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2007/02/25

都市の映像化と映像身体としてのファッション

 本当のところ、人工的自然のイメージ的身体化という第三次の世
界を最初に実感的に教えてくれたのは、インターネットではなく、
都市だった。吉本隆明が、『ハイ・イメージ論1』の「映像都市論」
で、映画「ブレード・ランナー」を題材に鮮やかに示したように、
都市は、過密と空間の重畳により、映像化し始めたのである。

 人間は、全人工的自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、人工的自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 人工的自然を、ぼくたちの生活環境としてみれば、それは都市の
ことだ。そして都市をイメージ的身体化するということ、それが映
像化である。
 だから、第三次の世界がもたらす感性は、都市を媒介にした映像
化とインターネットを媒介にした分身化として言うことができるだ
ろう。

 ところで、ぼくたちはそろそろ反作用の方にも目を向けよう。そ
もそもマルクス―吉本の自然哲学の命題が魅力的なのは、人間によ
る自然への作用(自然の人間化)だけでなく、自然からの反作用
(人間の自然化)を含んだ点にあったのだから。

 都市を映像化することの反作用は何か。
人間が人工的自然のイメージ的自然になることの象徴的な形は、人
間の映像化としてのファッションだ。都市の映像化に対応する人間
の反作用はファッションであり、それは都市環境にすこぶる適応した
行動なのである。

 流行の服やお気に入りのブランドに身を包む時、その服装が着る人
にとってのイメージ的身体(映像身体)になっている。そしてそれは、
その服装にとってのイメージ的自然として自分の身体を見なすことに
なるだろう。ファッション・モデルは身体像を維持しようと努力する
が、それはイメージ的自然としての身体像に生身の身体を同化させよ
うとしているのだ。

 イメージ的身体化は、服装としてのファッションだけに止まらない。
女性のメイクアップ、ネイルなどの化粧も、身体自身のイメージ的身
体化、映像化なのだ。ひところのガングロも美白も、同じく身体自身
のイメージ的身体化であり、都市環境に対応したイメージ的自然化で
ある。

 ここからみれば、当然、タトゥーもそうである。身体に色を塗り、
傷をつけるファッションは、未開の人類の入墨から現在のタトゥーま
で、反復するファッションなのである。
 第零次の命題を思い出そう。

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 現在のファッションと第零次のファッションの違いは、天然自然に
対して映像化するか、都市に対して映像化するかの違いとして言うこ
とができる。
 吉本は、「ファッション論」のなかで、次のように考察している。

 未開の諸部族が顔や手に入墨をしたり、下唇や耳をひきのばして畸
 型にしたりすることは、裸身そのものが霊魂にとっての衣裳だとみ
 なされたからだ。もちろん霊魂はたんに個別的な身体のなかにあっ
 て、個別的な生命をつかさどり、個別的な身体から抜け出てゆくと
 きに、身体が死ぬという概念に過ぎないから、やがてもっと普遍的
 な「精神」という概念があらわれて、これにとってかわられる。霊
 魂の方はしだいに消滅してしまう。そのときはじめて人間は霊魂の
 衣裳ではなく、衣裳としての衣裳の概念を獲得してゆくことになる。
 そして霊魂の衣裳としての裸身を考えることは、原型的な、あるい
 は始原の衣裳のファッションを考えることと同義なのだ。
    (「ファッション論」『ハイ・イメージ論1』1989年)

 これを第零次の命題になぞらえると、第零次で人間を対象にイメー
ジ的身体化すれば、その核に「霊魂」があらわれるということだ。そ
してイメージ的身体である霊魂の衣裳として裸身はあるから、天然自
然に対する映像化はすなわち裸身の映像化を意味していたのだ。ここ
が、第零次と現在のファッションの本質的な相違点である。

(超自然哲学26 「5.都市感性・ウェブ感性と身体性」)

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