« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006/10/31

与論行きは海外旅行に比べて

与論島への旅行費用は海外旅行と比べて
どのくらいなんだろう。

これまで与論行きと言えば、
夏休みにツアーを使わずに正規料金で行くことが多かったので、
高い、のひと言で片付けてきたけれど、
実際、どうなっているんでしょう。

 上海  72,000円
 香港  54,800円
 台北  53,000円
 ソウル 31,800円
 与論  50,800円

※1.出典は、JMB TOUR(2006.10.01-2007.01.09)
※2.11月上旬、3泊の条件
※3.東京発のツアー料金

こうして見ると、ソウルは与論島に比べて安いのが分かります。
けれど、その他の上海、香港、台北は与論より高く、
およそ空間距離に比例している印象を受けます。

ひところの海外旅行が格段に安い時の印象が強くて、
しかもハイシーズンの正規料金ばかり見てきたので、
「高い」というのが固定観念になってしまったようです。

固定観念の強かった分、なぁんだと思ってしまいました。

11月上旬の3泊ツアーという条件つきでしか見ていないけれど、
与論島の旅行費用もそう高くない、
空間距離に応じたものになっているんですね。

こんどは時間距離も調べてみます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006/10/29

シモーヌ・ヴェイユの後押し

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユが、
無名の人たちの中に第一級のものがあると言っていることを、
吉本隆明や栗本慎一郎の文章で知って、
それ以来、この考え方にとても惹かれてきました。

出典が分からなかった時は、
本屋のシモーヌ・ヴェイユのコーナーの前で、
片っ端からこのことに触れた個所を探して本を漁ったこともありました。

ヴェイユはこう言います。

 人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、
 芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が
 実を結び、それによっていくつかの名前が数千年
 にわたって生きのびる、というある領域を構成している。
 しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、
 この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、
 もうひとつ別の領域があり、そこには第一級のものが
 おかれている。それらは本質的に名をもたない。

 その領域にわけ入った人びとの名前が記録されているか、
 それとも消失しているかは偶然による。たとえ、
 その名前が記録されているとしても、それらの人びとは
 匿名へ入りこんでしまったのである。

 (ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』
 「人格と聖なるもの」杉山毅訳)

優れた作品を残した人は、名を残す。
けれど、名のあることだけがすべてではなく、
名のある人の領域とは隔てられたところに、
無名の領域があって、そこには第一級のものがある。

人は名のあることを目指したり、
名のある人に憧れたりするけれど、
それだけではなく、
名のない人たちのなかに優れたものが存在している。

名のあることが幸せになることではない。
名もないことのなかの偉大を見つける感じる力を持とう。
そう言っているようにも聞こえます。


ぼくがこの考え方に惹かれるのは、
こう言われて真っ先に与論の人々、
とりわけいにしえを生きた名もない人々のことを
思うからかもしれません。

名もないけれど、偉大な人たちがいる。
そう言われて祖母を思い起こすからかもしれません。

無名の領域のなかの与論。
そこにも珠玉のような人たちがいたしいることを、
後押ししてくれる考えのように読めるのです。

誰もがちょっとした名のある人を目指すようになった時代。
シモーヌ・ヴェイユの言葉は、
慰みや配慮ではなく、
一人ひとりへの勇気づけのように響いてきます。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006/10/23

要望と無関心の向こう側へ

与論情報サイトによると、去る9月5日、与論島にて、
鹿児島県知事と島民との対話の場が持たれている。

14の質問とそれに対する知事の回答がなされたそうで、
サイトにはそのうち10の質問と回答が掲載されている。

質問と回答の詳細な文言は分からないので、
誤解を含んでしまうだろうけれど、
島民と知事のやりとりはすれ違っているように見える。

たとえば島民が、供利ではなく市街地に近い茶花港をメインに
できないかと問えば、知事は船会社との研究が必要と回答している。

一方に島民の質問があり、一方に知事の回答があるわけだが、
このQ&Aは、不親切なウェブサイトのFAQのように、
島民の要望に対する回答が知事個人のそれというより、
役所回答以上でも以下でもないという印象を拭えなかった。

なんというか、要望に対応させれば無関心である。
島民の要望と県の無関心がすれ違いの場を形成しているような
そんな印象なのだ。

これは誤解であるかもしれない。

けれど、10の応答の議事録?からは、
生産的、建設的な読後感は残念ながらやってこない。
この向こう側に突き抜けたい欲求を抱いてしまう。

要望と無関心の向こうに抜けてゆくために、
要望ではなく、提案を置くことが解決のひとつに
なるのではないか。

提案によって、無関心ではなくコミットを呼ぶ可能性を
持つのではないかと思う。

もちろんこれは島外に住む者の無責任な言い草だから、
島民の営為に失礼があってはいけない。

けれど、なんというか、つい書いてしまった。


【追記】

与論情報サイトではこの対話を「知事と語う会」と紹介している。
けれど、掲載されている写真をみると、
「知事と語ろ会」と読める。

実はぼくはこの横断幕にいちばん違和感を持った。

「語ろ会」は、「かたろかい」で、鹿児島弁だと思う。
この言葉が与論の公の場に置かれた。
ぼくには違和感が残る。
この言葉に躓く。

個人として鹿児島弁を話す人が与論に来て鹿児島弁で話す。
それはいくらでもありうることだし、
そんな場面は好ましいし望ましくすらある。

でも、公の場で政治的な言葉として置かれる時、
違和感を持たざるをえない。

理由は単純で、「知事と語ろ会」という表現は、
知事ではなく、市町村民側が話し手となる言葉だけれど、
それなら、与論の島民は「語ろ」とは言わないからである。

それは鹿児島弁だ。
それを与論の公の場に置いたとき、
場は白けるしかないのではないか。

与論は鹿児島ではない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/10/20

損なわれた時の反芻

失われた時を求めて、ではない。
損なわれた時を求めて、だ。

島尾伸三は、両親とともに引っ越した足跡を辿って、
東京から奄美大島へ向かって旅している。

何のために?

「やさしかったおかあさんを捜し求めて」。
本当は母親のことが大好きだった。
そのことを自分に認めるために。
少年の頃の自己や家族を反芻することで癒されるために。

たぶん、それが切実だった。
それが損なわれた時を快復する術だった。

島尾は旅日記をつづる。
ぼくたちは、その現実と夢の間を彷徨うような文体に誘われながら、
ぼくたちもまた夢とも現とも分らないような感覚に囚われてゆく。
それがこの作品の入り口なのだというように。

この感覚の中に入ってゆくと、
まるで島尾の口調がよく聞こえるような時もあった。
たとえば、「何のために生きてきたのでしょうか。」という一節。

こんな一節にも出会う。学校の禁止映画の映画館。

 そこは、けっして清々しい場所などではなく、
 流れることを忘れた湿った空気が、ずうっと
 澱んだままで、瓦や軒や板壁やあらゆる隙間
 に、埃と黴と苔と体臭と黴菌と、ネズミ、ゴ
 キブリ、アリ、ダニ、すでに過去のものとな
 ったはずのシラミ、ノミ、南京虫が、足下か
 ら這い上がってくる気持ち悪さに満ちていて、
 そこでは良からぬ生業や、表沙汰にならない
 事件が息づいていて、健康と優しさを食い物
 にする理不尽がその社会の主体となっている
 ような悲しみと不幸の巣のようなところなの
 にです。おとなの世界に足を踏み入れた気に
 なっていたのでしょうか。それとも、悪者ぶ
 ってみたかったのでしょうか。

島尾は、脚注でこうした書き方を、
「憂鬱になるような嫌がらせの作文」と自ら評して
「ごめんなさい」としている。

けれど、この文章は嫌なものでは決してない。
むしろ、全てが澱んだ空間に感受性の触手を充分に
張り巡らせているおかげで、島尾の感性の型の必然に
触れることができるように思えた。

つげ義春の作品にも似て、
そこに安息さえ感じられるのだ。

 @ @ @

ただ、それはいつも言い知れない寂寥さと背中合わせだ。

ここには、島尾の写真も収められているのだが、
写真の視点の置き方が、
風景を納めるような場所からというより、
写したい場からもう一歩引いて、
その世界に属さない疎外されたポイントに視点を置いている。

あるいは、目線が合うのを避けたり、
相手が気づかない場所に視点を置いたり。
それはまるで、成仏できない死者の視線のようですらある。

空も、天気はいつもそうと言うように、
決まって曇だ。

そんな視点が切なく迫ってくる。

Photo










 @ @ @

でも、奄美の空のように明るく突き抜けるシーンも無いわけではない。
親戚の女性に、子ども二人、預けられたときがそうだ。
その時は、「若すぎる美少女をおかあさんにした幸せな小学一年生」と言う。
もうひとつは、奄美の自然を紹介するとき、
身を乗り出すように、
「奄美の自然を自慢したいのは、私だけではありません」
と切り出している。

ぼくたちは、こんな風にほんの束の間、ほっとする瞬間を見ながら、
島尾の旅路が奄美につくまで付き合うだろう。旅は道連れ。

 @ @ @

ところで島尾の旅はその目的を果たすことができただろうか。
母が大好きだったことを認める旅は。

 満月が大好きだったのか、満月を見ると触発されるのか、
 いつだって満月に向かって母は歌を唄いだします。それ
 は縁側の柱につかまったり、銭湯の帰り道で夜空を見上
 げ、子どもが側にいることを忘れたかのように、泣いた
 り、ため息を混じえながら、「感無量」と彼女はよく言
 いましたが、そんな感じに彼女はすぐに溺れるのです。
 子どもにしてみれば、毎度ながらも母の喜怒哀楽の激し
 さには驚きやら少し恥かしいやらなのですが。彼女は、
 南の国の海の向こうへ行ってしまった自分の母親の魂が
 よほど懐かしいのだということが、切々と伝わってきて、
 自分までそんな感慨に引きずり込まれることが嫌でした。

自他の区別がつかないほど濃密な関係世界を生きた
母の見せる感応性の高い表情と、
それに共感しながら戸惑い、立ち止る息子と。

旅はおあつらえむきなエンディングを用意するよりは、
島尾の日常の感覚を反復するに留まったようにも見える。
でも、それは旅がなくても同じだったというのではない。

それというのも、島尾の資質に届いた言葉が、
読むぼくたちを癒すように届くからだ。
それは島尾伸三が奄美行きのなかで受け取ったものに違いない。


追記
この本は、『東京~奄美 損なわれた時を求めて』だ。
2004年、河出書房新社から出ている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/18

「ゆんぬ」の語源は?

ゆんぬという地名が好きです。
自分が、ゆんぬんちゅの端くれであることが
嬉しかったりします。

うろー、ゆんぬんちゅいー(お前は与論の人か)
と島のうじゃたちに聞かれて、
おーと答えるときが、
柄になく素直な瞬間です。

 ∽ ∽ ∽

素人ですが、「ゆんぬ」の語源に迫ってみると、

 (前略)与那原の「与那」は与根と同じく 
 砂浜近い土地あるいは砂地に結び付く言葉
 であろう。<ユナ><ユニ>は砂の白さと
 「米(ユニ)」とを結び付ける人々の想像
 力のなせるものかもしれぬ。
 「南島の地名」(比嘉政夫)

ぼくは与那原(ユナバル)と与論(ユンヌ)は、
同系の地名という印象をずっと持って来ました。
比嘉の考察は、「ゆんぬ」にも当てはめたい解釈です。

「砂浜近い土地あるいは砂地に結び付く言葉」というのは、
白砂の魅力的な与論にはぴったりの解釈ですね。

ただ、「ユナ」「ユニ」と米(ユニ)を
結び付けるのは、疑問が残ります。
地名は農耕時代以前に遡れると思うからです。

また吉本隆明は、
琉球語では、(aiueo)の五母音が、
(aiuiu)の三母音になることと、
琉球語と東北語の類縁性を挙げる先人の考察を引きながら、
「無声の閉鎖音への縮退の現象」を指摘しています。

そしてその例として、東北語の例で、

 ユキ(雪) → ドゥチ

となる例を挙げています。

これは、「ユキ」が、三母音に引っ張られ、
無声の閉鎖音に縮退した例ですが、
ここから、ダ行音とヤ行音が交感可能である
と指摘しているのです。(『母型論』1995年、学習研究社)

これは面白い考察です。この考え方を引き取れば、
与那国は、地元の言葉で「ドゥナン」と言いますが、
これが、「ユナン」と同義であると解することができます。

 与論  ユンヌ
 与那原 ユナバル
 与那国 ドゥナン

これらは「ユナ」の同系列に属する地名と仮説できそうです。

 ∽ ∽ ∽

ところで柳田國男の「地名の研究」を見ると、

 表音 ユラ・ユリ・メラ・カツラ
     (由良・由利・女良・桂)
 意味 水の動揺で平らにされた岸の平地

こんな記述があります。

「水の動揺で平らにされた岸の平地」は、
「ユナ」系にも当てはまるか近い気がします。

「ユナ」系と「ユラ」系は、
同系か異系かは、ぼくには今のところ、
判断することができません。

でも、少しでも「ゆんぬ」の実像に近づけると思うと、
心もあったかくなろうというものです。

 ゆんぬ。

そういえば、寄せてくるような語感もいいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/16

与論行きのスローボート

波のまにまに漂いながら、
桟橋に親戚のおじさんおばさんや同級生たちが
こちらを向いて立っていました。

きっと左手にはテープも握っていたでしょう。
右手は振っていたでしょう。

みんなは大きく浮いたり沈んだりしながら、
だんだん小さくなっていきました。

小さな与論島よりもっともっと小さい、
文字通り木の葉のようなはしけに揺られて、
ぼくは大きな船に乗り込むのです。
鹿児島に行くのです。
父の転勤なのです。

1975年3月。
賑やかな島の夏の前の話。

 ~ ~ ~

あれからぼくは、
どうして島を離れなければならなかったのだろう。
どうすれば再びあの桟橋にたどり着くことができるだろう。
そのことばかり思ってきました。

そこでぼくは与論行きのつもりのスローボートを拵えて、 
島へたどり着くこうと画策したわけです。

いま、その与論行きのスローボートは、
どこかの洋上を漂ったまま、
まだあの桟橋にたどり着くには道半ばです。

ぼくは方向音痴だから、
まず、針路を南に取ること。
これを間違ってはいけません。

いまは舵取りの訓練中。

そして疲れたら空を見上げて眠るのです。
いつか、ボートがコツンと桟橋の端に触れた音で
目を覚ますのを夢みて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/13

ブログで離島応援計画

マイクロソフトは、昨日、ブログを活用した地域振興策への
参画を発表しています。

その名は、「ブログで離島応援計画」

離島の抱える悩みについて、
ブログで参加者がアイデアを出し合い、
それをシステム的に解決する案を練って、
実際の導入まで持っていくという計画です。

ちなみに、プロジェクトに参加するには、
自分のブログに書いた記事をトラックバックすることだそう。

参加している離島は、「隠岐」、「十島村」、「式根島」。
隠岐は、早速動き出したようです。

なんとなくマイクロソフトっぽくない企画に見えますが、
(ごめんなさい、マイクロソフトさん)
与論島の地域ブランドを考える上でも
見逃せないプロジェクトです。

与論の近所の十島村(トカラ列島)も参加しているので、
どんな動きを見せるか、ウォッチングしていきたいところです。

ブログ・コミュニケーションを活かすことは、
与論島にとっても大きなインパクトを持つことは
間違いないと思えますから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/11

ヲナリ神がなし

正確には「をぅないがみがなし」と聞いたことがあります。
「ヲナリ神」は、兄弟姉妹のなかで、
兄弟から姉妹を指して言う呼称です。
それに「かなし」という美称がついていました。

父のことを気遣った叔母(父の妹)のことを、
母が「をぅないがみがなし」と言ったのでした。
守護神のような、そんな響きでした。

伊波普献が、「をなり神の島」と南島を呼んだように、
「ヲナリ神」は琉球弧にひろく保存された呼び名です。

古代感覚を呼び覚ますこんな呼称を耳にして、
わくわくしながら聞いたのでした。

その言葉に、超高層ビルが林のようにそびえる現在から、
ガジマルが群生する古代までの時間を行き来するような
不思議な感覚を味わうのです。

「をぅないがみがなし」と言う、
あの呼び声のなかに、
本人たちも意識していない豊穣な意味が宿っているのでしょう。

島ではいまもどこかで、
「をぅないがみがなし」とそう呼び合える
関係と言葉があってほしいと願います。

    ♪ ♪ ♪

ところで、エケリ神という言葉は生きているでしょうか。
ヲナリ神の対称で、姉妹からみた兄弟のことをそう言います。
ぼくは残念ながら耳にしたことがありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/10

緑の都市へ

ノートPCの画面の背景を、
高度9000メートルから見た与論島の画像にしています。

Yoronjima2006

















じっと眺めていると、
島中に白い点々が遍在しているのがわかります。
住居中心の建物です。

それは、与論島の歴史でいえば、
新興の茶花でもっとも顕著で、
この延長線には、白い都市、那覇が思い描かれます。

自然と都市の関係でみた場合、
与論島はどうなるのがいいのでしょうか。

少し前に、与論島に夜景があるのを知ってびっくりしました。
与論島の都市化なんて語義矛盾にすら思えるのに。

その一方で、敬愛するうばんか(叔母)は、
ハコモノばっかいちくてぃ(箱物ばかり作って)と、
与論のよさを損なっていると風したのを聞きました。

ぼくもそう思います。

深緑は、大金久海岸のモクマオウと、
島内を走る崖の個所にしか見当りません。


ぼくは与論のテーマは、
人工都市の内包化ではないかと思います。

それは現在の都市化の延長に描かれるものとは少し違います。
圧倒的な深緑のなかに最先端の人工物が含まれている、
というイメージです。

自然に包み込まれる人工物、
自然を助ける人工物、
自然よりも自然な人工物。

新しい自然と人工の理想的な関係を
与論島という舞台で実現できるといい。
そう思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/08

与論はひとつの<クニ>

1970年、ビートルズの解散とほぼ同じ頃に
発表された吉本隆明の詩「島はみんな幻」です。

(前略)

おれはいま
故郷であるようなないような
家系の代理でもあるようなないような
よそものでもあるようなないような
あいまいな表情で 昔を抱きしめた老女やかなしい亜熱帯と
必死になってわたりあつている
おれの所有はわずかなはにかみと ふるまわれた酒の酔い
と 父や父の父が施した余韻しかない
ここでひけらかせるのは
けつして口にできない妄想と
妄想が島連中にわかるはずがないという確信と 不安の
海上を通ってやつてくるこの世界の みんな
にたいする拒絶だけだ

<きみ>はしるまい
<きみ>が<クニ>と称して恨んだりよろこんだりしているもの
が じつは幻の島にすぎないこと
<きみ>はしるまい
<きみ>が島と称して辺境にうかがうもの
が じつはさびしいひとつひとつの<クニ>であること

与論島の独立独歩を思うとき、
この詩をよく思い出します。

特に、3年前の沖永良部島との合併問題の時、
「島はみんな幻」は、この問題に向けられた言葉のようにさえ感じました。

近いしどちらも小さな島だから、
合併するというのは、
生活する人を考慮に入れない地図発想です。

地図発想だから、近ければ一緒にすればいい、
小さければ括ってしまえばいい、
そんなことで整理できると思えてしまいます。

ここまでは薩摩にしてしまえばいい。

与論も、この地図発想にその命運を左右されてきました。

でも、与論島もひとつの<クニ>です。
あるいは、宇宙とさえ思えてきます。

36年前の詩を受けて、ぼくが思うのは、
妄想をよく分ると受け止め、
さびしさを明るさの方へ解き放つことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/10/06

東京のエイサー

土曜、子どもの運動会を観ました。
子どもは六年、小学生最後です。

ビデオのコマ送りのように思い返せば、
80mの徒競走を一位で駆け抜け、
騎馬戦で先頭を任じ、
組み体操でもてっぺん役?を任じました。

応援合戦ではリズミカルで力強い太鼓叩きをやる一方、
低学年の一輪車では苦手な子の介添え役もこなしていました。

これ全て親ばかコメントですが、
その勇姿がまぶしかった。

可愛いと思っている子のなかから、
自立する少年の姿が現れてくる手応えを感じるのでした。

 ★ ★ ★

その時のこと、
五年生がエイサーを踊ったのですが、
なんとも新鮮でした。

東京で見るエイサーです。

与論でもエイサーを見ることはあります。
沖縄から招いたり、自分たちで踊ったり。
それは、琉球の身体性を確認するような作業なので、
与論のエイサーは、琉球の親和感を覚えます。

ところが東京のエイサーは、
与論で見るエイサーと同じというわけにいきません。

琉球の身体性からは一度、切り離されて、
全く違う都市でほとんどが遠い縁者によって
演じられるわけです。

それはとても自由で新鮮な光景です。
琉球の身体性は共有可能なものになった
ということだから。

でもそれは不思議なことではない。
エイサーの他にも、よさこいソーラン節もあって、
それは長男も次男も四年生のときに、
楽しげに誇らしげに踊っていました。

いまや地域の身体性はオリジナルの場所にありながら、
そこを離れても共有することができるものになったのです。

与論島の身体性も、
共有可能な表現形式を得れば、
いつでも与論を離れ、
他の場所でも生きてゆくことでしょう。

だから、与論島とは何か。
手にしたり嗅いだり味わったり歌ったり踊ったりする
ことができるものを数多く作っていきたいですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »