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2007/02/17

癒しの場としての南島

 ところで、ぼくたちはグーグルアースで旅行気分に浸るけれど、そ
れで旅行を代替しているわけではない。浸るだけのときはあっても、
実際に旅行する機会も持っている。旅行のシミュレーションをグーグ
ルアースでしておくというのが本来の使い方だ。
 そして、自由時間が増大するにつれ、旅の持つ意味も大きくなって
いる。そのことを、ぼくの好みから南島を例にとって考えてみたい。

 人はなぜ南島に惹かれるのだろう。
 ここでいう南島-南の島は、島尾敏雄が奄美諸島から与那国島まで
のゆるやかな連なりを捉えてそう呼んだ琉球弧のことだから、こう言
い換えてもいい。日本のある人々はどうして南島に惹かれるのだろう。
 たとえば沖縄を訪れる人の数は多い。二十一世紀に入った近年の特
徴は、夏の沖縄だけではなく、シーズンオフの来島だという。ある時
期に沖縄に訪れてしばし時を過ごし去っていく。そうした旅の行く先
に南島は選ばれるのだけれど、旅人はそこに何を感じるのだろう。
 それは「癒し」だ。南島の滞在日で日頃の疲れを取り、元気を回復
してまた再び日常へ帰っていく。その間に、旅人は「癒し」を受け取
っている。旅人は、南島に癒されに行くのである。

 「癒し」とは何だろう。
 「癒し」とは時間の遅延と空間の溶解のことだ。
 南島の風景のなかから採ってみれば、たとえばオオゴマダラの舞い。
 その大きな蝶の羽ばたきに、人は思わず目を見張ってしまう。オオ
ゴマダラはふつうの蝶のように、目にもとまらぬ早さで羽ばたき飛行
しているのではない。ふつうの蝶の羽ばたきをスローモーションで再
現したときの、あのゆったりとした羽ばたき。それを、オオゴマダラ
はスローモーションなしでやっているのだ。まるで捕まえてと言わん
ばかりの無防備で優雅な舞い。この世に敵などいないと思い込んでい
るかのように。

 オオゴマダラの舞いに出会うと、優雅で思わず見とれてしまうのだ
が、それだけでなく、その羽ばたきの瞬間に別の何かを感じてもいる。
そこで時間が減速するように感じるのだ。木の葉たちの動きや風の速
度、それに自分の動きもオオゴマダラに合わせるようにスローモーシ
ョンになったような気がしてくる。オオゴマダラが視界にいる間、何
もかもゆっくりした動きの世界になり、立ちすくむ。けれど、オオゴ
マダラが視界から消えると、まるで魔法が解けたみたいに、茂みの中
に立っている自分に気づく。するともうそこに流れているのは、いつ
ものあの日常の時間だ。
 そうして、減速した時間に身を委ねた後に、ぼくたちはふと癒され
ているのに気づくのだ。

 ほんとうは時間の遅延は、オオゴマダラに出会わなくても、南島に
訪れればゆっくりした時間の流れとしてその地に足を踏み入れた瞬間
から味わうことができる。ゆったりした人々の挙措や口調、無限許容
の笑顔、時を刻むのを止めてしまったような街角の静けさやさざなみ
の音に触れて、旅人は、ふうっとため息とも深呼吸ともつかない息を
吐く。

 溶解する空間もありふれた出来事だ。たとえば、太陽に触れるよう
な陽射しの中、ガジュマルやヤシの木陰に座り込んで砂糖きびの葉が
流行の歌謡のように、ざわわざわわと揺れるさまを眺めていると、む
せ返る空気のなか、自分も大地も空もすべて溶けあってしまうように
感じる。そんなけだるさを味わった後も、ぼくたちは癒されたのを感
じるだろう。

(超自然哲学18 「4.南の島に惹かれるのはなぜ」)

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