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2007/02/19

移住の根拠

 ところで現在では、南島に惹かれるのは旅人だけでは無くなった。
というか、旅人の先に住人を選ぶ人々が出てきたのだ。
 旅人として南島を訪れることと南島の住人になることは本質的に
違う。「癒し」の時間を持つということと、「癒し」をギフトする
世界に身を置くことは全く異なることだからだ。

 なぜ、南島への移住がテーマになり可能になったのだろう。
 それが可能になるには、都市環境が普遍化することと、時間の遅
延と空間の溶解する南島の身体が浮上してくることが必要だったと
思える。
 南島の身体、原型的身体はどのように考えることができるだろう。
 ここで、もう一度、マルクス―吉本の自然哲学の命題を思い出そ
う。

 人間は、全自然を人間の「非有機的身体」とし、
 全人間は、自然の「有機的自然」となる。

 この関係規定をマルクスは人間の普遍性として提示しているけれ
ど、二十一世紀の場所にいるぼくたちからみると、これはマルクス
が目撃した産業革命を背景にしていると思える。いわば第二次産業
を観察して得た関係式だ。だから、南島の身体を考えるに当たり、
まず、マルクスの規定を産業革命以前の第一次産業に当てはめてみ
る。
 それは次のようになるのではないだろうか。

 人間は、全自然を人間の「有機的身体」とし、
 全人間は、自然の「有機的自然」となる。

 これは、稲のような有機物を育てることを想像すれば、イメージ
しやすい。植物を育てるのが典型的な行為で、それが第一次の段階
における人々の営為の主軸をなしていた。人が人を育てるように、
植物を育てたのだ。言い換えれば、第一次とは「育てる」という行
為を自然との関係のなかで意識化した段階である。
 マルクスの規定は第二次的であると理解すれば、農を基本とする
第一次的世界の関係式は自然の有機的身体化と言うことができる。

 それでは南島が持つ原型的世界、吉本がアフリカ的と呼んだ世界
はどう描くことができるだろう。第一次では、まだ原型的ではなく、
もっと遡行しなければならないはずだ。
 その世界を農以前の第零次と位置づければ、第零次的世界におけ
る人間と全自然との関係は、次のようになる。

 人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 「全自然を人間の像(イメージ)的身体とし、人間は、全自然の
像(イメージ)的自然となる」。これは、無機物や植物、動物と交
感できる、彼らの声を聞くことができる世界の関係式として言うこ
とができる。たとえば雨乞いは、天候という自然を像(イメージ)
的身体とみなして思い通りに動かそうとする行為とみなせるだろう。
 ところで、ここで第三次の関係式を思い出してみる。

 人間は、全人工的自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、人工的自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 こうしてみると、面白いことに第三次の人間と自然の関係と第零
次のそれとは、位相を同じくしているのに気づく。第三次と第零次
とでは、自然との関係のあり方が似ているのだ。
 第零次では、霊魂をイメージ的身体と見なしたように、ぼくたち
は、自分の分身をイメージ的身体としてインターネットに放ってい
る。また、第零次では、天然自然に調和するように身体をイメージ
化して身体装飾を施したように、第三次では、人工的自然に調和す
るように、ファッションに身をつつんでいる、と言えばいいだろう
か。第零次と第三次は共振しているのである。

 そしてこれが、南島に旅人として接するという以外に、住人とな
る選択肢を生む根拠になっていると思える。

(超自然哲学20 「4.南の島に惹かれるのはなぜ」)

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