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2007/02/03

マルクスの自然哲学から

 こんな言い回しを考えてみるのは、マルクスの次のような言葉を
受け止めたいからだ。

 人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が(1)直接的な生活
 手段である限りにおいて、また自然が(2)人間の生命活動の素
 材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的
 肉体にするという普遍性のなかに現われる。自然、すなわち、そ
 れ自体が人間の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体
 である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自
 然は、人間が死なないためには、それらと不断の[交流]過程の
 なかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるという
 ことなのである。人間の肉体的および精神的生活が自然と連関し
 ているということは、自然が自然自身と連関しているということ
 以外のなにごとも意味しはしない。というのは、人間は自然の一
 部だからである。
              (マルクス『経済学・哲学草稿』)

 ぼくたちと世界や環境との関わりを、「人間は全自然を彼の非有
機的肉体とする」とマルクスは言う。
 たとえば、かなづちで釘を叩く場面を考えてみてみよう。かなづ
ちを握って叩くとき、かなづちはぼくたちの「非有機的身体」にな
っている。自分の身体の延長のように使っているということだ。
 ついでこのマルクスの言葉を吉本隆明は、全自然と全人間の相互
関係として整理している。

 全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしう
 るという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、
 自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能で
 あり、この全自然と全人間との相互のからみ合いを、マルクスは
 <自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>とか
 んがえたのである。
         (吉本隆明『カール・マルクス』 1966年)

 「人間は全自然を彼の非有機的肉体とする」というマルクスの命
題に対して、マルクスの意を汲み、吉本はそれが成り立つための条
件をもうひとつ書く。それが、「全人間を、自然の<有機的自然>
たらしめる」ということだ。
 両立させてみよう。(「肉体」は「身体」と言い換える)

 人間は、全自然を人間の「非有機的身体」とし、
 全人間は、自然の「有機的自然」となる。

 このマルクス-吉本の定式はとても魅力的だ。ぼくは長い間、こ
の定式の詩的かつ論理的な表現に魅せられてきた。かなづちの話を
思い出してみよう。かなづちを使う時、それはぼくたちの「非有機
的な身体」になっている。これは、ぼくたちが、かなずちの「有機
的自然」になることで可能になっている。かなづちの「有機的自然」
というとちんぷんかんぷんになりそうだけど、かなづちからぼくた
ちを見れば、かなづちが有効に機能するための、かなづちの要素に
なっていることを言っている。ぼくたちはかなづちを強く握って、
まるで腕をかなづちにしたように硬く固定して動かしているのだ。
自分を道具にしてかなづちとの関係に入っているのである。

 作用があれば反作用がある。吉本のマルクスを継ぐ言葉が重要な
のは、ぼくたちは作用のことはすぐに気づくけれど、反作用のこと
にはなかなか思い至らない、つい忘れがちになるからだ。かなづち
を打てば、かなづちを打つことによる反作用もある。工場をつくれ
ば工場をつくった反作用もある。ぼくたちはこの反作用もしっかり
視野に入れることができるなら、身体への影響や公害のことをもっ
と察知できるに違いない。
 マルクス-吉本の自然哲学の命題は、人間と環境や世界との関わ
り方を、普遍的な形でしかも作用、反作用を含んだ関係のなかに捉
えていることが魅力なのだ。命題が普遍的だということは、ぼくた
ちの世界や環境との関わりを知る上で、今も役に立つはずである。

(超自然哲学4 「1.グーグルアースは世界視線」)

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