ちゅらうがん
昨日、ふいに「ちゅらうがん」という言葉を思い出しました。
昨年亡くなった祖母(ぱーぱー)がよく口にした言葉です。
よく口にしたといっても日常的に使っていたというよりは、
お祈りの場面でのこと。
ちゅらうがんしゃーびゅーくとぅ。
と、確かそう発音していました。
その前には、タビ(本土)にいる子や孫たちが
無事であるようにと前置きしていたから、
「曇りなき心で祈るから、
遠くにいる子や孫たちに、
間違いが起こらないようにしてください」
そんな意味のフレーズでした。
曇りなき心で祈る「美しい祈り(ちゅらうがん)」を
日課にしてくれる祖母(ぱーぱー)がいてくれたおかげで、
ぼくはいつも、自分が守られている気がしました。
何があっても、
自分をそのまま肯定してくれる安心感を
与えてくれたのです。
○ ○ ○
でもひょっとしたら、その安心感は、
身内の家族だけでなく、
動物たちや他の存在も抱いていたのかもしれません。
どういうわけか祖母(ぱーぱー)が帰るときだけ迎えに行く猫。
どういうわけか祖母(ぱーぱー)が掌を差し出すと、
降りてえさをついばむ鳩。
祖母(ぱーぱー)が手を合わせて祈ると、
本当にそこに誰かがいるような気配を漂わせました。
祖母(ぱーぱー)は、動物や植物や自然と、
話すことができたのかもしれない。
少なくとも、ぼくとは全く違う風に
世界を見て感じていたんだと思います。
涅槃の釈迦のように、
祖母(ぱーぱー)の他界を嘆くのは、
与論島の動物、植物、自然でもあったかもしれない。
そう思うと、ぼくはわずかでも、
自然と交感する感覚を
呼び覚ましたくなってきます。
そして、生きとし生けるもの、
と柄にもなく考えて、
小さな命、ささやかな命の声に耳を澄ませてみたくなりました。
メモ。
自然との交感を可能にするのが
与論島という場の力である。
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コメント
そんな島でありたい。昨夜、竹下徹先生の講話がありました。子供時分聞いたお父さんのお話ぶりも尊敬してましたが、徹先生もすばらしいお話をされます。「山川草木悉皆有仏」
与論の心「敬虔」おかげさまで、など、身振り手振り、間合い、独自の漢字の問題などなど。ぴったりと持ち時間でしめられました。最後に「ムヌガッタイ2」を無料配布。喜山さんのパーパーからいただいた黄色の彼岸花(ショウキスイセン)が咲いています。子供のころに遊んだ情景を思い出します。みかんの木の下から海がみえました。
投稿: awamorikubo | 2006/10/01 04:14
いつもコメントありがとうございます。
私も竹下先生のお話、お聞きしたかったです。
最近また『ドゥダンミン』を読み返しました。
格好いいなぁ、竹下先生、と改めて。
投稿: 喜山 | 2006/10/02 09:26