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2006/11/30

『ドゥダンミン2』!

なんと竹下徹先生の『ドゥダンミン2』が手元に届きました。
先生の囲碁友達の親父がいただいたものから
お裾分けしてもらったのです。

Dodanmin2_2








ありがたいことです。

持ってみると、前回より分厚い。
読み応えありそう。

前作『ドゥダンミン』では、
琉球弧を駆け抜けた半生を格好よく感じました。
今回も期待します。

非売品ですから、
内容や感想もここに挙げさせていただきます。

 ○ ● ○ ●

考えてみれば、「ドゥダンミン」の言葉も、
清音と濁音では濁音が古形である
いいサンプルではないでしょうか。

ぼくははじめ、「ドゥダンミン」の意味が分りませんでした。
「ドゥ」は「自分」だとは分りますが、
「ダンミン」がどうも。

でも、あるとき、
これが茶花でいう「サンミン」のことだと思いついて
氷解しました。

「ドゥサンミン」、自分の考え、か、と。

今回もまた、竹下先生のエッセイを楽しませていただきます。
先生、とうとぅがなし。

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2006/11/29

「与論献俸」分解酵素

柳田國男が、明治になって酒の用途が増えてきた
ことについて、面白い考察をしています。

 手短にいうならば知らぬ人に逢う機会、
 それも晴れがましい心構えをもって、
 近付きになるべき場合が急に増加して、
 得たり賢しとこの古くからの方式を利用
 し始めたのである。

 明治の社交は気の置ける異郷人と、明日
 からすぐにもともに働かなければならぬ
 ような社交であった。

 常は無口で思うことも言えぬ者、わずか
 な外部からの衝動にも堪えぬ者が、抑え
 られた自己を表現する手段として、酒徳
 を礼賛する例さえあったのである。

 酒は飲むとも飲まるるなということを、
 今でも秀句のごとく心得て言う人がある
 が、実際は人を飲むのがすなわち酒の力
 であった。客を酔い倒れにしえなかった
 宴会は、決して成功とは言わなかったの
 である。
  (『明治大正史世相篇』柳田國男、1930年執筆)

「明治の社交は気の置ける異郷人と、
明日からすぐにもともに働かなければならぬうな社交」で、

「常は無口で思うことも言えぬ者、
わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者が、
抑えられた自己を表現する手段として」
酒が用いられたというのです。

 ♪ ♪ ♪ 

これは多くの示唆を与えてくれます。

与論は、内部の人同士では、
触れることがそのまま優しさであるような
親密感あふれる人間関係を持ってきました。

それは、来島する人への激しい人見知りと同居するし、
排他性となって表れることもあったでしょう。

ところで日本の明治以降とはつまり、
廃藩置県で共同体が藩の内部だけではなく、
全国区になったことを指しています。

与論において、
共同体が全国区となるような事態は、
近年でいえば観光ブームにおいて
顕在化したと言えるでしょう。

こう考えてくれば、
あの「与論献俸」のモチーフを
理解することができそうです。

与論献俸とは、
極度の人見知りと極度の親密感を
一挙にまたぎ越すための一計である、
と。

してみると、与論献俸を必要としているのは、
旅の人(たびんちゅ)よりは、
より、島の人(しまんちゅ)であると思えます。

こうやって理解していけば、
より自由な酒の楽しみ方、
「有泉」の味わい方、吟味についても、
配慮する視点を持つことができるのではないでしょうか。

一気呑みの大学生は、
いかにして一気呑みしない社会人になるのか。
部下と呑む機会の決定権を持ちたがる上司は、
いかにしてそのミニ権力を解くのか。

にもかかわらず、
酒を飲み酒に飲まれる酒宴の楽しみを、
どのように保つことができるのか、

という、しらふで議論するには、
いささか気恥ずかしいテーマで、
与論献俸を考えてみる手がかりが
得られるのではありますまいか。

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2006/11/28

ノート:「な」

アイヌ語:「な」の語源

 沖縄でも、一番はじっこの与那国島というところは
 「どなん」というのがもともとの言葉ですけど、大
 地のことを「そない」というのですよ。だから「稚
 内」(わっかない)というのも「な」というのは、
 「水のあるところのそば」という意味なのです。そ
 ういう地勢がアイヌ語だったら地名になりますから。
 (『思想とはなにか』吉本隆明・笠原芳光 2006年)

「な」は「水のあるところのそば」。

以前、与那国、与那原、与論を、
同一の地名の系列と仮説しましたが、
それは危ないでしょうか?

与那国、与那原は、同系列と見なせそうです。

・「ゆ」は単独でどんな意味を持つのか。持たないのか。
・「ゆんぬ」の「ぬ」は、「な」の転化と見なせるか。

与論もいたるところ、
「水のあるところのそば」
という条件は持っています。

 まだまだ道は遠いですね(苦笑)。

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2006/11/27

逆生涯教育

不勉強なことですが、
与論高校の存続が課題になっているんですね。
盛窪さんのブログで教わりました。

 与論高校存続を真剣に考えなければ島の未来はないと思えた。
 この土地で培った考えがなければ
 なかなか島に帰りたいとは思えないだろう。
 与論に高校がなかった頃、向学に燃えた輩や恵まれた
 一部の者は下宿するか寮生活の仕送り暮らしであった。  
 ここで、逆転の発想をしてみよう。
 生徒を全国募集して、下宿か寮を開けばいい。
 全国では、落ちこぼれもある、特殊な才能をもっているのもある。
 あるいは、不登校者も。
 同級生の発想を借りると、
 勉強したい者はNHKの通信講座で充分だと。
 いまは、メディアの時代。
 どこにいても教育はうけられる。
 世界史などの単位が問題になったが、
 逆に単位を取得する方法論を展開して
 与論高校の生き残る道を考えてみたら。
 県立がダメなら町立では、私立なら思想を持っている人を
 見方につければ存続は出来るはず。
 できれば郷土出身の教育者を期待する。
 特殊学級を併設するのもいい。

私は、教育を語る柄でも資格もないのですが、
「子ども育成の場としての与論」はあるなぁと思ってます。

与論学校。全国募集。

・過去の民宿経験値を下宿運営の知恵に転化
・自然の中で子どもを成長させたい親御さんのニーズに応える。
・ただし、大学受験のシステムに遅れはとらない。
 (この点は、学校のオンライン環境を万全にする)。

こうすることで、与論の子どもたちも本土の友人を持てます。
実現できたらすごいですね。

それから私は、なんといったらいいか、
逆生涯教育もあると思います。

今の生涯教育は、老人になっても教育を受ける、
という発想ですが、そうではなく、
老人が若造に教える、
生涯を教育する、です。

今の生涯教育の発想からいえば逆生涯教育。
でも、本来的ではないでしょうか。

与論の若々しいご老人が、
ティーンエイジャーに教える(伝える)。
それは、自分の来し方で構いません。
生きる上での知恵を話してくれたら、
若い人には栄養になるし、
ご老人も元気になります。

こんな場を実現する場であってもいい。

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2006/11/26

ヘッドライト・テールライト

 語り継ぐ人もなく
 吹きすさぶ風の中へ
 紛れ散らばる星の名は
 忘れられても
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

 足跡は 降る雨と
 降る時の中へ消えて
 称える歌は
 英雄のために過ぎても
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

 行く先を照らすのは
 まだ咲かぬ見果てぬ夢
 遥か後ろを照らすのは
 あどけない夢
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

(「ヘッドライト・テールライト」『短篇集』
 中島みゆき 2000年)


うかつなことにプロジェクトXを観たことが無かったから、
これもエンディングに流れる曲としてではなく、
中島みゆきの『短篇集』のアルバムで知りました。

シモーヌ・ヴェイユの「無名の領域」は、
ヘッドライト、テールライトが行き交う都市の夜景に
実体を浮かび上がらせるのかもしれません。

そこは、語り継ぐ人もなく、
紛れ散らばり忘れられる。
その最たる場所だから。

そんな場所として、東京が大好きです。

与論への好きとは比べものにならないにしても、
与論言葉に出会うことは無理にしても、
どこかの方言を聞かなければならないことも、
その圧力もない、
誰でもないただの人でいられるからです。

夢を持たずに来たのは、
自分の夢が、どうしようもなく、
与論にしかないことを
充分に思い知るためだったかもしれません。

与論島のことは、
「まだ咲かぬ見果てぬ夢」。

 遥か後ろを照らすのは
 あどけない夢

振り返りざまに見える夢は、
叶えてしまってかわいらしく見えるのかもしれないし、
そうではなく、
叶えられなかったにしても、
過ぎてしまえばその夢自体が、
あどけないものに映る、
そういう人の成長のことを言っているのかもしれません。

与論島への夢が、
あどけない夢に見える時がくるのか、
想像もつきません。

見果てぬ夢に、
めまいするばかりです。

Tokyo0609

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2006/11/25

からぱーとぅ

『与論民謡全曲集』を聞くとき、
一番、楽しみなのは、
「ぱーとぅ、ぱーとぅ」です。

ぱーとぅ、ぱーとぅ、からぱーとぅ、
と、時々、ぱーぱーは口ずさんでいました。
それが、子守歌なのを知ったのは、
『与論民謡全曲集』を聞いたおかげでした。

ぱーぱーも、冒頭の部分だけで、
その後を続けることはなかったからかもしれません。
でも、ぱーとぅ、ぱーとぅ、からぱーとぅと
つぶやいていたのはよく覚えています。

ぱーぱーを思い出しながら、
この子守歌を聞きます。
あの時、ぱーぱーは子守歌を歌ってたんだなぁと思うと、
心が和みます。

 ぱーとぅ ぱーとぅ からぱーとぅ
 しーぎぬういいじ しーちくてぃ 
 くわーぎぬういいじ くわーなち 
 まちぎぬういいじ まちぬくでぃ
 ちぃぎぬういいじ ちぃこぅち  
 なーばったいいじ なーちきてぃ
 よーにゃぬういいじ よいしち 

曲は、韻を踏みながら、
子どもの誕生を歌ったものです。

 鳩、鳩、きじ鳩。
 ??の上で、??
 桑木の上で、子どもを産んで、
 松木の上で、火を起こして、
 ??の上で、お乳を飲ませ、
 菜畑に行って、名をつけて、
 ユナの上で、お祝いをして。

ぼくの語彙では分からないところもあるけれど、
鳩を擬人化した詞がなんともかわいく響きます。

いまも誰かが子どもに歌ってあげているといいな。

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2006/11/24

チョコレートモイッパイアルヨ

「チョコレートモイッパイアルヨ、ハヤクカエリナサイ」。

小那覇舞天が、通学と受験のため上京している
子ども二人を呼び寄せるために打った電報です。

ときは、昭和20年の年の暮れ。
つまり、敗戦の年です。

小那覇舞天は、どこからこの電報を打ったのか。
というのも、『笑う沖縄』によれば、
当時の沖縄本島は、
本土への電報取り扱いを開始していないのです。

可能だった宮古島まで行って打ったのか、
はたまたアメリカ軍の知己に頼んだのか。
それは謎なのです。

緊迫した状況のなかで、
何らかの手段を講じてまで打った
貴重な電報がこれ。

この肩の力の抜け具合というか、
ユーモアには骨太なものを感じます。

著者も、「私はこの電文に心の底から感動した」
と書きますが、ぼくもこの本の中で、
もっとも心動かされた個所でした。

 ♪ ♪ ♪

ほんの少し、付け加えるなら、
この電文の前半に、
ユーモア以外のものを感じます。

電文自体は、後半の「ハヤクカエリナサイ」が、
伝えたいことであり、
父親としての気遣いがある個所ですが、
ぼくは、「チョコレートモイッパイアルヨ」
にユーモアとは別に心惹かれます。

たとえば、ぼくの親父は、
与論言葉に堪能で標準語も当然話しますが、
傍で聞いていても、
与論言葉を話すときの方が、
流暢でかつ身体に合った
言葉を発しているのが分ります。

その親父が、
子どもに向かって標準語で声をかけるとき、
あるいは、手紙や葉書きの書き言葉にして語るとき、
なんというか、慣れない言葉を使うがゆえの、
ぎこちなさが少し出て、
子ども心に、気恥ずかしいやら
子どものくせに、かばってあげたくなる気持ちとか、
そんな想いがないまぜになったことがあります。

「チョコレートモイッパイアルヨ」。
この言い回しには、どこかその、
慣れない言葉遣いのぎこちなさが
潜んでいるように思えて、
言葉の意味とは別に、
懐かしさ交じりに心惹かれるのです。

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2006/11/23

笑う沖縄-「唄の島」の恩人・小那覇舞天伝

笑う沖縄。

この言葉は全くその通りと思うけれど、
どういうわけかとても新鮮に響きます。

そして、「笑う」が沖縄の形容にぴったなのに
新鮮に響くとしたら、
それがどうしてなのかを、
ひとりの人物を通じて、
明らかにしようとしているのが、
『笑う沖縄-「唄の島」の恩人・小那覇 舞天伝』です。

帯には「歯科医師であるとともにボードビリアン」とあります。
ボードビリアンはぼくには耳慣れなかったので、
調べてみたら、喜劇役者のことでした。

歯科医にして喜劇役者、なのです。

その人は、小那覇舞天。「おなはぶーてん」と読む。
本名、小那覇全孝(ぜんこう)。

小那覇全孝は、1897年、明治30年沖縄県今帰仁に生まれ。
東京の歯科学校で学び、浅草の喜劇を観劇。
帰沖後、歯科医院を開業。
結婚し二児をもうける。
しかし妻は結核のため子供の幼少時に他界。
3年後に再婚。
歯科医を続ける傍ら、演劇、民俗舞踏の創作に没頭。
1945年、収容所にて沖縄民謡やオリジナル漫談を演じる。
1947年から石川舞踏団を設立など、芸能活動を活発化。
1954年のラジオ開局とともにひっぱりだこの出演。
1960年、フォーシスターズをプロデュース。
1969年、昭和44年に永眠。

本の記述にしたがって、小那覇舞天の略歴を書いてみると、
歯科医でありながら喜劇役者としての道も追求し、
戦争と戦後の沖縄の困難な状況下で沖縄芸能を構築し、
ラジオで普及させるとともに次世代の育成にも努めた、
そんな求道者の姿が浮かび上がってきます。

この本はそれを詳細に紹介しようとしているのですが、
そうするのは、小那覇舞天の実像が意外に知られておらず、
そればかりかその功績も正当に評価されていないという不思議さに
端を発したものです。

どうしてそうなるのか。

まず、小那覇舞天、当の本人がその功績はもとより、
自分自身をあまり語っていないということ。
名を残す振る舞いをしていないということ。

そして、戦争期という最も「笑い」が困難な時代に
笑いを提供するという難事をなしたのだけれど、
沖縄の戦争のことを沖縄の人自身が忘れたいと思い、
また思い起こす時には「悲しみ」として語るので、
そこに「笑い」が存在したことは、
あまり認めたくないし忌避されてすらいるのではないかということ。

その結果、小那覇舞天が語られることが少なくなる。
そしてそれだけでなく、
実像とかけ離れたところで舞天がキャラクター化されたり、
後継と称する芸人の都合のいい引用を招いている。

それが、この本が主張していることのように思えます。

ぼくは照屋林助が、自身の経歴を語る際に、
小那覇舞天との関わりについて、
脚色を加えているのかどうか、
この本だけからはにわかに判断できません。

しかし、戦後の沖縄芸能の始発点が、
照屋林助ではなく、その前に、
小那覇舞天を持っていたことを
知ってよかったと思います。
照屋林助以上の深さがあったことにほっとします。

著者の曽我部司さんがこの本を書かなければ、
ぼくは小那覇舞天の存在や実像を知るきっかけを
得ることがあったかどうか覚束ない感じです。

舞天自身はそんなこと望んでいなかったかもしれませんが、
少なくともぼくは知ることができてよかった。

そう感じて思うのは、
沖縄の人自身による小那覇舞天伝(論)を読みたい
ということです。

 観光資源に寄り添っているだけの脆弱な経済資源。
 本州から大勢の観光客を呼び込むために創り出された
 北海道のキャッチフレーズの果敢のなさのように、
 沖縄であることが一つの切なさに直結してしまうような
 幻想の数々に辟易していた。
 「同質化しながら差別していく」ということに対する
 反発がわずかながらある限り、私の中には沖縄ブームは
 生まれない。たぶん、本土と呼ぶにふさわしい北海道と
 沖縄以外の土地に住んでいる日本人には理解しがたい
 感覚なのだろう。

著者の曽我部さんは、
小那覇舞天に向けられた視点のありかを、
本の冒頭近くにこう置いています。

この問題視点を持てばこそ、
曽我部さんは小那覇舞天の実像抽出の
作業に挑んだのでした。

小那覇舞天は、差別化の砦を築いた人だから、
「同質化しながら差別していく」現在の沖縄によって
敬して遠ざけられているのではないか、と。

おかげでぼくは、
「笑う沖縄」という沖縄・南島にぴったりの
コンセプト表現に出会うことができました。

あの戦争のさなか、
「笑い」の核が沖縄の中で、
生まれ育まれていたことは、
たとえようもなく貴重なことです。

しかし、そうであるなら、
ぼくはこの作業は、
沖縄の人の手でなされてほしかった。

それだけ重要なものの抽出だから、
地上戦を経験しアメリカ占領の期間を長く持った
沖縄の胎内から生まれてほしかったと、
そういう気持ちが生まれます。

これからのこととしても思います。

小那覇舞天が何を言っているか
分からない立場ではなく、
その芸能が喚起する笑いを体感的に分かる立場からの
小那覇舞天伝(論)を、
曽我部さんの作品の向こうに遠望したいのです。

「笑う沖縄」というコンセプトは、
沖縄自身のものに他ならないからです。

Warauokinawa







  笑う沖縄

□追記

本書から構成した小那覇舞天の生涯です。

1897年、明治30年。沖縄県今帰仁村に生まれる。
母、ツルが家計をきりもり。
1912年、明治45年。
首里二中の移転とともに嘉手納に転居。
1915年、大正4年。
全孝は、トップの成績だったが経済的理由から
本土へ行くこと叶わず、県立師範二部へ。
1917年、大正六年。
屋良小学校の訓導(教員)。
1919年、大正8年。
伊波孫兵衛の援助で東京の日本歯科医学専門学校へ。
全孝、学生時代に21回の引越し。
浅草の喜劇を観劇。
1920年、大正九年。父均、永眠。
全孝、父の臨終に間に合わず。
1922年、大正11年。
日本歯科医学専門学校を卒業し、嘉手納に戻る。
今帰仁村で数ヶ月間、独立開業に向けて準備。
その後、嘉手納で小那覇歯科医院を開業。
同年、結婚。
大正12年、長女、14年、長男誕生。
1926年、大正15年。結核により妻和子、他界。
大正末期頃から、「舞天」名を使うようになる。
1929年、昭和4年。再婚。
1930年、昭和5年。嘉手納通りの真ん中に移転。
芸能活動、ボランティア活動に積極的に参加。
演劇、民俗舞踏の創作に没頭。
1938年、昭和13年。消防団団長。
1939年、昭和14年。母ツル他界。
1945年、昭和20年。嘉手納に避難命令。
この時、長男長女は学校で本土。
同年4月までには石川の難民収容所へ。
収容所にて沖縄民謡やオリジナル漫談を演じる。
9月、沖縄諮詢委員会の文化部芸術課長に。
収容所内の歯科医師と沖縄諮詢委員会の文化部芸術課長
の二足のわらじ。
12月、城前初等学校で芸能大会をプロデュース。
1946年、昭和21年。
4月、沖縄諮詢委員会の解消によって文化部芸術課長
の職を解かれる。
同年暮れ。本土の子供たちを呼び寄せ、
妻と次女と一家全員が揃う。
1947年、昭和22年。
1月から芸能活動を再び活発化。
石川舞踏団の設立、運営。
愛楽園への慰問や乙姫劇団への支援。
1951年、昭和26年。
小那覇歯科医院、開業。
1954年、昭和29年。
RBC開局とともに舞天ラジオ出演。
同年、東京の文化放送に出演。
有楽町生命ホールで番組収録。
同年、コカ・コーラCMの制作、コメント吹き込み。
1960年、昭和35年。
ラジオ沖縄の開局。司会や漫談で出演。
同年。フォーシスターズをプロデュース。
1969年、昭和44年。永眠。

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与論気質って

与論気質(かたぎ)って何でしょうか。


先週、今週と、群馬に出張で行ってきました。

カカア天下とからっ風。
女が働き者で男はばくち打ち。
ギャンブルが好きなんです。
でっかいことをするのが好きなんですね。
だから政治家は出ます。
短期間でばっと結果を出したがりますから。
お隣の新潟には「春を待つ心」というのがあって、
ひとつのイベントに向けて一年前から
じっくり準備をしていくそうです。
そんな立派なことここでは考えられない。
からっ風?
ああ関係しているのかもしれないですねぇ。
あれが赤城山です。
「赤城の山も今宵限りか・・」です。

地元の人はこう説明してくれました。
ずっと平野が続きその向こうには山が控えている。
そういう光景は見慣れないので、
車に乗る間、ずっと眺めていました。


地域の人の気質の特徴ってあるのでしょうね。
地勢や気候がその基盤になるということも。

与論気質(かたぎ)って、
そんな風にみたら、どう言えるのでしょうね。

小さな島であること、
亜熱帯の豊かな自然持つこと。
そんな条件のもとに育つ気質。


・激しい人見知り、恥ずかしがり
・無菌保存のような純真さ
・人一倍もてなす親切
・変化を頭上にやり過ごす諦念
・原色の反映のような明るさ

もっともっとあるでしょう。
もっと繊細に言えるでしょう。

もっと見つけていきたいですね、与論気質。

Gunma_1
















追記
ほとんど会議室に缶詰めでしたが、
陸続きの自然と美味しい空気を堪能しました。
群馬のみなさん、ありがとうございました。

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2006/11/20

「石垣の塩」に学ぶ

地域ブランドの商標登録の第一弾に、
琉球弧からは「石垣の塩」が選ばれました。

おめでとうございます!

敬意を表して、「石垣の塩」のウェブコミに学んでみたくなりました。

「石垣の塩」には、
オフィシャルのウェブサイトがあります。

「*石垣島の自然海塩『石垣の塩』Officialホームページ*」
と銘打って、URLも「石垣の塩」でそのままつけていて、
地域ブランドをしっかりアピールしています。

トップページではフラッシュで、
ブランドのメッセージが流れます。

 石垣の塩は、
 海のチカラをかりて素朴で無骨な
 石垣島の島人が精魂込め
 た手作りの自然海塩です。
 自然の海水を利用して作った塩。
 時には海草などが入っているかも
 しれませんが、
 島人が自信をもって。
 作った自然海塩をどうぞ、
 試してみてくださいね!!

石垣の自然の恵みであること、
手づくりであることがアピールポイント。
「時には海草などが入っているかも」がいいですね。

この左側は、
葉書きをイメージしたデザインで、
ウェブサイトでありながら、
石垣島からのお便りのようです。
アナログの手触り感が伝わってきますね。

伝わってくるといえば、
「僕らのつくる塩」と題して、
作り手の顔も見えます。いい笑顔です。

そして、「月齢と共に生き、風を感じ、アダンを駆け抜ける音色」
とメッセージあります。

月齢とともにって何でしょう。(^^)
乳児が月齢とともに大きく成長するように、
月毎に大きく変わるということでしょうか。

商品ページでは、
「人と自然にやさしい」、
「長寿の邦からの贈り物」
というキャッチフレーズがついています。

 世界有数のサンゴ珊瑚礁を育む石垣島で100%海水の塩
 「自然海塩」をつくっております。

というコピーもありました。

「石垣の塩」というネーミングやその特徴で、
商品の属性をしっかり伝え、
ウェブサイトでは、
作り手の考え、顔を見せて、
「石垣の塩」にぬくもりを添える。

与論島のウェブコミにとっても
学べる点が多くありますね。

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2006/11/19

琉球弧の与論島

グーグル・アースで琉球弧を眺めると、
与論島が、琉球弧の弧を形づくるひとつの島だと
はっきり分かります。

どこにあるか、分かりますか?

Ryukyuko_1















地図や地球儀があると、
まず真っ先に与論島が載っているかどうかを確めて、
針の先でつついたような黒点でも、
とにかくあれば、
よし、とばかりに、その地図や地球儀に合格点?
を出すようにつぶやいてきましたが、

グーグル・アースは、
地球に接近しさえすれば、
いずれ必ずはっきりとその姿を見せてくれるのがいいです。
どんなに小さくでも、存在していることが分かります。

 ♪ ♪ ♪

琉球弧は、ゆるやかな連なりです。
島尾敏雄が、そこを「弧」と呼んだことが
腑に落ちてくるようです。

 それは私にはひとつの解放であった。
 この島々の置かれた亜熱帯の風土は、
 それに加えて生活の様子にも異国らしさを
 与えている。それを吸収しようとして
 傾いていったのは、それが私の日本の
 画一からの脱出に、内部からひとつの
 きっかけを与えてくれると思えたからだ。
 つまりその異国らしさの底に結局は
 日本を見つけたが、そのきっかけが外から
 ではなく、内部kらのものだと思えたのだ。
 (「琉球弧の視点から」)

この文章は1977年、今からおよそ30年前の文章ですが、
南島に惹かれる人が後を絶たないのをみると、
今も色褪せてないのでしょう。

「北海道も東北もそして琉球弧も等距離で
見渡せる場所から、日本を見たいものだと思う」
と、島尾はこの文章を結びます。

では、とばかりにグーグル・アースでやってみましょう。

Japonesia
















こうみると、日本は思いのほか、
南北に長いですね。

この眺めからは、
日本というより、
島尾敏雄に倣って、
ヤポネシアと呼びたくなります。

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2006/11/18

とうとぅがなしは、《尊・様》

生まれ島のことながら、
とうとぅがなしは、
最も美しい言葉のひとつではないかと思っています。

とうとぅがなしは、
「ありがとうございます」の意味。

「とうとぅがなし」は、
「とうとぅ」と「かなし」。

「とうとぅ」は、「尊い」。
「かなし」は、悲し・哀し・愛し。

これは惹きつけれられてでもどうしようもない、
切なさを湛えた情念のことです。
それが、「悲しい」や「哀しい」や「愛しい」に
分化していくのでしょう。

 ♪ ♪ ♪

ところで、琉球弧ではこの情念にまつわる言葉が、
尊称、敬称に用いられました。


 きこゑきみかなし

 聞ゑ君加那志
 鳴響む君加那志(とよむきみがなし)

 聞ゑ君加那志がよ

 神加那志がよ(かみがなしがよ)

 (『おもろそうし』)

神や琉球の最高神女である聞得大君を呼ぶときに、
「かなし」は、尊称の接尾語になっています。

もともと情念を表す言葉が、
尊称、敬称として使われているのです。

それが、「とうとぅがなし」にも生きています。


『おもろ』のように、与論島の祭りの場でも、
「とうとぅがなし」は登場します。

 トオトゥ、トオトゥ、トオトゥガナシ、
 シヌグの神ガナシ。

 トオトゥ、トオトゥガナシ、
 此ヌ屋敷ヌ 神ガナシ

 (『与論島の生活と伝承』山田実、1984年)


「シヌグの神ガナシ」、
「此ヌ屋敷ヌ 神ガナシ」がそうです。
シヌグの神様、この屋敷の神様、の意です。

そしてその前に添えられている言葉が、
「トオトゥガナシ」。

ぼくたちはこれを、今の言葉から、
「ありがとうございます」と理解したくなりますが、
もともとは違ったのかもしれません。

つまり、神に対する尊称として、
「神ガナシ」が使われているとしたら、
その前段に位置する「トオトゥガナシ」も、
尊称として用いられていると解釈するのが自然です。

トオトゥ、トオトゥ、トオトゥガナシ、
シヌグの神ガナシ。

これは、

尊い、尊い、尊いことです。
シヌグの神様。

宣り言のときは、
こんな情感が流れていたのではないでしょうか。


そして「尊いことです」という尊敬の念が、
日常の言葉として使われていく中で、
「ありがとうございます」に転化していったわけです。

「とうとぅがなし」は、
その意味を漢字で書けば、
「尊」、「様」なのです。

そういえば、「とうとぅ」は、
与論では、祭儀そのものの意味でも使われます。
「とうとぅびー」といえば、
お祈りするときの座りかた、正座なのでした。


 ♪ ♪ ♪

近年、「とうとぅがなし」は、
「尊々我無」の字を当てられて用いられるようです。
これは当て字です。

この当て字は、当たらずと言えども遠からずというか、
遠からずと言えども当たらず、と感じます。

「尊々我無」は、「とうとぅがなし」が、
「ありがとうございます」の意味であることを踏まえた上で、
それに該当するように意訳したようなものです。

文字面としては悪くないにしても、
出自として古来から伝わる言葉に、
近年、当て字をしたものだということは
忘れたくありません。

まして、「尊々我無」と当て字をした途端、
「とうとぅがなし」の語源を、
「我を無くして相手を尊ぶこと」と解釈したら、
漢字を介したそれこそ意訳であり、
語源としては誤解になってしまうことは、
踏まえなければならないと思います。

「とうとぅがなし」は尊い島言葉ですから。

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2006/11/15

がんばれ!与論島

市町村合併後も財政難、と記事に出ていました。

それはそうだろうと思います。

win-win の関係は、
強み同士の掛け合わせからしか生まれず、
弱み同士の掛け合わせは、
lose-lose の関係になるしかないからです。

互いの強みを持ち寄って初めて
何か見えてくるのでしょう。


ところで合併拒否後の与論島は、
どんな強みを見せていくのでしょう。

がんばれ!与論島。

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2006/11/14

サークラ語源考

シニグ祭の「サークラ」という言葉について、
「酒倉」を語源とする仮説がありますが、
これが腑に落ちないんです。

この解釈の場合、「サカクラ」から「サークラ」への
音の変化で説明されるのですが、
これは順番が逆だと思います。

この説明だと「酒倉」(サカクラ)を元にして、
与論言葉(サークラ)に変化したと考えるわけですが、
言葉の歴史はそうではなく、
琉球語を日本祖語として、
その上に現代日本語がかぶさったのが順番ですから、
「サカクラ」と「サークラ」では、
「サークラ」の方が古い言葉だと見るのが妥当です。

それに、直感的に言っても、
核となる場所を「酒倉」とするのは
与論島の開発祖神からネーミングしている祭儀に
似つかわしくありません。

「酒倉」が語源ではないと思うのです。


「座倉」とする仮説もあります。
シニグの座元をつとめる人をザームトゥ、ダームトゥと
呼ぶのに依拠したもので、
「ザークラ」に直接の語源を求めています。
これは、「酒倉」より信憑性を感じます。

 ♪ ♪ ♪ 

「サークラ」は、「ザークラ」とも「ダークラ」とも
言われているそうで、それぞれの語源も
どの言葉かに依拠しています。

「サークラ」「ザークラ」「ダークラ」の特徴は、
面白いことに地区毎に呼び名が違うということです。
三つの呼び名が同居しているのです。

ただ、ひとつの言葉が閉鎖的な集落に分岐することで、
音を変化させていったとみなせば、
それぞれに新旧の順をつけることはできるはずです。

ここで、清音と濁音の場合は、
濁音が古いという考え方をとると、
サークラよりザークラ、ダークラが古いと思えます。
さらに、ダークラは麦屋の言葉、
ザークラは城(グスク)の言葉ですが、
集落としては麦屋の方が古いですから、
いちばん古いのは「ダークラ」ではないでしょうか。

サークラ < ザークラ < ダークラ。

という新旧です。

ここでもうひとつ。
「どぅなん」は「ゆなん」と同義という
与那国島に対する理解と同じように、
d音とy音を交換可能とみなすと、
「ダークラ」は「ヤークラ」と同義になります。

与論言葉で、「ヤー」と言えば「家」。
ここで、「家倉」という字を当てようとは思いません。
「家-座」のような語義として、
「ヤークラ」というネーミングはありえるのではないかと
仮説してみます。


もっとも、ダークラをヤークラとする仮説も、
今のところ、
もっともらしいという以上の説得力はないでしょう。

もっともっと調べなければなりませんが、
サークラを「酒倉」解釈で止めるのは、
与論島理解としてもったいない気がするのです。

もっと、底は深いぞと言いたくなります。

Photo_11

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2006/11/13

地域ブランドとしての与論島9

その実、「圧倒的自然」も「最果て感」も「沖縄の近所」も、
与論島にないわけではありません。


「圧倒的自然」

屋久島や西表島のように巨大な森が
存在しているわけではないけれど、
海の美は無類のものがあります。

また、人びとの生活圏と圧倒的な自然
が共存しあっているのも特徴的です。


「最果て感」

琉球弧のなかでみれば、
奄美の終わりと沖縄の始まりという二重の最果て感です。

与論島の最果て感は、孤独感が薄い。
トカラ列島や与那国島のように、
島の間を横断する黒潮による隔絶感がないのです。


「沖縄の近所」

それはもう。辺戸岬が見えるくらいですから。
沖縄県ではないから、
沖縄県のマップに載ってこないということです。


これらはどれも地域ブランドとしてみた与論島の強みです。

ただ、あれもあるこれもあるは、なにもないと同じだから、
この際言わない。言わないまでもサブでいい。


与論島はどのように自己紹介すべきでしょうか?


ひとつの視点。

与論島はわざわざ行くところです。
わざわざ行くのは、喧騒から逃れて
のんびりゆっくりするためです。

こう辿ると、アイランドテラピーに目が行きます。
与論島もそうですし、
加計呂麻島も力を入れていると聞きます。

<島が癒す>
与論島もまさにそうですね。

訪れた人が滞在して、
いつしか癒され元気になってゆく。
そういう場所、島。

それは、アイランドテラピーの推進でいいのだけれど、
「治療」というよりは、それだけでなく、
「癒しと元気」となるのがいい。

この視点から出てくる課題は、

・どのように癒すのか
・どのように元気になるのか

への対応です。

Photo_10

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2006/11/12

地域ブランドとしての与論島8

試みに、琉球弧やその近くの島を、
直行便で行けるかどうか、
都市でもてなすか自然でもてなすかという2軸を立てて、
島々をマッピングしてみます。

         自然
  ┌───────┬───────┐
  │○屋久島   │       │
  │○西表島   │       │
  │○与論島   │ ○宮古島  │
  │○加計呂麻島 │       │
  │○竹富島   │       │
  │      4│1      │ 
経由├───────┼───────┤直行
  │      3│2      │
  │       │○那覇    │
  │   -   │○奄美(名瀬)│
  │       │○石垣島   │
  │       │       │
  │       │       │
  └───────┴───────┘
          都市

□1.(直行)×(自然)
例)
・宮古島

□2.(直行)×(都市)
例)
・那覇
・奄美
・石垣

□3.(経由)×(都市)
例)
・-

□4.(経由)×(自然)
例)
・屋久島
・西表島
・竹富島
・波照間島
・与那国島
・与論島
・加計呂麻島

こうしてみると、当然、与論島は、
那覇(あるいは鹿児島)を経由して、
自然がもてなす4のゾーンにポジションを持ちます。

結局、このゾーンに入る島は多いですね。

4のゾーンの島のそれぞれのポジションを考えてみます。

○圧倒的自然
 ・屋久島
 ・西表島
○最果て
 ・波照間島(最南端)
 ・与那国島(最西端)
○那覇の近所
 ・竹富島

こうポジションを取ってみると、
与論島はかつて「最果て」でそのポジションを得たのですから、
これだけとってみると、いまは波照間島、与那国島に
そのポジションを譲ったことになります。

圧倒的な自然や最果てのような自然条件では、
与論島や加計呂麻島は、ポジションを得にくい。

それが、むしろポテンシャルだという視点を得なければなりません。

もっと詰めていきましょう。

※今回は、プロポーショナルのフォントで見ている方は、
図がぐちゃぐちゃでしょう。ごめんなさい。

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2006/11/11

KAIKI722

ブログで離島応援計画に1アイデアです。

KAIKI722

皆既日食と自然回帰をかけました。(^^;)

2009年7月22日の皆既日食をトカラ列島有史以来の
最高のイベントにすることを目的としたプロジェクト。

皆既日食という宇宙美を堪能するイベントを、
それだけでなく、トカラ列島の手つかずの自然を通じて、
圧倒的な天然の自然美のすごさを体験するイベントにする。


XOOPSなどのCMSを使って、
「トカラ皆既日食準備委員会」などの名称のWebサイトを構築。
KAIKI722推進拠点とします。

2009年7月22日のイベントまでの準備、進行を
見せていくことで関与者を巻き込んで、
トカラ列島のパートナーとも言うべき人たちを
ネットワークするのをゴールとします。
イベントの後も強力な味方になってもらうのです。


《KAIKI722》のステップ

■STEP1 メンバー募集

1)サイトからKAIKI722のメンバーを募集
2)メンバーは、トカラ列島に来ていろいろ手伝ってくれる
  コアメンバーとオンラインディスカッションのみ参加の
  メンバーの2タイプ。
3)コアメンバーには、トカラ来訪の際の宿、食事は提供。
  その間コアメンバーは、知力、体力を惜しみなく提供。


■STEP2 プラン作成

1)メンバーとのディスカッションを通じて事務局は、
  マスタープランを作成。
2)コアメンバーはトカラ列島でのミーティングも持つ。
3)メンバーは、メーリングリストを使ってオンラインディスカッション
4)Webサイトではその進捗を逐次、報告。
  ・ブログで日記
  ・RSS発行
  ・現地動画の配信
  ・EC

■STEP3 進行

1)実行は、分科会に分かれて行う。
  ・皆既日食ツアー企画
  ・現地受け入れ準備
  ・コミュニケーション(PR、AD、SP)
  ・サイトコンテンツ作成
  ・トカラ商品ブランド開発
2)適宜、トカラ列島でのミーティングを持つ。
  半年に1回?
3)この間も常時メンバー募集


■STEP4 直前準備

1)2009年春から夏に向けて、密に段取り決め。
2)4、5、6月は毎月トカラ列島でミーティング。


■STEP5 カウントダウン

1)7月22日。有史以来の人と感動で島々が賑わう。


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2006/11/09

藤木勇人が一人ゆんたく芝居 

うちな~噺家の藤木勇人さんが、
今年最後の東京公演を行うそうです。

藤木勇人一人ゆんたく芝居 南島世果報(ゆがふ)便りvol.3

東京は内幸町と、
場所も近いのにぼくは行けそうにないです。
残念。

藤木さんといえば、ぼくは俳優や噺家としてより、
りんけんバンド の姿が忘れられません。

藤木さんと玉城満さんとが両脇を固めた
初期?りんけんバンドは、
男臭さといい声の太さといい芝居上手といい、
とても好きでした。最強だったのではないでしょうか?

「ありがとう」、「なんくる」などを
引っさげた彼らの曲は、
沖縄の音楽がポップソングの水準に達し、
新しい局面に入ったことを告げていました。

80年代後半、東京は池袋の西武百貨店、
夜の屋上に登場した
彼らの誇り高き姿を今も彷彿とします。

ああ誰かに何かを伝えるということは、
輝くということなんだなと、
そういうメッセージを受け取りました。

藤木勇人が芝居の道を目指すと聞いたときは、
りんけんバンドという晴れ舞台があるのにと
不思議に思いましたが、
今に思えば、
これこそをしたかったということなんですね。

志というもの思いというものは強いですね。

行けませんが、公演の成功を願っています。

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2006/11/08

続・がんばれトカラ!

トカラぽっと・補足

このプランのポイントは、
トカラの人たちが元気になることを通じて、
トカラに来たい人たちを誘うこと。
そして、コストがそうかからない。
ブロードバンドが実現したら、すぐに実行できることです。

□コミュニケーションの組み立て

トカラぽっとのブログは、基本的に現地の人が書くわけですが、
外に向かって書くのは、
緊張したり照れたりすると思います。

はじめは、トカラの他の島の人向けのメッセージのつもり
で書くといいと思います。トカラの人同士をつなぐブログ
にするのがベースです。

トカラ内部のコミュニケーションが賑わうと、
まず、島の人たちが元気になります。

小さな離れ離れの島同士だけれど、
自分たちはつながっているときっと実感できるはずですから。

その賑わいを見て、トカラ外の人たちがコミュニケーション
の輪に入ってくる、というのが、コミュニケーションの
組み立てです。

なんか楽しそうだな。輪に入りたいなと思ってもらうのです。

 1)トカラライターの投稿
 2)島外の有志の人にコメント、トラックバックをお願いする
 3)オンライン通販の顧客などにブログを紹介して、
   コメント、トラックバックをお願いする

そうして自然発生のコメント、トラックバックを促します。

□その他のコミュニケーション

○秘境的動画配信
 ・トカラライターが特派員になって撮影、投稿します。
○EC
 ・東京都からの特産物のオンライン販売。
  一品一品への思いを我が子のように語ります。
○牛、オーナー制
 ・たしか徳之島ではやっていますね。牛のオーナーになれる。
○濃いコミュニティ
 ・トカラ活性を目的に、内外の有志でディスカッションする
  メーリングリストのコミュニティ

シンプルなプランです。

でも、このコミュニケーション、
できているところがそうそうあるものでもないのです。
実現したら、すごいことだと思います。

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2006/11/07

がんばれトカラ!

「ブログで離島応援計画」、十島村が始まりました。
琉球弧のご近所さんとしては親近感があります。
応援したくもなろうというもの。

ブロードバンドの価値は計り知れないと思います。
現に、与論島だって、ブロードバンドのおかげで、
島のポテンシャルは一変したと思っています。

 がんばれトカラ!

でっかくなくていい。
でも、補助しか当てにできないではなく、
トカラの人たちが元気になる事業になるといいですね。

■1)宝さがし - ワイルドなツアー企画

・トカラ列島のどこかに「宝」を埋める。宝島とは限らない。(^^;)
・各島には、来島者にだけ渡すID、PWを用意。
・宝探し人は、ID、PWで宝探しサイトにアクセスして、
 お宝のヒントを得る。
・ヒントは、次の島を指定するかもしれない。
 だから、次にどこの島に行けばいいかは、
 参加してみないと分らない。
・ヒントを手がかにトカラ列島のある島で「宝」を見つける。

※1.トカラ列島全部を渡らなくても宝の場所は分る。
※2.皆既日食の始まりが、宝探し終了の時間にしてもいい。
   宝を探せたら、皆既日食も見れる。(^^;)

■2)トカラぽっと - トカラとコミュニケーション

・トカラ列島のシンボルになるブログを開設。
 仮称、トカラぽっと。
・ライターは、島の住民、有志。何人でもいい。
 多いほうがいい。
・トカラライターは、全員がトカラぽっとにログインできる。
・日々の何気ない出来事、台風の状況、取れたての魚、
 秘境的光景などを記事にする。
・トカラライターの誰でもいつでもできる記事を投稿する。
・トカラとみんなとをつなぐコミュニケーション拠点。

※1.ゴールは、トカラぽっとでトカラ列島を知り、
   行きたいと思ってもらうこと。トカラに訪れた時、
   「はじめまして」ではなく、「こんにちは」の関係を
   つくること。
※2.トカラライター全員は、当番制にしないで、いつでも
   誰でも投稿できるとする。各人の負担を大きくしないため。

■3)トカラスポット - 究極の隠れ家

・ブロードバンド環境ばっちりのログハウスを作る。
・篭って仕事したい人。しばし引きこもりたい人のために、
 場所を提供する。
・「秘境の中の秘境で、仕事を仕上げられます」
 「秘境の中の秘境で、あなたを磨こう」
 などのメッセージで、究極の隠れ家を提供する。

※ポイントは、秘境なのに、PC環境、コミュニケーション
 環境はバッチリという点です。

はい、お粗末さまでした。

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2006/11/06

地域ブランドとしての与論島7

「地域ブランドNEWS」で、
東京財団が「文化産業を育成する知的財産に関する調査研究」
(生越由美)を報告
という記事があったので、
そのレポートを読んでみました。

タイトルにもあるように、「文化産業」という概念が出てきます。

 ■文化産業の捉え方

 「文化産業」とは、遊びや休養などをターゲットとした「余暇産業」
 や豊富なコンテンツを提供する「コンテンツ産業」に加え、美味しい
 食材を提供する「文化的な農業・漁業」、優れたデザインなどを有
 する製品を作る「文化的な製造業」、日常生活をゆたかにする「文
 化的なサービス産業」などを内包するもの。


第三次産業のコンテンツ産業だけではなく、
第一次産業、第二次産業の中にも存在するものとして
文化産業を捉えています。

歴史は、農業社会、工業社会と進展して知識社会になっているけれど、
知識社会での中心価値を
ゆたかな時間(The Affluent Time)としています。

これは、ガルブレイスの
「ゆたかな社会(The Affluent Society)」を
踏まえた概念です。

その、ゆたかな時間(The Affluent Time)を生み出すには、
文化産業が必要であるとして、
生越さんは8つの提言をしています。

 ■8つの提言

 提言1 「ゆたかな時間」を生み出す「文化産業」を発展させよ
 提言2 「文化産業」の発展に「知的財産」を活用せよ
 提言3 「技術」と「芸術」を融合せよ
 提言4 「伝統文化」と「伝統技術」を活用しよう
 提言5 「進歩」という名の呪縛を解こう
 提言6 「日本文化」を見直そう
 提言7 「遊び」を大切にしよう
 提言8 「日本文化」と「文化産業」を世界に発信しよう


いくつか要約すると、
文化産業のもとになるのが、文化資本。

 「文化資本」は「歴史資源(美術品、工芸品など)」と
 「地域資源(地域の農産品、漁業品、伝統工芸品、観光資源など)」
 に分けられる。

 そして「歴史資源」と「地域資源」は、
 「JAPANブランド」や「観光立国」の基盤である。


 第一次産業、第二次産業の中にも「文化資本」が存在し、
 いくつかは平成時代に連なっている。

 第一次産業 「信州の養鯉」「江戸湾のノリ」「広島のカキ」
 第二次産業 「天龍水」

 「文化産業」を育成するには、第三次産業の中の「サービス産業」
 の中の「コンテンツ産業」に止まらず、第一次産業、第二次産業
 の中に存在する「文化資本」を見落とさず、幅広く育成する必要
 がある。

 「農産物と知的財産」 「博多万能ねぎ」
 「国宝・美術品と知的財産」 「国宝紙本金著色風俗図(彦根屏風)」

 ■彦根屏風の優れている点

 今まで知的財産権は法律的に「排他的独占権」として規定されて
 いるため、「同時使用が可能」な権利であることが見落とされがち
 だった。「知的財産権は独占を誘発する」と思い込んでいる企業や
 自治体がほとんどの中、関係者に安定して使用してもらうために
 知的財産権を保有するという、本質を捉えた柔軟で前向きの発想
 が素晴らしいと思う。

 「伝統芸能と知的財産」 「歌舞伎」


 ■地域ブランドで重要なこと

 「地域ブランド」で一番重要なことは、地域の皆様の生活が楽しい
 ことである。地域が楽しく暮らしていれば、外の人は何があるのか
 と行ってみたくなる。地域の幸せをどう作るかを考えることが地域
 ブランド政策の要だと思う。合わせて地域の情報を積極的に発信
 する必要である。


ここでやっと「地域ブランド」に接続できます。
一番重要なこととして生越さんが挙げているのは、
ごもっともなポイントですね。

この報告では「知財」という言葉もよく出てきます。
知的財産の略で、これも耳慣れなかったので、啓蒙されました。

 「知的財産(知財とも略す)とは、人間の知的活動から
 生み出された独創的な成果の総称である。研究室や製造
 現場から生まれる「発明」にはじまり、アニメ、映画な
 どの「著作物」、そして企業の持つ「経営・製造ノウハ
 ウ」など、いわば「知的な汗の結晶」である。「オリジ
 ナリティー」を身上とする。

知的財産として与論を見ると、と発想を促されますね。

ともあれ、与論島の地域ブランドを構築するのに、
補助線になる考え方が散りばめられいているので、
長いメモとします。

与論島の農業も漁業も観光業も文化産業を内包している。
それらは「地域資源」や「歴史資源」を産み出す。

でも本当は歴史資源は半端なものではないはずです。
与論城があるというのではなく、
あれよりもっと重要な大切なものがあります。
それはほんの見かけはなんということはない
石垣だったりするでしょう。
でもサンクチュアリとはそういうものです。

サンクチュアリをどのように価値化できるか。
与論島のホットなテーマです。

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2006/11/05

地域ブランドとしての与論島6

よく見ると、地域の名称と商品名を組合わせて
商標登録ができるようになったのはつい最近のことなんですね。
商標法の一部改正によって今年4月から施行されています。

地域ブランドNEWSによれば、
4月以降、この地域団体商標に374件が出願され、
52件が商標に登録されたようです。

出願に対してたった14%。

身近なところでいえば、
鹿児島は、「かごしま知覧茶」、
沖縄は、「石垣のしお」。

これを見るだけでは、14%の登録率の理由は分かりません。
ネーミングの妙が登録理由でないことは分かるにしても。(^^;)

ただ、この商標は、個人や法人では登録ができず、
人格を有する組合でなければなりません。
この理由もよく分かりませんが、
ともかく、地域ブランドの制度化がその一歩を踏み出した
ということでしょうか。

地域ブランドの動き、始まっていますね。
与論島も名乗りをあげたいものです。

・じねん
・与論島黄金酢
・もずくそば
・かりゆしバンド
・ゆんぬあーどぅる焼
・有泉
・与論黒糖
・貝工房 かざはな

他にも一杯あるのでしょう。

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2006/11/04

地域ブランドとしての与論島5

中小企業基盤整備機構が昨年、
平成17年度地域ブランドフォーラムの参考資料として配布した
「地域ブランドマニュアル」を公開しています。

これによると、中小企業基盤整備機構は、地域ブランドを
「ブランドとしての地域」と「地域にあるブランド」の
2つを考えています。

RB=Regional Brand(地域そのもののブランド)
PB=Product Brand (商品ブランド)

PBによってRBを作る。
だから、PBがただのヒット商品ではなく、
RBを強化するものでなければならない。

そこで、RBをつくるPBには、
地域名を使って商品化するというやり方があります。

与論島でいえば、与論(島)を冠した商品づくりです。

そう考えると、

「与論島黄金酢」
「与論島もずくそば」
「与論黒糖」

などがすぐに思い浮かびます。

また、

「有泉」

のように、与論島の名称をつけて思い出さなくても、
与論のブランドとしての位置を持っているものもあります。

「与論赤土焼」(ゆんぬ・あーどぅる焼き)

は、「与論」を地元の言葉で読ませて商品呼称に
奥行きを持たせています。

これらは、そしてぼくが知らないものも、
地域ブランドとしての与論島の大事な商品です。


RBとしての「与論(島)」は、
全くの無名ではなく、かつて隆盛をきわめた時期がありました。
昔とった杵柄があるというRB。

だから、無名から名を挙げなくてもいい。
知名度はある。

今後の展望のひとつは、上にあげたような
強い商品ブランドが、与論のRBを引き上げることに
あると思えます。


以下、中小企業基盤整備機構の
「地域ブランドマニュアル」から引用です。

 地域ブランドとは、ある地域にある商品やサービスなどが、
 地域外の消費者から評価を高めて、地域全体のイメージ向上
 と地域活性化に結び付けるものである。

 地域ブランドの定義

 ・地域ブランドとは、「地域に対する消費者からの評価」であり、
  地域が有する無形資産のひとつ
 ・地域ブランドには、地域そのもののブランド(RB)と、地域
  の特徴を生かした商品のブランド(PB)とから構成される。
 ・地域ブランド戦略とは、これら2つのブランドを同時に高める
  ことにより、地域活性化を実現する活動のこと

 A.地域ブランドを作る(構築)
 B.地域名を使って商品化する(活用)
 C.地域ブランドを守る(管理)

 地域名を使って商品化するには、
 1.その商品のイメージが地域のイメージにあること
 2.その商品が、その地域のイメージを具現化したもの
 3.その商品が、地域経済に貢献すること

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2006/11/03

近場の辺境

旅費の次は、時間から与論島にアプローチしてみます。
時間距離からみた与論島です。

上海、香港、台北、宮古島、石垣島、奄美、与論島、屋久島。
これは日本近郊と琉球弧の観光地を任意に挙げたものですが、
これらの地域を目検討ですがグーグル・アースで見て、
東京からの空間距離で並べてみます。

Southeastasia














1.屋久島
2.ソウル
3.奄美
4.与論島
5.上海
6.宮古島
7.石垣島
8.台北
9.香港

与論島は、4番目に位置します。

では、これを時間距離に置き換えてみます。
時間は、JALの飛行時間からとりました。

1.奄美  2:10
2.ソウル 2:25
3.上海  2:25
4.屋久島 2:50
5.台北  2:55
6.宮古島 2:55
7.石垣島 3:05
8.与論島 3:40
9.香港  4:05

空間距離では、4番目だった与論島は、
時間距離では8番目になります。

ソウル、上海、台北、石垣島より遠く、香港より近い。

この差は、直行便の有無によって生じているものですが、
地理的には沖縄より近いのに、時間距離は遠くなっているわけです。
(もちろん、船で渡る西表島や与那国島などの島々を
対象にしていないということもありますが)

奄美群島返還以降、沖縄返還以前の与論島は、
辺境のイメージを日本に与えていたわけですが、
この時間距離からみた与論島も、
いつしかまた辺境に近いイメージになっています。


この時間距離の遠さが、沖縄観光隆盛の影に隠れるように、
与論島にスポットが当たってこなかった理由の一端を
ないしているでしょう。忘れられたように。

忘れられた島。忘れられること。

それは与論にとってはある意味で馴染みやすい場所です。
歴史のこれまでは、
忘れられた場所として生きた時間の方が長かったのです。

けれどぼくたちはもう忘れられることに安住する必要もありません。
このポジションを活かす道を見つけるべきでしょう。

1.沖縄全体を含めても、与論島は再び「辺境」的な距離感にある。
2.那覇を経由するので、直接は行けないやや遠いところにある。
3.とはいえ、現実的には4時間もかからない。

この、近場の辺境とでも言うようなポジションを活かすということ。

また、考えます。

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2006/11/02

秋は亜熱帯への憧れ!?

先週、勤め先の合宿で河口湖畔の森に行ってきました。
そこは山梨県にあって、
南正面に富士山を臨む絶景の地です。

この季節、河口湖畔を訪れると、
秋を感じます。

東京にいても秋は来るのですが、
東京の秋は自然の変化としてより、
新学期の始めの頃の冷やっとして緊張する空気のような、
気温や雰囲気の変わり目としてやってくる気がします。

河口湖畔に秋を感じるのは、
自然の秋を味わうことができるからです。
ちょうど週末からは、「紅葉祭り」も催されていました。

Kiiro








ところで、「秋」とは何でしょう。
というのも、与論島に秋はないからです。
もちろん厳密に言えば、秋も来ます。
今年、30年ぶりに過ごした正月は、
それなりに肌寒さも覚えました。

でも、紅葉の秋や全てが枯れる冬がやってくるわけではなく、
春と夏が交互にやってくる感じなのです。

そんな与論島から見たとき、「秋」とは何でしょう。

ぼくは、河口湖畔の森を歩きながら、
それは亜熱帯への憧れではないかと思えました。

紅葉で葉は赤や黄に鮮やかに色づきます。
でもこの鮮やかさには、既視感があります。
そう、与論島ではしょっちゅう味わっているものです。

違いといえば、河口湖畔の鮮やかさが
その瞬間しか味わえないはかなさを湛えているのに対して、
与論のそれは、オールウェイズな点です。

そんな風に見たら、秋が無いのではなく、
春と夏の移り行きの中に
「秋」を内包していると見ることもできますね。

ええ、我伝引水もはなはだしい。
秋を純粋に愛でる心からみれば邪道な視線でしょう。
ぼくもそれを知らぬわけではない。

でも、ここはご容赦ください。
色づく葉の鮮やかに目を奪われると、
これは亜熱帯を憧れているんじゃないかって
そんな思いも過ぎるのです。

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