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2005/12/01

とおとぅがなし

与論でいちばん大切な言葉は、
文句なく「とおとぅがなし」だと思う。
多くの人がそう言うように。

とおとぅがなし。

ありがとうございます、を意味する言葉。
ありがとう、なら、「とおとぅ」と言う。

「とおとぅ、どうか」(ありがとう、ほんとに)は、
頻繁に交わされる言葉だ。


「とおとぅ」は、「とうとぶ」から来て、
「かなし」は、敬愛を示す。

だから、与論の「ありがとうございます」、「ありがとう」は、
祈りに淵源を持っているのだ。

先祖に手を合わせるとき、「あー、とおとぅがなし」と
祝詞は始まるから、祈りと感謝とはいつの間にか結びつくような
身体感覚がぼくにもある。


今年、百五歳で他界したぱーぱー(祖母)は、
朝に夕に「とおとぅがなし」と祈ることを絶やさない方だった。

彼女はどうして、そんなことができたのだろう。
どうして、親戚や他人の幸せを祈ることに
徹することができたのだろう。

それを実現するのに彼女の抱えた諦念の大きさを思うと、
自分には到底できないとがっかりする。

でも、気を取り直そう。
できることはあるはずだから。

たとえば、ちょっとした不安がきざすとき、
与論や大切な人との距離の隔たりが辛いとき、
そこに常の自分ではない囚われがやってくる。

そんなとき、祈るように「とおとぅがなし」と口にする。
とにかく口にする。

そこには、感謝の念も宿っているのだから。

ぼくは信心深い人間ではないから、
それで感謝の情に包まれる、
というわけにはいかないのだけれど、
でも、囚われが、和らぐ気はしてくる。

「とおとぅがなし」を軸に据えていく。
すると、自他へギフトする気持ちと隣り合わせになれる。
そういうことだろうか。

ぱーぱー(祖母)もそう考えていたろうか。
それはわからない。でも彼女の言動は、
他者へのギフトに満ちていたのは確かだ。

ぱーぱー(祖母)は、名を「カナ」と言った。
ぼくはいつも、そこに字を当てるとしたら「愛」だなと
思うくらいだった。


ぼくにはぱーぱー(祖母)の偉大さを引き継ぐ器量はないけれど、
「とおとぅがなし」を軸に据えるのを、
彼女から受け取ることはできる。
そう思うと、少し励まされる。

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コメント

僕も与論島に行って初めて教わった言葉が「とおとぅがなし」でした。本当にいい言葉です。これから内地でも遣っていきます!

投稿: にんじん | 2006/02/11 21:47

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