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2006/10/06

東京のエイサー

土曜、子どもの運動会を観ました。
子どもは六年、小学生最後です。

ビデオのコマ送りのように思い返せば、
80mの徒競走を一位で駆け抜け、
騎馬戦で先頭を任じ、
組み体操でもてっぺん役?を任じました。

応援合戦ではリズミカルで力強い太鼓叩きをやる一方、
低学年の一輪車では苦手な子の介添え役もこなしていました。

これ全て親ばかコメントですが、
その勇姿がまぶしかった。

可愛いと思っている子のなかから、
自立する少年の姿が現れてくる手応えを感じるのでした。

 ★ ★ ★

その時のこと、
五年生がエイサーを踊ったのですが、
なんとも新鮮でした。

東京で見るエイサーです。

与論でもエイサーを見ることはあります。
沖縄から招いたり、自分たちで踊ったり。
それは、琉球の身体性を確認するような作業なので、
与論のエイサーは、琉球の親和感を覚えます。

ところが東京のエイサーは、
与論で見るエイサーと同じというわけにいきません。

琉球の身体性からは一度、切り離されて、
全く違う都市でほとんどが遠い縁者によって
演じられるわけです。

それはとても自由で新鮮な光景です。
琉球の身体性は共有可能なものになった
ということだから。

でもそれは不思議なことではない。
エイサーの他にも、よさこいソーラン節もあって、
それは長男も次男も四年生のときに、
楽しげに誇らしげに踊っていました。

いまや地域の身体性はオリジナルの場所にありながら、
そこを離れても共有することができるものになったのです。

与論島の身体性も、
共有可能な表現形式を得れば、
いつでも与論を離れ、
他の場所でも生きてゆくことでしょう。

だから、与論島とは何か。
手にしたり嗅いだり味わったり歌ったり踊ったりする
ことができるものを数多く作っていきたいですね。

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コメント

こんにちは
私は静岡県伊東市在住の51才になる男性です。33年前に訪れた与論島(ユンヌ)のサイトを見つけ書き込みさせて頂きます。
33年前、当時高3だった私は友人二人と共にバイトで稼いだ4万円を元に14泊15日の旅に出ました。
西鹿児島まで国鉄の桜島高千穂号で25時間、与論まで琉球海運のクイーンコーラル号で16時間の旅でした。
当時、与論には大きな港がなく沖に停泊した船からハシケで島に渡りました。
茶花の港、大金久海岸、ご老人に案内してもらい風葬墓地に手を合わせたフンチュ崎、リーフまで泳いだ赤崎海岸、言葉が通じなくても仲良しになった幼稚園生と遊んだグスク、空と海が金色に輝く夕焼け、覚えたことば「しいらめらび」「うがみやびらん」覚えたうた「与論島慕情」、テント生活の最後に1泊だけ宿泊した丸吉荘で琉球の踊りを教えてくれた おねえさん、ジャミセンのおじいさん、
与論は想像を超えたすばらしさで30年以上たった今でも目を
閉じると胸が高鳴ります。
2週間は「あっ」と言う間に過ぎ島を離れるハシケの上で
「また必ず来るぞ」与論に誓ったときおもわず涙があふれました。
数年が経ったころ飛行場ができたこと、ホテルが・・・・・
思い出が壊れることを恐れ与論との誓いを守れずに33年が経ちました。
あの幼稚園の男の子は、あのおねえさんは、いまどうしているだろうか。
夢にまで見た与論島、忘れともない与論島・・・永遠ナレ

投稿: よっちゃん | 2006/10/07 00:51

心熱くなるコメントをありがとうございます。
33年前でしたらぼくも茶花小学校に通っていました。
そう、当時ははしけでした。
あれが外界と与論の隔たりを思わせて、子供心にも切なかったです。
与論島は不思議なところで、出身者のぼくでも、
着くとき離れるときは、いまだに感傷的になってしまいます。
よっちゃんさんの想い、とてもありがたく感じます。
いつの日か、ぜひ与論にもう一度、来てください。
お待ちしています。

投稿: 喜山 | 2006/10/08 10:45

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