、アメリカ、日本、ヨーロッパなど、世界を横断す
るツアーを敢行するが、それができたのは、共通する感性が前提に
なっていたからだ。いまやそれはロシアでも可能だったのである。

 ついで、人工的自然の環境のもとで共通する感性のありかを告げ
たのは、他でもないインターネットだ。インターネットは、つなが
りとやりとりの世界だ。ここでは、世界は瞬時につながってしまう。
言語の壁はあるものの、国境を越え、すぐにつながることで得られ
る感性を、試みにウェブ感性と呼んでみよう。

 都市感性が、自身を映像化させることで、都市という共通項を媒
介して横断する内実を持っていたのに対して、ウェブ感性は、分身
を参加させることで、未知のコミュニケーションを生む内実を持っ
ている。
 どちらにしても、都市やインターネットという環境を共有するこ
とで、共通する感性を育てているのだ。

(超自然哲学27 「5.都市感性・ウェブ感性と身体性」)


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