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2006/12/15

「波照間」地名考

谷川健一の『日本の地名』には、
「波照間」の地名の由来を巡って交わされた、
金関丈夫(かねせきたけお)と
宮良当壮(みやながまさもり)の
論争の経緯が載っています。

明治の中ごろ、「波照間」は、
「果ての琉球」(ウルマ=琉球)という解釈が生まれ、
それに昭和に入って、
宮良当壮の「果ての珊瑚礁」(ウルマ=珊瑚礁)
という似た解釈が加わり、
「果ての琉球」または「果ての珊瑚礁」と
解釈されてきました。

そこに金関丈夫が、
波照間は、地元で「パトロー」と呼ばれていることと、
台湾の東海岸のアミ族は、
沖の島のことを「ボトル」「ボトロル」と
言うことに着目して、
波照間のパトローはボトルに関係があると仮説したのです。

それに、宮良が反論し、
両者の見解の相違が浮き彫りになります。

時は昭和二十九年、1954年、
沖縄がアメリカ占領下にあった時代のことです。

その詳細は『日本の地名』に譲りますが、
読んだ印象でいうと、そこでの相違点は、
語義の解釈を巡ってというより、
金関が日本の単一民族説への反発を下敷きにし、
宮良が沖縄人は日本人であるという主張を下敷きに
しているのですが、

本来、少し筋の違う下敷き同士が、
不幸にも対立という構図で表面化したように見えます。

いまから見ると、この論争は痛ましく思えます。

多民族としての日本を言うのに、
八重山の人を台湾と同じと見なす必要もないし、
沖縄人が日本人であることを言うのに、
台湾、インドネシア語との類縁を否定する必要もありません。

もともと八重山にいた人と、
台湾の人と交流があったとみなせば済むことです。

もちろんこれは、
言語学や遺伝子学の見地の蓄積のある現在だから、
簡単に言えるにすぎないことではあります。

 ♪ ♪ ♪

ぼくの考えを言えば、
「波照間」を「果ての琉球」や「果ての珊瑚礁」と
解するのは、ロマンティックではあるけれど、
現在を起点に過去に遡行する倒錯ではないかと思います。

それは、与那国島の「どなん」に
「渡難」を字を当てた途端、
「渡り難い所」として与那国を解釈するのに似ています。

与論でも、「とうとぅがなし」に「尊々我無」
と漢字を当てた途端、
「私を無くして」と理解しがちになるように。

たとえば、与論の由来を「与論」の文字を起点に始めたら、
島の人は笑うでしょう。
それは、「与論」を地元では「ゆんぬ」と言うからです。

でも、「波照間」を「果て」の「琉球」「珊瑚礁」
として解するのは、これに近い倒錯にならないでしょうか。

果ての琉球と言うためには、
「琉球」の範囲が概念化されている必要がありますが、
人が地名を名づけるのが圧倒的に先で、
琉球の概念化はずっと後に来るものです。

また、「果ての珊瑚礁」も、
日本や琉球の範囲という背景を置かないと、
「果て」という必要はないと思えます。

それは、国家的な枠組みが出来て以降の場所を
起点に過去に遡行して理解しようとしているように見えます。

それよりは、「沖の島」という名称のほうが、
地勢を地名とする自然さがあると思います。

先日、波照間=加計呂麻という乱暴な仮説を立てました。

そうやって眺めていると、島の人自身が加計呂麻島と
自称していなかったという記事に出会いました。

 そういえば故郷の人が「加計呂麻」と自称するのを聞いたことがなく、
 後年奄美を出てから「へー、我が島は加計呂麻というのか」と奇異に
 感じたものだ。

そこで、なんとなくあるかもしれないなぁと思うのは、
島の人も、自称の島名を持たずにいたとしたら、
奄美大島からみた「沖の島」という呼び名が
島の名前として定着するのは不自然ではないでしょう。

 ♪ ♪ ♪

ただ、それが由来と言うには疑問があるとはいえ、

「波照間」=「果ての琉球」(ウルマ=琉球)
      =「果ての珊瑚礁」(ウルマ=珊瑚礁)

という解釈はとても素敵で、
地域ブランドとしての波照間づくりには、
ソフト資産としてぜひ活かすべきですだと思います。

ロマンティックでキャッチーですから。

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