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2005/12/14

ポエティック・アイランド

与論島ほど詩的な場所を知らない。
そう思ってきました。

どうしてこう何十年も変らず、
島を思えば、胸が締めつけられるように、
いてもたってもいられない気持ちになるのか。

詩的な島。

今にも沈みそうな島影。
船で与論を臨むと目に入るのが、波間に浮かぶ島の姿。
いにしえに「カイフタ」と呼ばれ、
現代には「木の葉みたいな」と歌われた、
今にも海に消え入りそうなはかなげな姿。

小さい頃、台風で大雨が降ると、
このまま島が沈むんじゃないかと心配でした。

島と海が織りなす色鮮やかなグラデーション。
飛行機の窓からの眺めれば、
小さな島とそれを囲むリーフの二重の境界がつくる、
島とラグーンと外海の鮮やかな色彩の推移に言葉を失います。

満点の銀河とともに泳ぐ島。
無数の星空を仰ぎ見ます。すると、与論から流れ星や無数の星を
眺めるというのではなく、与論島もその星たちの一員になって
宇宙を飛んでいるような感覚に襲われます。

海から陸へのゆるやかな流れ。
標高100mにも満たない与論島に山はない。
海からゆけば紺碧の海からリーフを越えるとエメラルドグリーン
に変わり、次第に透明度を増して白砂にあがるでしょう。
陸をゆけば、植物や樹木の緑、赤土、という段階があるだけで
大きな変化はやってこない。

海から陸まで、ゆるやかにつながっていて、明確な区切りがない。
そこにはっきりとした境界線は引けない。
どこからが浜辺? どこからが海? どこからが与論? 

畢竟、与論とは境界を消す力の謂い。

yoronsea





[ photo (c)Yuria Suzuki ]

ある時間だけ浮かび上がる砂浜。
百合が浜は干潮時だけに浮かび上がる真っ白なアイランド。
与論のなかの与論島。

琉球の身体性。
言葉と音楽として表出される身体性は琉球。
それぞれは孤立した島だけれど、
ゆるやかで濃密なつながりが確かに存在している。

触れることがそのまま優しさであるような関係。
声をかけるということがそのまま優しさであること。
それを素直に受け取ってもらえると思えること。
互いがそう信じあっていること。
そんな理想的な人と人の関係を見せてくれたこと。

そして、距離。
東京から与論へ行くたびに、お金持ちを錯覚する旅費。
場所によっては海外旅行より高く、地図で見ても遠い。
でも、本当に遠いのは時間です。
時間と空間の距離。

この距離をまたぎ越せるのは?
風と黒潮と愛情と念。

竜宮を思わせる珊瑚礁。
いまは再生させるべきものになっているけれど。
いつかきっと。

オオゴマダラのたゆたい。
オオゴマダラが舞えば、時間はゆるやかに流れ、
神々しい気配を生みます。

ガジュマルのたたずまい。
神を宿したような堂々たる姿。
守護神の名にふさわしい。

すべてを溶解する南島の熱気。
ひざしは、「日差し」ではなく「陽射し」。
陽射しのもと、すべては溶解する。
何事も何者も溶かしてしまうあのむせるような熱気。

ああ、こう列記してみても、
謎が解けた気がしないのです。

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