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2007/02/04

世界は私の像的身体

 自分の世界との関わりを根本的に理解したい。そういう思いから、
再び、マルクス-吉本の自然哲学を見てみる。自然を自分の「非有
機的身体」とするという捉え方は、言葉遣いさえ慣れれば、身体の
延長のように受け止めることができて実感的になる。けれど、局面
が違うと、この実感からはみ出る要素があるようにも感じられるの
だ。それは、かなづちを打つときと、ブログを書くときの違いと言
えばいいだろうか。どちらも身体の延長として関わっているのに違
いはないけれど、かたやかなづちは、その物理的な手ごたえから、
いかにも「非有機的身体」と言って違和感はないけれど、ブログの
場合、なんというか、「非有機的身体」というよりは、イメージ上
の身体、観念的な身体というのが適切な気がするのだ。

 そこで、こなれない言葉遣いだけれど、「像(イメージ)的身体」
と言葉を置いてみよう。人間は、環境を人間の像(イメージ)的身
体とする、と。
 像(イメージ)的身体をもっと実感的に言えば、分身になるだろ
う。ブログは、思考とパーソナリティの像(イメージ)的身体であ
り、分身だ。グーグルアースは、地球の像(イメージ)的身体であ
り、分身なのだ。

 マルクスの「非有機的身体」と、ここでの「像(イメージ)的身体」
との違いは、背景にある産業構造の違いだとみなせる。
 マルクスが、自然哲学を構想した目の前には、産業革命による第
二次産業の隆盛があった。そこでは、鉄から蒸気機関車をつくるよ
うに、自然との関わり方は、加工という表現がぴったりくる。それ
は、いかにも非有機的身体だ。ところがぼくたちの環境はといえば、
第三次産業が主たる産業になっている。ここでは、たとえばパソコ
ンからeメールの送信を設定する場合、それは非有機的身体という
より、観念的、イメージ的身体というのがふさわしい。

 こう考えると、命題はもう少し具体的に言えるような気がする。
それはマルクスのいう「自然」は、天然自然であるのに対して、ぼ
くたちの言う自然は人工的自然になっているということだ。自然を
素材に加工して人工物を作り出すのがマルクスが目撃した世界との
関わり方だとしたら、ぼくたちは、人工的自然を対象に、その編集
によってイメージを作り出しているようなものだ。そこで、第二次
産業を背景にした命題と第三次産業を背景にした命題は次のように
書くことができる。

 第二次

 人間は、全天然自然を人間の「非有機的身体」とし、
 全人間は、天然自然の「有機的自然」となる。

 第三次

 人間は、全人工的自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、
 全人間は、人工的自然の「像(イメージ)的自然」となる。

 あらかじめ世界が人工的自然として現れる場所での自然哲学を、
ここでは超自然哲学と呼ぼう。
 この超自然哲学の命題のなかでは、世界を自分の像(イメージ)
的身体とするのが、普遍的な関わりかたなのだ。
 世界は私の像的身体、なのである。

(超自然哲学5 「1.グーグルアースは世界視線」)

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コメント

うー無、面白い。
マルクスもレーニンも読んだことないが
この小文から
イメージの捉え方、使い方など考えさせられる。

ブログを書き出してから少し思考が変ったように思う。
私が長年書いた日記とは
何か違うことに気が付き始めている。
 それが何かはそのうち気が付くあろうが
世界的な広がりを意識するようななった。
 今に、宇宙観に発展していけるであろうか?
 励ましのことば いつもありがとう。

投稿: 泡 盛窪 | 2007/02/06 03:43

盛窪さん、コメントありがとうございます。

コメントをいただくと、励みになりますし、
書いた考えを先に進められる気がしてきます。

盛窪さんのブログ論が楽しみです。

投稿: 喜山 | 2007/02/06 19:18

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