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2007/02/05

言葉と戯れる

 世界は私の像的身体。これは、世界がイメージのように現れて、ま
た、イメージ的身体にすることが世界との関わり方だということだ。
 この命題で、ぼくが思い起こすのは、言葉も像(イメージ)的身体
なのではないかということだ。

 言葉をイメージ的身体化した例として、ぼくは『おきなわキーワー
ドコラムブック』を思い出す。『おきなわキーワードコラムブック』
は沖縄で発行された本で、『事典版』(1989年)と『日記版』
(1990年)とがある。『事典版』であれば、「方言、食べ物、風
物、レトロ、自然、伝統、考察、カルチャー」などと項目があるのだ
が、これはいわゆる観光の本ではない。もちろん旅人が読んでも面白
いのだが、この本は沖縄で売れる。つまり、沖縄の人に売れたのだっ
た。

  「沖縄」のことを考えると、すぐにいくつかのイメージが頭の中
 に浮かんでくる。例えば、「青い海」とか「さんご礁」とか「赤瓦」
 とか「トロピカル」とか「沖縄戦」とか「アメリカ」とか・・・。
  いくらでも挙げることができる。
  「沖縄」という所は、多くのパターン化したイメージで、簡単に
 括られやすい。それはそれでまったく結構なのだが、「またか」っ
 て感じがするのは、僕だけじゃないだろう。こうしたマスコミに載
 りやすい言葉を見るたびに、「なんかちょっと違う」と地元の人は
 思っているのではないか。
  「沖縄」をイメージするものは、もっとおもしろくて、するどい
 言葉がたくさんあるというのに。どうでもいいことだど、どうにか
 ならないものか(後略)。
          (『事典版おきなわキーワードコラムブック』
              1989年まぶい組編著、沖縄出版)

 主宰者の新城和博が本の冒頭、こう語るように、このコラムブック
は、観光地としてばかりイメージが浮遊している沖縄を、地元の人の
ために取り戻そうとしているのだ。それがこの本が沖縄で売れた理由
の一端になっている。
 けれどこのことは、必要条件ではあっても売れる十分条件にはなら
ない。観光イメージに回収されない「沖縄」を本にしたとしても、そ
れが地元の人に支持される理由にはならないからだ。むしろ、地元の
人にとって自明のことであれば、ことさら本を買うことは無かっただ
ろう。

 実はこの本は、沖縄の人にとってこそ新鮮だったのだと思う。
 どれをサンプルにしてもいいのだが、たとえば「ぱごう」という方
言についてのコラムがある。

 ぱごう(方)(※「方」-方言のこと、引用者注)

 決して象の鳴き声ではない。これもちゃんとした言葉、宮古の方言
 のひとつなのです。怖いという意味なのですが、何故かかわいらし
 い響き。夏の夜などローソクを囲んで怪談話をするとまるで象の群
 れの中にいる気分・・・なわけないか。(下地)
                          (同前掲)

 言葉で、遊んでいる。方言をそれとして意味中心に解説しているの
ではなく、標準語が身体化された言語感覚に照らして語感の楽しさに
着目し、そして取り出して、その楽しさの方を説明しているわけだ。
言葉を取り出してお手玉のように遊んでいるのだ。

 『おきなわキーワードコラムブック』は、「まぶい組」の編集なの
だが、この言葉の由来についてもコラム「まぶい」がある。

  子供の時はよくまぶやーを落とした。木に登って落ちたり、鉄棒
 から落ちたり、ブランコから落ちたり(落ちてばっかり)、車にぶ
 つかりそうになったりした時、「ハー、タマシヌギタ(魂抜けた)」
 と言っては、「まぶいぐみ」をしたものだ。オバー達にいわせると、
 まぶやーは誰でも持っているとされ、アッタニ、シカンダ(急に驚
 いた)時、まぶやーは離れるのだという。特に子供はまぶやーが離
 れやすいから、怖いモノや危ないモノには近づけないようにした。
 まぶやーが抜けると、病気になったり、死んでしまうと言われた。
 そのため、原因不明の発熱や元気が無くなって無気力になると、
 「まぶいが落ちている」と言われ、抜けてしまったまぶやーを体の
 中にもどす、つまりまぶいを込めなおす儀礼『まぶいぐみ』を行っ
 た。                       (同前掲)

 「まぶい」とは魂のことで、浮遊した魂を人体に戻すことを「まぶ
いぐみ」と呼んでいる。それはもともと沖縄にある習俗なのだけれど、
それが語るに値するように見えるには、彼ら地元の人にとっても「ま
ぶい」という言葉や「まぶいぐみ」という行いが新鮮にみえるプロセ
スが必要だった。この本づくりに参画しているのは、1960年代生
まれがメインなのだが、この世代は、方言禁止の運動が効を奏した結
果、方言を喋れない世代として育っている。その世代は、方言を忘れ
られたものとして放っておくかといえば、方言を捨てようとしてきた
時代とは裏腹に、方言が新鮮に見えたのだ。

 その新鮮さは、方言をイメージ的身体として見たことに由来すると
思う。方言が、沖縄の天然自然の一部としてではなく、人工的自然の
一部として見えた。すると、それは編集可能なイメージとして現れた
のだ。その新鮮な驚きを封じこめたのが、このコラムブックだった。
そして、天然自然身体としては抜けてしまった方言を、人工的自然と
してインプットし直す気概を込めて、編集チームは「まぶい組」と名
乗ることになったのである。

 だからこそ、この本は、観光客にではなく、地元の人にとってこそ
意味を持ったのだ。葬ろうとしてきたものが実際、消滅の憂き目にあ
っている。ところで、その間に、世界が人工的な自然として、つまり
都市化されてみると、方言は、イメージ的な身体として、彼らの目に
とても新鮮なものに映ったのだ。そこで、彼らは言葉と遊んだのであ
る。

(超自然哲学6 「2.世界は私の像的身体」)

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コメント

ハイサイ、おきなわでーびゅんどー。

 私も 言葉遊びには興味をもっています。
竹下 徹先生の続々編をゾクゾクして待っているのだが
同じ言葉、同じ格言でもそれぞれの人の宇宙観を持って説明すると
又違う価値が生まれてくるのではないかと
私より少し若い世代の言葉遊びが読んでみたい
 たぶん私も 喜山さんの指摘する言葉遊びの世代の住人なのだろう
 

投稿: 泡 盛窪 | 2007/02/06 03:56

盛窪さん、コメントありがとうございます。

ぼくもドゥ・ダンミン3、あるといいなと思ってます。

盛窪さんは言葉遊びの人なのだと思います。
言葉遊びで与論を豊かにされているんだと。

投稿: 喜山 | 2007/02/06 19:21

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