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2006/12/31

2006年へ

「土俵の真中で四つに組んで動かない力士は、
外観上至極平和そうに見える。」

そう、大正期に入って夏目漱石は書きました。

ぼくの平成18年、2006年は、
平和も難しかった気がしますが、
渾身の力でぶつかって、
「うごかない力士」でいることが精一杯でした。

どうか、2006年の不動が、
2007年の動へと橋渡しされますように。
そう願って、2006年へさようなら、です。

2007年は、
21世紀に入って封印してきたわが毒舌を
再び解放しようかと思ったりしています。

けれど同時に、なにごとも肯定語でしか語らなかった
わがぱーぱー(祖母)をお手本に、
肯定して進む力で事態を乗り切っていきたいと、願います。

それも並の肯定では間に合わない。
超肯定とでもいうような勢いで臨まなければなりません。

そう思うのは、
自分自身にぜひともそれが必要だからですが、
でも、時代ももう、そう臨まなければ
にっちもさっちもいかない状況に
なっているのではないでしょうか。


2006年のわずかな成果は、
三十数年来の懸案だった、
与論島へのコミットについて、
言葉の手がかりをつかめたことでした。

2007年は、それを形にすることが目標です。

2006年へ、糧としての壁をありがとう。

Seibu12

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2006/12/30

「ゆんぬ」語源考2

漁撈形態にあるという三段階のうち二つは、
第一が「ゆいが浜形態」、第二が「もやい浜形態」。

 ゆいが浜形態というのは共同漁撈であり、
 漁獲物の分配も村全体にわたって平等である。
 次のもやい浜形態というのは、共同漁撈による
 ことはおなじであるが、その分配を受けるものは、
 村方全体でなく、浜方とか漁師とよばれる当事者、
 すなわち漁撈に直接従事したものにかぎられる。

 また、ゆいが浜形態が寄り物や地先海岸の海草や
 アワビなどの採取または突漁、ときとしては網漁
 ないし釣漁にかぎるもののようである。

 (中略)標準語のユイをあらわす各地の方言は、
 ユエ、ヨイ、イイ、エエ、ユウなど、さまざまであり、
 それに対応するような地名もつけられている。
 (『日本の地名』谷川健一)

これを読むと、与論島のイノー(礁湖)は、
「ゆいが浜形態」にぴったりだと思います。
そしてゆいが浜形態にある
「寄り物」に関心をそそられます。

「寄り物」を、「ゆりむぬ」と、与論言葉に変換すれば、
「ゆりぬ」を、「ゆんぬ」の語源と見なすことができそうだからです。

寄り物の集まる場所としてのゆんぬ、です。

また、ユイに着目すれば、
共同漁撈を行う場として「ゆうぬ」を、
「ゆんぬ」の語源に置くこともできそうです。

ただ、地勢を言い当てるのが地名の初源のあり方だとしたら、
場に集まるモノや場で行うコトで説明するのは、
すでに概念化が施されていて、
名づけの仕方としては新しく、原型ではないのかもしれません。


ともあれ、「ゆんぬ」語源について、仮説三つです。

■仮説1

「ユナ」「ユニ」のバリエーション。
砂浜近い土地あるいは砂地に結び付く言葉。

■仮説2

「ユリヌ」の転訛。
寄り物が集まる土地に結びつく言葉。

■仮説3

「ユウヌ」の転訛。
みんなで漁をする場にむすびつく言葉。


追記。
勝手に想像を膨らませると、
砂浜や礁湖(イノー)の場を軸に、
そこに集まるモノを意味した「ゆりぬ」と、
そこで行うコトを意味した「ゆうぬ」の両系統があり、
片方が、「ゆるん」へと変化し与論へとつながり、
もう片方が、「ゆんぬ」となったと見なせるのかもしれません。

来年へつながる楽しいテーマです。(^^)

Yunnu_1

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2006/12/29

ノート:「カネク」

与論島にいう「金久」は、
「浜の砂地または低地」のこと。

 ちなみにいう、砂をカネと呼ぶことから、
 海岸の地名としてカネク、カニク、ハニク
 (金久、兼久、金宮)があり、それらは浜の砂地
 または低地である。これは沖縄本島にも多いが、
 奄美の島々にもおびただしい。永吉毅によると、
 奄美本島にはかつて百三十六のカネクの小字の地名があった。
 このほか沖永良部島に十、徳之島三十、喜界島十五、
 与論島四である(『沖永良部島地名考』)。
 (『日本の地名』谷川健一)

百合が浜のある「大金久」は、大きな浜の砂地、となります。

また、カネク、カニク、ハニクの3パターンについて言えば、
カネクは、3母音変換すれば、カニクであると理解できます。

同時に、カニクとハニクは同義なので、
k音とh音が訛り変化のバリエーションであることが示唆されます。


そういえば、苗字にもありますね。金久。
同級生の金久くんは元気だろうか?

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2006/12/28

ブログのアウトとオフ

久米さんの『ブログ道』が出版されて一年。
いまでもすぐに思い出すのは、
ブログに書けないことについて、
触れたくだりです。

 ブログ道を歩んでいくほどに、
 そこには書けない書いてはいけない悲しみ、
 書いても書いても心が晴れない悲しみに
 遭うことでしょう。

 ブログ道を通じて活動的になるほど、
 嬉しいこと楽しいことに出会う反面、
 辛いこと悲しいことにも
 遭いやすくなるはずです。

 感性が高まるほど、
 同じ悲しみでも深く心に届き、
 縁が拡がるほど、
 多くの縁者の悲しみに感応することにもなります。

 残念ながら、
 この悲しみを避けて通る方法はありません。
 心と体が自在に動くようになった分だけ、
 こうした悲しみとも上手に向かい合い、
 付き合っていくことが必要になるのです。
        (『ブログ道』久米信行)

ブログについて、
書けないことへの視線を持っていることが、
この本を、その他のブログ本と分かつ分水嶺と
見なしてきました。

ブログに「書けない書いてはいけない」ことを
保ちながら書きつづけること。

ブログを書く上での倫理線がここに走っています。

 ♪ ♪ ♪

似て非なることですが、
ぼくは、つながりとやりとりの世界である
インターネットで最も大切なのは、
「OFFの作法」だと思ってきました。

つながりっぱなしの世界から、
どうやってつながらない状態を保つのか。

そのことはとても大切なことに思えます。

そうでなければ、
インターネットは降りることのできない世界の
メタファーになってしまいかねません。

インターネットは、
つながりっぱなしになることで、
大きな力をもたらしてくれますが、
そこから、いつでも一時、
降りられるようにしておくこと。

それは、ブログやインターネットとの
付き合い方で大切な点だと思います。

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2006/12/27

そーこー、うちですかぁ?

1972年ころだと思う。
宇和寺の横道に入ったところで、
隣の子と遊んでいるときでした。

黒いバイクに乗って、
サングラスをかけた男が
横道に入ってきたのです。

アメリカ人だぁー。

たしかそう叫んだような気がします。
怖くて。

男は、バイクを止めると、
乗ったまま、
道の奥のぼくの家の方を指して、

そーこー、うちですかぁ?

と、聞いてきました。

日本語をしゃべっているから当り前なのですが、
いかつい風体に釣りあわない、
なんとも気の抜けるアクセントでした。

この道を行っても家に当ってしまうか、
という意味合いなのはなんとなくわかり、

うん。

とだけ答えました。
それが精一杯でした。

お礼を言われたどうか、
もう何も覚えていないけれど、
そこで男は去っていきました。

彼はきっと復帰前の沖縄本島から来た
軍人さんだったのでしょう。

異人さんへの恐怖心と、
アメリカ人の気さくさと、
自分の気後れと、
一緒に思い出します。

思えば、ぼくの異人さん初体験も与論島でした。

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2006/12/26

物書きの覚悟と配慮

『THE NIKKEI MAGAZINE』に
吉本隆明のインタビューが載っていて
思わず、惹き込まれました。

インタビューと言っても、
インタビュアーの文も多いので、
吉本さんの言葉は短いのだけれど、
それでも胸に響いてきます。

たとえば物書きという職業について、
儲からないかもしれないが、
名誉や名声が得られるではないか
という問いかけに対して答えます。

 そんなもの人が勝手にくっつけているもので、
 自分の所有物でも何でもない。そんなことは
 関係ないよ、自分が考えていることに比べると、
 名誉や名声なんてものは大して意味のないこと
 だと、なりますね。

こう言う吉本さんには、
これまで何度も励まされてきました。

これは、シモーヌ・ヴェイユのいう
「無名性の領域」をすぐに思い出させてくれます。

また、物書きについて、こうも言います。

 自分が書いたものが多くの人を傷つけたり
 死に追いやったりすることがあるかもしれない
 という罪業意識を常に持っている。

 普通に働く人の生活感情を損なう可能性が
 あるという覚悟と配慮が絶えず必要な特殊な職業。

ブログなどを通じて、
一億総表現者にならんとしている現在、
これは誰もが直面する課題に
なっているのではないでしょうか。

それにしても、
このインタビュー記事で一番いいのは、
吉本さんの写真でした。

ここに掲載するわけにはいかないのですが、
見る機会のある人はぜひ。

挿絵でみたことのある親鸞がだぶってみえるような、
生涯現役のオーラを放っています。

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2006/12/25

南のサンタさん

クリスマスの生命は、ギフトだと思います。

宗教の背景が希薄なのに、
何とも言えない圧倒的なムードで、
年末の人の心をさらってしまうイベントの根拠は、
それが贈る心に活躍の場を
与えているからじゃないかって。

戦後、キャバレーで流行りだしたという
日本の由来ではなく、
起点から遠く離れて、
巷の恋人たち、家族に受け継がれている、
その理由です。

隣人との相互扶助という
かつては自然にあった関係性を無くし、
行き場を失った贈る心に
場を与えているのが、
クリスマスではないかと思うのです。

なかでも、親から子へのギフトはその中核に
当っています。

親は子へギフトします。
そのプレゼントは直接、渡されるのではなく、
子の枕元にそっと置かれます。
子は、朝を迎え、枕元に置かれたものに気づき、
特別な贈り物を受け取ります。

時間差を置いたギフトなのです。

ここには、もうひとつの時間差が挿入されます。
それは、子にとって最初、
プレゼントは、親からのものとしては表れません。

プレゼントは、サンタクロースによってもたらされます。
この時期、サンタは、
自分がこの世界に愛されていることの象徴のように表れ、
子にプレゼントを置く役割を果たします。

子は成長し、いつしかそれが、
親の演出によってなされたギフトなのだと知ります。
そのからくりを知ることによってもまた、
子は親の愛情をそこから受け取るでしょう。

ここにも、時間差を置いたギフトが盛り込まれているのです。

親子のクリスマスは、
こうして、時間差をかけた二重のギフトの意味を持っているのです。

この愛情の贈り物の深さと体験が、
恋人たちの贈る心に橋渡しされているのでは
ないでしょうか?

何ともいえず、
切ない雰囲気でこの時期を覆うものの
素顔はそこにあるような気がします。

この時期、
どの街角にも流れ続けるクリスマス・ソングには
辟易しますが、
大切なものが交わされていると思えば、
優しい気持ちにもなろうというものです。

    

ところで、与論島は、
与論島もまた、
南のサンタさんとして、
訪れた人にギフトを与え続けていますよね。

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2006/12/23

グリーンツーリズムは自然内包の時間化

地域ブランドNEWSで、
グリーンツーリズム大賞を、
岩手県の葛巻町畜産開発公社が受賞したと知りました。

ただ、そもそもグリーンツーリズムを知らなかったので、
見てみると、

 農山漁村地域において自然、文化、人々との交流を
 楽しむ滞在型の余暇活動です。

と、あります。

「自然の中に」「滞在する」。
二つがポイントのようです。

NEWSを見ると、
「暮らし考房」というネーミングに惹かれました。

「グリーンツーリズムやまがたイズム」なんていう記事もあります。

「暮らし考房」は、山形県の栗田さんが、
農山村での豊かな暮らしを考える拠点として構想しています。
時は1993年、バブルの余韻残る空気の中です。
ということは、時勢に対するアンチテーゼの意図も
充分、含まれていたのでしょう。

「暮らし考房」は、「メープルと哲学の山里」と銘打たれています。
このフレーズは、甘いものと深いことの同居で、
なんともいい味を出しています。

暮らし考房は、まだ「体験」で訪れる人が多く、
なかなか「滞在」にはなっていないそうです。
経済的に成功させるのはこれからの課題だとも。

山形県で、こんな風にがんばっている人がいるんですね。
励みになります。

 ♪ ♪ ♪

グリーンツーリズムが伝えるものは何でしょう。

これを都市と農村のテーマとして考えると、
第二次産業の興隆とともに、農村から都市へ人口が流入し、
農村は枯れて都市は栄えて、
都市と農村は対立する構図を持ってきました。

ところが、第三次産業が過半数を超えると、
都市は天空に伸びだし、
超高層ビル群としてさらに都市化を進めるのですが、
単に人工物を増やすというだけでなく、
ビルの屋上を緑化したり、
ビルの内部に自然を取り入れたりしだしました。

また、農村でも、人工的なリゾート空間を組み込みはじめました。

ここでは、都市と農村は、対立ではなく、
都市による自然の内包と、
農村による人工の内包が、
テーマになっていると思えます。

ここまでは、80年代の後半には見通せた流れでした。

グリーンツーリズムは、この流れの延長でみると、
何を物語っているのか。

それは、都市による自然の内包が、
空間だけでなく時間としても展開を持ち始めた
ということではないでしょうか。

都市空間が自然を内包するというだけでなく、
都市住民が、自然に触れる時間を持つということ。
自然の内包の時間化です。

そういえば、養老猛司さんは、
現在の心の病や環境問題の処方箋として、
都市サラリーマンが一年のうち一定期間を農村で過ごす
参勤交代を提案していました。

それも、自然の内包の時間化です。

そう捉えると、グリーンツーリズムは、
生活のあり方を考える上でも大切なテーマであると
思えてきますね。

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2006/12/22

地域ブランド産品の評価は?

地域ブランド総合研究所が、この12月、
「地域名+商品名や慣用句等」で名づけられた
地域ブランド産品について、
認知率やイメージなどの調査を行うそうです。

数えてみると、対象になる地域ブランド産品は407。

ちなみに琉球弧の地域ブランド産品を
ピックアップしてみると、

・石垣の塩
・沖縄黒糖
・沖縄そば
・たまぐすく村のさとうきび酢
・山原シークヮーサー
・琉球泡盛
・琉球漆器
・本場大島紬
・琉球ガラス
・沖縄三線

以上、10品でした。

そうそう、と知っているものばかりです。

でも、ちょっと残念なのはわが奄美でみると、
「本場大島紬」だけしかないこと。
与論島からエントリーしてるものがないのも。

全国で400以上も対象になっているですから、
与論島の地域ブランド産品も名乗りをあげて、
みんなにもっと味わってもらいたいですね。


調査結果は、1月リリースでしょうか?
結果を楽しみに待ちたいと思います。

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2006/12/21

ドリームタイム

 (引用文)
 日本国憲法というのは、日本人のドリームタイムなんです。
 ドリームタイムというのは、オーストラリアのアボリジニが、
 自分たちの根源の場所として確保している場所のことです。
 そこへはめったなことではたどり着けないし、現実には
 踏み込めないことだってある。その場所には、恐ろしい
 虹の蛇が棲んでいるともいわれているんですが、
 そういう場所があることを知って、
 そこに心を向けることで、
 世界は正しい方向に向かっていける。

 現実にはそんなものは存在しない。
 かつても存在しなかったろうし、
 これから先も存在しない。
 しかし、そういうものについて考えたり、
 それをことばにしたり、
 地上にそういうものが宿ることのできる
 場所をつくっておくことは、
 人間という生き物の生き方にとっては、
 とても重大なことです。
 それを人類は捨ててきました。
 ところが、日本国憲法は、
 ことばでできた日本人のドリームタイムなんですね。
 ことばでできたドリームタイムによって、
 日本人は今まで精神の方向づけを行ってこられたんです。
 (『憲法九条を世界遺産に』太田光・中沢新一)


ドリームタイム。

この、アボリジニの言葉をぼくは知りませんでした。
けれど、ドリームタイムは何かに似ているなぁと思い巡らすと、
それは与論島なのでした。

ぼくにとってのドリームタイムは、
与論島かもしれない、と。

与論島にもドリームタイムがあると、
あるいは言えばいいでしょうか。

たとえば、まぶい(魂)が彷徨い出る感覚として、
それはあると言ったら、引き寄せすぎでしょうか。

与論島にはまだドリームタイムがある気がします。
与論島の、与論島ならではのドリームタイムが。

それを言葉にしていきたいです。


P.S.
本について言えば、
与論島を世界遺産にと思うように、
「憲法九条を世界遺産に」というメッセージに共感しました。

Yoron09

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2006/12/20

琉球旅行

銀座の「わしたショップ」の門構え。
インパクトありました。
「沖縄出張所」とも言うべき存在感。

Washita







もう10年くらい?
いつか行きたいと思いつつ、
足を運ぶ機会がなかったのですが、

店内は人、人、人の大賑わい。
日曜休日が手伝っているとはいえ、
沖縄特産物の人気はすごかった。

ウコン、黒砂糖、ちんすこう、泡盛、ポーク、
沖縄そば、シーサー・・・・
迫力のラインナップでした。

 ♪ ♪ ♪

でも、黒砂糖を見ているとき、
ああ、ここに、
加計呂麻島のあの純黒糖もあればいいのに、
絶品なのに。

とか、

与論島のもずくそばもあればいいのに、
美味しいのに。

とか、思わずにいられませんでした。

沖縄よりもっと広く、
琉球ショップがあるといいですね。

たとえば、琉球弧の黒砂糖を一堂に並べたら、
ものすごいインパクトでしょう。

旅行もそう。
沖縄旅行というのでなく、琉球旅行。

奄美旅行、沖縄旅行、八重山旅行が
琉球旅行の大きなラインナップ。

琉球発想で、商品、サービスを組み立ててみたいです。

 ♪ ♪ ♪

でもって今回の買い物は、
質素に一品。雑誌『カラカラ』

Washita_1










あの雲の下に。
わが奄美の特集あり、
与那原恵さんのエッセイあり、
目を通さずにはいられない、というものです。

そういえば、この雑誌も琉球弧縦断の視点ですね。
嬉しい限り。

しばし、『カラカラ』で琉球旅行、楽しみます。

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2006/12/16

琉球弧の島名縦断

琉球弧の島々の名前です。
現在の地名ではなくて、
地元の人が呼んでいる名前を挙げました。

ご覧ください。

出典は、ボーダーインクの『島々清しゃ』
(まぶい組編、1993年)から採っています。

Shimazima_003










琉球語を色濃く留めた呼称を一望すると、
なんというか壮観な気分です。

フェンザ、ザマン、ギルマ、オー、ピャー・・、
わくわくしてきます。

北から南へ連なるように並べると、
北の方が標準語化の影響が強く、
南へ行くほど、琉球語の原型を感じさせてくれるようにもみえます。

逆に言えば、標準語化された名称の場合は、
原型を探ってみたくなります。
たとえば、徳之島の「トク」は、「トゥク」だろう、とか。

試みに、同系列を感じさせる名称をピックアップしました。

・与路島-与論島-与那国島
・加計呂麻島-波照間島
・沖永良部島-伊良部島
・奥武島-オーハ島

この中に勘違いもあれば、これ以外にも本当はあるのでしょう。

さてまずは、琉球弧の島名を縦断して、
身体に染み込ませるように島の名前を呼んでみたいです。

 ○ ● ○ ●

奄美大島 アマミウーシマ
加計呂麻島  カケロマジマ
与路島  ヨロジマ
請島 ウキジマ
喜界島 キカイ
徳之島 トク
沖永良部島 ウキヌエラブ
与論島 ユンヌ
伊平屋島 イヒャ
野甫島 ヌーフ
伊是名島 イヂィナ
伊江島 イージマ
瀬底島 シークジマ
水納島 ミンナジマ
沖縄島 ウチナー
古宇利島 フィジマ
屋我地島 ヤガジジマ
平安座島 フェンザ
宮城島 ナーグシク タカハナリ
伊計島 イチハナリ
浜比嘉島 バマヒジャシマ
津堅島 チキン
久高島 クダカ フボー
瀬長島 セナガジマ アンジナ
渡嘉敷島 トカシキ
座間味島 ザマン
阿嘉島 アカジマ
慶留間島 ギルマ
粟国島 アグニ
渡名喜島 トゥナチ
久米島 クミジマ
奥武島 オー
オーハ島 アガリヌオー
宮古島 ミャーク ボラミャーク
池間島 イキマ
大神島 ウガン
来間島 フィマジマ
伊良部島 イラウズマ
下地島 スムズジ スムズィ
多良間島 タラマズマ
水納島 ミンナ
石垣島 イシャナギジマ アルジジマ
竹富島 ティードン
西表島 イリムティ イリムトゥ
由布島 ユブ
内離島 ウチパナリ
鳩間島 パトゥマシマ パトゥマシィマ
小浜島 クバマ
黒島 ピャーシィマ サフシマ
新城島 パナリィ
波照間島 パティーローマジマ パチラージマ
与那国島 ドゥナンジマ ユノーン

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2006/12/15

「波照間」地名考

谷川健一の『日本の地名』には、
「波照間」の地名の由来を巡って交わされた、
金関丈夫(かねせきたけお)と
宮良当壮(みやながまさもり)の
論争の経緯が載っています。

明治の中ごろ、「波照間」は、
「果ての琉球」(ウルマ=琉球)という解釈が生まれ、
それに昭和に入って、
宮良当壮の「果ての珊瑚礁」(ウルマ=珊瑚礁)
という似た解釈が加わり、
「果ての琉球」または「果ての珊瑚礁」と
解釈されてきました。

そこに金関丈夫が、
波照間は、地元で「パトロー」と呼ばれていることと、
台湾の東海岸のアミ族は、
沖の島のことを「ボトル」「ボトロル」と
言うことに着目して、
波照間のパトローはボトルに関係があると仮説したのです。

それに、宮良が反論し、
両者の見解の相違が浮き彫りになります。

時は昭和二十九年、1954年、
沖縄がアメリカ占領下にあった時代のことです。

その詳細は『日本の地名』に譲りますが、
読んだ印象でいうと、そこでの相違点は、
語義の解釈を巡ってというより、
金関が日本の単一民族説への反発を下敷きにし、
宮良が沖縄人は日本人であるという主張を下敷きに
しているのですが、

本来、少し筋の違う下敷き同士が、
不幸にも対立という構図で表面化したように見えます。

いまから見ると、この論争は痛ましく思えます。

多民族としての日本を言うのに、
八重山の人を台湾と同じと見なす必要もないし、
沖縄人が日本人であることを言うのに、
台湾、インドネシア語との類縁を否定する必要もありません。

もともと八重山にいた人と、
台湾の人と交流があったとみなせば済むことです。

もちろんこれは、
言語学や遺伝子学の見地の蓄積のある現在だから、
簡単に言えるにすぎないことではあります。

 ♪ ♪ ♪

ぼくの考えを言えば、
「波照間」を「果ての琉球」や「果ての珊瑚礁」と
解するのは、ロマンティックではあるけれど、
現在を起点に過去に遡行する倒錯ではないかと思います。

それは、与那国島の「どなん」に
「渡難」を字を当てた途端、
「渡り難い所」として与那国を解釈するのに似ています。

与論でも、「とうとぅがなし」に「尊々我無」
と漢字を当てた途端、
「私を無くして」と理解しがちになるように。

たとえば、与論の由来を「与論」の文字を起点に始めたら、
島の人は笑うでしょう。
それは、「与論」を地元では「ゆんぬ」と言うからです。

でも、「波照間」を「果て」の「琉球」「珊瑚礁」
として解するのは、これに近い倒錯にならないでしょうか。

果ての琉球と言うためには、
「琉球」の範囲が概念化されている必要がありますが、
人が地名を名づけるのが圧倒的に先で、
琉球の概念化はずっと後に来るものです。

また、「果ての珊瑚礁」も、
日本や琉球の範囲という背景を置かないと、
「果て」という必要はないと思えます。

それは、国家的な枠組みが出来て以降の場所を
起点に過去に遡行して理解しようとしているように見えます。

それよりは、「沖の島」という名称のほうが、
地勢を地名とする自然さがあると思います。

先日、波照間=加計呂麻という乱暴な仮説を立てました。

そうやって眺めていると、島の人自身が加計呂麻島と
自称していなかったという記事に出会いました。

 そういえば故郷の人が「加計呂麻」と自称するのを聞いたことがなく、
 後年奄美を出てから「へー、我が島は加計呂麻というのか」と奇異に
 感じたものだ。

そこで、なんとなくあるかもしれないなぁと思うのは、
島の人も、自称の島名を持たずにいたとしたら、
奄美大島からみた「沖の島」という呼び名が
島の名前として定着するのは不自然ではないでしょう。

 ♪ ♪ ♪

ただ、それが由来と言うには疑問があるとはいえ、

「波照間」=「果ての琉球」(ウルマ=琉球)
      =「果ての珊瑚礁」(ウルマ=珊瑚礁)

という解釈はとても素敵で、
地域ブランドとしての波照間づくりには、
ソフト資産としてぜひ活かすべきですだと思います。

ロマンティックでキャッチーですから。

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2006/12/13

加計呂麻は波照間?

加計呂麻島は、島尾敏雄にちなんだ場所で、
最近は、「海の宝、山の宝」癒しの島づくりと銘打った
アイランドテラピーをがんばっていて、
ぼくは大好きな島のひとつです。

名前の響きといい当てた漢字といい、
不思議な魅力があります。

でも、我に帰ると「加計呂麻島」という名前は、
標準語の当て字なので、
もともとの語源は何だろうとよく思ってきました。

というのも、カケロマは、aiu三母音に該当しない、
eoの音が二つも使われていて、
もともとは違ったろうと思わせるからです。

で、今朝、ふと思いました。
加計呂麻は、波照間と同じじゃないかって。

【加計呂麻】

 ↓読みは、

カケロマ

 ↓aiueoを、aiuiuに三母音変換すると、

カキルマ

 ↓k音はh音の訛りのバリエーション

ハキルマ

 ↓k音はt音と同等

ハチルマ

 ↓「ハ」の古形に「パ」はありうる。

パチルマ

 ↓「チ」を「ティ」発音はよくある?ので、

パティルマ

 ↓標準語読みにすると

ハテルマ

 ↓漢字にして

【波照間】

と、いつの間にか?、
加計呂麻は波照間に変換されます。

奄美の果ての島と八重山の果ての島。
なんとなく、位相的にも似たものを感じませんか?

素人の言葉遊び、ご容赦ください。

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2006/12/12

琉球弧149万人

琉球弧の島々を人口と一緒にラインナップしてみました。

これを人口順に並べ替えてみると、
与論島は何番目になると思いますか?

正解は、10番目。

久米島、喜界島、伊良部島ときて、与論島。
その数6000人弱。

でもって11番目の与那国島は、
いきなり千人台なので落差も大きい。


でも、人口が多いのがいいというわけではないですよね。
人口一人だって島にはしっかり固有名があって、
海が外界としっかり区別してくれるから、
輪郭もくっきり浮かび上がってきます。

それが琉球弧のよさってものです。

大きいよりも小さいほうが強い。
多いより少ないほうが強い。
そう発想してそう実行できる。
それが琉球弧の強みじゃないでしょうか。


ああ、それにしても琉球弧149万人。
こうやって一堂に集めて眺めてみると、
愛着湧いてきます。

# 島名 人口 構成比
1 沖縄島 1,238,856 83.2384%
2 奄美大島 68,617 4.6104%
3 宮古島 49,020 3.2936%
4 石垣島 45,705 3.0709%
5 徳之島 27,167 1.8253%
6 沖永良部島 14,551 0.9777%
7 久米島 9,264 0.6224%
8 喜界島 8,572 0.5760%
9 伊良部島 6,606 0.4439%
10 与論島 5,731 0.3851%
11 与那国島 1,713 0.1151%
12 加計呂麻島  1,547 0.1039%
13 多良間島 1,454 0.0977%
14 伊平屋島 1,435 0.0964%
15 粟国島 906 0.0609%
16 池間島 763 0.0513%
17 渡嘉敷島 732 0.0492%
18 座間味島 638 0.0429%
19 津堅島 619 0.0416%
20 波照間島 600 0.0403%
21 小浜島 549 0.0369%
22 渡名喜島 464 0.0312%
23 竹富島 342 0.0230%
24 阿嘉島 328 0.0220%
25 久高島 277 0.0186%
26 黒島 230 0.0155%
27 来間島 198 0.0133%
28 与路島  161 0.0108%
29 中之島 157 0.0105%
30 請島 137 0.0092%
31 宝島  127 0.0085%
32 口之島  123 0.0083%
33 野甫島 112 0.0075%
34 慶留間島 79 0.0053%
35 平島 78 0.0052%
36 悪石島 77 0.0052%
37 諏訪之瀬島 61 0.0041%
38 鳩間島 60 0.0040%
39 水納島 56 0.0038%
40 小宝島 49 0.0033%
41 下地島 49 0.0033%
42 大神島 45 0.0030%
43 奥武島 28 0.0019%
44 由布島 14 0.0009%
45 オーハ島 7 0.0005%
46 水納島 6 0.0004%
47 前島 5 0.0003%
48 新城島(上地) 5 0.0003%
49 新城島(下地) 2 0.0001%
50 加屋真島 1 0.0001%
51 外離島 0 0.0000%
1,488,323

※参照先。沖縄県の人口奄美の人口十島村の人口

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2006/12/11

「与論島」コンテンツをつくろう

与論はどんなキーワードで検索されていると思いますか?
調べてみました。

正解は、「与論島」です。

「与論」でも「ヨロン」でも「与論町」でもないんです。
与論に行きたいな、与論を調べたいなと思うとき、
「与論島」で検索されることが一番、多いんです。

下の表は、検索キーワードと、
そのキーワードでグーグル検索された数(10月値)、
そして、グーグルで検索されるキーワードを
含んだコンテンツ数(12月値)を出してみたものです。

  キーワード 検索数  コンテンツ件数 
1.与論島   7318    23300
2.与論     1859   164000
3.ヨロン島   727     52500
4.与論町     547   136000
5.ヨロン    487   118000

これを見ると、「与論島」で検索する人が最も多い。
ところが、ホームページやブログを作る人は、
「与論町」や「ヨロン」で書く人が多いのが分ります。

これはミスマッチですね。
特に、「ヨロン」で作る人は多いのに、
「ヨロン(島)」で検索する人は、
「与論島」で検索する人の10分の1以下なのです。

結果、与論関連のコンテンツは、
「与論町」含むコンテンツの13.6万が最も多いのですが、
これは、沖永良部島をキーワードに含むコンテンツ数30万、
加計呂麻島をキーワードに含むコンテンツ数17万
に比べても少ない規模です。
(※「与論」は、厳密には、「世論」のことを含むものもあるので、
 除外してみました)

ウェブコミにおける与論の発信力が
充分に発揮されていません。

「与論島」で検索しているのに、
「ヨロン」でコンテンツを作っている。
これはひょっとしたら、
30年前の観光ブームの名残りなのかもしれませんね。

ともあれ、与論の魅力を多くの人に知ってほしい場合は、
探している人の言葉に合わせて、
「与論島」「与論」でコンテンツを作ることをおすすめします。

与論発信力を高めましょう。

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2006/12/10

シニグの由来はイュウガマの豊漁祈願!?

シニグ祭の由来はイュウガマの豊漁祈願と感謝祭
というびっくりする仮説があったのでご紹介します。

谷川健一の『南島文学発生論』(1991年)です。

沖縄本島の伊計、宮城、浜比嘉の島々では、
旧の六月二十八日と旧八月二十八日の二回、シヌグ祭をする。
そして、旧の六月二十八日は、
これらの島々にスクが寄ってくる日にあたっている。

スクは与論島では、イュウガマ。
そうそう、
『ドゥダンミン2』でも印象的なエッセイで出てきます。

  旧暦六月の大潮になると、イュウガマが寄ってくる
 のではないかと血が騒ぐ。
  男たちは、夜明け前にそれぞれの浜に集まり、西に
 寄るだろうか東に寄るだろうかと思案する。誰にも分
 かるはずはない。親方の判断に任せて出発する。偵察
 に海岸沿いの岩陰、ハンバラ(岩)の根っこを見て回
 る。イュウガマはピンク色をして群れを作っている。
 群れは大きなものもあれば小さなものもある。年によ
 ってたくさん寄る年と少ない年とある。大きな群れは
 舟の上や岩の上から赤黒く見える。岩の上から見て回
 る人もいる。大きな群れは「クムヌクーリ(雲の群れ)」
 という表現をする。大きな群れを見つけたら、胸がダ
 トゥ、ダトゥ高鳴る。

この漁のわくわくするエッセイは、
シニグの由来とする仮説に出会って、
もうひとつのわくわくが重なってくるようです。

  イュウガマは年に一度の海の恵みである。ウシャギ
 ムヌ、という。海に足を踏み入れるときに男たちは
 「チッ、トートゥガナシ、ウシャギムヌシャギラチタ
 バーリ(海の神様、海の幸を賜りください、お願い奉
 ります)」と祈る。昔は浜にいるみんなに分け与えら
 れたという。塩漬けにしてパントウ(素焼きの大きな
 瓶)に入れて一年間のタンパク源にした。芋と食べる
 と非常においしかった。豊漁、不漁は勿論であったが、
 現在よりは遥かに豊かであった。

竹下先生のエッセイからも、
イュウガマ漁は何か特別な恵みのにおいが漂ってきます。

 μ μ μ

谷川健一の考察はこうです。

シヌグの当日には木の枝やつる草を身に巻きつけた男たちが、
三箇所に分かれて山登りをし、山頂で円陣を組み、
太鼓に合わせてひとめぐりし、
「スクナレースクスク」といいながら、
棒で地面をたたく。これを三度、繰り返す。

「スクナレー」を谷川は、スクがたくさん寄ってきてほしい
という祈願の言葉と理解しています。

そこで、シヌグはスクの寄ってくるのを
待ち受けた人たちの予祝祭であり感謝祭でもある、
としているのです。

よくテーマになる語源については、
「しのくる」(踊る)というおもろ語と
関係があるのではないかとしています。
シヌグ祭での放埓な踊りをこの仮説の背景に
敷いているようです。

シヌグを、「稲」や「凌ぐ」に結びつける仮説しか
見たことはないので、「踊り」との関係づけによる
シヌグ理解はびっくりします。

 μ μ μ

また、安田ではウンジャミを「シヌグ小(グァ)」、
つまり小シヌグと呼んでいる。
そしてシヌグとウンジャミは隔年に行われている。
それは両者がもともと一体であったことを示している。

このあたりの考察は、これまでにも見られたもので、
起源同一は可能性のあるものと受け取ることができます。

谷川は、シヌグは男性社会の祭りで
ウンジャミは女性社会の祭りとする、
これもよく見る考察について述べています。

  しかし私から見ればそのような二元的な対立の図式を
 はじめから想定する必要はないのであって、スクをとる
 ときの男性の漁撈とスクの到来を祈願する神役とが一体
 となって作り上げた祭りがまずあった。それがシヌグと
 ウンジャミの二つの祭りに分化したと考えればよいので
 ある。(『南島文学発生論』1991年、思潮社)

ぼくは漠然と、シヌグとウンジャミが起源同一であれば、
女系的なウンジャミが古形だろうと思ってきましたが、
スクを媒介にすると、どちらがと考える必要もないのかもしれません。

これはとても刺激的で面白い考察です。
恥ずかしいことに『南島文学発生論』を持っていながら、
いままでこの考察に気づいていませんでした。

でもひょっとしたら、
この気づきはドゥダンミン効果かもしれません。

『ドゥダンミン2』の、
イュウガマの印象的なエッセイが心に残り、
それでやっと気づくことができたのかもしれません。

与論島のシニグ祭、ウンジャミ祭について、
考える手がかりをまたひとつ持ちました。

ぼくは現在、この仮説の妥当性を判断する
知見を持っていませんが、
びっくりしたのでメモしておきます。

『南島文学発生論』
谷川健一

Nantou_1

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2006/12/09

アイデア当選しました

十島村のブログで離島応援計画に参加して、
「がんばれトカラ!」
「続・がんばれトカラ!」
「KAIKI722」
を書きましたが、

アイデア当選したと、
事務局から教えてもらいました。
「十島村アイデア応募当選者発表デス」

ありがとうございます。

ジャスト・アイデアではありますが、
十島村にはシンパシーもあれば、
他人事ではないという気持ちもあります。

十島村が、ブロードバンドで結ばれて、
離島でこそブロードバンドがどこでもドアとして大活躍して、
島が活気づくモデルになればいいと思います。

ブロードバンドは、離島にとってかつてない力を発揮してくれます。
改めて、がんばれトカラ。
そしてもちろん、がんばれ与論島、です。

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2006/12/08

新ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァーは優遊幻想曲

ぼくたちは10年前の1996年、
ビートルズのアンソロジー・プロジェクトのおかげで、
合計27を数えるテイクのうち、
初期形から完成形までの里程をたどるように
3つの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を聞いて、
それが未熟なものから成熟に至る成長ではなく、
それぞれが完成された作品になっているのに驚きました。

『アンソロジー2』に収録された3つのテイクは、
3つの段階というより、3つの独立した作品だったのです。
「切なさから幻想性へ」

だから、今回のビートルズの新作『LOVE』に収録された
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は、
テイク28と呼んでも、
4つめの「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」と呼んでも
おかしくありません。

その「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は、
乱暴に分解すれば、3つのパートで成り立っています。

曲の前半は、初期の仮完成版で「軽く優しい」バージョン、
後半は、後期の仮完成版で「重厚な」バージョン。
そしてエンディングのリズム・トラックです。

そうやって今度の4つめの
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」に耳を澄ますと、
この3つのパートそれぞれを
編集の対象にしているのが分かります。

前半は、初期の「軽く優しい」バージョンに違いありませんが、
ぼくたちが聞きなれた今までのより、
さらに前の初期バージョンが採用されています。
そこでは、まだ原型がそうであったように、
ジョンはアコースティックギターを弾きながら歌うのです。

後半は、これまでと同じ重厚なバージョンですが、
面白いのは、リンゴのドラムが騒々しく響く、
ワイルド・リズム・トラックと呼ばれる
エンディングのパートです。

成り立ちからいえばリズムトラックは
プロデューサーのジョージ・マーティンの留守中に、
ビートルズの面々がやりたい放題に
遊んだ演奏を盛り込んだものですが、

今度の編集ではもっと遊ぶように、
次にレコーディングされた「ペニー・レイン」や、
「ハロー・グッバイ」、「ピギーズ」などの曲のパーツが
ふんだんに放り込まれています。

この遊びは、思い起こせば、「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」
のエンディングで、ジョンが「シー・ラブズ・ユー」を歌い、遊ぶ
ところに起源を持っているものです。

さて、そうしてできあがった
新「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は、
どのように響いてくるでしょうか。

 ♪ ♪ ♪

「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は
不思議な作品で、
いつの間にか始まっていつの間にか終わるように
聞き流すこともあれば、
思わず立ち止まり、
精神と身体に染み渡るように打たれることもあります。

だからぼくはこれをひとつの音楽である以上に、
ある精神の構えと色調を持ったときにだけ
入口の門戸が開かれる詩であると受け止めてきました。

もともとこの曲が少年期の解放をテーマにした
幻想的なバラードであることや、
曲の前半と後半の速度をそれぞれ変えて同調させて
つないでいるので、
どこかジョンの声が非現実的に聞こえることからも、
そう受け止めるのが自然な気がするのです。

でも今回の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は、
なんというか、これまでのが
薄暮の原っぱにたたずむように感じられるのに対して、
アコースティックの調べに始まり、
華やかなエンディングになった分、
優しさと遊びが強調されています。

わかる人にはわかるという孤独な場所を少し離れ、
誰にも優しく語りかけて遊んでもらおうとしているようで、
勝手に造語するなら、優遊幻想曲とでも言うような
作品になっているのです。

好きな「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」が
また加わりました。

 ♪ ♪ ♪

ジョン・レノンはかつて、
ビートルズのレコーディングに満足していない曲の
代表格として「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を
挙げていました。

ジョージ・マーティンは今度、それを受けて、
「もう許してくれているといいのだが」とコメントしています。

というのも、ビートルズが解散して数年経ってから、
ジョン・レノンからそのことを告げられ、
ジョージはショックを受けたのでした。

もしここでジョンが新「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」
を聞いたら、何と答えるかと想像してみると、
意外にその回答は明瞭な気がします。

彼なら、今回の試みを歓迎するでしょう。
でも、満足はしないのです。
喜んで聞いて、でも満足せずに、
「次は?」と聞くはずです。

それは、新「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の
出来が悪いという意味ではありません。

もともとの作品を、
作者のジョン自身が作り直したいと思っていることが
まず、ぼくたちを立ち止らせます。

そして次にこの曲に不満を覚える、
のではなく、
ジョンに言われてみると、
ぼくたちにもこの曲はもっと違う展開の
可能性があるのではないかと思えてくるのです。

だからジョンのいない現在、
これはついに完成することのない、
永遠の未完の曲としてぼくたちの前に置かれているのです。

ここでぼくたちにできるのは、
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を、
元歌として、それを幻想性を膨らますように解き放つこと。
新しい「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を
それぞれに作り出すことなのだと考えてきました。

だから、この新しい
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の試みは、
ぼくたちにとっても嬉しい事態です。

そしてジョンならずともぼくたち自身が楽しんだ後に、
次の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」が
聞きたいと、そういう気持ちになってきます。

だから、ジョン本人ならなおさらそう思うでしょう。
許すも許さないも、曲を聞いた後、「悪くないね、次は?」
と訊ねてくる気がするのです。
そう思いませんか?

つくづく、不思議な作品です。

 ♪ ♪ ♪

ぼくにとって「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は、
与論島の、とある原っぱを思い出させます。
そこには文字通り、野いちごがあったのですが、
だからというわけではなく、
そこがぼくたちの秘密基地だったからです。
そこは大人たちの目線の届かない解放区でした。

ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー
と言うなら、それと同じように、
ヨロン・アイランド・フォーエヴァー、なのです。

ところでこの小文は、
ジョン・レノンの26回目の追悼のつもりで書き出したのですが、
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のことは、
こんな風に受け止められるのに、
そもそものジョンの不在となると、
いまでもうまく整理がつかずにいます。

ぼくは以前、ジョンの他界を
「カウンター・カルチャーの消滅」を象徴すると
捉えたことがありますが、
それを踏まえていえば、ぼくたちは今に至るも、
消滅後の新しいビジョンを手にしてないのではないでしょうか。

当時、もうすぐ十七歳にならんとしていたぼくは、
ジョンの死の数週間後に、わけもわからず、
少年兵士さながらに、頭を丸めました。

そして確かに気分は戦闘モードでした。
それが、カウンター・カルチャー消滅に対する
ぼくの身体反応でした。

そんな少年兵士の顔をほころばせ、髪を伸ばさせる、
そんなビジョンを今からでも渡してあげなければなりません。

Let me take you down, cause I'm going to
と言ってあげなくてはなりません。

それが、「あとは引き受けた」と、
ジョン・レノンに言える条件なのです。

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2006/12/07

発破と葉っぱ

 ハッパーと野太い声がした。
 木の葉ヒラヒラと思いきや、
 ドン、と、
 地震のめったにない島に地響きとどろいた。

 シュガーロードならぬサンゴロードが、
 舗装される準備が進められていた。


 ♪ ♪ ♪

ナニオブラートニクルンデモノイッテルノ、
とヤカに発破をかけられた。

いや、これでも?、
自慢してると、
哀しいかな、
島の人に陰口たたかれる
こともあるんですよ、
と、出かかったが言わなかった。

ヤカの言葉に、
あの、与論島で小さな地響きを知った
ハッパーという声を思い出した。

 ♪ ♪ ♪


ぼくは発破をしかけたいわけじゃない。
発破というなら、それこそ、葉っぱなら仕掛けたい。

与論島らしい自然の回復。
回復というのがふさわしくないなら、創造。
それによってかつて豊かにあった
自然と交感する通路を回復する。
ここも、回復がふさわしくなければ、創造、です。

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2006/12/02

直面気質-『ドゥダンミン2』

『ドゥダンミン』もそうだったけれど、
『ドゥダンミン2』でも特に面白いのは漁の話です。

追悼文のように書かれた「ハニ兄」もそうです。

 外海では、ピン(昼)ナガリやユ(夜)ナガリをした。
 いずれも碇を下ろすときと下ろさないで漂って釣るとき
 がある。ピンナガリでは、ムリュウ、パナンタ、ネバリ
 類、ベラ類など種類が多かった。魚の種類によって住ん
 でいる場所(スニ)がだいたい決まっていて、ハニ兄は
 それを熟知していた。あそこに行ってムリュウを釣ろう、
 パナンタが釣れるのはどのあたりなど。風向き、潮の流
 れ、潮時を勘案して場所を決める。それが漁の出来・不
 出来に直結する。

海人にとって、与論島は陸地まででなく、
環礁まででもなく、外海の漁に出るポイントまでは、
与論の範囲に身体化されているのが分かります。

そして魚たちの棲家として、
頭の中に地図としてインプットされていることも。

それは漁で本領を発揮するのでした。

 カマス釣りに行った。カマスのスニは与論島の周囲に
 あるらしいが、ハニ兄にはたいてい品覇沖に連れて行
 ってもらった。兼母の先と沖縄のとさか岩を一直線で
 結び、与論島を目印に当て、水深は百五十メートルか
 ら二百メートルほどの所を定める。碇は二十キロほど
 の石で、帰りは引きちぎって捨てられるようにわら縄
 でくくってある。しかも一つしか持っていないから、
 一発勝負である。はずしたら、漁獲も当てはずれであ
 る。ハニ兄は一度もはずしたことはない。

海上から沖縄島と与論島を視野に入れて、漁のポイントを決める。
与論は、人と動植物の住む陸地の外に、
魚の住む海も含めて身体化されています。

またそれは海の自然と対話できるということでもありました。

 黒雲が遠くに見えた。魚が釣れておもしろいときだった。
 ハニ兄が「碇を上げろ」と言い、私が「ヌガ?」と言っ
 たら「黙ってやれ」と叱りつけられた。帰ってから「黒
 雲の下は風だからだ」と言った。そして「ピチュヌ 男
 の子を預かっていては」とひとりごとを言った。ひとの
 子を乗せていて遭難でもしたら、ということである。優
 しさ故の厳しさである。

「ハニ兄」からは、与論にもともといた海の人たちが
どのように生活していたのか、
その一端が垣間見れるようで、わくわくしてきます。

 ♪ ♪ ♪

ハタパギマンジャイ、イシャトゥ、ウグミ、
ウヮームヌ、クビキラモーミャーなどの多彩なムヌ(幽霊)の話も、
与論島の闇の深さを教えてくれます。

それはまた、1607年、島津藩が琉球に侵入したときも、
首里の巫女たちは呪言で迎え撃ったという、
言葉の力にも通じるのでした。

そのことは火事のときに叫ぶ「ホーハイ」という呪文の
エピソードとして載っています。
火事の元になるピダマ(火玉)は擬人化され、
ホーハイという呪文を嫌うのです。

竹下先生の『ドゥダンミン2』は、
与論島において、つい先ごろまで、
自然と交感し対話する世界が広がっていたことを教えてくれます。


ぼくが知りたかった話題もあって、
アフリカマイマイは食用のため入れられたと
推測していたものの、
実のところどうなのか知らなかったのですが、
昭和30年代の後半に入り爆発的に増殖したもので、
わざわざ持ち込んだと噂されたけれど、
誰が持ち込んだかも分からず仕舞いだったそうです。

それから、子ども時分には塩辛くて
美味しいとは思えなかった魚の塩漬けは、
与論ではイューガマと言っていたように思うけれど、
これは「魚ちゃん」とでも言うような愛称で
固有名詞とは言いがたいので、
沖縄のようなスクという名前はないのかなと疑問でしたが、
それは同様に竹下先生にも疑問で、
分からないのだそうです。

さらに、「嶋」では、
島の成り立ちを地質と神話とから考察していて
興味が尽きません。

 ♪ ♪ ♪

『ドゥダンミン2』は、
昭和から平成を駆け抜ける与論人(ゆんぬんちゅ)の
半生を回顧したものですが、
語られる世界を人類史に置きなおせば、
古代から現在までの振幅を持つ醍醐味があります。
そんなフィクションのようなノンフィクションが
『ドゥダンミン2』の魅力です。

Sotetsu















『ドゥダンミン2』の面白さは、
与論島、南島の奥深さを資源にしていますが、
でも、ここにはもうひとつ、
語り手である竹下先生ならではの面白さがあるように思えます。
竹下先生の資質が現れている個所と言ったらいいでしょうか。

それは、なんというか、
直面気質(かたぎ)とでも言いたくなります。
そう言いたいのはこういうことです。

たとえば、チリ地震のことが出てきます。
それは1960年の出来事です。
竹下先生は当時、奄美大島の名瀬にいました。
ふつうは名瀬にいる頃、チリ地震が起きた
というエピソードとして、
つまり同時代体験として語られるはずです。

そうなのですが、
竹下先生の場合、名瀬市の真ん中の公園で、
津波に乗ってやってきた魚を捕まえて、
そのことで、「津波の偉大さを経験した」と書きます。
ただのニュースではない、
このチリ地震への直面の仕方。

鹿児島では鉄道自殺があったと聞いて、
線路まで見に行ったはいいけれど、
人手が足りなくて、遺体を運ぶ手伝いをします。
この直面の仕方。

また、経験者はあまたいらっしゃるでしょうが、
正月に豚をばらすときに大人の手伝いをして、
中学時分に、豚の命の息吹を身体で感じながら、
と殺を経験します。

その他にもありますが、
この、事態への触れ方が、
間接的ではなく直面する方へ傾斜するのが、
竹下先生の資質なのかもしれない、と思えます。
それが『ドゥダンミン2』の迫真的な魅力になっています。

多くのことに直面し、
まっすぐに考え実行し、
孫を持つにいたった半生を語る。

前作『ドゥダンミン』と同じく
今度の『ドゥダンミン2』からも、
与論人(ゆんぬんちゅ)の
格好いい立ち姿が浮かび上がってきます。


※『ドゥダンミン2』(竹下徹 著、平成18年6月)
 「ドゥダンミン」は、竹下先生の言葉では「ひとりよがりな考え」。
 竹下先生はこの謙遜によって、作品の批評性を獲得しています。
 「ドゥダンミン」というキーワードが、
 批評の原動力になっているのです。

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2006/12/01

しぇんしぇい

昨日、竹下先生と書いて思い出したのは、
昔は、「たけしたしぇんしぇい」と、
「せんせい」を「しぇんしぇい」と発音していたことです。
子どもたちだけじゃなくて、
おやごさんたちもそうだったと思います。

当時は、「せんせい」が「しぇんしぇい」と
なる理由はよく分りませんでしたが、
いまなら少し理解できそうです。

琉球語は、三母音(a、i、u)の発声が強く残っています。

もともと三母音(a、i、u)を使っていた。
そこに「先生」という言葉が伝えられる。
するとどうなるか。

・発声しづらい摩擦音のサ行であること。
・「e」は、三母音(a、i、u)外の音であること。

この二つから、三母音の「し(si)」を手がかりに、
「え(e)」に向かうように、「しぇ」と発音した。
こんな風に理解できます。

そこで、学校でも家でも、
この「しぇんしぇい」という発音が
あちこちでこだましたのでした。

 ♪ ♪ ♪

琉球語の三母音の世界は、
三母音それ自体がどうこうより、
その言葉の奥に広がっていた、
植物、動物、自然全体と交感する世界が魅力的です。

そしてその交感を媒介するものとして、
三母音の言葉が使われていたのでした。

いまからみると、
その三母音の言葉を使うことが
自然と交感する世界への鍵のように思えたりします。

使いたい言葉です。

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